ダニエル・フット

NTT出版

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日本の「国のかたち」を考える場合、重要なのは「大きな政府か小さな政府か」といった問題ではなく、明治以来の行政中心の国家システムを改め、立法や司法とのチェック・アンド・バランスを機能させることだ。この点で日本と対照的なのは、英米の司法中心のシステムである。本書は、この違いをアメリカ人の著者が実証的に検証したものだ。

法社会学では、日本のように裁判所が行政の裁量を広く認めるのを「司法消極主義」、英米のように裁判所がしばしば行政の決定をくつがえすのを「司法積極主義」と呼ぶが、本書ではこれを「裁判所による政策決定」と呼ぶ。本書では通説と異なって、日本の裁判所も公害事件や雇用関係訴訟では司法的な救済の道を開いたとしているが、これは行政をチェックするというよりはそれを補完する役割に近い。

この原因は、日本では実質的に官僚が立法機能も果たしているため、内閣法制局で法律の整合性や違憲立法の審査が行われることにある。法制局長官をつとめた高辻正巳氏は、「もしも私が長官として認めた法案を最高裁が違憲と判断したら、私は切腹しなければならぬ」と語ったという。このように法律が集権的につくられるため、そのコードは相互に強く依存し、つくった者にしかわからないスパゲティ状になってしまう。

それに対してアメリカでは、法律は議会でつくられるので、独立な「モジュール」になっており、現在のネット中立性をめぐる法案のように、互いに整合性のない法案が6本も出るといったことも珍しくない。こうした法律の有効性や整合性は、最後は裁判所で決まる。このため、1996年通信法の場合には、FCCが決めたアンバンドル規制を裁判所が否定し、最終的には96年通信法は法廷によって葬られてしまった。

このように司法の力が強すぎることもアメリカでは問題になっており、どっちがいいかは一概にはいえない。一般的にいえば、日本のような集権型国家は、正しい目標がわかっていてそれを効率的に達成することだけが問題であるような場合には適しているが、目標がわからないときや、既定の政策を根本的に変更するときには向いていない。そして今、日本に求められているのは、こういう変化なのである。この意味で、司法の役割を強め、行政の裁量権を縮小することが日本の本質的な改革である。