著者は、ソ連史の第一人者である。レーガン政権で対ソ政策の顧問をつとめた経歴からも想像されるように、本書の共産主義についての評価は全面否定だ。特にロシア革命について、「レーニンは正しかったが、スターリンが悪い」とか「トロツキーが後継者になっていたら・・・」という類の議論を一蹴する。一部の陰謀家によって革命を組織し、その支配を守るために暴力の行使をためらわなかったレーニンの残虐さは、スターリンよりもはるかに上であり、ソ連の運命はレーニンの前衛党路線によって決まったのだ。

しかし共産主義がそのようにナンセンスなものだとしたら、それがかくも広い支持を受けたのはなぜだろうか。著者も認めるように、財産や所有欲を恥ずべきものとする考え方は、仏教にもキリスト教にもプラトンにも、広くみられる。ハイエク流にいうと、それは人類に遺伝的に植えつけられている部族感情のせいだろう。つまり人間は個体保存のために利己的に行動する本能をもつ一方、それが集団を破壊しないように過度な利己心を抑制する感情が埋め込まれているのだと考えられる。

マルクスは、若いころから一貫して、人間が利己的に行動するのは、近代市民社会において人類の共同本質(Gemeinwesen)が疎外され、人々が原子的個人として分断されているためであって、その矛盾を止揚して「社会的生産」を実現すれば、個と社会の分裂は克服され、エゴイズムは消滅すると考えていた。人間は社会的諸関係のアンサンブルなので、下部構造が変われば人間も変わるはずだった。

しかし現実には、利他的な理想よりも利己的な欲望のほうがはるかに強く、下部構造が変わっても欲望は変わらないことを、社会主義の歴史は実証した。その結果、人間は100%利己的に行動すると想定する新古典派経済学が、社会科学の主流になった。少なくとも人間は利己的だと仮定して制度設計しておくほうが安全だというのが、フリードマンなどがこういう想定を正当化する理由だった。

この一面的な人間観は、たしかに効率を向上させたが、人々は地域社会や企業などの中間集団から切り離されて自由に売買される「商品」となり、他人とのコミュニケーションを求める部族感情は満たされない。コミュニティや慣習の拘束力も弱まるので、秩序を維持するにはあからさまな警察力が必要になる。このため市場中心の社会は、必ずしも「小さな政府」にはならず、むしろ英米に典型的にみられるように、司法権力のきわめて強い警察国家に近づく。

利己心が消滅すると考えたマルクスは間違っていたが、利他心がまったくないと想定する新古典派も、最近の行動経済学が明らかにしたように、実証科学としては検証に耐えない。むき出しの欲望を暴力で肯定したら、社会は(南イタリアやロシアのように)マフィア化してしまう。市場の効率を支えているのは、実は利他的な部族感情によるソーシャル・キャピタルなのである。