著者は日本で数少ないマル経だが、本書では経済学者の名前をあげて、支離滅裂な「批判」を浴びせている。たとえば、著者は、ゲーム理論を次のように批判する:
ゲーム理論は融通無碍にできている。それは、このアプローチの前提となる契約理論では、モデル設計者が超越的な「観察者」の立場に立って、現にある制度を事後的に跡づけるモデルを設定することができるからである。(p.78)
この文章を理解できる経済学者はいないだろう。日本語として、意味をなしていないからである。「ゲーム理論の前提となる契約理論」とは、どんな理論 だろうか。ゲーム理論は、1944年のフォン=ノイマンとモルゲンシュテルンの本で始まったとされるが、契約理論(情報の経済学)の先駆とされるアカロフ の「逆淘汰」についての論文が発表されたのは1970年であり、後者が前者の「前提」となるはずもない。逆に契約理論は、最適な契約は戦略的な相互作用の 結果(ナッシュ均衡)として決まると考える「応用ゲーム理論」なのである。著者は、そもそもゲーム理論とは別の契約理論が存在することも知らないのだろ う。
ゲーム理論では、ゲームのルールは所与とされるが、このルールを決めるにはも う一度プレイヤーが一堂に集まってゲームをしなければならないと考えられる。では、そのゲームのルールを決めるゲームのルールは誰が決めるのか・・・とい うように、無限に遡及されなければならなくなる。こうした問題を避けようとして、ハイエクと同様に自主的なルールの形成を「繰り返しゲーム」、制度の変化 を「進化ゲーム」で描こうとする。(pp.78-9)
これも意味不明だ。繰り返しゲームはハイエクとは何の関係もなく、単に同じゲームが繰り返されると想定する理論である。 この程度のことは、どんな初等的な教科書にも書いてある。それも読まないで(あるいは読んでも理解できないで)「批判」する人物も問題だが、そのまま出版 する編集者も非常識である。筑摩書房は経済学の本は出していないから、編集者は素人なのだろうが、それなら専門家に原稿を読んでもらうべきだ。そうすれ ば、出版に耐えないことがわかるだろう。