逮捕される前の記者会見で、村上世彰氏は「なぜみんなが私を嫌うのか、それはむちゃくちゃ儲けたからですよ」といっていた。たしかに、合法的な投資であっても、彼のような貪欲な行動は嫌われる。それは先日も書いたように、日本だけではなく、米国でも同じだ。行動経済学の実験でも、人々の行動は、標準的な経済学の想定しているほど利己的ではない。他方、オープンソースのような「非営利」の行動は、道徳的に美しく感じられる。利己的な行動は醜く、利他的な行動は美しく見えるのは、なぜだろうか?

この種の問題の経済学的な説明としては、フランクの『オデッセウスの鎖:適応プログラムとしての感情』という本がある。その論理は、単純である:もしも人類が利己的な行動を美しいと思う遺伝子をもっていたら、人々は互いに殺しあって、とっくに滅亡していただろう。利他的な行動を美しいと思う感情が遺伝子に組み込まれている個体からなる群だけが生存競争に勝ち残ったのだ、というわけだ。

しかし進化論にくわしい人なら、この論理はおかしいと思うだろう。これは生物学では否定された「群淘汰」である。利他的な個体群のなかでは、利己的な個体は利他的な個体を食い物にして繁殖できるから、お人好しの共同体は進化的に安定ではない。進化は「利己的な遺伝子」(血縁淘汰)によって起こるのだ――というのが定説だが、これではやはり利他的な行動は説明できない。

最近では、これをさらにくつがえし、群淘汰を部分的に肯定する理論が登場した(Sober & Wilson, Unto Others)。その論理は簡単にいうと、群と群の間に闘争が起こると、団結の強い群が勝つ、ということだ。淘汰圧は、個体レベルだけではなく、群レベルでも、また細胞レベルでも働く。「利己的な細胞」を含む個体が生存できないのは自明だろう。人間の社会でも、たとえば戦友を助けて犠牲になる行為が美しく見えるのは、そういう利他的な感情で結ばれた軍隊が強いからだ。村上氏が嫌われるのは、人間の本能的な感情に逆らっているからなのである。