防衛省の事務次官人事をめぐるドタバタは、「痛み分け」に終わったようだが、これは笑ってすませない。そもそも事務次官の任命権は防衛相にあり、次官がそれを拒否する権利はない。それなのに次官が官邸に「直訴」するのも異常なら、官房長官がその言い分を認めて話を白紙に戻すのも異常である。それを首相が傍観していたのも、何をかいわんやだ。

こういう茶番劇をみていると、「官邸主導」の意味を首相も官房長官も理解していないのかと情けなくなる。そもそも大統領制よりも議院内閣制のほうが、本来は政治の主導力は強いのである。大統領の与党が多数党であるとは限らないが、議院内閣制の首相はつねに多数党の党首だから、指導力を発揮しやすい。それは英米を比較しただけでも明らかであり、「大統領的な首相をめざす」とかいうキャッチフレーズは、無知の表明だ。

また小池百合子氏は、憲法上は「国務大臣」であって「防衛大臣」ではない。閣僚は、内閣の一員として意思決定をするのであって、防衛省の利益代表ではないのだ。それが勘違いされているのは、本書によれば明治憲法の遺制だという。明治憲法の原則は天皇による支配だったから、天皇とは別の最高権力としての「内閣」は憲法に存在しなかった。しかし現実には、もちろん各省には大臣が必要であり、それを統率する大臣も必要だから、first among equalsとして総理大臣が置かれたのだ。

したがって明治憲法では、首相は天皇への「助言者」でしかなく、五・一五事件や二・二六事件などのテロで軍が「統帥権」を盾にとって天皇の意志を僭称するようになると、抵抗できなくなった。このため、最終的な意思決定をだれが行なうのかわからないまま、戦争の泥沼に突っ込んで行ったのである。独裁者のようなイメージを持たれている東条英機は、逆に「調整型」の能吏の典型だった。

この規定は新憲法では改められ、首相の権限は強まったが、著者のいう官僚内閣制の伝統は変わらなかった。首相は単なる内閣の長であり、各省を指揮監督する権限はなく、内閣が法案も提出できなかった。これは橋本内閣で改められたが、政策は各省が発議して各省折衝で調整し、閣議はそれを事後承認するだけという実態は変わっていない。今度の防衛省の事件は、そのお粗末な実態をはしなくも明るみに出したわけだ。

しかも問題は、緊急時には一刻を争う軍事的な意思決定にかかわる。事務次官は「背広組」とはいえ、24万人の自衛官を統率するトップだ。それが閣僚の決定に公然と反旗をひるがえす重大な事態に官邸が曖昧な態度をとったことは、文民統制も危うくする。これを機会に官邸と各省庁の命令系統を明確にし、政治のイニシアティヴを確立すべきだ。