2009年03月

警察発表について

高橋洋一氏が、窃盗の容疑で書類送検されたようだ。私のところにまで取材が来たが、私は何の一次情報も持っていない。メディアに出ているのは警察発表だけで、読売の第一報には不自然な点が多い。「庭の湯」に電話した人の話によると、
  • ロッカールームには監視カメラはない
  • ロビーの貴重品ロッカーにはカメラがある
とのことなので、「防犯カメラに似た男が写っていた」という話と「ロッカーは無施錠だった」という話は矛盾する。わざわざ貴重品ロッカーに入れて施錠しないということは、(犯罪を誘う目的でもなければ)普通は考えられない。警察が来るまで風呂に入っていたのも変だし、「どんな人が持っているのか興味があった」という動機も意味不明だ。警察がかなり作文している疑いがある。

報道から推測すると、事件がまったくのでっち上げということは考えにくいが、報道の仕方が奇妙だ。24日に発生した事件が、30日の読売夕刊に出たのはなぜだろうか。普通は、この程度の置き引きで逮捕もしなかった事件を警察がいちいち発表することはない。窃盗の場合は余罪を疑って身柄を拘束することが多いが、今回は警察も本人の社会的地位に配慮したと思われる。

それが今ごろ読売に出たのは、夜回りで警察関係者が「こんなおもしろい事件があったよ」と明かしたのかもしれない。有名人の場合は、被害者がメディアに売り込むこともある。さらに勘ぐれば、事件のファイルにアクセスできる人物が垂れ込んだ可能性もある。財務省は高橋氏の身元を洗っているらしく、彼も「金とか女とかあらゆるガセネタを流された」といっていた。

このように警察発表は人生を変えてしまう大きなインパクトがあるが、裁量の余地が非常に大きい。記者クラブに所属している記者の交通事故は、死亡事故でもないかぎり、まず発表されない。NHKでも、理事が暴力金融から不正融資を受けたことが発覚して退職した事件もあったが、メディアにはまったく出なかった。こうした事件を「押さえる」のが社会部長の重要な仕事で、人事異動のときには自民党のどの派閥が社会部長をとるかが大きな争点になる。

いずれにせよ本人がコメントしていないので、今のところ真相は不明というしかない。こういう事件は高橋氏の言論の内容とは無関係なので、「アゴラ」では引き続き、彼に発言の場を提供する。明日から正式サービスを開始する予定である。

情報の非対称性とエージェンシー問題

今回の金融危機を理解する上で重要なのは、有効需要とかマネーストックなどのマクロ経済学の概念よりも、情報の非対称性にともなうエージェンシー問題だろう。特に金融のような複雑な取引では、プリンシパル(投資家・預金者)とエージェント(金融仲介機関)の情報の非対称性が大きいので、モラルハザード逆淘汰が起こりやすい。

こういう言葉はメディアにもよく登場するようになったが、金子勝氏のように意味を理解しないでいい加減に使うことが多い。これを正確に理解するためには、情報の経済学や契約理論を理解する必要があるが、なかなかいい本がない。日本語で書かれた教科書としては、伊藤秀史『契約の経済理論』がベストだが、かなり高度で、ビジネスマンにはおすすめできない。

本書は昨年、訳本の第1巻が出たが、1年以上も遅れてやっと第2巻が出た。第1巻はオーソドックスな均衡理論で、この第2巻が情報の経済学やゲーム理論を扱っている。ビジネススクールの教科書として書かれているので、初等的とはいえないが記述は平易だ。著者はこの分野の第一人者なので、オリジナルな話もまじえている。この第2巻だけで独立に読め、日本語で読める情報の経済学の入門書としてはベストだと思う。


大不況の経済学

来週の週刊ダイヤモンドの特集は、現在の不況についての経済学者の見方を多面的に紹介している。「リフレ派」や「市場原理主義批判」は姿を消し、ケインズ派と主流派の論争が軸になっている(私も読書案内を書いた)。これは国際的な標準に近い。

印象的なのは、もっともケインズ派に近い吉川洋氏でさえ「需給ギャップを埋める」という伝統的なケインズ政策を否定して「持続的な成長」を説いている点だ。土居丈朗氏も「乗数効果は1未満」だとし、野口悠紀雄氏も北村伸行氏も「産業構造の転換が必要だ」という。福田慎一氏は長期国債を買うなどの非伝統的な金融政策も必要だとするが、政府紙幣や無利子国債などの「奇策」については肯定的な意見はゼロ。

雇用問題についても、川口大司氏は「規制強化は逆効果」と厚労省の政策を批判し、年金問題について鈴木亘氏は「巨大な世代間不公平が本質的な問題」とする。「北欧モデル」が検討に値するという点で、八代尚宏氏と神野直彦氏の意見は一致している。

ただし69ページの政策論争のチャートが間違っている。編集部は「ケインジアン対マネタリスト」みたいな図を描いているが、そんな論争は30年前に終わったのだ。正しい図を描いておこう。


「長期の財政政策」というのは法人税の減税や投資減税、「長期の金融政策」というのは主として金融システム対策で、右側は基本的には裁量的な介入には反対の経済学者(主流派)。左上が伝統的なケインズ政策だが、政権に入っている経済学者を除くとKrugmanぐらいだ。左下が非伝統的な金融政策だが、これもFRBやIMFの関係者が多い。

総じて主流の経済学者は制度設計に重点を置き、マクロ政策の効果には否定的だ。裁量的な政策を支持するのは政治的な立場を背負った経済学者が多く、「何かやらないと政治的にまずい」という政権からの要請が影響しているものと思われる。オバマ政権の巨額の財政政策には批判的な意見のほうが多く、FRBの非伝統的政策についても効果は限定的だという意見が多い。「ケインズが復活した」という表現は政治的には正しいが、学問的には正しくない。この30年間に経済学は進歩し、政府の裁量的な介入は有害無益だというコンセンサスが世界的に成立しているのだ。

ポラニー的不安

大不況に便乗して、ここぞとばかりに「市場原理主義」を攻撃する本が山のように出てきた。本書は、この種の際物の典型である(リンクは張ってない)。『大転換』というタイトルに示されるように、カール・ポラニーの有名な本を踏襲して「市場の暴力」を批判するのが、こういう本のお決まりのパターンだ。中谷巌氏もポラニーを引用して、市場が「悪魔の挽き臼」だという。

しかし伝統的な社会には「非市場」しかなく、19世紀の欧州で初めて「自己調整的」な市場が登場した、というポラニーの理論は、歴史的事実によって支持されない。ブローデルも批判するように、どんな「未開」な社会にもバザールのような市場は必ずみられ、それは共同体と共存している。古代ギリシャのアゴラも、もとは市場だった。

ポラニーは市場の外側に本来的な「社会」なるものを想定するが、ハイエクも批判したように、こういう場合の社会とは国家の別名にすぎない。ポラニーのいう「大転換」とは、資本主義が没落して社会主義になるという予言だった(原著は1957年)。佐伯啓思氏が市場の代わりに提唱する「脱成長社会」なるものの中身も、「公共計画」という漠然としたものだ。その公共計画を立てるのは国家しかないのだから、彼の主張しているのは社会主義に他ならない。

「格差」を是正して「安定した社会」を実現するには、彼のいうように政府が経済活動を「計画」して、高い税率によって全国民に同じ所得を保障すればいい。しかしこうした社会主義によって日本経済はさらに衰退し、再分配すべき所得も減少するだろう。この安定と成長のトレードオフを無視し、対案を示さないで市場の欠陥だけをあげつらうのは「万年野党」の論理である。たしかに市場には欠陥だらけだが、残念ながら大きな社会をコーディネートするメカニズムとして、市場より弊害の少ないしくみは知られていないのだ。

ポラニーのいうように、労働力を商品として取引する資本主義は自然な感情にフィットしないが、彼の予想に反して、崩壊したのは資本主義ではなく社会主義だった。資本主義は不公正で不安なシステムだが、それを捨てた国はない。それは伝統的な社会よりはるかに大きな富を実現したからだ。中谷氏が資本主義がきらいなら、彼の賞賛するブータンに移住すればいい。

思考する言語

ピンカーの新著の訳本が出た。かつてはチョムスキーと同様に「経験論のドグマ」を繰り返し批判していた著者が、その逆のレイコフのメタファー理論に転じ、「遺伝的決定論」を批判している。認識論的には、ようやく(半世紀以上おくれて)ヴィトゲンシュタインに追いついた程度だが、アメリカ人の哲学的水準なんてこんなものだろう。

生成文法や新古典派経済学のような疑似科学がアカデミズムで主流だったのは、その数学的に整った体系が、大学や学界のヒエラルキー構造を維持する上で便利だったからだが、社会科学が数学や物理学をモデルにするのはおかしい。社会の要素は人間なのだから、今後の社会科学の基礎は脳科学や心理学だろう。本書は、そうした「認知論的」な視点から言語や社会を考えるヒントを提供してくれる。

池尾・池田本のビデオ


13日に丸善でやった『なぜ世界は不況に陥ったのか』のトーク・セッションのもようが、YouTubeにアップロードされた。レジュメはこちら。

パート1
パート2
パート3
パート4
パート5
パート6

なお、池尾さんが明日(金曜)の夜8時から、CS朝日ニュースターの「ニュースの深層」に出演するそうだ。

テレビのバラマキを求める民放連

民放連の広瀬道貞会長は、先週の定例会見で「260万世帯にデジタルテレビを支給せよ」という提案を発表した。「20型前後の薄型テレビは約7万円。アンテナの据え付け費を加え一世帯当たり10万円、合計でおよそ2600億円」だそうだ。ITproによれば、彼はこうのべたという:
政府の中で不況対策として地上放送のデジタル化問題を活用しようという声が徐々に出ている。我々も悪乗りするわけではないが,デジタル化問題が経済活性化に役立つならば,これを100%景気浮揚に活用すべき。
広瀬氏も気が引けているように、ドタバタでつくられる補正予算に悪乗りするのは、業界団体がバラマキ補助金を引き出すときの常套手段だ。このように露骨なロビー活動を繰り広げるテレビ朝日が、どの面下げて小沢一郎氏の政治献金を批判できるのか。かつて『補助金と政権党』という名著で「補助金は、財政を悪化させ、国民の税負担を重くするばかりでなく、民主政治の根っ子を侵食しつつある」と指摘した大ジャーナリストが、補助金あさりをする姿は見るに耐えない。

しかしすでに自民党と総務省の間で、追加補正に地デジ関連のバラマキを入れる方向で話が進んでいる。広瀬氏は、自民党には「5000万世帯に2万円のクーポン券を配布する1兆円規模の支援策」を要望している。このような巨額の補助金を特定の電機メーカーに支給することは、不正な利益供与である。デジタル配信のインフラは地デジだけではないのだから、やるなら技術中立的な方法にすべきだ。

たとえば10万円相当のブロードバンド・バウチャーを配り、それで地デジを買ってもよいし、光ファイバーやCATVやCS受信機を買ってもよい。こうすれば消費者はもっともコスト効果の高いインフラを選ぶことができ、競争が起こる。その財源は、アメリカと同様に周波数オークションで調達すれば、1兆円をはるかに超える国庫収入が上がるだろう。

史上最大の国営ギャンブル

ガイトナー財務長官が不良資産買い取り計画を発表した。何しろ1兆ドルという史上最大のオークションだけに、賛否両論が渦巻いている。Mankiwは「私が半年前に提案したスキームと同じなのに引用されていない」とつまらないことに怒っている。DeLongは弁護しているが、Krugmanは否定的だ。
The Obama administration is now completely wedded to the idea that there’s nothing fundamentally wrong with the financial system ― that what we’re facing is the equivalent of a run on an essentially sound bank. As Tim Duy put it, there are no bad assets, only misunderstood assets. And if we get investors to understand that toxic waste is really, truly worth much more than anyone is willing to pay for it, all our problems will be solved.
これはいいポイントを突いている。もし正しい答を政府が知っているなら、それを民間に教えればいいのだが、たぶん本当の答は誰も知らない。オークションはtruth telling mechanismだが、真理が存在しない場合には大混乱になるおそれがある。

日本では、1993年に共同債権買取機構が設立されたが、世論の反対で公的資金を入れなかったため、銀行が自己資金で自分の不良債権を買い取るという、わけのわからない機関になってしまった。今回の案が日本と違うのは、民間企業がオークションで不良資産を買い取り、その債務保証を政府がやる点だが、これはかなり危険なしくみだ。Krugmanも指摘するように、投資ファンドが政府の金でギャンブルをやるチャンスになりかねない。

さらに問題なのは、不良資産が出てこないことだ。オークションでfire sale priceで売却したら債務超過になることを恐れて、銀行は売らない。結局、政府の「ストレス・テスト」(資産査定)で不良資産の売却を強制するしかないだろう、とEconomist誌はみている。日本でも、最終処理が進んだのは竹中プランの荒療治のおかげだった。

こうしてみると90年代の日本の金融当局が特にバカだったわけではなく、含み損を表に出すと銀行がつぶれる場合に不良資産の処理が進まないのは、金融危機に共通のジレンマだ。しかも、そういう場合の処理ルールが決まっていないので、泥縄式にいろんな案が出ては引っ込む。どこの国も危機管理体制がお粗末なのは大差ないな――という意味では、今回の騒動は日本の名誉回復にかなり役立ったのではないか。

追記:NYタイムズでは経済学者の論争が始まった。アメリカでは、ウェブが民主主義の一環になりつつあるようだ。

ウェブの新しい女王

「有識者会合」の貧しい議論は、この国の民主主義の厚みを反映しているのだろう。他方アメリカでは、ウェブがジャーナリズムの一角を占めはじめた、とTIME誌は評価している。
Huffington Postは月間890万人の読者を集め、ニュースサイトの15位に入っている。これはワシントンポストの下、BBCの上である。スタッフは55人とローカル紙程度だが、その影響力はオバマ大統領を生んだパワーの一つとされ、新聞サイトがその作り方をまねはじめている。最近、紙の新聞をやめてウェブに特化したSeattle Postは、HuffPoと同じようにブログを前面に出すレイアウトになった。

HuffPoにはAPなどから配信されたニュースや著名人のコラムもあるが、その最大の強みは読者からの情報提供である。読者のコメントは月間100万を超え、投稿するブロガーは3000人に及ぶ。内容は政治的な意見からゴシップまであり、しばしば一般メディアに出ないスクープを飛ばす(誤報もあるが)。一次情報を取材するスタッフはほとんどいないため、既存メディアからは「フリーライダー」と批判されるが、読者が膨大な情報に埋もれているウェブでは、自分に必要な情報が一通り読めるサイトにも価値がある。
「アゴラ」も、4月から正式サービスを開始する。ライブドアの協力で、少しニュース的な要素も入れる予定だ。HuffPoには及びもつかないが、日本に民主主義が根づくためにも、こういう議論の場が必要だと思う。

「有識者会合」の耐えられない軽さ


経済危機克服のための「有識者会合」のもようが、すべて政府インターネットテレビで公開されている。テレビの恐いところは、その場の空気まで映してしまうことだ。「有識者」はそれぞれ勝手なことをいい、政府側はそれをろくに理解していない(たぶんする気もない)ので、話がまったくかみ合わず、白けた空気が漂う。日本の政策論争って、こんなに中身の薄いものなのか・・・
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