ウィキペディアをめぐる議論は、ポストモダン的な展開をみせてきた。コメントやTBでも指摘されたが、その形式主義は、ジャック・デリダにヒントを得ているらしい。Walesも、先週東京で行なった講演で脱構築に言及している(ただウィキペディアのサイトにソースが見当たらない)。要するに、真理なんて決定不可能なんだから、すべては形式だということだ。

しかしデリダに追従した「批判的法学」派の人々が主張したのは、法は政治だということだった。法の整合性は、その背後にある政治的利害の矛盾を隠蔽する化粧にすぎない。正義は本質的に決定不可能であり、それを決定しているのは論理ではなく、国家の暴力装置である。したがって暴力装置を欠いたウィキペディアでは、その本質的な決定不可能性があらわになってしまう。

今回の慰安婦は、そういう病理学的なケースだ。朝日新聞が「慰安婦は女子挺身隊だった」という誤報を繰り返し、それが韓国の世論を動かして韓国政府が日本政府に圧力をかけ、河野談話が生まれた。その根拠は吉田証言が否定されて失われたが、朝日は誤報を訂正せず、日本政府は謝罪の理由をさがして「広義の強制」という理由を新たにつけた。しかし世界中のメディアは、こうした微妙な変化に気づかないで、15年前の嘘をもとに誇大な報道を繰り返している。こういう状況では、信頼できる情報源(政府や主要メディア)にリンクせよというルールは機能しない。

ウィキペディアの無責任な記述が、匿名で行なわれているのもデリダ的だ。彼は語る主体とパロールの同一性を疑い、主体なき痕跡としてのエクリチュールこそ言語の本質だとしたが、ウェブで飛び交っている膨大な匿名の言説は、近代西欧の生み出し守ってきた主体性の神話を否定しているのかもしれない。

実はデリダ自身は『法の力』で、脱構築は正義だと断定してエピゴーネンを驚かせた。脱構築は、よくいわれているようなニヒリズムではなく、既存の制度を疑うことによってその本質を露呈させる正義の営為なのだ。とすれば、ウィキペディアの実定法主義は、デリダの哲学とは逆の原則であり、それを無視する脱構築こそ必要だということになろう。

追記:金曜のシンポジウムは、参加者が100人を超えましたが、まだ少し席があります。申し込みはinfo@icpf.jpまで。