2010年01月

ニューケインジアン・フィリップス曲線

アメリカ人の66%が天地創造を信じていると聞いて日本人は笑うだろうが、日本にも似たような人々は多い。たとえばけさの日経新聞に「量的緩和でもマネー回らず」という記事が出ている。本紙では「実体経済への効果はみえず、大量のマネーは短期金融市場にとどまったままだ。昨年12月の全国銀行の貸出残高(月中平均)は4年ぶりに減少に転じた」と書いている。しかし、これを読んでもリフレ派はこう答えるだろう:
さて、この処方箋は簡単だ。インフレ期待を起こせばいい。これほど簡単なことはない。日本銀行がお金をいっぱい刷り、これからも当分そうしますよ、といえばいい。いままでの日銀による金融緩和は、お金はとりあえず刷るけれどすぐやめますからね、と言い続けていたのでインフレ期待はまったく上がらなかったのだ。
「お金を刷る」のは日銀ではなく国立印刷局なのだが、まぁそれはいいとしよう。山形浩生氏は、量的緩和がきかないのは日銀の気合いが足りないからで、白川総裁が「絶対インフレにするぞ!」と宣言して緩和すればきくと主張するわけだ。

これを厳密に考えてみよう。Galiの標準的な定式化では、t期の物価上昇率πtは次のようになる:

 πt=απet+1+βyt

ここでα、βは定数、πet+1はt+1期の物価上昇率についての予想、ytはt期のGDPギャップである。この式をニューケインジアン・フィリップス曲線と呼ぶ。これは景気(GDPギャップ)とインフレの関係を動学的に示したものだが、初等マクロのフィリップス曲線とは別の理論である。

ここで重要な条件は、πeが将来の経済についてのforward-lookingな予想で、長期的な均衡状態では現実と一致することだ。合理的な代表的個人が永遠の将来にわたるインフレを予想すれば、一時的にytがマイナスになっても右辺はプラスになる。

だからすべての個人が永遠の将来についての合理的予想をもち、日銀が永遠に金融緩和にコミットすれば、人為的にインフレを起こすことができる。これが日銀の実験した「時間軸政策」だが、インフレは起こらなかった。

これについては植田和男氏が実証研究で示しているが、実際の経済主体はbackward-lookingに予想を形成しており、日銀の金融政策についてもほとんどの人は知らない。つまりforward-lookingな予想を形成する基礎データさえ持っていないのだ・・・と説明しても、リフレ教の信者は「日銀理論だ」と否定するだろう。「神の存在を否定する人々のやった実験など信用できない」という原理主義者と同じだ。

このような問題は、科学哲学でデュエム=クワイン・テーゼとして知られている。すべての仮説は補助仮説を付け加えれば反証できない。たとえば天動説も、惑星の数だけ「補助仮説」をつければ成り立つ。リフレ説も「日銀に根性がない場合にはインフレは起こらない」という補助仮説を付け加えれば、反証できない。天地創造やリフレのような「バカの壁」は論理によって崩せないので、相手にしないのが最善の策である。

グローバルなデフレ圧力*

デフレとインフレの経済学―グローバル化時代の物価変動と日本経済先日紹介した生産性格差デフレは、国際マクロではBalassa-Samuelson効果として知られている。本書の中心部分はこの効果を実証的に検証したもので、ディスカッションペーパーとして公開されている。B-S仮説は、次のような方程式であらわされる:

P=(αntt-θn

ここでtは貿易財を示す添字、nは非貿易財を示す添字、 Pは非貿易財の貿易財に対する相対価格の変化率、αは労働分配率、θは生産性上昇率である。一般に貿易財部門の労働分配率(αt)は、非貿易財部門の労働分配率(αn)より小さいため、グローバル化によって貿易財の価格が一物一価に収斂すると、貿易財の生産性上昇率が非貿易財より高い国では非貿易財の相対価格が上昇するというのが、この仮説の含意である。これを各国の統計で検証した結果、次の図1のように日本(JPN)は生産性格差も相対価格変化率も高く、トレンドにほぼ沿っている。

balassa

さらに所得が高い国では貿易財の生産性上昇率は高いと考えられるので、非貿易財の物価も上がり、全体として物価が高くなると推定される。これを検証した結果が、図7である。これを見ると、一人あたりGDPと物価水準に強い相関(決定係数0.7前後)がみられるが、日本の物価はトレンドより飛び抜けて高い。これは生産性の低い非製造業の価格調整が遅れていることが原因と考えられる。よく「新興国との価格競争がデフレの原因なら、日本以外の国もデフレになるはずだ」という話があるが、日本だけデフレになる原因は構造調整の遅れにあるのだ。

balassa2

物価が高い原因は非貿易財の相対価格が高いことだから、これは貿易財の価格が世界的に上がっているときは世界的なインフレをまねくが、90年代以降のdisinflationによって貿易財の価格が新興国との競争で下がってゆく場合は、世界的なデフレが生じ、その結果、労働市場での賃金の均等化を通じて国内物価にも下降圧力がかかることになる。

浜矩子氏のいう「ユニクロ型デフレ」は、このようなグローバルな相対価格の変化が原因だから、問題はユニクロが安いことではなく、それ以外の店が高すぎることなのだ。非貿易財が世界のトレンドより割高であるかぎり、その鞘をとって価格競争を挑む企業は出てくる。その結果、サービス業の価格は下がり、消費者の実質所得は増える。

いま日本経済の直面している最大の構造変化は、このような新興国の世界市場への登場による「価格革命」である。この傾向は、先日も紹介した実質金利の均等化とも関連しており、グローバルな一物一価に収斂する傾向が実物面でも金融面でも強まっている。その結果、価格も賃金も国際水準に鞘寄せされて下降するが、これは重力の法則と同じで避けられない(避ける方法は保護主義しかない)。

この巨大なデフレ圧力の中では、「デフレを止めよ」というのは「重力による落下を止めよ」というに等しく、金融政策は役に立たない。このトレンドを緩和する対策は、生産性格差を縮めることしかない。非貿易財やサービス業の生産性が上がれば需要は増え、多くの労働人口を吸収できよう。鳩山内閣も「いのち」がどうとかという内容空疎な作文ではなく、このむずかしい問題に取り組んでほしいものだ。

愚劣な議論の3等級

このごろ当ブログもツイッターのまとめ記事みたいになってきたが、きょうの渡辺安虎氏からのRTには驚いた。
民主党の国体はこんな勉強会してるんですね。日本の危機は深刻ですね。RT @shuheikishimoto 今から、慶應大学の金子勝教授の講演会。国対委員会の勉強会。最近、民主党批判をされていますが、知的に一貫性のある方ですね。
岸本周平氏は、私の経済産業研究所のときの同僚である。「ITゼネコン」という言葉をつくったのは彼で、そのあと民主党から選挙に出て、昨年の総選挙で当選した。元官僚としてはまともなほうだと思っていたのだが、マル経を勉強会に呼んで「知的に一貫性のある方」と賞賛するとはあきれた話だ。経済政策にくだらない議論は多いが、それにも等級がある。
  1. リフレ派
  2. バラマキ財政派
  3. マルクス派
このうちリフレ派はまだ論理的な議論の対象になるが、今回の危機で元祖のバーナンキを初めとする世界の中央銀行がまったく人為的インフレ政策を取らなかったことで、論争には決着がついた。「財政赤字はフィクションだ」と主張するバラマキ財政派は、普通の経済学者には皆無だが、2ちゃんねるなどにはまだ棲息しているらしい。自民党は参院比例区の候補にバラマキ派の三橋某を公認したが、これで彼らの自滅が早まるなら慶賀すべきことだろう。

最低のマルクス派はとっくに死滅したと思っていたが、民主党には菅直人氏を初めとして社会主義者がまだ生き残っているようだ。岸本氏にはまだ将来があるのだから知っておいたほうがいいと思うが、「ゲーム理論の前提となる契約理論」とか「プレーヤー同士がお互い情報を完全に知りえないという情報の非対称」などと書く人物に話を聞いて「勉強」しても、まともな政策は絶対に立案できない。こういう社会主義の亡霊を清算することが民主党の課題だ。たしかに日本の危機は深刻である。

省庁再編という鬼門

鳩山首相が「省庁再編」に言及した。具体的には「子ども家庭省」をつくって幼保一元化しようという話だが、これは麻生首相も言い出してすぐつぶされた。「情報通信省」の話も昔からあるが実現しない。「日本版FCC」も消えてしまった。今度の話も「政治資金の問題から目をそらすのがねらいだろう」などと冷ややかにみられている。

財投改革のとき、加藤寛氏にインタビューしたら「郵政民営化は絶対やるべきだが、霞ヶ関の改革は政治家の鬼門だ。行政改革をやった原敬も犬養毅も暗殺され、戦後も福田赳夫のように行革をやろうとした内閣は短命に終わった。私は命が惜しいから、霞ヶ関には手をつけない」と笑っていた。その後の橋本内閣の末路をみると、これは冗談ではすまない。

26d631ea.jpgただ今回は成功する可能性もあると思う。というのは、官僚機構が追い詰められているからだ。これは東大に掲示された経産省の採用説明会のポスターだが、最近は東大経済学部の就職説明会に数人しか来なくてリクルーターが愕然としたという。それは天下り禁止や官僚バッシングだけが原因ではなく、もう役所に仕事がないということに学生も気づいているからだろう。

経産省は2001年の省庁再編のとき発展途上国型のターゲティング政策を卒業し、「霞ヶ関全体のシンクタンク」というビジネスモデルに脱却するつもりだったが、北畑隆生氏などの「統制派」につぶされた。おかげで若手官僚の流出が止まらず、就職偏差値も下がる一方だ。

だから鳩山内閣が省庁再々編をやるなら、橋本内閣のように審議会でやる伝統的な手法ではなく、公務員制度改革と一体で、彼ら自身が変えるインセンティブを生み出す必要があろう。ノンキャリや労組はつねに改革反対だが、一定の年齢以下のキャリアには変えないと自分のリスクが大きいと思っている官僚が多い。今の「何でも屋」的なローテーションでは民間でつぶしがきかないので、役所で出世の見通しがなくなっても骨を埋めるしかない。これを改めて専門的技能を育成し、人材を流動化させることが重要である。

しかし公務員制度改革も鬼門だ。渡辺喜美氏と高橋洋一氏が公務員制度改革法案を出したときは、霞ヶ関は法律を政令で換骨奪胎するという裏技でつぶそうとし、「2009年中に天下りを廃止する」と約束した麻生政権は倒れ、公務員制度改革は宙に浮いてしまった。改革に抵抗する官僚が政治家を追い込む常套手段は、スキャンダルである。鳩山政権の苦境をみていると、犬養を殺した官僚の力は健在だなと思う。

追記:IEでは画像が表示されなかったようだが、当ブログではW3Cに完全準拠していないIEでの動作は保証しない。Chromeを使うことを強くおすすめする。

乗数効果を知らない財務相


きのうの参議院予算委員会でこういう問答が行なわれた(ネット中継2:00~)

菅財務相「1兆円の予算を使って1兆円の効果しかない公共事業はだめだ」
林芳正(自民党)「では子ども手当の乗数効果はどれぐらいか」
長妻厚労相「子ども手当は実質GDPを0.2%押し上げるが、乗数効果はわからない」
「GDPの増分を財政支出で割れば乗数効果は出るだろう」
仙谷国家戦略担当相「1以上であることは間違いない。幼保一体化すれば・・・(ヤジで意味不明)」
(中断。3分後に再開)
「子ども手当の消費性向は0.7程度。定額給付金は0.3ぐらいだった」
「消費性向と乗数効果の違いを説明してください」
(中断。3分後に再開)
「乗数効果の詳細な計算はまだしていない」
「計算すればわかるだろう。消費性向と乗数効果の関係は?」
「1兆円の事業に金を使ったとき1.3兆円の効果があれば、乗数効果は1.3・・・」
(中断。1分後に再開)
「消費性向が0.7ということは1を切っている。財政支出より低いのだから、財政支出を切って子ども手当にしたら、景気への効果はマイナスになるのではないか?」
(中断。1分後に再開)
「子ども手当の効果は1以下だが、その他の効果がある。子育てで働けない人が働けるとか少子化が防げるとか・・・」
「市場が暗くなるといけないので、もうやめる」

質問している林氏も勘違いしている(消費性向と混同している)が、乗数効果というのは、政府支出を1とし、限界消費性向をc(<1)とすると、財政政策の波及効果が

1+1×c+1×c2+・・・=1/(1-c)

となることだ。これは理科系の菅氏は当然ご存じの無限等比級数の和の公式で、子ども手当の場合には、消費性向が0.7だと初項が0.7なので、乗数効果は0.7/0.3=2.3になる。林氏の質問はこれを言おうとしたものだろうが、「乗数が1以下」などというので、答弁する側も混乱している。

これは大学1年生の春学期で習う超初歩的なマクロ経済学の常識で、菅氏のような答案を出したら不可である。乗数も知らない落第生が、7兆円の景気対策を出して「成長戦略」を立案しているのは恐るべきことだ。やっぱり「官僚主導」でやったほうがいいんじゃないの。

存在論的ブラック・スワン

タレブが"Black Swan"の第2版で追加した部分をツイッターで紹介している。あれを読んだとき誰もが感じる疑問は、彼はフランク・ナイトを読んだことがないのかということだが、これに反論してタレブは、ナイトのリスクと不確実性の区別は本質的ではないという。

たとえば世界貿易センタービルで働いていた人にとって9・11は確率ゼロのブラック・スワンだったが、そこに突っ込む飛行機に乗っていたテロリストにとっては確率1に近い出来事だった。両者を知っている神がいれば「存在論的リスク」は計算可能かも知れないが、神はいないので、すべての社会現象はナイトの意味で不確実なのだ。それが機械的なリスクに見えるのは、特定の座標軸を固定した場合の錯覚にすぎない。

Black-Scholes公式に代表される経済学の理論は、社会の本質的な複雑性を捨象して不確実性を予見可能なリスクに帰着させることを「業績」とみなしてきた。しかし質量とか加速度といった測度が固定されている物理学と違って、社会科学の測度は多様であり、それに依存して不確実性の意味も変わる。特定の測度でわかりやすい結果が出たといっても、それは貿易センタービルの中で計測したリスクかもしれない。グリーンスパンの金融政策は、そういう特定の枠組に固執した「自閉的」なものだった。

経済現象が長期の定常状態に収斂するという「合理的予想」仮説は、実証的に検証されたことがない。経済のような経路依存性の大きい系では、平均に収斂するエルゴード性が満たされていないので、こうした理論は経済学者の主観的な願望に過ぎない。それを仮説として語っているうちは害がないが、それを現実と取り違え、現実を長期均衡から一時的に乖離した「攪乱」だと考えていると、2008年のような大失敗が起こる。

すべてのリスクは主観的なので、認識と区別される「存在論的ブラック・スワン」はありえない。これはヒューム以来の懐疑論だが、そこからはすべての社会科学は無駄だという諦観しか出てこない。特定の理論を固定し、それに合わない現象を捨象することによって経済学は成り立ってきた。このような「パラダイム自閉症」は、学問が職業として成り立つ上で避けられないバイアスであり、重要なのは、それを使う側がバイアスをわきまえて使うことだろう。

政治の最小化

補正予算が国会を通過したあと、あらためて施政方針演説が行なわれる。首相周辺によれば、鳩山内閣のテーマは「官の縮小と公の拡大」だという。私的利害を超えた公の領域があることは確かだが、何が公であるかは慎重に考える必要があろう。「公の拡大」がバラマキ福祉のようなパターナリズムになるのはごめんだ。

「公と私の矛盾」という問題を最初に定式化したのは、ヘーゲルである。彼は市民社会を私的な「欲望の体系」ととらえ、それが公的な利益と背反する矛盾を止揚するものとして国家を考えた。彼はその終着点としてプロイセン国家を想定したが、これを批判して私的利害と公的利益の矛盾を「類的存在」としての労働者が止揚すると考えたのがマルクスである。

以前の記事でも書いたように、マルクスは「資本主義」という言葉を一度も使ったことがないので、Kapitalistischeという言葉はKapitalistの形容詞形だ。つまり近代市民社会(ブルジョア社会)で支配的に行なわれているのは、公的な富を資本家が私的に独占して蓄積する資本家的生産様式なのである。彼はこの私有財産と社会的生産の矛盾が生産力を制約し、恐慌を引き起こしてブルジョア社会が崩壊すると考えた。

もちろんこの予言は間違っていたのだが、公と私の矛盾という発想はアーレントなどに受け継がれた。古代ギリシャでは私的領域としてのオイコス(家計)と公的領域としてのポリスが峻別されていたのに対して、近代社会では前者が拡大してエコノミーとなり、家計の論理が公的領域を乗っ取って私的に利用するようになった。その最たるものが贈収賄だが、それは本質的な問題ではない。もっとも重要な政治の私的利用は、政党によって行なわれるのである。

政党助成金を創設するとき問題になったように、政党は私的な利益団体であり、政治家は公務員ではない。私的な派閥が公的な立法を行なう政党政治を肯定的に評価したのはエドマンド・バークだが、ハイエクはこれを否定して政治を最小化し、国家を司法化する制度設計を提案した。ここでは公の領域はヘーゲル的な絶対的価値ではなく、個人の利害調整の結果として生まれる妥協にすぎない。

公的意思決定は経済学でも厄介な問題で、センは半世紀にわたる研究の結果、一義的な社会的意思決定を放棄し、多様な基準の中で相対的にましな状態を試行錯誤で選ぶしかないと結論している。個人の意思を投票で集計する民主主義には本質的な欠陥があるので、必要なのは公的意思決定をなるべく政治にゆだねない制度設計である。

最近、「ネットで直接民主主義を実現する」とかいうくだらない議論があるが、重要なのは政治に参加することではなく、政治が個人の生活に干渉する領域を最小化することだ。ポズナーも指摘するように、人生には政治より大事なことがたくさんあるのだから。

「日本化」するオバマ政権

オバマ政権の打ち出した金融規制案が論議を呼んでいる。テクニカルな点はともかく、マサチューセッツ州でまさかの敗北を喫した直後に「銀行バッシング」ともいうべき規制案が出て、バーナンキの再任が危うくなってきたことに政治的なにおいをかぎとる向きが多い。Mankiwは政権のインサイダーからの次のようなEメールを紹介している:
But it seems like Wall Street is interpreting this as "Summers, Geithner, and Bernanke are on the way out because Obama has finally decided to go populist." Honestly, that is truly not right, though I can see how from the outside it would look like it.
オバマ政権も、不況や格差を「小泉・竹中改革」のせいにして経済学者のアドバイスを聞かない日本の民主党と似てきた(このメールは違うと主張しているが)。直接規制は短期的には効果があるように見えても、長期的には市場の機能を阻害して経済をだめにする、という経済学者の「地動説」は、どこの国でも近視眼的な「法律家の正義」に勝てないようだ。

経済学を医学と考えると、現状は基礎医学では非常に高度な理論や臨床試験が行なわれているのに、肝腎の医者が心霊医学を使っているようなものだ。学問が研究者の自己満足と出世競争の対象になり、医者のトレーニングがろくに行なわれていないから、彼らは患者の望む「痛みのない治療」を好む。そこに「カンフル(財政)ははいくら投与しても大丈夫」とか「モルヒネ(金融)で病気がなおる」などという連中がつけこむわけだ。

しかし医学の場合には、心霊医学でごまかしていると、最後は患者が死んでしまう。経済の場合にも、いずれそういう時はくるだろうが、かなり先だ。この時間差が4年以上あることが、ポピュリズム・バイアスの一つの原因である。これを防ぐには、晩年のハイエクが提案したように、「行政院」(現在の議会に近い)とは別に、任期15年の「立法院」を設けて長期的な視野で考える必要があるのかもしれない。

帰って来た「大きな政府」

マサチューセッツ州の上院補欠選挙は、オバマ政権に大きな打撃だった。それはフィリバスターを止められなくなっただけではなく、民主党の金城湯池で「小さな政府」を求める運動が勝利したからだ、と今週のEconomistは報じている。各国政府が行なった銀行救済によって、金融危機は財政危機に変わろうとしているのだ。

アメリカの保守主義は、各州あるいは各個人の独立を国家から守る建国の精神であり、そのコアにあるのは国家に対する懐疑である。それに対して自民党の保守主義は、政府がすべてを解決すると考える家父長主義と、明治時代に戻ろうとする国粋主義だ。民主党の掲げる「第三の道」の実態も、旧態依然の大きな政府である。日本には、小さな政府を掲げる党がないのだ。大きな政府には三つの問題がある。
  1. 政府債務の維持可能性
  2. 世代間の負担の不公平
  3. 公共投資の非効率性
このうち「財政赤字はフィクションだ」派は、もっぱら1の論点ばかりいうが、それは本質的な問題ではない。もしも永遠に政府債務が維持可能だとしても、その償還のための増税は避けられないので、2の問題は発生する。彼らは政府支出によってすべての問題が解決すると信じているようだが、最近の補正予算では財政の乗数効果は1を下回り、マンデル=フレミング効果とあいまって、長期的にはほとんどキャンセルされてしまう。

最大の問題は3である。1960年代までは、公共投資の収益率は民間投資を上回ったと推定されている。新幹線や東名高速などの投資は民間企業ではできないので、成長を促進する効果があった。しかし70年代以降の「国土の均衡ある発展」を理由にした地方への公共投資の収益率はきわめて低く、これが日本の成長率が低下した大きな原因だ。90年代の小渕政権以降のバラマキ公共事業は、人口を地方に逆流させて反生産的だった。

成長理論の実証研究によれば、政府のサイズと成長率には強い逆相関がある。これは公共投資が民間投資をクラウディングアウトし、平均投資効率を下げることが原因と考えられる。したがって成長率を上げるには、政府のサイズを小さくして民間投資を促進することが不可欠である。ところが鳩山首相は「新自由主義」を是正して「やさしい政府」をめざしているようにみえる。このアジェンダ設定の誤りが民主党政権の最大の問題である。

日本経済が苦境を脱却するための答はきわめて複雑で困難だが、その問題は明白だ。成長率を引き上げることが最優先であり、この問題が解決しないかぎり、他の問題はすべて解けない。ところが鳩山政権は、再分配や雇用問題などの派生的な問題から解こうとしているため、矛盾だらけの政策しか出てこないのだ。間違った問題をいくら考えても、正しい答は絶対に出てこない。Economist誌もいうように、現在の世界各国が直面している最大の問題は、大きくなりすぎた政府のサイズを適正な規模に縮小することである。

追記:コメントで教えてもらったが、自民党は「フィクション」派の三橋貴明氏を参議院の比例区の候補に立てるようだ。もう勝負を捨てたのだろうか・・・

検察は「リーク」しているのか

小沢一郎氏の元秘書などが逮捕されてから報道が過熱し、これに対して民主党が検察批判を強めている。鳩山首相の「潔白の証明を願う」とか「起訴されないことを望む」といった発言は、自分が検察を指揮する側だということを自覚していない「野党ボケ」だろう。千葉法相の「指揮権発動は一般論としてはありうる」という発言とあわせ考えると、「政治主導」で指揮権を発動する気かと疑われてもしょうがない。

八つ当たりのように、マスコミ批判も強まっている。特に原口総務相は「何の関係者かわからない。そこを明確にしなければ、電波という公共のものを使ってやるには不適だ」と、放送局への規制を示唆するかのような発言をした。彼らが野党だったときには、その「リーク情報」を頼りにして国会で追及したのを忘れたのだろうか。

そもそも検察は「リーク」しているのか。一般論としては、捜査当局が夜回りしてくる記者に捜査情報を明かすことはあり、容疑者をクロにする材料を教える傾向もあるが、そんなに簡単に教えてくれるものではない。記者が独自に取材して「こういう話を聞いたが本当か?」と捜査官に「当てて」顔色を見て書く、といったきわどいやり方でやっているのだ。もちろん司法クラブ以外の記者にはそういう特権もないが、クラブに所属していればリークしてくれるといった甘いものではなく、捜査官との個人的な信頼関係がないと教えてくれない。

もしマスコミが検察が起訴するまで何も書かなかったら、「報道によると」を連発している自民党は、国会で追及する材料を失うだろう。民主党はうれしいかもしれないが、国民の知る権利はそれで満たされるのだろうか。忘れてはいけないのは、大部分の贈収賄は立件できないということだ。起訴事実以外はいっさい報道してはいけないということになれば、胸をなでおろすのは汚職政治家である。

匿名の情報源で報道するのは、日本だけの慣行ではない。アメリカのメディアでも、background informationをどこまで許容すべきかについては論争が続いており、イラク戦争のときは、開戦前に「大量破壊兵器」の存在を示唆したNYタイムズの誤報が批判を浴びた。かつてNYタイムズは、匿名の情報源を一時やめたこともあるが、それでは逆に政府の情報操作に対抗できないということで、最小限の匿名の情報源を認めている。

日本のウェブが匿名IDによって汚染されているように、匿名は情報の倫理を堕落させる。匿名の影に隠れていい加減な報道をするメディアもあるだろうが、それは最終的には読者が判断するしかない。取材源の秘匿が許されないと、調査報道は不可能になる。民主党は、新聞がプレスリリースと記者会見だけで埋まることを求めているのだろうか。


スクリーンショット 2021-06-09 172303
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