2009年10月

廣松渉の哲学

廣松渉哲学論集 (平凡社ライブラリー)70年安保のころの学生運動が残した知的な遺産はほとんどないが、当時の教祖的な存在だった廣松渉だけは、戦後の日本を代表する哲学者として歴史に残るだろう。当時、彼の講義には、他大学からも多くの聴講生がやってきて、いつも500人の大教室に立ち見が出た。その講義も、原稿なしで古今の文献を詳細に引用する濃密なもので、1回の授業で本1冊分の内容があった。

本書は、廣松のデビュー作(卒業論文!)である『世界の共同主観的存在構造』(第1章)を中心にして、彼の代表的な哲学論文を集めたものだ。彼のわかりやすい講義とは違って、文章は一見むずかしい漢字が多くて読みにくいが、彼の認識論の基本である「四肢構造」はきわめて単純で、いわばそれを公理系として展開する数学の論文のように書かれているので、基本的な図式が頭に入ると意外にわかりやすい。

廣松はマルクスの研究者としても知られているが、そのマルクス解釈は「階級闘争」や「弁証法的唯物論」などを中心にしたスターリン的な解釈を詳細な文献考証にもとづいて否定する一方、マルクスを「人間主義」的に解釈する疎外論も否定するものだ。最近はやっている「プレカリアート」の類の話も、彼がとっくに葬った左翼的センチメンタリズムにすぎない。マルクスは「分配の平等」を求める社民党の改良主義を激しく攻撃したのである。

廣松のマルクス解釈はかなり強引で、彼の四肢構造論もポストモダン派からみると、古臭い「ロゴス中心主義」という批判をまぬがれない。しかし彼の図式を通してみると、プラトン以来の西洋的なロゴスの歴史が実にすっきり整理され、カントやヘーゲルを読む前に本書を読むと、その論理が頭に入る(いま思えばそれは廣松流の理解だったのだが)。

マルクスの唯物論はレーニン的な素朴実在論ではなく、弁証法的唯物論などという言葉もマルクスは使ったことがない。彼の哲学は、人間を社会的諸関係のアンサンブルととらえる一種のホーリズムである。ポパーはそれを「歴史主義」と批判したが、その後の分析哲学はクーンやクワインのようにホーリズムに回帰している。そして最近の脳科学が示すのも、全体的なゲシュタルトの構成が部分の知覚に先立つということだ。

ただ本書は、あくまでも廣松の認識論であり、彼のマルクス解釈とは独立に読まれるべきだ(生前の彼も「私の本業は哲学で、文献学はスターリン主義者の歪曲をただす清掃作業のようなものだ」といっていた)。いま行動経済学が「認知構造」から再出発するとすれば、認識論の基礎的な勉強は不可欠だろう。本書の第1章は、今なおその超一流の解説書である。

周波数オークションについての補足*

きのう「電波オークション」をテーマにして慶応でシンポジウムが開かれた。私が10年以上言い続けてきたことが、ようやく世間でも認知されるようになったのは喜ばしいが、私のプレゼンテーションと質疑で尽くせなかった点を少し補足しておく(*テクニカル)。

関口和一さんの「通信産業への課税になる」という批判は、Eli Noamなども言っているが、逆に無償で電波を割り当てることは通信産業への補助金になる。日本で一番もうかっている携帯電話業界に、政府が数兆円も「贈与」するのはむしろ不公正だろう。岸さんもいっていたように、これを総務省の特別会計のようなものにするのは無駄づかいの温床になるので、他の国と同様、一般会計に充当すべきだ。

同じく関口さんもいっていたように、テレビの周波数効率はまだいいほうで、船舶無線や地域防災無線など「自営無線」の無駄づかいが一番ひどい。こういう帯域の免許を更新するとき、オークションで汎用IP無線に変えていけば、いくらでも周波数は出てくる。ただし、いま地上波局の使っている帯域を取り上げてオークションにかけることは絶対ない(世界にも前例はない)。それを恐れるテレビ局が政治部の記者を使って妨害するのが、日本だけオークションができない最大の原因なので、この点は繰り返し強調しておきたい。

参加者全員から批判が集中したのは、710~730MHzを占拠するITSだ。もともとITSには5.8GHzのDSRCがあるのに、日本だけこんないい帯域を正体不明の技術に使うのはおかしい。「5.8GHzでは車車間通信ができない」というのが理由らしいが、車から道路脇のITS基地局に飛ばせばいいし、携帯電話の基地局を使ってもいい。会場からもITSの委員から「IPで共通化したほうがいい」という意見が出た。

770~806MHzについても、シンポジウム後のパーティで民放関係者から「ほとんど使ってないことは事実。他の用途にオーバーレイで使うのは問題ない」という話があった。ここは今、ラジオマイクとも競合しており、これを含めて共用化することは技術的には容易なので、総務省がイニシアティブを発揮すれば、710~806MHzの96MHzで20MHz×5スロットのオークションができる。

オークションより重要なのはホワイトスペースである。IEEEでは標準化が進んでいるのに、日本企業はワーキンググループにも参加せず、総務省は「エリアポータル」とかいうガラパゴス技術でやろうとしている。ホワイトスペースの国際標準をアメリカ勢に取られたら、今度こそ日本の無線通信産業は壊滅するだろう。

オークションに対するもう一つの抵抗勢力はNTTだ。三浦社長は記者会見で「オークション制度を導入するとなれば、事業者がコストを負担することになるだろうが、いずれユーザコストにはね返る」と反対を表明し、これに呼応して総務省の内藤副大臣(NTT労組出身)もオークションに消極的だ。

しかしこれは誤解である。2.5GHz帯でもわかったように、美人投票でやる場合には「新規参入を優先する」という条件がついてドコモが落とされる可能性がある。オークションでやれば、ドコモは金の力では絶対に勝つので、こっちのほうがNTTにとっては有利なのだ。また有線と無線のプラットフォーム競争が実現すれば、NTT法を廃止してNTTを全面的に自由な民間企業にすることも可能になる。

「金のあるインカンバントが勝つ」という懸念については、アメリカのように「ベンチャー枠」を設けることも可能だが、海部美知さんも書いているように大混乱になるおそれが強い。むしろベンチャーについてはホワイトスペースを(FCCのように)免許不要で開放して自由に使わせることが望ましい。こっちで100Mbps級の公衆無線通信が可能になれば、オークション価格も下がるので、(財源のほしい民主党政権には気の毒だが)通信業者の負担も軽くなる。

これ以外の基本的な問題については周波数オークションFAQを参照してください。やや専門的な解説としては、私の論文を。

幻影肢シンドローム

メルロ=ポンティの『行動の構造』に、幻影肢という印象的な話がある。戦場で右腕を失った兵士が「右手の親指が痛い」と訴える精神疾患だ。同様の現象は、普通の社会にもよくみられる。「既得権を守る官民癒着」というが、実はすでにその既得権が存在しない場合も多い。

1998年に私が日経新聞の「経済教室」に「地デジは失敗する」という記事を書いたら、ある在京キー局のマルチメディア局長が私をたずねてきて、「私も同感だ。地デジのキャッシュフローは大幅な赤字で、民間企業の事業としては成り立たない」というので、私が「氏家会長もいやだといってるんだから、民放連がまとまって反対したらどうですか」といったら、彼はうなずいていたが、その後、彼は社長になって赤字事業を推進している。

今回の記者会見の開放問題では、さすがに「そろそろクラブも開放しよう」という意見が現場の記者には強い。元朝日新聞の原淳二郎氏も、条件つきながら開放に賛成しているが、外務省と金融庁しか一般開放されない。ある記者によれば、読売は渡辺恒雄会長の指示で「絶対反対」の方針を各クラブに徹底しているのだという。

しかしアゴラにも書いたが、実は記者クラブも経営の重荷になっており、経営陣はやめたいと思っているのだ。ほとんどのニュースはEメールでリリースが出るし、交通事故や火事は共同通信の原稿で十分だ。各社がクラブに人を貼り付けているのに自社だけやめると「特落ち」で恥をかくことを恐れて、横並びでクラブに張り付いているだけだ。ところが渡辺氏のような幻影肢の記憶を持ち続けている人々は、もはや存在しない利権を守ろうとして政治力を使う。

日本で社債市場の発展を阻害してきたのは、長期債を出す特権を守ろうとした興銀である。90年代以降は、資金需要が低迷して利付債と逆鞘になっていたのに、興銀は長期債の発行を独占しようと金融制度調査会でねばり、最後には実質的に経営破綻してみずほに吸収された。幻影肢を守ろうとするインカンバントの錯覚は、新規参入者に迷惑なばかりでなく、インカンバント自身を没落させてしまうのだ。

新聞もテレビも、赤字になればなるほどかたくなに、電波利権や再販制や記者クラブを守ろうとする。それは半世紀前には資産だったかもしれないが、今や彼らのビジネスを制約し、新事業への進出を阻害する負債なのだ――ということにそろそろ気づいてはどうだろうか。

非破壊的創造

イノベーションといえば「創造的破壊」というのが、シュンペーター以来の定番だが、これはいささか誤解をまねく言葉だ。ベンチャー企業を調査したBhideによれば、大成功したベンチャーは、多くの場合まったく新しいブルーオーシャンを開拓した企業で、既存の企業と闘って倒したようにみえるのは、その結果にすぎない。

たとえばPCの登場によってメインフレームは没落したと思われているが、その売り上げは1982年の160億ドルが1997年に162億ドルになっており、絶対的には縮小していない。変化したのはそのシェアで、コンピュータ業界全体の42%から9%に下がった。しかもIBMは、当初はPCをメインフレームの代替財とは考えなかったので、独立ビジネスユニットで自由に開発させた。

1981年にできたIBM-PCは、その段階ではメインフレームと競合しない「おもちゃ」だったが、10年後にはIBMを経営破綻の淵に追い詰める商品になった。この歴史は今から振り返ると「ビル・ゲイツが巨人IBMを倒した」と見えるが、当時は誰もそうは思っていなかった。マイクロソフトは、IBMの下請けとして出発し、最初はひさしを借りて徐々に母屋を乗っ取ったのだ。

クリステンセンもいいうように、破壊的イノベーションは、最初は既存企業に笑われるような「低品質・低価格」のニッチ商品として登場し、「何に使うのかわからない」などといわれる。誰も相手にしないから、知らないうちに業界標準になっていて、ある日「キラー・アプリケーション」(PCの場合は表計算)が登場して、爆発的に普及する。そのときは、もう既存のメーカーは追いつけない――というほとんど定型的なパターンをたどるのがIT業界のマーフィーの法則だ。

インターネットもそうだった。TCP/IPができた1980年代、世界中の政府も通信機メーカーもOSIの標準化作業に熱中していて、ボランティアの技術者の非営利ネットワークなんて誰も相手にしなかった。それは業務用のVAN――これは大市場だと信じられ、IBMやAT&Tが参入していた――とは違うアマチュア向けの市場だと思われていたので、どこの国も標準化も規制もしなかったのだ。それが結果的に、OSIもISDNも破壊する代替財になったのは、WWWやブラウザが普及した1994年以降である。

だから既存の企業にチャレンジする気概は大事だが、実際には(当初は)なるべくチャレンジしないほうがいい。これは先日も紹介した中国の郷鎮企業にも通じる点だ。既存企業の知らない分野で、誰もやっていないビジネスを見つける非破壊的創造が起業の秘訣である。

「沈まぬ太陽」は100%フィクション

山崎豊子氏の小説を原作にした映画「沈まぬ太陽」が公開され、その素材となったJALが存亡の危機に立つ絶好のタイミングとあいまって話題を呼んでいる。私は映画は見ていないが、小説は昔、少し読んで投げ出した。フィクションと割り切ればいいのかもしれないが、「モデル小説」としてはあまりにもバイアスがひどいからだ。

私は123便の事故のとき取材班の一員だったが、山崎氏の描いているように小倉貫太郎(小説では恩地元)が救護の指揮を取った事実はない。彼は当時から「アフリカ生活10年」の有名人だったが、それは山崎氏の描いているようなヒーローとしてではなく、「日共系組合の委員長として極左的な方針をとり、労使関係をめちゃめちゃにした元凶」としてだ。ところが山崎氏は彼を小説では徹底的に美化し、9年前のインタビューではこう語っている:
彼だって人間ですもの、つらかったと思いますよ。仲間も言います。「僕らは仕事が終われば家族がおり、友人と語れる。あなたは365日、24時間孤独ではないか」。でも、自分が節を曲げたらこの組合はだめになる、「空の安全」は守れなくなるという思いがあるのですね。
これに対して、小倉の前の委員長だった吉高諄氏は、日経新聞の高尾記者のインタビューで、彼の人間像を次のように語っている:
[小説の取材で]山崎氏は「小倉さんてどういう人ですか」と聞いたので、吉高氏は「連合赤軍の永田洋子を男にしたような人物です」と答えた。山崎氏が「それはどういうことですか」と聞くと、「頭は切れて人を取り込むのはうまいが、目的のためには手段を選ばず、冷酷非情な人物です」ときっぱり答えた。その時、吉高氏は一つのエピソードを紹介した。

松尾社長の長女は長らく白血病で入院していた。団交中「社長の御長女危篤」の知らせが入ったので、労務課長だった吉高氏は団交を先延ばしするように要請したが、小倉委員長は「相手の弱みに付け込んで要求を獲得するのが組合の闘争。こういう時がチャンスだ」と団交継続を指示した。結局、松尾社長は長女の死に目には会えなかった。 このエピソードを聞いた時、山崎氏は「どうしよう。これじゃ、小説が成り立たない。もうやめましょう」と動揺を隠せなかったという。
映画化が難航したのはJALが妨害したからだが、小説にもこのように大きな問題があった。公平にみて、JALの経営がでたらめだったという山崎氏の見方は正しいが、その原因は彼女の描くように、正義の味方である労組を経営陣が弾圧したからではない。歴代の経営陣が自分の派閥のために組合を利用し、おかげで8つも組合ができて労使関係が崩壊したことが最大の原因だ。

この小説で同じく美化されている伊藤淳二元会長も、組合を利用して経営の主導権を掌握しようとし、派閥抗争に巻き込まれて失脚した。JALの労組は、伊藤氏のように政治力のある経営者にもコントロールできない「怪物」になっていたのだ。もちろん現在の危機をもたらした第一義的な責任は、派閥抗争に明け暮れた経営陣と、JALを食い物にしてきた政治家と運輸官僚にあるが、労組の罪も同じぐらい重い。小説も映画も、JALとは無関係なフィクションとして楽しむことをおすすめする。

シリコンバレーの社会的資本

現代の二都物語 なぜシリコンバレーは復活し、 ボストン・ルート128は沈んだか関志雄氏によれば、日本でよくいう「中国が世界を制覇する」という話と「中国はまもなく崩壊する」という話は、どっちも正しく、どっちも間違っている。中国経済は、めざましく成長する?鎮企業(ベンチャー)と、腐敗して政府の保護で生き延びている国有企業の双軌制(二重構造)になっており、中国が成功したのは古い企業を改革したからではなく、新しい企業を育てたからだ。 逆にいうと、日本が失敗した原因はゾンビ企業が成仏しないことではなく、新しいベンチャーが出てこないことだ。そのために必要なのは政府の「育成策」ではなく、中国のように香港をモデルにして「改革・開放」を進めることだ。とはいえ、起業は非常にリスクの高い賭けである。資金や人材を調達し、失敗したらやり直せる社会的インフラがないと、いくら役所が「資本金1円」にしても、絶対安全な人生を保証されている大企業や役所のエリートは、そういうリスクを取ろうとしない。 本書の原著は1994年に出版され、日本では大前研一訳で出ていたが旧版の抄訳で、ながく絶版になっていた。それが新訳で注や文献や索引も含めて出たことは喜ばしい。本書は、今でも読む価値があるからだ。 シリコンバレーは、世間で思われているような金の亡者の集まる「市場原理主義」の社会ではなく、むしろ好きなことを仕事にしようと集まってくる夢想家たちのオープンなムラ社会である。ビジネスは資本の論理というより個人的な信頼関係で決まり、会社を辞めて他に移ることが日常的なので肩書きには意味がなく、個人の評判で資金も情報も集まる。こうした非公式のネットワークが、ハイリスクの事業を可能にするのだ。 他方、ボストンのルート128は、その中心だったDECの垂直統合構造をモデルにしたピラミッド型のコミュニティが形成され、企業を辞めた社員は「裏切り者」として二度と他の会社には就職できなかった。それはミニコンのような垂直統合テクノロジーには適合していたが、DECの没落とともに「城下町」全体が没落した。日本企業の運命をこれに重ねることは容易だろう。 この意味でシリコンバレーは特殊なコミュニティで、その"regional advantage"(原題)が起業の成功する最大の要因だ、というのが本書の分析だ。これは最近の言葉でいえば社会的資本(social capital)で、移植するのは簡単ではない。経済学は金銭的資本についてはくわしく分析しているが、社会的資本についてはほとんど何もわかっていない。ゲーム理論の言葉でいえば、それはシリコンバレーとルート128のような複数均衡から望ましい状態を選ぶ、認知的な均衡選択の装置として機能しているのではなかろうか。

ウィトゲンシュタインとラムゼー*

テクニカルな話には*をつけることにしたので、経済学や哲学に興味のない読者は無視してください(BLOGOSにも転載しなくて結構です)。

今月の日本経済学会の招待講演で、神取道宏氏が今後の経済学の方向として行動経済学をあげていた。ただしその現状は、物理学でいえば落ち葉の運動がニュートンの運動方程式(新古典派理論)では記述できないと指摘するにとどまっており、そのゆらぎにいろいろなパラメータを当てはめてアドホックな仮説を立てている段階だ。神取氏は、ここから進んで空気抵抗の理論のようなものを見つけないと行動経済学は行き詰まるといい、空気抵抗に相当するのは人間の認知構造だと結論した。

神取氏から認知構造という言葉が出てきたのは意外だったが、これを空気抵抗のような例外と考えている限り、行き詰まると思う。天動説に惑星の運動のような例外を際限なく付け加えれば、天体の運動は「説明」できるが、それは理論とはいいがたい。むしろ逆に、人間の行動を古典力学モデルを中心にして考える天動説的な発想を変える「コペルニクス的転換」が必要だ。

それはもちろん容易なことではないが、一つのヒントはウィトゲンシュタインの認知構造についての理論だろう。彼は初期の『論理哲学論考』では、「言語は世界の写像である」と考え、「命題を理解することは計算をすることである」と述べている。このように論理学を数学的な命題計算に帰着させるアプローチは、20世紀前半の分析哲学の主流だったが、これを批判したのが『論考』を英訳したフランク・ラムゼーだった。

ラムゼーは『論考』の書評で、ウィトゲンシュタインの一見明晰な議論には、根本的な曖昧さが含まれていると批判した。たとえば「φは赤い」という命題はF(φ)という形に書けるが、この命題が真かどうかを決めるには、φが何を意味するかが厳密に決まっていなければならない。それを決める手続きは一般には容易ではなく、辞書の定義はウィトゲンシュタインも指摘するようにトートロジーである。要するに、日常言語を純粋な論理形式として記述することは不可能なのだ。

この批判はウィトゲンシュタインに強い影響を与え、彼は最終的に『論考』の立場を放棄して、『哲学探究』では言語の意味はその使用によって決まるという言語ゲームの理論に到達した。これはよく他のゲーム概念と混同され、たとえば橋爪大三郎氏などはH.L.A.ハートの実定法主義と混同しているが、これは逆である。言語ゲームは実定法のように人工的に決められたルールで行なわれるのではなく、言語はあらかじめルールの決まっていないゲームだというのがウィトゲンシュタインの理論なのだ。

ウィトゲンシュタインの合理主義の矛盾を指摘したのが、あの成長理論の元祖ラムゼーだったことは興味深い。彼の経済理論と哲学に直接の関係はないが、有名な「貯蓄の数学的理論」は動学的最適化のテクニックを最適成長理論に応用したエクササイズであり、まさかそれが80年後になっても大学院のマクロ経済学の教科書の基礎理論として教えられるとは彼も予想しなかっただろう。

ラムゼーが論じたのは、すべての個人が超合理的だと仮定して成長率を最大化する規範的な理論である。これは政策目標としては意味があるが、(New Classicalの想定するように)経済が自動的にそれに近づく保証はない。ケインズをして「われわれの誰よりも頭脳明晰な天才」といわしめたラムゼーは、惜しくも26歳で亡くなったが、彼がもう少し生きていれば、ごまかしの合理性を仮定しない「認知構造の数学的理論」を構築していたかもしれない。
ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951 (講談社現代新書)
ウィトゲンシュタインについてはすぐれた研究書が多いが、右の本は一般向けの新書で読みやすい。内容のレベルも高く、最晩年の『確実性の問題』で彼が世界像(Weltbild)というクーンの「パラダイム」に近い概念に到達していたことを明らかにしている。行動経済学の認知的基礎を考える上でも、参考になると思う。

良書悪書

当ブログも、引っ越しを機に少し設計を変えた。本を取り上げた記事は「書評になってない」とか「本の紹介か評者の意見かわからん」などと評判が悪いので、本の紹介に徹した消費者ガイドを「良書悪書」と題してアゴラに移した。日本には「ほめる書評」しかないが、NYTimesやEconomistの書評には「読む価値がない」などと評しているものもよくある。今まで取り上げたのは、星5つが満点で「ぜひ読むべき」、4つは「読んで損しない」、3つは「その分野に興味のある人にはおすすめ」。星をつけるにも値しない本は星の数ほどあるが、特にひどいものを「読んではいけない」コーナーに集めた。ただしこっちは冗談なので、まじめに受け取って怒らないでください。

行政刷新会議の「無駄取り」という無駄

きのうのアゴラ起業塾では、民主党の藤末健三氏にきびしい注文がついたが、中でも秀逸だったのは、郵政省の元高官の「あの行政刷新会議というのは何をやっているのか」という質問だった。「何が無駄かという基準がなければ、無駄をなくすことはできない。その基準を決める国家戦略室が開店休業状態なのに、誰がどういう基準で無駄と判断するのか。これはコンピュータでいえば、設計が決まってないのにデバッグをやるようなものだ」。

藤末氏も、戦略室が機能してないことは認めた。これは本来は財務省主計局に代わって各省庁の司令塔となるはずだったが、藤井財務相が「予算編成はわれわれの仕事だ」と反発したため、概算要求にも戦略室はまったく関与できず、菅直人氏は概算要求が締め切られた日の夜のNHKの番組で、「私も数字の中身はまだ見てない」と言っていた。戦略室は今のところ法的根拠のない暫定的な組織だが、「戦略局」に昇格させる法案の提出も通常国会に延期された。

このように「骨太の方針」が決まってないのに、「事業仕分け」で小骨ばかり取っても、子ども手当などで7兆円増えるのを埋め合わせることはできない。テレビの編集でいえば、45分番組の編集が90分になったとき、各シーンを1分ずつ削ったりしていたら番組にならない。プロデューサーが「どの話がいらないか」という方針を決めて、10分ぐらいのシーンを丸ごと落とすのだ。

すべての行政サービスには法的根拠があり、その意味では無駄はない。概算要求で「三役査定」が失敗したように、既存の法律を前提にすると「その業務は**法で決まっている」と官僚にいわれたら終わりだ。何が無駄かを決めるには、まず規制撤廃によって政府の民間への関与を減らす必要があるのだ。法律を撤廃すれば「大きな無駄」はいくらでもある。たとえば農水省を廃止すれば、一挙に3兆円も減らせる。

ところが「小泉・竹中改革」を藁人形に仕立てるワイドショー的な方針をとった民主党のマニフェストには、「規制改革」という言葉さえない。かつて岡田克也氏や前原誠司氏は「構造改革を応援する」と言っていたが、「政策より政局」の小沢一郎氏がそれを封じ込めたため、いざ政権をとると戦略の立てようがないのだ。

このまま形ばかりの「無駄取り作業」を続けるのは無駄である。幸か不幸か小沢氏が横槍を入れたようなので、にわか仕立ての「仕分人」チームは解散し、まず政府の仕事のうち何がコアで何が不要かという骨太の戦略を決めるのが先だ。

「隣の芝生」バイアス

ロゴフは「2%程度のインフレが望ましい」と書いているが、それが可能だとは書いていない。今回の金融危機で欧米各国の中央銀行はバランスシートを2倍以上にふくらませる極端な金融緩和を行なったが、デフレ状態のままだ。

ところが日銀の実務を知らないアマチュア経済学者に限って、日銀が大不況を一挙に解決できるかのような幻想を振りまく。他方、日銀は逆に「日銀は実体経済にあわせて受動的に金融調節をしているだけで、金融政策でできることは限られている」という。公平にみて、前者がナンセンスであることは明白だが、90年代前半の日銀にも逆のバイアスがあった。日銀にいる私の友人は、いくら利下げをしても不良企業を淘汰しないかぎり経済は回復しないと言っていた。

同様の現象はいろんな業界にあって、政治家や官僚はマスコミの影響力を「第一権力」として過大評価するのだが、マスコミの側は自分たちはただのサラリーマンで権力なんかないと思っている。これも公平にみると、ジャーナリスト一人一人の権力は小さい。ニュースに限っていえばデスクや編集長の裁量が大きく、取材記者が特定の政治家を攻撃するキャンペーンを張れるような力はない。ただ集団としてのマスメディアの力が官僚機構に劣らず大きいことは明らかで、どちらかといえばメディアの側にその自覚が足りない。

このように自分の業界の影響力を過小評価し、近接する業界を過大評価するバイアスは、いろいろな業界にあって、私は隣の芝生バイアスと呼んでいる。たとえば銀行と証券も同じようなことをずっと言い合ってきた。この原因は、行動経済学でいうフレーミングだと思う。日ごろから融資業務をやっている銀行員にとっては、金額は大きいが利鞘はわずかで、裁量の余地なんかほとんどないという仕事のフレームを知っているので、大したことはできないと思っている。他方、そういうフレームを知らない証券会社にとっては、銀行はメインバンクの力を利用すれば何でもできるように見えるわけだ。

しかしフレームを知っているインサイダーが客観的に判断しているわけでもない。キャリア官僚も、一人一人は残業ばかり多い裏方で、「私どもは政治家の先生方や業界の調整をしているだけ」というが、実際には彼らが調整のフレームを独占していること自体による権力が大きい。民主党の「官僚主導」に対する攻撃は、この意味では正しいのだが、事業仕分けのような既存のフレームの中での無駄の削減では限界がある。この点では、民主党が葬ってしまった公務員制度改革を進めるほうが、遠回りに見えるが効果的だろう。

サラリーマンの飲み屋の話題はだいたい半分ぐらい人事の話だが、その比率がもっとも高いのが官僚だ。彼らの話題の8割以上が人事で、「**さんは××年組なのに、1年下の○○さんのほうが先に局長になった」といった類の話を何時間もしている。彼らの権力は個人の実力ではなく年功制のピラミッド構造というフレームに依存しているので、天下りよりも年功序列を禁止し、政治家が官僚の人事をコントロールすることが霞ヶ関改革の第一歩だと思う。
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