5b4b1f5a.jpg「バブルへGO!!」という映画が上映されている。私は見てないし見る気もないが、あの時代のいくつかの岐路にタイムマシンで戻ったらどうなるだろうか、というテーマはおもしろいので、冗談半分に考えてみた:
  1. 1985年:プラザ合意のときの円高誘導そのものはやむをえなかったが、それによる「円高不況」に対して金融緩和だけで対処したため、空前の金余り(バブル)が出現した。このとき財政出動しなかったのは、大蔵省が財政再建に固執したためだった。その上、貿易不均衡を是正するため「内需拡大」を求めるアメリカの圧力もあった。
  2. 1990年:バブルが崩壊したきっかけは、1989年5月から始まった日銀の公定歩合引き上げと、90年3月に始まった大蔵省の不動産融資の三業種規制だった。このおかげで、その抜け穴になっていた住専に過剰融資が流れ込んだ。映画では、広末涼子がこの総量規制をやめさせるため、過去に時間旅行するという設定になっている。
  3. 1993年:最大の岐路は、不良債権処理だった。この問題を決定的に深刻化させた原因は、前述のとおり大蔵省の寺村銀行局長が日住金の破綻処理を止めて農水省と密約を結んだことだ。
  4. 1997年:90年代後半には経済が立ち直りかけていたが、それをぶち壊したのがこの年11月の拓銀と山一証券の破綻をきっかけとする信用不安だった。最大の失敗は、この直前の三洋証券の破綻のとき、インターバンク市場で債務不履行が起こったことだった。
  5. 2003年:最後の岐路は、りそな救済だった。これは国家ぐるみの粉飾決算といっても過言ではないが、結果的に不良債権処理は幕引きされ、日経平均株価は4月に7607円の最安値をつけた後、回復し始めた。他方で金融庁は、「竹中プラン」で他の銀行にも不良債権処理を促進する圧力をかけたため、処理が急速に進んだ。
タイムマシンで1980年代に戻ったとしても、1の時点でバブル発生を経済政策によって防ぐことはむずかしかったと思う。適切な政策をとっていれば、景気循環はもっとゆるやかになっていただろうが、おそらくバブル自体を防ぐことはできなかっただろう。当時、その後の事態を予想した人は一人もいなかった。バブルという言葉さえ、1991年まで使われていなかったのである。

では、2の時点でその崩壊を防ぐことはできただろうか。それも無理だろう。バブル崩壊は、本来の生産性以上に積み上がった投機の「水準訂正」であり、政策で止めることはできない。映画のテーマになっている三業種規制も、残念ながら決定的なターニングポイントとはいえない。実際には、公定歩合は1991年7月には引き下げに転じたし、総量規制も91年末に終わったが、その後もバブル崩壊は続いた。

しかし3は、明白な大蔵省の失敗であり、政策によって防げたはずだ。住専の処理を誤ったため、これに公的資金を投入したことが世論の反発を呼び、そのために銀行への公的資本注入が遅れ、奉加帳方式によって官民あげての大規模な粉飾決算が行なわれた。これが不良債権の規模を10倍近くにふくらませ、日本経済をめちゃめちゃにしたのである。

4の信用不安は、三洋証券の破綻のとき、日銀が融資するなどして、インターバンク市場で銀行の債権を保全していれば、防げた可能性が高い。ただ決定的だったのは、その後の山一破綻のとき「自主廃業」という形で会社を消滅させた大蔵省の長野証券局長にある。

5のりそな救済は、前にも書いたように功罪なかばするというのが公平な評価か。

だから映画としてはつまらないが、決定的なターニングポイントは、1992年に寺村信行氏が銀行局長になったことだと思う。このとき住専の不良債権処理を銀行が自主的に行い、政府が資本増強すれば、秩序ある処理も可能だったかもしれない。

エースの小川是氏(のちの事務次官)が損失補填問題を処理するため証券局長に回り、銀行局に一度も勤務したことのない寺村氏が銀行局長になった。当時は、主計局長になりそこねた同期のNo.2が銀行局長になるという悪習が残っていたのだ。

そのころ業界関係者は「証券スキャンダルはもう終わったのだから、今度は不良債権だ。これは小川さんぐらいのワルでないと乗り切れない。寺村さんは極端にrisk averseという評判だ」と危ぶんでいた。当時の銀行局の部下も「局長が寺村さんになってから、会議が2倍になって決まることが半分に減った」とこぼしていた。もし広末涼子が1992年に戻れるなら、寺村銀行局長と小川証券局長の人事を逆に発令すべきだと思う。