トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』は、「だれでも知っているが、だれも読んだことがない」という意味での古典の一つだ。私も、3年前に講談社学術文庫版が出たとき読もうとしたが、訳がひどくて挫折した。特に引っかかったのは、そのテーマである「平等」の概念だ。当時(19世紀前半)の欧州から見るとアメリカは平等だったのかもしれないが、今のアメリカを見ると、それが平等な社会だというのは、まったくリアリティがない。

・・・と思っていたのだが、本書を読んで考えが変わった。日本語で平等というと、所得を同じにするといった「結果の平等」を思い浮かべがちだが、トクヴィルのいうegaliteは、身分差別を撤廃するという「機会の平等」であり、「対等」とか「同等」と訳したほうがいい。この点、本書もタイトルで損をしている。

トクヴィルがアメリカを旅行して印象づけられたのは、それが徹底して対等な個人の社会だということだった。彼の母国では、フランス革命後も身分秩序が根強く残っていたが、アメリカにはもともとそういう秩序がないので、人々は抽象的個人として生きている。それは透明で合理的な社会だが、人々は孤立した生活に不安を抱いており、教会や結社(今でいうNPO)に集まろうとする。

こうみると、インターネットはまさにアメリカ社会の鏡像であることがわかる。そこでは人々の肩書きは無意味であり、国会議員もネットイナゴも対等な一個人だ。グーグルでは、情報の価値は世間的な権威ではなくリンク数で機械的に決まる。トム・フリードマンのいうように世界は「フラット化」し、コミュニティはSNSのような人工的な「結社」しかない。

こういう抽象的な個人からなるデモクラシーが成熟した秩序を形成できるのか、というトクヴィルの問いは、伝統的なコミュニティが崩壊しつつある現在のアメリカで再評価されているが、日本社会にとっても示唆的だ。彼は基本的にはデモクラシーを信頼したが、それはきわめて脆弱な秩序であり、一方でアナーキーに陥る危険とともに、他方では多数の専制や宗教的な狂信に走る危険をはらんでいるとした。

このように見てくると、トクヴィルはまるでブッシュ政権やウェブの現状を予言しているかのようだ。岩波文庫版で、読み直してみよう(第2巻がまだ出てないが)。