2009年07月

Road Shows, Vol. 1


今年で創刊75周年を迎えたDownbeat誌の批評家投票のベスト・アルバムは、圧倒的な差でSonny Rollins。80年代のまだ50代のライブが中心なので、とても元気でフレッシュな演奏だ。彼は79歳で、ベスト・アーティストにも選ばれた。ジャズ界の高齢化が心配になるが、Rising StarにはRudresh Mahanthappaという30代のインド人が選ばれ、彼のKinsmenというアルバムも5位に選ばれた。インド音楽風だが、現代的なジャズでおもしろい。

行動経済学とゲーム理論

The Bounds of Reason: Game Theory and the Unification of the Behavioral Sciences著者は1970年代にBowlesなどと一緒に「ラディカル・エコノミックス」の構築をめざし、当時から認知科学で効用を内生的に説明するといった理論を提唱していた。結果的には学生運動の退潮とともに、彼らの議論は忘れられてしまったが、その志が今も持続しているのは立派なものだ。

本書も前半はゲーム理論の教科書だが、後半は行動経済学の実験結果をゲーム理論で説明する試みだ。たとえば制度や規範が複数均衡からどうやって選ばれるのかという問題は、従来のゲーム理論では難問だが、本書では規範を相関均衡として理解している。他方、財産権は通常、法的な問題と考えられているが、実は霊長類には財産権に似た行動がかなり広く見られる。これは行動経済学の保有効果(自分が持っているものの価値を高く評価する)を考えると、タカ=ハト・ゲームの均衡として解釈できる。

このようにゲーム理論によって行動経済学の「バイアス」を合理的に説明する理論は、BenabouやTiroleなどの主流派も試みており、ネタのつきたゲーム理論が生き延びる方向としては有望だろう。哲学的な議論だけでは、社会学のような「お話」になってしまうので、継続的にパズルを作り出すシステムが、パラダイム競争では重要だ。

しかし普通の人間の習慣的な行動を相関均衡やBayesian Nash均衡など複雑なアルゴリズムの計算結果として説明するのは、不自然といわざるをえない。この点では、アカロフ=シラーがSchankのスクリプト理論など認知科学の概念を参照している方向のほうが有望だと思う。スクリプト理論は人工知能としては挫折したが、最近はメタファー理論の先駆として再評価されている。

著者は無理して伝統的なゲーム理論で行動経済学を説明しようとしているが、たぶんこの種の現象を一番てっとり早く説明できるのは、彼が昔やったマルクスだろう。『資本論』が「資本家社会の富は、商品という要素の集積として認識される」という言葉で始まるのは、富が商品というメタファーに物象化(概念化)されることが資本主義の根本的メカニズムだという、きわめて重要な洞察を示している。マルクス経済学には何の価値もないが、マルクスの経済学には再評価の価値がある。

日本語に主語はいらない

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)学校文法では、「文は主語と述語によって成り立つ」と教わる・・・という文には主語がない。こういう場合、学校では「生徒は」という主語が「省略されている」と教わるが、この基準で日本語の日常会話を分析すると、90%以上の文で主語は「省略」されている。世界の他の言語をみても同じで、主語が不可欠なのはインド=ヨーロッパ語族の一部に限られる。主語・述語モデルにもとづく生成文法も、「普遍文法」どころか「ヨーロッパ語文法」でしかない。

このように英語をモデルとして「日本語は主語がないので論理的ではない」という学校文法に対する批判も古くからあり、時枝文法や三上章など、「日本語の論理は英語とは違う」とする議論も多い。本書は、学校文法や生成文法を否定する点ではこうした理論と同じだが、「日本語特殊論」も批判し、日本語と英語は同じ論理の変種だと論じる。著者の理論的根拠とする認知言語学は第2章に要約されているが、くわしいことは著者の前著を読んだほうがいいだろう。

認知言語学では、意味から独立した統語論を否定し、文をメタファーの関係としてとらえる。ここでもっとも基本的なのは、外的な世界を概念化する過程であり、文法はその概念=メタファーの関係をあらわす形式にすぎない。そうした形式のルールは記号論理学として完成されており、そこには主語という概念は存在しない。たとえば「犬が走る」という文はf(x)のような関数(述語)として表現され、その複合が命題になる。多くの文は複数の述語の複合した命題であり、その論理的な関係は集合の包含関係に置き換えられる。

日本語の「象は鼻が長い」といった文が表現しているのは主体と客体の関係ではなく、象という全体集合の中に鼻という部分集合があるという包含関係だから、命題論理に近い。英語は、文の要素としての述語論理の構造に近い。両者は別の論理ではなく、同じ論理の異なる面である。出来事が「なる」ことを誰かが「する」ことだと考えるのはきわめて特殊な発想で、たとえば「雷がこわい」という文を"The thunder scares me"というように無生物を主語にする文は不自然である。主語=主体を特権的な概念とする欧米語の文法は、自己完結的な個人という西欧近代のフィクションを反映しているのだ。こうした「主体」の概念に対する批判は、ニーチェからフーコーに至る哲学者のテーマだったが、それが脳科学で検証できるようになったことは画期的だ。

20世紀の社会科学の主流は、生成文法や新古典派経済学のようなメカニカルな方法論だったが、その限界生産性はゼロに近づいた。21世紀の主流は「認知論的転回」になるのではないか。だからといって、それは新古典派が無意味だということを意味するわけではない。かつて人工知能の挫折によって人間の知的活動がアルゴリズムに帰着できないことが否定的に証明されたように、今回の金融危機で金融工学の限界が明らかになったことが、メタファー(アニマル・スピリッツ)にもとづく行動経済学を生み出し始めている。科学は理論と実証によって進歩するのではなく、このようにパラダイム(メタファー)とそれに対応する科学者集団の闘いによって変化していくのである。

「分配の政治」というネズミ講

民主党のマニフェストが発表され、論議を呼んでいる。選挙で政策が大きな争点になるのはいいことだが、その内容は旧態依然たる分配の政治で、違うのは自民党が財界や業界団体に配っていた金を中小企業や労働組合に回すことぐらいだ。こういう「政策転換」は、30年ぐらい前に行なわれたことがある。東京都の美濃部知事を初めとする「革新自治体」が全国に生まれ、「大資本中心の政治から福祉中心に!」とのスローガンのもと、老人医療の無料化など、巨額のバラマキ福祉が行なわれた。

その結果は、放漫財政と公務員のお手盛り昇給と財政破綻だ。組合の強い大阪府は、いまだにその後遺症に苦しんでいる。それでも自治体は、起債の限度があるため、破綻が早く来やすい。国の場合は問題を先送りできるので、夕張のようになるのは10年以上先だろう。しかし破綻したときは取り返しがつかない。IMFも指摘するように、消費税を30%から60%ぐらいに上げないと、公共サービスが維持できなくなる。与野党ともに、今の高齢者の「安心」については語るが、若い世代の将来への不安には関心がないようだ。少子化の原因はこの不安であり、子供手当による将来の負担増は、むしろ問題を悪化させるだろう。

高度成長期には、競争力の高い製造業などの成長部門が創造した富を農村などの衰退部門に再分配する所得移転が政治の役割だったが、この構造は90年代以降、決定的に変わった。日本経済の停滞によって再分配すべき原資が減り始めた状況で、今後も再分配を続けるには、将来世代から現在世代への所得移転が必要になる。900兆円近い政府債務とそれを上回る年金会計の破綻は、団塊世代からロスジェネ世代への「つけ回し」だが、このネズミ講はいずれ破綻する。

こういう問題は、経済学者がいくら抽象的な数字をあげてもだめで、日本経済が本当に夕張のようになるまで、政治家にはわからないだろう。しかしマーケットはそれを知っている。もう概算要求も出た段階で、鳩山政権が歳出削減をやろうとしても、官僚のサボタージュで来年度予算も大幅な赤字になるだろう。それを見越して、長期金利がじりじり上がり始めている。国債が増発されたら、資本逃避やインフレが起こるおそれも強い。民主党がマニフェストに明記した「製造業の派遣禁止」が実行されたら、製造業は工場を海外に移転し、雇用はさらに減るだろう。

いま問われている真の争点は、どうやってこのネズミ講を終わらせ、福祉の原資となる成長を維持するかという問題だ。「官僚中心の政治の転換」などというのは、その手段であって目的ではない。自民党は31日にマニフェストを出すそうだが、民主党の分配政治に対抗して、規制改革やイノベーションによる成長戦略を打ち出せば、勝ち目もあるかもしれない。

よみがえる「官僚たちの夏」

霞ヶ関の「大異動」が話題になっている。今年の人事で事務次官が交代しなかったのは、外務・経産・農水の3省だけで、「民主シフト」が鮮明だ。鳩山代表が「局長級にはすべて辞表を出させる」とか「霞ヶ関に100人以上の政治家・民間人を送り込む」といっているのに対抗して、国交省と農水省では民主党ともめた場合の次官の「バックアップ」を用意する異例の人事が行なわれた。

局長級は、だいたい私の大学の同期がなる時期なので、個人的にも知っている人がいるが、民主党に対する「抵抗力」を重視した配置が行なわれたようだ。特に経産省では「市場派」が一掃されて「産業政策派」が主要ポストを独占し、「官僚たちの夏」が全面的に復活した。総務省も「親NTT派」の事務次官が就任して、「再々編」は骨抜きになりそうだ。

これに対して民主党の戦闘態勢はどうかといえば、はなはだ心許ない。先週のICPFの特別セミナーでも、民主党の「IT専門家」である内藤正光氏は、「ホワイトスペース」について何も知らず、周波数オークションには反対した。彼が力を入れていた「日本版FCC」などという組織いじりは、手段であって目的ではない。問題は人事や組織ではなく、意思決定を実質的に官僚から国民の手に取り戻すことだ。

そのメルクマールが、周波数オークションである。今のように官僚が「国定技術」を決めて免許人に無償で割り当てる電波社会主義が、日本の携帯電話業界が世界に立ち後れる原因になったのだが、セミナーに出てきた自民党の世耕弘成氏(NTT出身)も社会主義を変える気はないらしい。NTT労組出身の内藤氏が社会主義を擁護するのは、むしろ当然だろう。

その代わり、出てくるのは「電子政府」とか「教育・医療のIT化」などのバラマキ政策ばかり。世耕氏の紹介したのは現在の総務省の政策だからしょうがないが、内藤氏の「次の総務省」の政策も、ほとんど見分けがつかない。このように規制改革よりバラマキというバイアスは霞ヶ関の本能みたいなもので、これを逆転しないかぎり、本質的な改革はできない。

TBSのドラマ「官僚たちの夏」は視聴率も好調で、「最近珍しい社会派ドラマ」として好評だ。中身が原作とまったく違うフィクションであることは、番組のウェブサイトにも断ってあり、「昭和30年代ブーム」に乗って、日本のよかった時代を懐かしむオヤジ向けドラマらしい。昔話としては、よくできている。あのころの日本には「アメリカのように豊かになる」というわかりやすい目標があり、役所が民間をまとめることができた。

しかし今は違うのだ。官僚でさえ若手はそれに気づいているが、省内では口に出せないという。「役所は手を引くべきだ」などといったら、出世できないからだ。それをコントロールすべき民主党も、若手にはわかっている人がいるが、マニフェストに出てくるのは「官僚たちの夏」が永遠に続くかと思うようなバラマキ政策ばかり。民主党にはなるべく小さく勝ってもらって、「第三極」の結集に期待したい。

経済危機は新しい経済理論を生むか

歴史的な経済危機は、新しい経済理論を生んできた。大恐慌がケインズ理論を、そしてスタグフレーションが自然失業率理論を生んだように、今回の危機も新しい理論を生むだろうし、生まないと困る。それが何かはまだはっきりしないが、週刊ダイヤモンドの書評の仕事で『アニマルスピリット』を訳本で読みなおしてみて、この本がそれに相当する21世紀の古典になるかもしれないという気がしてきた。

ケインズはマクロ経済学という分野を創造し、フリードマンは「新しい古典派」を生んだが、同じような意味で、アカロフ=シラー以後の新しい経済学は、Cowenのように経済システムを行動経済学によって理解するようになるのではないか。それは従来の経済学のように古典力学をモデルとするものではなく、むしろ認知科学に近い。「アニマルスピリット」という言葉がケインズの用法を逸脱した拡大解釈だ、という批判はもっともで、これは行動経済学のフレームと呼んだほうがいい。

今回の危機についてのアカロフ=シラーの説明が、メタファー理論と似ているのも偶然ではない。経済学者は、金融市場では効率的市場仮説で決まる「正しい」価格と現実の(まちがった)価格の裁定でトレーダーがもうけると想定しているが、こうした仮説はこれまでも検証されたことがなく、今回の危機で完全に否定された。事実は逆で、まず「AAAの金融商品を買っておけば必ずもうかる」という物語=メタファーが市場で広く信じられ、その中身がわからないまま「ガマの油」が大量に売られたのである。

この理論に従えば、現在の危機の本質はきわめて単純だ:もともと嘘だった物語が、嘘だとばれただけなので、こぼれたミルクを元に戻すことはできない。中央銀行の本質的な仕事は金利や通貨供給の調節ではなく、市場の信頼を取り戻して新しい物語を再建する監督政策だ(これは竹中平蔵氏の経験とも一致する)。したがってマクロ指標は政策目標ではなく、市場の信頼を取り戻すための手段の一つでしかない。

物語が嘘だとばれるのは一瞬だが、人々が新しい物語を本当だと信じるには長い時間がかかる。それは政府の力だけではだめで、多くの腐った銀行や企業が整理され、人々が「膿みは出つくした」と信じるまで、アニマルスピリットは出てこない。行動経済学の多くの実験が明らかにしたように、人々は効用関数を計算して最適化しているのではなく、まずフレームを決めてその中で行動するので、国民が同じフレーム(意味)を共有することが経済の正常化の第一条件である。

池尾・池田本の副題を「金融危機経済学」としないで「金融危機経済学」としたのは、金融危機を経済学で分析するだけでなく、金融危機に経済学が学んで自己革新しなければならないという意味だが、今回の危機が30年代のケインズ理論のようなイノベーションを生めば、悪いことばかりでもない。昔の経済学者は、新しい理論のヒントを物理学の教科書に求めたが、これからは言語学や脳科学に学ぶ必要があるかもしれない。

成熟できない民主党

今週のSAPIOに出ている私の「ワーキング・プアを『ただのプア』に転落させる『派遣禁止法案』の大欺瞞」という記事について誤解があるようだが、私は「反民主党キャンペーン」に協力したわけではない。むしろ民主党政権が長続きするために、安易なポピュリズムはやめるべきだと言っているのだ。

内容も、当ブログや「アゴラ」で書いてきたことだ。特に強調したのは、派遣規制が労使の結託によって非正社員を労働市場から排除する身分差別だということである。それは当の派遣労働者の組合である人材サービスゼネラルユニオンが派遣規制に反対していることでもわかる:
このところ格差社会を論じる際に、間接雇用である派遣がその元凶であるという意見がたびたび出てきます。私たちは、マスコミや一部の労働界、政党から出されている、派遣イコール「ワーキング・プア」、派遣イコール「不本意な働き方」という見方には強く違和感を覚えます。

組合員の話を聞き、さらに厚生労働省の調査結果をみると、こうした見方が一方的であることが浮かび上がってきます。 間接雇用であるがために「不安定である」、「かわいそう」、「ひどい働き方だ」などといわれ、信念・プライドをもって派遣労働者として働く仲間は傷ついています。職業選択の自由の下、間接雇用も直接雇用も同等に「労働」であることの評価がされるべきです。
福島みずほ氏は、法案発表の記者会見で「すべての労働者を正社員にさせる」と息巻いていたが、彼女の望むように「いったん雇った労働者は絶対に解雇してはならない」という法律をつくったら、パートもアルバイトもすべて失業し、日本の失業率は大恐慌なみの25%ぐらいになるだろう。さすがに菅直人氏は「政権を取っても同じ法案を出すのか」という質問に答を濁していた。どうせ社民党との選挙協力の方便だから、総選挙で民主党が単独過半数をとったら反故にするのだろう。

このように選挙のときだけ、お涙ちょうだいのリップサービスをするのは、昔ながらの万年野党だ。こういう無原則な機会主義が国民の信用をなくして政治の混乱が続いてきたのが「政界の失われた16年」だということは、鳩山氏も岡田氏も身にしみて知っているだろう。同じSAPIOで土居丈朗氏も書いているように、民主党の掲げる子供手当などの「17兆円の抜き打ち増税」も実現可能な政策ではなく、自民党に矛盾を攻撃されたら崩壊する。必要なのはまずマニフェストを見直し、実行できる約束だけをすることだ。

日本をあきらめる

竹森俊平氏の対談シリーズの最終回のゲストは、意外にも竹中平蔵氏。しかも彼を「日本経済の恩人」と絶賛している。かつて「不況の最中に構造改革なんかやるのはバカだ」と竹中氏を(暗黙に)批判していた竹森氏が、リフレ派から構造改革派に「転向」したのはけっこうなことだが、かつての自説との矛盾の説明がいささか苦しい。

2000年代の最初の不良債権処理についての2人の意見はほぼ一致しており、当ブログや池尾・池田本で書いたこととほとんど同じだ。経済危機の本質は信頼の欠如にあり、それを回復することなしに財政・金融政策だけで危機を脱却することはできない。その意味で(中途半端に終わったとはいえ)竹中氏のハード・ランディング政策は正しかったのである。

ただ私が興味をもったのは、最後の「低成長でも健やかに暮らせればいい?」という問いだ。Welfareを「厚生」という変な日本語に訳したのは誤訳で、これは英語では「幸福」という意味の普通の言葉である。したがって福祉政策の目的も「人々を幸福にすること」であり、welfare economicsも「人々を幸福にするにはどうすればいいのか」を考える学問だ。だから幸福を最大化するためには、何が幸福なのかをまず考えなければならない。ところが経済学ではベンサム以来、welfare=wealthと定義し、富を最大化することが幸福の最大化だと考えてきた。

この単純な功利主義は、ハイエクも指摘したように、明らかに誤りだ。幸福は富と同一ではなく、その増加関数かどうかさえ不明だからである。実験経済学や行動経済学などの実証研究によれば、両者はほとんど無関係だというのが定型的事実だ。日本人の所得は1950年代から5倍になったが、「幸福度」は2.9から2.6に下がり、世界で60位前後だ。幸福=富と考えるかぎり、日本人がこれから大きく幸福になる可能性はあまり高くない。世代会計でみると、今の30代以下は不幸になるおそれが強い。

ゼロ成長で所得の再分配を極端に進めると、みんなが平等に貧しくなるだけで、財政も破綻してしまう。それよりも成長率を上げて経済全体が豊かになることが大事だ――という竹森氏と竹中氏の一致した結論は、おそらくすべての経済学者のコンセンサスだが、次の総選挙で自民・民主両党のとなえる政策とは違う。彼らは一致して「市場原理主義」を否定し、「低成長でも健やかに暮らせればいい」と主張しているからだ。

これほど経済学者の常識と世間の常識が乖離しているケースも珍しい。しかもそれは「幸せとは何か」というきわめて根本的な問題だ。現実にゼロ成長に近い状況が続く可能性が高いとすれば、そういう時代に適応して希望を捨てる政策は、少なくとも現実性という点ではかなり有力な選択肢であり、議論に値する。ただ2005年の総選挙で「日本をあきらめない」というスローガンを掲げた民主党が、今それとは逆の政策を進めていることぐらいは自覚してほしいものだ。

超ガラパゴス戦略

今週のASCII.jpのコラムで紹介したが、NYタイムズまで日本の携帯電話を「ガラパゴス」と呼ぶようになった。しかし夏野剛氏もアゴラ起業塾で言っていたように、日本のケータイの技術は今でも世界一だ。資金も人材も十分だ。欠けているのは、それを世界に売り込む戦略を決断する経営者だけだ。

逆にいうと、経営者を入れ替えて戦略を立て直せば、ガラパゴスと馬鹿にされている技術を世界に売り込むこともできるはずだ。本書は、そのためのフレームワークを提唱し、いくつかのケースを「進化論」的な枠組で分析している。日本の製造業が要素技術ではすぐれていながら収益が上がらない原因は、モジュール化によって「すり合わせ」の優位性が生かせなくなったからだ、というのはおなじみの議論だが、この程度の認識もなしに「ものづくり」にこだわる経営者が多い。

問題は、どうすればこの隘路を突破できるのかということだが、そこに意味的価値という概念が出てくるのがおもしろい。iPhoneは、物理的な要素技術では日本の携帯に劣るが、そのおしゃれなデザインやソフトウェアとの連携、AppStoreによってユーザーがアプリを開発できるしくみなどのコンセプトがすぐれているのだ。こうした「意味」は要素技術に分解できず、コンセンサスで作り出すこともできない。スティーブ・ジョブズという個性によってしか生み出すことはできないのだ。

イノベーションを「産学連携」や「埋もれた知的財産の発掘」によって生み出そうという霞ヶ関のアプローチは、日の丸検索エンジンやスパコンの戦艦大和のような「奇形的進化」を生み出すだけだ。最近の認知科学が発見したように、最初にフレーム(意味)があって行動が決まるのであって、その逆ではない。そして多くのフレームの相互作用の中から意味が生成する言語ゲームは進化的なので、何が生まれるかは予測できない。必要なのは「国営マンガ喫茶」ではなく、新しい企業や新しい経営者によって、なるべく多くの突然変異を生み出す制度設計だろう。

経済学者は世界を変えられるか


Marginal Revolutionで知ったが、ポール・ローマーがスタンフォード大学を辞め、世界各国に「特区」をつくるビジネスに専念するそうだ。彼は電子学習システムの会社を設立してIPOで巨額の利益を得ており、大学の給与はもう必要ない(ノーベル賞にも大学のポジションは不要)。世界銀行のチーフ・エコノミストになるよう求められたが断り、自分で世界を変える会社をつくるわけだ。上のYouTubeの講演は、その決意表明のダイジェスト版である。

ローマーは世界のすべての政府に参加を呼びかけるそうだから、民主党も彼に業務委託して、霞ヶ関のおもちゃにしかなっていない沖縄特区を、日本だけでなく世界を変える根拠地にしてはどうだろうか。彼の理論をてっとり早く知るには、このプロジェクトの仕掛人でもあるWarshの本が便利だ。
革命の経験をすることは、それについて書くよりも愉快であり、有益である。――レーニン

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