5ad150e8.jpg本書は、日本語で書かれたハイエク論としては出色である。特に第3章のハイエクの自由論をゲーム理論で説明した部分がおもしろかった。本書では伝統的なゲーム理論で考えているが、これを進化ゲームで説明しなおしてみよう。

ハイエクの「自生的秩序」という概念は曖昧だ。市場が本当に自然発生的に出てくるものなら、西欧文明圏以外で大規模な市場が発展しなかったのはなぜなのか。また個人が欲望のままに行動したら予定調和が出現するという論理的根拠は何か――そういう問題をゲーム理論でうまく説明できる。

個人が利己的に行動した結果、調和が実現するのは、ゲーム理論でいう協調ゲームになっている場合である。この場合には、協力も一つのナッシュ均衡(進化的安定戦略)なので、いったん自生的秩序が実現したら、そこから逸脱するインセンティヴはない。しかし、このようにすべてのメンバーの利得関数が同じ向きになっていることはまれで、多くの場合には利害が相反する囚人のジレンマ型になる。このときは協力はナッシュ均衡にならないので、秩序は自生的に形成されない。

そこでハイエクが依拠したのが群淘汰である。利他的な個体が増えると集団の効率が上がり、集団間の競争に勝つという話だ。しかし集団内では利他的な個体は裏切り者に負けるので、こういう遺伝子が生き残るのは、集団のメンバーが固定され、裏切り者を共同体から追放するメカニズムが機能している場合に限られる。これがハイエクのいう部族感情であり、多くの動物と同じく、人間にもこうした感情が遺伝的に埋め込まれていると考えられる。

しかし都市化によって伝統的な共同体が崩壊し、長期的関係が希薄になると、集団内で裏切る遺伝子のほうが有利になるので、部族的感情によるガバナンスの有効性は低下する。こういう場合には、利己的な行動を公権力で処罰するホッブズ的なメカニズムが必要になる。つまり市場というミーム(文化的遺伝子)が、集団間の競争によって部族社会に勝った結果が資本主義社会なのである。

しかし人類は何万年も部族社会に生きてきたので、利他的な遺伝子が心理に埋め込まれており、利己主義がむき出しの社会はきらわれる。また市場によって地域社会が解体されるため、社会は不安定になる。福祉国家や社民的な平等主義が多くの人々に支持されるのも、こうした部族的感情が原因だ。つまり「市場原理主義」が引き起こしている問題の背景には、遺伝子レベルに埋め込まれている部族感情と、文化的レベルで競争に勝った自由主義のミームの葛藤があるのだ。

晩年のハイエクは、市場が自生的には存続できないという側面を強調するようになり、その基盤としてのコモンローや議会改革などの制度設計を論じるようになる。これがよく指摘されるハイエクの矛盾だが、これは矛盾というよりは発展と考えたほうがよい。自由は、初期の彼が考えていたように人々に好まれる自明の価値ではなく、むしろそれを維持する制度的なインフラがなければ壊れてしまう、不自然で脆弱なメカニズムなのである。

しかし後半のハイエクの現代的意義を論じる部分は、ありきたりの市場原理主義批判になってしまい、同じ本とは思えないほどつまらない。部族社会で生きてきた日本は、いま否応なくそれを捨てることを迫られている。資本主義は人々の精神的な紐帯を断ち切り、格差を拡大する。ハイエクは、「資本の文明化作用」を肯定したマルクスと同じく、こうした変化を不可避で望ましいものとしたが、本当にそれは人間を幸せにするのだろうか。それ以外の道はないのだろうか。