きのうは、ゲーデルの不完全性定理をめぐって、当ブログで大論争(?)が行われたが、これほど数学と無関係に乱用される定理はないだろう。たぶん、その最初はホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』だと思う。この本は、人工知能の限界をゲーデルと結びつけて論じるもので、読み物としてはおもしろいが、現実の人工知能は、そんな高級な限界のはるか手前で挫折した。

日本では、柄谷行人氏などがホフスタッターを受け売りして、「ポストモダン」の世界で流行した。ちょうどデリダが流行したころで、ゲーデルを「脱構築」と結びつけ、クラインの壷などのアナロジーで「自己言及性」のパラドックスを語ることが一種のファッションになった。事情は欧米でも似たようなものらしく、こうした疑似科学的な議論をからかったパロディが学術誌に掲載されるという事件も起こった。

ゲーデルの定理は、一般的な「論理の限界」を示すものではない。完全で無矛盾な公理系は、いくらでもある。不完全性が問題になるのは、その体系のなかでみずからを証明するような包括的な公理系を考えるときである。しかも、これは数学的なアルゴリズムの問題であり、「テクストにおける意味の決定不可能性」などの意味論的な問題とは何の関係もない。

こうしてゲーデルを安直なアナロジーに使う議論は絶滅したと思ったら、当の数学者がそういう議論を持ち出したのには驚いた。しかも「数学の世界でさえも、論理では説明できないことがある」のだから、世の中は理屈では割り切れないのだ、という八つぁん熊さんレベルの話の枕にゲーデルを持ってくるのだから恐れ入る。

現代数学というのは、ほとんど神秘的な世界である。小川洋子『博士の愛した数式』は、そうした神秘性をうまく物語に仕立てており、ノンフィクションではサイモン・シン『フェルマーの最終定理』もおもしろい(一時はこの定理も、ゲーデルの示した「真だが証明できない命題」かもしれないと思われていた)。しかし、フェルマーの定理のワイルズによる証明の中身は、一般人には理解不能だ。ゲーデルの定理は、アナロジーとして使える最後の数学理論かもしれない。