安倍政権が迷走している。もともと松岡利勝氏を農水相にした時点で、この政権はだめだなと思っていたのだが、やはり彼が朝日新聞にねらわれた。彼の愛人にからむ事件で検察も動いているようだから、これが命取りになるおそれも強い。安倍政権は、ほとんど仕事をしないうちに終わりそうだが、その最大の問題はスキャンダルではなく、安倍首相が何をしようとしているのか見えないことだ。

安倍氏のいう「戦後レジームからの脱却」は、GHQによって武装解除され、メディアや日教組によって精神的に去勢された「戦後民主主義」を否定し、ナショナリズムを復活させようというものだろう。これは彼が祖父から引き継いだ悲願だが、今の日本では妙に浮いたスローガンに見える。彼が憲法改正の前哨戦として力を入れた教育基本法の改正も、「愛国心」をめぐって野党とメディアは騒いだが、一般国民はほとんど関心をもたなかった。

戦後の日本政治では、奇妙にねじれた対立構造が続いてきた。他の西側諸国では、自由経済を掲げる保守政党と社会主義の影響を受けた社民政党(アメリカの民主党を含む)の政権交代があったのに対して、日本では政権交代がなかったため、社民的な対立軸が育たなかった。ところがGHQ民政局の行った社会主義的な戦後改革と憲法改正によって、空想的平和主義が国是になり、財政負担を軽減するためにこれを利用した吉田茂の「軽武装主義」が自民党の路線となった。いいかえれば、日本の保守主義はその中核に社民主義を抱え込んできたのである。

このねじれは当時から意識されており、安倍氏の祖父は憲法を改正してこのねじれを解消しようとしたが果たせず、逆に日米安保によって軍事的な独立が押さえ込まれた。しかもメディアの主流は社民で、東大法学部を中心とする知識人の主流も左翼だったため、「頭は左翼、下半身は保守」というねじれがずっと続いた。

社民主義は、世界的には1970年代から破綻し始めていたが、それを決定的にしたのは社会主義の崩壊だった。左翼という対立軸を失った保守から、新保守主義という対立軸が生まれ、英米の「小さな政府」への転換が成功したことで、対立軸は旧保守新保守になった。日本でも『日本改造計画』を著したころの小沢一郎氏は、新保守への転換を志向していたが、彼の戦略が失敗に終わったため、日本の政治は対立軸を失ったまま漂流を続けた。

小泉政権の行った改革は、経済的には教科書どおりの新保守主義だったが、政治的には靖国参拝などで混乱したシグナルを出すにとどまった。安倍氏は政治的な面で新保守主義のカラーを出そうとしていると思われるが、もともと日本人はそういう理念には興味をもたない上に、こうした政治的な保守主義がリアリティを失ってしまっている。

保守主義は、経済的には小さな政府を求める一方、軍事や政治の面では強い国家を求める二面性をもっている。このうち経済的な自由主義はますます強まっているが、政治的なナショナリズムは世界秩序の<帝国>化によって有効性を失いつつあるというのが、佐々木毅『政治学は何を考えてきたか』の見立てだ。

日本でナショナリズムが復権しているように見えるのも、戦後ずっと続いた左翼的インターナショナリズムの反動にすぎない。文春系の雑誌の編集者と話していると、彼らのナショナリズムが朝日新聞などの主流メディアに不満をもつ読者をねらうマーケティングであることがよくわかる。こういう「すきま商法」としてのナショナリズムは、エスタブリッシュメントの社民主義が崩壊すると存在意義を失ってしまうのである。

小さな政府と強い国家がバンドルされていたのは、冷戦のなかでは自由主義を守るために対外的な軍備が必要だったからである。冷戦が終わった今、両者をアンバンドルし、国家の肥大化に政治的にも経済的にも歯止めをかけることが新たなアジェンダである。今ごろからナショナリズムを強めようとする安倍氏の「遅れてきた保守主義」は、空振りに終わるおそれが強い。