Winny事件の一審判決が出た。私は法律の専門家ではないので、判決の当否についてのコメントは控えるが、こういう司法判断がどういう経済的な結果をもたらすかについて少し考えてみたい。

今回の事件の特徴は、P2Pソフトウェアの開発者逮捕され、著作権(公衆送信権)侵害の幇助が有罪とされたことである。これは世界的にみても異例にきびしい。たとえばアメリカで起こったGrokster訴訟では、P2Pソフトを配布した企業の民事責任が問われただけで、刑事事件としては立件されていない。ドイツでは、P2Pソフトのユーザーが大量に刑事訴追されたが、開発者は訴えられていない。

日本の警察が、さほど凶悪犯罪ともいえない著作権法違反事件に、なぜこうも熱心なのかよくわからないが、その結果、日本では著作権にからむリスクがもっとも大きく、したがって萎縮効果も大きくなった。先日、話題になった検索サーバが日本に置けないという事態なども、警察が検索エンジンを摘発したわけではないが、そういうリスクを恐れる企業が自粛しているのだろう。

企業が違法行為かどうかを文化庁に問い合わせれば、官僚は「キャッシュを置くのは違法です」などと答えるだろう(法的根拠はないが)。普通の企業は、これに逆らって逮捕されるリスクを冒したりはしない。アメリカでは、企業が行政の判断に不服なら、行政訴訟を起こして司法の場で最終判断が出るが、日本ではお上にたてつく企業はない。だからGoogleやYouTubeのようなベンチャーは、日本にはあらわれないだろう。それでもYouTubeのように自分のリスクで起業したら、民事ではなく刑事で摘発されるおそれが強い。日本の刑事訴訟の有罪率は99%だから、これは犯罪者になるのとほぼ同義である。

この種の事件の社会的コストというのは、直接的な差し止めによる損失よりも、このように人々のインセンティヴをゆがめることによる機会損失のほうがはるかに大きい。JASRACなどは「Winnyによる著作権侵害の被害は100億円」という怪しげな推計を出しているが、Google1社の時価総額だけでも18兆円だ。日本は、昔のコンテンツを守る代償に新しい企業による富の創出を阻害し、莫大な損失をこうむっているのである。

著作権の侵害は目に見えるが、過剰規制の社会的コストを負うのはすべての消費者なので、被害はわかりにくく、文芸家協会のようなロビー団体もつかない。しかし当ブログで何度も書いているように、こうした行政中心の集権的国家システムが新しい分野への挑戦をはばみ、日本経済の停滞をもたらしているのだ。「日本になぜGoogleが生まれないのか」と嘆く官僚は、自分たちがその原因をつくっていることに気づくべきである。