2008年03月

今年度の決算

今月も、きのうまでに100万PVを超した。去年の3月には50万PVぐらいだったから、この1年で倍増したことになる。1年の合計で、約950万PV。おかげさまで、アマゾンのアフィリエイトの収入も、本1冊の印税より多かった。「ブログが無償の労働だ」というのは、もう過去の話だ。今までは遊びだったが、これから半分は仕事と考えよう。ベストセラーは以下のとおり(拙著は除く):
  1. さらば財務省!
  2. 不思議の国のM&A
  3. 1997年――世界を変えた金融危機
  4. まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか
  5. 生物と無生物のあいだ
  6. 戦後日本経済史
  7. 人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか
  8. 著作権法
  9. 日本軍のインテリジェンス
  10. ウィキノミクス
1は、わずか10日で年間ベスト1になった。たしかにインパクトの強烈さという点では、今年度のトップだろう。学問的なおもしろさという点では、4を推したい。6のような地味な本がこんなに売れるのは、当ブログの特徴だろう(今週の週刊ダイヤモンドに書評を書いた)。驚いたのは、4400円もする教科書8が、ベスト10に入ったことだ。現在の著作権法に疑問をもつ人々がこれだけ多いということを、文化庁はぜひ自覚してほしい。アクセス元のベスト10は
  1. NTTグループ
  2. 富士通
  3. ソニー
  4. NEC
  5. 東芝
  6. 東大
  7. NHK
  8. 松下電器
  9. 京大
  10. 総務省
母集団の圧倒的に大きい1がトップになるのは当然として、2がそれに近いのは不思議だ。6や9がこんなに多いのは、当ブログの特徴といえよう。大学だけを集計すると、ほぼ偏差値の順に並ぶのがおもしろい。10も母集団の大きさを考えると多い。官庁の第2位は衆議院だが、当ブログを有害サイト(?)としてフィルタリングしている経産省はゼロ。

生きるための経済学―〈選択の自由〉からの脱却

8453dd1e.jpg「自由」という漢語に対応するやまとことばはない。Zakariaによれば、似た言葉がある文明圏でも、その意味は西欧圏とは違う。中国の自由は「勝手気まま」という意味だった。日本語でしいていえば、無縁という言葉が近いが、これは共同体から縁を切られるという意味だ。つまり選択の自由というのは、西欧文明に固有の概念なのだ。

しかし本書も指摘するように、プロテスタンティズムには自由の概念がない。カルヴァンの予定説によれば、だれが天国に行くかはこの世の最初から決まっており、人々は自分が救われるかどうかを確認するために蓄財する。この信仰は、新古典派経済学と奇妙に一致している。Arrow-Debreuモデルでは、人々は世界の最初に一度だけ、永遠の未来までの正確な知識をもとにして合理的な選択を行い、将来財まで含めたすべての市場がクリアされ、あとはそのプログラムに従って行動する。そこに自由は存在しない。

この起源は、アダム・スミスの理神論にある。堂目卓生氏も指摘するように、スミスは利己心を「第三者の目を意識しながら自己の利益を追求すること」と考えた。 見えざる手とは、この社会的自我であり、神のメタファーだ。神が世界を調和するように設計するのは当然だから、利己心の追求によって秩序が生まれるのも自明だ。同じく理神論にもとづいて構築されたニュートン力学では、世界の動きはすべて物理的に決定されるので、自由意志の存在する余地はない。それをまねた新古典派経済学も、同じアポリアに陥ってしまうのだ。

これに対してマイケル・ポラニーは、選択の自由の起源をロックやヒュームの懐疑主義に求めた。それは、こうした決定論的な信仰が長期にわたる宗教戦争を引き起こしたことへの反省だった。しかし懐疑主義を徹底すると、それはすべての価値を否定するニヒリズムに到達する。ニーチェは「来るべき200年はニヒリズムの時代になる」と予言したが、このニヒリズムを克服すると称して登場したのが、ナチズムだった。

著者はこのように、従来の経済学がナイーブに想定する選択の自由という概念が、論理的な矛盾をはらんでいることを指摘し、これに対してポラニーの創発の概念を対置する。これは10年ぐらい前の「複雑系」ブームのとき流行した言葉だが、そのとき行なわれた研究は、単なるコンピュータ・シミュレーションだった。著者の『貨幣の複雑性』もそうだし、私も昔、そのまねごとをやったことがある。

しかし、こういう研究はすぐ壁にぶつかった。これは本来の意味での創発ではなく、チューリングマシンが複雑に動作しているだけなので、モデルさえ変えればどんな結果でも出る。その結論もゲーム理論でわかっていることを確認するだけで、プログラミング技術を競うお遊びになってしまった。

著者はポラニーに依拠して、このような客観的知識の延長上に「複雑性の科学」を築こうとするのはナンセンスだとし、暗黙知のような個人的知識の科学として経済学を構築しなおすべきだと論じる。しかし彼は、個人的知識を活用するために自由が必要だと主張したハイエクとは逆に、選択の自由という概念が近代西欧の幻想なのだから、『論語』で説かれているようなに倫理を求めるしかないと結論する。

本書の議論はここで終わっていて、そこから具体的にどういう「生きるための経済学」が出てくるのかわからないが、彼の指摘そのものは的を射ている。経済学が数学技術を競うお遊びを脱却して、真の実証科学として生まれ変わるには、自由という幻想を克服することも必要なのかもしれない。

ホワイトスペースをめぐる闘い

グーグルのRick Whittが書いた公開書簡がFCCのサイトで発表された。

技術的に注目されるのは、テレビ局に「信頼性がない」と難癖をつけられた最新技術spectrum sensingを使わなくても、ホワイトスペースが使えると主張していることだ。これは要するに、「どの地域ではどの周波数が空いているか」という詳細なデータベースを参照して周波数を切り替えるという、テレビ局のオヤジにもわかる原始的な方法だ。

しかも、この書簡を700MHz帯の周波数オークションで「負けた」直後に出すところがおもしろい。まるで「Verizonはねらい通りCバンドを93億ドルという高値で買ってくれたから、われわれは無料のホワイトスペースを使うよ」と嘲笑しているかのようだ。次の結論部分などはなかなかの名文だから、原文で味わってください(特に総務省のみなさんには):
In short, FCC rules should specify only what is allowed, not how that result is to be achieved, or by whom. Much like the Internet itself, the agency’s specifications should as much as possible enable “innovation without permission".
こういう論争は、初めてではない。2002年にFCCのSpectrum Policy Task Force[PDF 575KB]で「コモンズ派」と「財産権派」の大論争が行なわれたのだが、結果的には「5GHz以上をコモンズ派に渡す」という妥協案にだまされてしまった。5GHz帯というのは、公衆無線にはとても使えない。

今度はUHF帯という「プラチナバンド」をねらって、テレビ局を正面突破する闘いを、世界最強の企業が開始したわけだ。エリック・シュミットの「インターネットが負けるほうに賭けるな」という言葉が正しいとすれば、今度こそグーグルが勝つかもしれない。それは財産権によって自由を守る近代社会から、情報や帯域を無限に供給して共有することによってイノベーションを生み出す、未来社会への最初のステップになるのだろうか。

喧嘩のへたな日本人

一昨日の記事に、楠君からTBがついたが、彼の記事にはあまり反応がないようだ。電波の世界は技術的でわかりにくい上に、メディアが都合の悪いことは報道しないので、実態がほとんど知られていないが、このホワイトスペースの問題はNGNより重要だ。

彼もいうように、802.11aのOFDM技術は、NTTが開発したものだ。しかもNTTの技術者がIEEE802.11aワーキンググループ(WG)のエディタになっていたのに、NTTはOFDMを電話交換機みたいなHiSWANというシステムに実装し、結局ものにならなかった。Atherosは802.11aを802.11bのチップに入れて、市場を独占した。

また以前の記事でも書いたように、NTTはTCP/IPより先にパケット交換を実装していたのに、その開発を打ち切った。自社で開発した「データ通信」をファミリー企業につくらせて「日の丸VAN」を構築する計画を立てたが、データ通信は赤字続きで、最後はインターネットに粉砕されてしまった。

NHKも1980年ごろにはハイビジョン(MUSE)を完成していたのに、それをCCIRで世界標準にしようと時間を空費しているうちに、欧米の電機メーカーが「ハイビジョンを認めたら日本のメーカーが世界を征服する」と騒ぎ始め、ハイビジョンをつぶしてしまった。いま「デジタルハイビジョン」と呼んでいるのは、MPEG-2というまったく別の技術である。

しかもMPEGをISOで開発したチームの中心は、NTTの安田浩氏だった。それなのにNHKは「あれは通信の規格だ」と相手にしないで、国内で実用化の見通しもない「ハイビジョン実験放送」を続けた。しかし1994年に郵政省がMPEG-2に方向転換してハシゴをはずされ、20年かけて開発・実験したMUSEの1000億円以上のコスト(そのうち数百億円は国費)は無に帰した。

こういう例は、枚挙にいとまがない。同じ失敗が繰り返される原因は、わかりやすくいうと、日本人が喧嘩がへただということだ。私もITUの会議に何度か出たことがあるが、各国の代表が自国に都合のいい規格を猛烈に売り込むのに、日本の代表(総務省)はうつむいて原稿を読むだけ。私が「さっきの話は日本の公式見解で、私の話は非公式見解だが・・・」とそれを批判すると、会場は爆笑だった。

喧嘩のへたな最大の理由は、英語ができないことだ。プレゼンテーションは原稿を読めば何とかなるが、質疑応答で喧嘩ができない(というか質問も出ない)。おまけに日本の官庁でも企業でも国際派は傍流なので、その場で意思決定ができない。「その話は本社に持ち帰って・・・」とかなんとか言っているうちに、欧米諸国だけで標準を決めてしまう。

これはインターネット系の組織でも同じだ。私はW3CのWGに入っていたことがあるが、これは誰でも参加できる代わり、毎週、夜中の2時から電話会議があり、それに2回続けて欠席したら除名される。しかも電話会議だから、半分も聞き取れない。会議の大部分はマイクロソフトが実装したソフトウェアの説明で、他社はそれにコメントするだけ。だからW3C規格のほとんどは、実質的にはMS規格だ。IETFも、最近はほとんどシスコ規格らしい。

これに対して「日本発の国際標準を」などと行政が旗を振るのは、見当違いもはなはだしい。国際会議で「これは日本のつくった規格です」などと売り込んだら、PDCやISDB-Tのように、ITUでは形式的に認められても世界市場では無視される。MPEGのように、実質はNTTが開発しても「各国が協力したオープン・スタンダードです」と売り込めば、世界市場に広がるのだ。

今月末からNGNの商用サービスが始まるが、「NTTが世界標準を取りに行け」などとあおるのは逆効果である。それよりもグーグルのAndroidのように、NTTの開発したNGNアプリケーションやインターフェイスをすべてオープンソースで世界に公開してはどうだろうか。

追記:このごろ過去の記事の「リンクが切れている」という問い合わせがくるので、固定リンクのない新聞社サイトにはリンクを張らないことにした。各社が申し合わせて過去の記事を削除するのは、カルテルではないか。

国語審議会─迷走の60年

きのうのつまらない記事が、意外に大きな反響をよんでいるので、ちょっとまじめに国語改革の問題をかんがえたい人は、本書に明治以来の歴史がまとめられている。

『想像の共同体』でもかかれているように、国語というのは近代の主権国家とともにうまれ、進化してきた。したがってその改革は、国民国家としての日本のアイデンティティの問題だった。そして国語審議会は、そうしたナショナリズムを否定する人々と伝統を重視する人々のイデオロギー闘争の場となってきた。

明治期に「文明開化」をすすめる際に、日本語のような非効率な言語はすてるべきだという議論があった。特に敗戦後には、いろいろな改革案がだされ、志賀直哉が「フランス語を公用語にすべきだ」といったのは有名だ。読売新聞も「漢字を廃止せよ」という社説をかかげ、最終的には日本語をローマ字にすべきだと主張した。これは植字工の負担をかるくするという意図もあった。

GHQもローマ字化を勧告したが、国語審議会の意見はわかれ、妥協案として表音化した「現代かなづかい」と、漢字を制限して字体を簡略化した「当用漢字」が1946年11月に発表された。「当用」というのは「将来は漢字を廃止するが、当分はこれだけはつかってよい」という意味だった。戦後わずか1年でドタバタときまったため、この改革も中途半端で、当用漢字以外は旧漢字のままになり、助詞の「は」や「を」などは旧仮名がのこった。

公文書の「左横がき」も、1951年に国語審議会できまったものだ。だから今でも、学校の教科書は(国語をのぞいて)横がきである。しかし、もっとも影響力のおおきい新聞が、社説でローマ字を主張しながら縦がきをつづけたため、民間の出版物のほとんどは縦がきのままのこった。

中国は、共産党が政権をとったとき横がきに統一し、文盲率は98%にもたっしたので、漢字を廃止してpinyinに統一しようという意見もあった。中国語の場合には、ピンインで発音は正確に表記できるので、これは合理的な改革案だったが、庶民が「あのよめなかった四角い字をよみたい」とのぞんだため、簡体字として残した。北京語と広東語のような発音のちがう方言も漢字は同じなので、これは中国を漢字で統合する意味もあった。韓国は、一時すべてハングルにしたが、のちに一部、漢字が復活した。

文字がほとんどタイプされるようになった今となっては、日本の国語改革は戦前の文書をよみにくくしただけで、ほとんど無意味だった。むしろ正書法を確立する改革をすべきだった。梅棹忠夫氏は、用言をすべてひらがなにするというルールを提案した。そうすれば、一番ややこしい問題だったおくりがなの問題は解決し、発音と表記がほぼ1対1に対応する。

実は、この記事も「梅棹式」でかいたのだが、そんなに違和感はないだろう。やまとことばに漢字をあてるのは意味がなく、特に用言はよみにくい。日本語が国際化する上でも、国語審議会が正書法をガイドラインとしてきめてもいいのではないか。

JASRACを分割・民営化せよ

今週の「サイバーリバタリアン」は、「はじめに文化ありき」とかいうスローガンをかかげる団体の話だ。オーウェルは『1984年』で、ニュースピークという言語の使われる国を描いたが、彼らのニュースピークを日本語に翻訳すると、「私的録音補償金をiPodから取りたい」という意味だ。新聞もテレビもそうだが、文化をダシに使って利権あさりをする見え見えのレトリックは、もうやめてはどうか。

これに比べると、ネット法の「ハリウッドのようにプロデューサーに権利を集中しろ」という話は、許諾権を残したままでは改革とはいえないが、権利処理を一元化するのはいいことだ。特に映像の分野では、JASRACのような団体さえないので、権利処理が禁止的に複雑だ。音楽・映像・活字のライセンスを一元的に管理するイタリアのSIAEのような団体が必要だ。JASRACを他の分野に拡張してもよい。

その場合、JASRACと他のライセンス業者との競争が不可欠だが、JASRACだけが社団法人では公正な競争ができない。特にJASRACが膨大な顧客データベースを独占しているので、他のライセンス業者が参入できない。そこで白田秀彰氏の提案しているのが、JASRACの分割・民営化(*)。郵政民営化で日本郵政を4分社化し、プラットフォーム(郵便局会社)の上に郵便・貯金・簡保の3社が乗る構造をとったように、JASRACを民営化して4分社化し、顧客データベースを図のようにデータベース会社として分離するのだ。
このプラットフォームは、ウェブサイトでよい。これによっていろいろなライセンス業者がデータベース会社を利用して競争でき、クリエイターもユーザーもライセンス方式を自由に選ぶことができる。この場合のライセンス方式は何でもよく、著作権法に従う必要もない。民法上の契約は著作権法に優先するからだ。

おそらくクリエイターにとってもユーザーにとっても使いやすいのは、通常の財産権と同じようにクリエイターがライセンス権をライセンス会社に売り切り、料金を支払ってライセンスを受けたユーザーはコンテンツを二次利用するのも加工するのも自由なシステムだろう。コピーフリーとする代わりに、一定の報酬請求権を認めてもいい。

このような水平分離で競争を促進するのは、世界の民営化政策の主流である。NTTに先駆けてJASRACが自己改革すれば、「カスラック」などと悪口をいわれることもなくなるだろう。

(*)これは彼の学会での発言で、WiredVisionには書かれていない。

グローバルな歓待

『帝国』の共著者として有名なアントニオ・ネグリに、来日の直前になって入国許可が出ず、関連行事がキャンセルされた。これについての抗議声明が、主催者側から発表された。私はこの事件の経緯も知らないし、法務省がどういう理由で彼の入国を拒否したのかも知らないが、『帝国』の原著を、あの9/11の直後に読んで衝撃を受けた一読者として、ひとこと感想を書いておきたい。

私は、書評であまり大げさにほめるのは好きではないが、2003年に『帝国』の邦訳が出たとき、週刊ダイヤモンドの書評で「現代の『資本論』」と絶賛した。この評価は、今も変わらない。サヨクにありがちな「反グローバリズム」とか何とかいう幼児的な議論ではなく、グローバル化を超えた先に新しい世界秩序を展望する彼らの思想は、マルクスを(いい意味で)継承するものだ。

特に、今回の事件との関連で興味深いのは、『帝国』で彼らが主張したグローバルな市民権という思想だ。移動の自由が基本的人権であるなら、なぜ国境を超えた移動は査証がないと許されないのか? たとえば中国で飢餓線上にいる人々は2億人とも3億人ともいわれるが、中国に開発援助をしなくても、彼らが日本に入国するのを認めさえすればいいではないか。

もちろん、現実にはそんなことは不可能だろう。しかし少なくとも近代の人権なる概念が、そういうダブル・スタンダードをはらんでいることは知っておいたほうがいい。Krasnerもいうように、主権国家とは組織的な偽善なのである。

デリダやネグリが、こうした偽善を批判する概念として提起したのが、歓待の倫理である。「格差社会」を糾弾する人々は、1日1ドル以下の収入しかない絶対的貧困層が全世界で10億人以上いる現実をどう考えるのか。彼らが日本に密入国してきて「あなたの所得は私の100倍以上あるんだから、その半分をくれれば平等になる」と言ったら、あなたは彼らを歓待するだろうか?

このように人権とか平等とかいう概念は、近代国家の作り出した幻想にすぎない。今回の事件は、日本政府の偽善性を白日のもとにさらしたという意味では、ネグリの来日よりも大きなインパクトがあったかもしれない。

追記:コメントで教えてもらった中日新聞の記事によれば、主催者(国際文化会館)は昨年、パリの日本大使館にOKをとっただけで、法務省には問い合わせていなかったという。日本大使館にも、ネグリの経歴を説明したのかどうか不明だ。これは主催者側の手続き上のミスである疑いが強い。

グーグルの敗北による勝利

アメリカの700MHz帯のオークションで、注目されていたCブロックはVerizonが落札し、グーグルは競り負けた。しかしWSJロイターは、「これは実質的にはグーグルの勝利だ」と評価している。グーグルが落札の条件として要求し、FCCが認めたオープンアクセスの条件をVerizonが守ると発表したからだ。これによって、Verizonは自社の電波を受信できる端末からのアクセスをすべて認めなければならない。具体的には、自社のSIMカードだけを売り、端末は消費者が自由に選ぶ欧州型の水平分離の市場ができることになろう。

しかも、きのうドコモも発表したように、世界の主要な携帯キャリアが、グーグルの(LinuxベースのフリーOS)Androidを採用する。これによってOSの標準を取れば、携帯アプリケーションはグーグルのAPIで開発されることになる。携帯業界では「新米」のグーグルが、あっという間に携帯端末の技術的リーダーシップをとった戦略は、見事というしかない。

グーグルの無線市場への挑戦は、これで終わらない。彼らは、テレビ局が占有して使っていないホワイトスペースを他の企業に使わせろという申請をFCCに出す。日本でも、UHF帯で地デジに470~710MHzの240MHzも割り当てられているが、最大10チャンネル使う首都圏でも、必要な帯域は6MHz×10=60MHz。アナログ放送が止まれば、任意の地点で180MHz=30チャンネルのホワイトスペースができる。

180MHzというのは、いま携帯電話が使っている全周波数に近い莫大な帯域であり、SDTVなら90チャンネルの放送が可能だ。ここに新規参入を認めるなら、地デジには大きなメリットがある。たとえば新規参入業者にアナログ放送局の「立ち退き料」(コンバーターなどの経費)を負担させるオークションを行なえば、2011年までにデジタルに完全移行することも可能になろう。

追記:ビル・ゲイツもホワイトスペースをWi-Fiなどに開放せよと求めている。Wireless Innovation Allianceには、グーグルとMSの他にDell、HPなども参加している。

「見えざる手」は誰の手か

861806ef.jpgアダム・スミスの「見えざる手」という言葉は有名だが、この言葉は『国富論』で1回しか使われておらず、彼はそれが誰の手か、どうやってそれが経済的な秩序をもたらすのか、といった問題には答えていない。

他方、彼のもう一つの著作『道徳感情論』では、他人に対する共感(sympathy)が秩序の基礎だと論じている。この議論は、人々が利己心にもとづいて行動すれば、おのずと秩序が成立するという『国富論』の結論と矛盾するようにみえる。これは「アダム・スミス問題」として知られ、多くの研究者がこの矛盾を解決しようとしてきた。本書も、この問題に答えることを試みたものだが、率直にいって明快な答とはいいがたい。

本書と無関係にゲーム理論の言葉で考えると、これは「どうすれば人々がともに豊かになるような状態が唯一のナッシュ均衡になるか」という問題と考えることができる。一般的な(混合戦略を含む)ゲームではナッシュ均衡が存在するが、それが一意に定まるとは限らない。複数均衡(よい均衡と悪い均衡)がある場合、よい均衡を選択する一般的な解概念は存在しない。

では、なぜスミスは人々が「よい均衡」を選ぶと信じたのだろうか? その答は、おそらく本書が言及していない理神論にあると思われる。これは神を人格的な存在と考えず、世界の秩序そのものが神の具現化だと考える教義で、ニュートンがその影響を受けていたことはよく知られている。彼の発見した古典力学の完璧な規則性は、まさに神の存在証明ともいえるものだった(いわゆるintelligent designは、理神論の現代版だ)。

スミスは、同時代人ニュートンの発見に強い影響を受け、社会秩序にも同じような「神の手」が働いているはずだと信じた。しかし彼自身は、ニュートンのように手際よく神の存在を証明できなかった。のちにニュートンをまねた新古典派経済学が、均衡の存在を証明したが、Arrow-Debreuの証明した条件はきわめて非現実的で、むしろ均衡の不在証明ともいうべきものだ。

ではスミス自身は、この矛盾をどう理解していたのだろうか? 一つのヒントは、本書の指摘するように、『道徳感情論』にも「見えざる手」という言葉が1回だけ出てくることだ。これは資本家が労働者を雇う際に、利潤最大化のためには労働者をフェアに扱わないと逃げてしまう、といった文脈で使われている。つまり公正(fairness)の感覚を共有していることが均衡を実現するというわけだ。これはRawlsの『正義論』の考え方に近い。

Binmoreも、公正の概念がゲーム理論でいう焦点(focal point)となり、均衡選択の装置として機能すると論じている。公正の概念は社会によって大きく違うが、一つの社会の中では分散が非常に小さいことも実験経済学で確かめられている。見えざる手とは、こうした共通感覚のことだとすれば、スミスが見えざる手の根拠を共感に求めたことは、利己心と矛盾しない。利己心によって実現しうる多くの均衡の中から、人々がフェアな均衡を選ぶような社会だけが群淘汰で生き残ったと考えれば、合理的に説明できる。

12年遅れでネット規制に乗り出す自民党

朝日新聞によれば、自民党の青少年特別委員会は、インターネットの有害情報から子どもを守るため、18歳未満の青少年が有害情報を見られないようにする対策を講じるよう、インターネットの接続業者に義務づけることなどを盛り込んだ法案の原案をまとめたそうだ。

これに対して総務部会が反対しており、結論はまだ出ていないが、21世紀になってこんな法案が出てくること自体が驚きだ。原案によれば「著しく残虐性を助長する情報」「著しく犯罪、自殺及び売春を誘発する情報」について携帯各社やネットカフェ業者などにフィルタリングを義務づけるという。また、サイト管理者やプロバイダーに対して、有害サイトの閲覧を18歳以上の会員に限ったり有害情報を削除したりすることを義務づける。違反した場合、罰金や懲役も設ける。

インターネットの歴史を知っている人ならすぐ気づくと思うが、これは1996年にアメリカで成立した通信品位法(CDA)と同じだ。これに対して消費者団体ACLUが訴訟を起し、1997年に連邦最高裁で違憲判決が出て、CDAは葬られた。それ以来、この種の規制は表現の自由を侵害するもので、公権力は介入すべきではないし、その効果もないというのが世界の常識だ。インターネットには国境がないのだから、国内法でそんな規制をしても、有害情報の圧倒的多数を占める海外のサイトは取り締まれない。今時こんな時代錯誤の法案が国会に出されるのは日本の恥だ。

規制強化の先頭に立っているのが、新聞の特殊指定騒ぎのとき、新聞業界の提灯持ちをつとめた高市早苗氏だ。新聞の既得権は守るが、インターネットの表現の自由は圧殺しろというわけだ。彼女は「ご意見」を電子メールで受け付けているので、本当の「国民の声」とは何かを知らせよう。中身を書くのが面倒な人は、この記事にリンクを張るだけでいい。

追記:これに対して、野党が歯止めにならないのが情けないところだ。民主党も、同様の規制案を検討している。この他にも、総務省・警察庁・経産省が規制を検討している。


スクリーンショット 2021-06-09 172303
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