毎日新聞が、今年の正月から始めた「ネット君臨」という連載は、インターネットを既存メディアの立場から一方的に断罪するものだった。著者(佐々木俊尚氏)は毎日新聞の記者出身だが、こうした姿勢に疑問をもち、取材の過程を取材する。そこから浮かび上がってくるのは、インターネットの登場におびえ、「格上」のメディアとしての新聞の地位を何とかして正当化しようとする姿勢だ。

社会の中心に政府や大企業やマスメディアがあり、そこで管理された画一的な情報が社会に大量に流通する、というのが20世紀型の大衆社会だった。しかしインターネットでは、こうした階層秩序は崩壊し、政治家も新聞記者も匿名のネットイナゴも同格になる「フラット化」が進行している。この変化は、おそらく不可逆だろう。

マックス・ヴェーバーの言葉でいえば、政府も企業も含めた「官僚制」による合理的支配の時代が終わろうとしているのだろう。官僚制を必要としたのは、処理すべき情報の急速な増加だった。それを処理できる能力は、20世紀初めにはきわめて限られていたので、情報を中央に集めて数値化して処理する官僚機構が必要になった。しかし今の携帯電話の処理能力は、1950年代に国勢調査の情報処理に使われたIBMのコンピュータより大きい。もう情報を官僚が集権的に処理する必要なんかないのだ。

その先に来るのは、情報を個人が分権的に処理し、それをネットワークで流通させる社会だろう。しかし、その情報をだれが集計し、意思決定を行なうのだろうか。商品を分権的に流通させるシステムとしては市場があるが、そこでは価格が交渉や契約を成立させるメカニズムになっている。しかし情報には稀少性がないので、価格のような調整メカニズムが働かない。このため、イナゴがサイバースペースを占領し、誹謗中傷があふれ、コミュニティが崩壊し、「ネットカフェ難民」のような原子化した個人が社会に広がる。

インターネットが社会のインフラになることは避けられないが、その先に今より住みよい社会があるかどうかはわからない。「無政府的」な市場社会を混沌から救っているのは財産権というルールだが、情報社会にそういう普遍的なルールは見出せるのだろうか。著者も、これまで国家のになってきた「公共性」を自律分散的なシステムによって再建する必要があるとのべているが、その見通しが立たないことも認めている。