
経済学は後者の議論を無視し、利己的な動機だけで秩序(均衡)が成立することを数学的に証明しようとしたが、一般均衡理論はかえって現実的な条件では均衡は存在しえないことを証明してしまった。超合理的な「代表的個人」を想定する合理的期待仮説も、実証的に棄却される。経済学者の多くも、合理主義的な経済学に未来はないと思いながらも、学生にはそれを教えている。系統的な理論は今のところそれしかない、というのが彼らの言い訳だ。
しかし最近では、行動経済学や実験経済学の結果を理論的に説明しようという試みも始まっている。本書の編著者は、かつて「ラディカル・エコノミスト」として新古典派経済学を批判したが、最近では進化の概念によって経済学の再編成を企てているようだ(cf. Microeconomics)。
当ブログでもみてきたように、愛国心や分配の公平、あるいは因果応報などの一見、論理的に説明しにくい心理も、遺伝的・文化的な群淘汰(集団選択)のプロセスを想定すると論理的に説明できる。人間の場合には、社会性昆虫と同様、個体が孤立して生きることができないので、エゴイズムを制御して集団を維持することが生存競争においてきわめて重要だったと考えられる。
本書では最後通牒ゲームなどの実験を多くの社会で行い、どのような行動仮説が支持されるかを検証している。それによれば、新古典派の根拠とするような(自己の利益のみを最大化する)自己愛(self-regard)仮説は、いかなる社会でも棄却される。その代わりの行動仮説として本書が提案するのは、条件つきで他人と協力し、ルールに違反した者は(個人的コストが高くても)処罰するという強い互酬性(strong reciprocity)だ。
こうした集団的な行動は、どこまで遺伝的に決まり、どこからが環境によるものだろうか。これについては、異なる文化的条件で同じ実験を行なった結果、社会生物学の主張するような遺伝的決定論は誤りであり、文化的な要因の影響のほうが大きいというのが本書の主張だ。基本的な欲望や感情は遺伝的に決まるが、それがどう行動に現れるかは文化や習慣によって決まるのである。
物理学は、20世紀なかばに解析的手法でできることをやり尽くし、今はコンピュータを使った複雑系の理論に移行しようとしている。この分野では、むしろ生物学や生態学が先輩だ。経済学も物理学モデルを卒業し、生物学モデルに転換するときではないか。本書のアプローチはまだ萌芽的であり、実験も理論もアドホックだが、そこには少なくとも完成されて行き詰まった主流の経済学より未来があるように見える。
せいぜい情報とか時間とか経路依存とかゲーム論などで突き崩すしかない。
生物学などを入れると、欧米系の行動様式は人種主義に一変するから怖い。