2008年02月

二つの都市伝説

あるネットワーク論の専門家と話したとき、Milgramの"six degrees"の実験の話が出たので、「あれは都市伝説ですよ」といったら驚いていた。Milgramの死後、発見された実験データによれば、実は届いた人には平均5.5段階で届いただけで、95%の手紙は届かなかったのだ。一昨年、BBCがこれを報道したときは、世界中のネットワーク論の専門家が大混乱になった。

もうひとつ「ゆでガエル」というのも、ゆっくり没落してゆくことに気づかない様子のたとえとしてよく使われるが、これも都市伝説である。実験によれば、水をゆっくり温めてもカエルは脱出するし、熱湯にほうりこむと即死する。ただ、今の日本経済が、ゆでガエル的な状況にあることはまちがいない。日本人の知能は、両生類以下だということか。

新たなる資本主義の正体

数年前、アメリカの友人の家で小さなパーティがあったとき、エンロン事件が話題になった。「日本ではエンロンってどれぐらい話題になった?」ときくので、私が「ほとんどの日本人は社名も知らないと思うよ」と答えると、彼女は意外な顔をした。当時、すでに有罪判決も出て、事件はほぼ終わっていたので、私は「ただの一過性のスキャンダルがなぜいつまでも話題になるのか」と不可解に思ったものだ。

しかし本書を読むと、エンロン事件はもっと大きな変化をアメリカ資本主義に与えたことがわかる。それは株式が紙切れになった何万人もの株主に、経営者は信用できないという決定的な不信感を植えつけたのだ。『CEOvs取締役会』は、同じ問題を具体的な事件で描いている。エンロン事件のあと、HP、AIG、ボーイングなどでCEOが取締役会にクビにされる事件が続発し、経営者にとって取締役会は、敵対的買収以上の脅威となった。

これは一見、企業内部の争いのようにみえるが、その背景にはエンロンのような事態になると、取締役自身が株主訴訟で財産を没収されるリスクが大きくなってきたという変化がある。さらに1980年代の企業買収の波が収まったあと、CalPERSに代表される年金基金などの機関投資家や、KKRなどの投資ファンドが大きな比率の(あるいはすべての)株式を所有するようになり、CEOをいつでもクビにできるようになった。

前にものべたように、株式会社制度の弱点は、議決権が個人投資家に分散しているため、エージェンシー問題が起こりやすいことだが、こうした新しい資本家(原題)は所有と経営を限りなく一致させ、経営を直接コントロールする強い権力をもちはじめているのだ。これはSupercapitalismでロバート・ライクのいう直接統治の始まり(法人としての企業の終わり)といってもよい。

理論的には、プリンシパルがエージェントになれば理想的なガバナンスが実現しそうなものだが、実態はかなり違う。本書では、市民社会に対応して市民経済の時代が来たと表現しているが、要するに民主主義の長所も欠陥も企業に持ち込まれるということだ。SOX法に代表される過剰規制、感情的でリスク回避的な機関投資家、訴訟を恐れて未知の事業に反対する取締役・・・CEOに求められる資質が、リーダーシップよりもこうした政治的な利害調整の能力になり、アメリカの大企業の競争力が低下するおそれも強い。

幸か不幸か、日本はこうした株主民主主義の行き過ぎを恐れる必要はない。それが日本的な「持ち合い資本主義」よりましなことは確かだが、株主資本主義が理想のガバナンスというわけでもない。今後、企業システムの制度設計を考える際に重要なのは、買収防衛策よりもこうした過剰ガバナンスの弊害だろう。

テロと救済の原理主義

1091ed0a.jpgアルカイダやイスラム原理主義について書かれた本は山ほどあるが、それを思想としてまともに理解した本はほとんどない。テロリストの思想を「理解」するなんて、とんでもないことと思われているのだろう。一昨年のピュリッツァー賞を受賞したThe Looming Towerはその稀有な例外だが、これは邦訳されていないので、本書はアルカイダの思想を系統的に紹介した唯一の日本語の本だ。

彼らの教祖とされるエジプト人、サイイド・クトゥブは、若いころから秀才として知られ、ナセル政権に重用されたが、その腐敗に絶望して辞職し、1948年アメリカに渡る。そこで彼は祖国とは比較にならない繁栄を見たのだが、多くの留学生と違って彼は西洋文明に失望する。人々は物質的には豊かだが、キリスト教会はほとんど劇場となり、人々は信仰を口にするが、現世的な快楽に溺れている。それは彼らが神による支配というキリスト教の教えを忘れ、人による支配に堕落したからだ。

帰国したクトゥブは、こうした信念のもとにナセルの社会主義政権に反対する党派を指導し、投獄される。彼を支持する多くの民衆がその解放を要求したため、内乱を恐れたナセルはクトゥブに閣僚ポストを提示したが、彼はそれを拒否し、処刑される。そしてクトゥブは殉教者として、イスラム原理主義にとってのイエス・キリストのような存在になったのだ。

最近出たJohn GrayのBlack Massも、少し違う立場からクトゥブの思想を評価している。それは単なるテロリストの狂信的な教義ではなく、むしろノーマン・コーンが『千年王国の追求』で描いた、キリスト教からロシア革命まで共通にみられる千年王国主義とよばれるユートピア思想の典型である。そこでは堕落した現世の終末がやってきて神の国が始まり、選ばれた者だけが永遠に救われる。

また本書も指摘するように、クトゥブの思想は、北一輝の――正確にいえば、彼の思想を信じて二・二六事件を起した皇道派青年将校の――超国家主義とよく似ている。そして北や石原莞爾が日蓮から影響を受けたことも偶然ではありえない。日蓮宗は、仏教の宗派の中でも「浄土教型」とよばれる千年王国主義の一種だからである。そして、こうした「プロテスタント型仏教」がスリランカの自爆テロをまねいていることも著者は指摘している。オウム真理教も、この類型だ。

彼らが一致して糾弾するのが、伝統的コミュニティを破壊して人々を原子的個人に分解し、利己主義をあからさまに肯定する資本主義の非倫理性だ。かつてGrayの『ハイエクの自由論』を、生前のハイエクは「私の思想をもっとも的確に理解した本」と評したが、そのGrayもハイエクが資本主義の非倫理性のジレンマを解決できなかったと批判している。

もちろん、その解決策がアルカイダにあるわけではないが、それが近代社会が始まって以来ずっと続いてきた反モダニズム運動の典型であり、小川氏のいうように「裏返しのモダニズム」であることを知っておくことは重要だ。彼もGrayも指摘するように、アメリカのキリスト教原理主義をイラクに輸出しようとしたネオコンとブッシュ政権の思想も、アルカイダとまったく同じ類型のユートピア主義だからである。

原発・正力・CIA

河野太郎氏の電波利用料の記事には、多くの怒りの声が集まっているようだ。しかし電波利用料の基準額は公表されているので、約35億円というのは、私が6年前のコラムに書いた通り、計算すればわかる数字だ。それにしても、なぜこんな巨大利権が半世紀以上にわたって維持されてきたのかを考える手がかりとして、本書を紹介しておこう。

本書では原発が中心になっているが、著者の前著『日本テレビとCIA』とあわせて読むと、冷戦の中でメディアとエネルギーを最大限に政治利用した正力松太郎という怪物が、現在の日本にも大きな影響を残していることがわかる(これは『電波利権』にも書いた)。正力は暗号名「ポダム」というCIAのエージェントで、米軍のマイクロ回線を全国に張りめぐらし、それを使って通信・放送を支配下に収めるという恐るべき構想を進めていた。

この「正力構想」はGHQに後押しされ、テレビの方式はアメリカと同じNTSCになったが、彼が通信まで支配することには電電公社が強く反対し、吉田茂がそれをバックアップしたため、正力構想は挫折した。しかし、そのなごりは「日本テレビ放送網」という社名に残っている。そしてGHQが去ってからも、正力はCIAの巨額の資金援助によって「反共の砦」として読売新聞=日本テレビを築いた。同じくCIAのエージェントだった岸信介とあわせて、自民党の長期政権はCIAの工作資金で支えられていたわけだ。

正力が原子力に力を入れたのは、アメリカの核の傘に入るとともに、憲法を改正して再軍備を進めるためで、最終的には核武装まで想定していたという。しかしアメリカは、旧敵国に核兵器をもたせる気はなく、正力はCIAと衝突してアメリカに捨てられた。しかし彼の路線は、現在の渡辺恒雄氏の改憲論まで受け継がれている。こうした巨大な政治力を使えば、電波利用料で1000倍の利益を上げるなんて訳もない。

こういう利権まみれの民放に比べれば、公平にみて、金もうけのインセンティブがない分だけNHKのほうがましだ。いしいひさいちの漫画でいうと、NHKが地底人だとすると、民放はそれ以下の最底人である。そのNHKが、不祥事の後始末で脳死状態になっているのは困ったものだ。今週の「サイバーリバタリアン」にも書いたが、NHKたたきはそろそろやめて、テレビ以後のメディアのあり方を議論すべきではないだろうか。

テレビ局の「電波利益率」は1000倍

複数の人から教えてもらったが、テレビ局の電波利用料が河野太郎氏のブログで初公開(?)された。
テレビ局の電波利用料負担は、総計で34億4700万円にしかならない。
一方で営業収益は3兆1150億8200万円。
電波を独占して上げる収益に対して利用料が千分の一。
低すぎませんか。
「あるある」の場合、年間広告費50億円のほぼ半分が「電波料」で、関西テレビだけで2.5億円とっていた。1本の番組だけで、関テレの電波利用料(1000万円)の25倍だ。「著作権」でも「言論の自由」でも何でも口実にして、彼らが電波利権を守りたい理由がよくわかる。

株式会社の本質

経産省には株式会社の意味も知らない人がいるようなので、ちょっと前の本だが紹介しておこう。著者の一人は、今はEconomist誌の編集長。本書は、資本主義のコアとしての株式会社の歴史を紹介したものだ。

会社とか営利事業体という概念は古来からあったが、多くは家族経営のような共同体的なものだった。しかし投資の規模やリスクが大きくなると、縁故に頼った資金調達では限界がある。特に16世紀後半から始まった「大航海時代」(植民地時代)には、香辛料などを求めて東方に航海するプロジェクトは「今日でいえば宇宙探査に投資するのと同じぐらいリスクが高かった」(p.40)。

そこでオランダやイギリスの「東インド会社」などの大規模な植民地事業では、収益の権利を株式として細分化し、多くの投資家にリスクを分散する方式がとられた。このときの最大のイノベーションは、有限責任という考え方だ。家族経営やパートナー制は無限責任なので、会社が巨額の負債を負って破綻した場合、出資者は場合によっては全財産を提供しなければならない。これではリスクが大きすぎるので、最悪の場合でも株式が紙切れになるだけに責任を限定して、投資家を保護したのである。

だから株式は、当初は航海のたびに募集されるクジのようなものだった。それが事業体に出資する形になってからも、株式を売買する市場ができたので、いつでも売れる柔軟性がある。つまり株式会社という方式は、もともとプロジェクト投資のためのシステムであり、ベンチャーのような事業に向いているのだ。

ただし欠点もある。有限責任であるがゆえに投資家の議決権も1株1票しかないので、会社の規模が大きくなると、他人のモニタリングにただ乗りする傾向が強まり、エージェンシー問題が生じる。これを防ぐには、LBOによって非上場にし、大口の債権者がモニターする方式もあるが、これは前にのべた公開会社の柔軟性を損なうので、食品や石油のような成熟産業のオペレーションを効率化するのには向いているが、ベンチャー企業には向いていない。

だから株式会社が万能というわけでもないし、他の多様な方式も会社法で認められている。しかし圧倒的多数の企業が株式会社という方式をとっているのは、市場メカニズムを利用できるので効率が高いためだろう。日本や欧州で一時流行したステークホルダー資本主義は、資本効率やイノベーションにおいて劣ることがはっきりし、世界的にも「本家」の株主資本主義に収斂する傾向が強まっている――というのが本書の結論だ。

ただ前にも書いたように、ITの世界では物的資本を分割所有する株主資本主義の限界も見え始めている。ウェブ上に存在する仮想企業にとっては、企業のコアは(コモディタイズした)資本設備ではなく、「全世界の情報を組織化する」というカルチャーかもしれない。その意味で、グーグルがChief Culture Officerという経営責任者をつくったのは、資本主義の次のシステムの試みとしておもしろい。

90年代の悲劇を繰り返すな

新銀行東京をめぐる都議会の本格審議が、今週から始まる。石原知事の見苦しい言い訳を聞いていると、日本は90年代の失敗から何も学んでいないのかと空しくなる。私は1990年のイトマン事件から1995年末の住専問題まで、いろいろな不良債権問題を取材したが、その間に「今度こそ建て直す」「つぶすともっと金がかかる」という弁解を何度、聞かされたことか。

特に非常識なのは、破綻前の銀行に財政資金を直接投入して赤字を穴埋めしようとしていることだ。これは90年代の大蔵省でもやらなかったことである。猪瀬直樹副知事は、かつて財政投融資の実態を暴いて官製金融機関の巨大な無駄を明らかにし、それが郵政民営化に結びついた。彼は、石原氏がさらに400億円の都税をドブに捨てることを黙認するのか。

大蔵省が、破綻前の金融機関に税金を「贈与」した例外が一度だけある。それが住専だ。この原因をつくったのは寺村信行銀行局長だが、最終的に税金を投入したのは西村吉正銀行局長である。しかし一般会計から支出する決定は、銀行局長にはできない。西野智彦『検証・経済暗雲』によれば、1995年12月14日の会合で税金投入を最終決断したのは篠沢恭助事務次官だが、その実質的な根回しをしたのは涌井洋治官房長(現JT会長)だった。

そしてこの日の会合に、いま話題の武藤敏郎氏も総務審議官として同席している。まったく合理的な算出根拠もなく6850億円もの税金を信連(農協系金融機関)救済に投入するという、その後の不良債権処理を致命的に混乱させた決定に、彼は関与したのだ。財政と金融を分離したのは、こうした不正な処理に税金が二度と使われないようにするためだ。それなのに、その悪例をつくった共同責任者が日銀総裁になるのは筋が通らない。

不良債権の実態を隠蔽するために官製粉飾決算を繰り返し、その処理に10年以上を費やした結果、当初10兆円程度だった純損失を、最終的には100兆円以上に拡大し、それを公的資金で穴埋めした大蔵省の大失敗は、いま金融政策の「反面教師」として世界中から注目を集めている。ここでその責任者が、何のおとがめもなく中央銀行の総裁になり、東京都がまた税金で不良債権を穴埋めしたら、世界中から物笑いの種になるだろう。

少なくとも武藤氏は、住専の処理に自分がどう関与したのか、特に税金投入に賛成したのか反対したのか、そして今後、同様の事態が起きた場合にどう処理するのか、を公聴会の場で語る義務がある。また石原氏も「粉飾があった」などと他人に責任転嫁しないで、自分のつくった銀行の失敗には自分で幕を引くべきだ。歴史は繰り返す――最初は悲劇として、二度目は茶番として、とマルクスは言ったが、90年代の悲劇は二度と繰り返してはならない。

消費者行政を勘違いしている人々

私はASCII.jpのコラムにも書いたとおり、福田政権の「消費者重視」という政策を支持するが、どうも消費者行政とは何かという肝心の問題を誤解している人が多いようだ。その見本がNBオンラインの、後藤田正純氏に続く宇都宮弁護士へのインタビューだ。このシリーズを企画した記者は、2006年の最高裁判決に始まる貸金業への規制強化が、消費者保護の「新たな潮流」だと思っているらしいが、Economistの記事でもフェルドマンのコラムでも論評しているように、これは経済を知らない裁判官のトンデモ判決として知られているのだ。

この判決は「利息制限法の上限金利を超える融資契約は任意であれば有効だが、返済期日を過ぎた場合に残額の一括返済を求めるのは事実上の強制だから無効」とするものだ。しかし一括返済の特約は融資契約の前に提示され、債務者も同意したのだから「強制」ではありえない。ところが、この判決に多くの「クレサラ弁護士」が注目し、債務者を集めて「利息制限法の上限を知らなかった。だまされたので任意ではない」といった「過払い返還訴訟」が大量に起こされた。それを立法的に追認したのが、昨年の貸金業法改正だ。

これは当ブログで何度も指摘している、事前のインセンティブに及ぼす影響を考えない事後の正義の典型だ。こうした訴訟と規制強化によって、クレディア(東証一部)など中堅の消費者金融業者まで経営が破綻し、シティグループの消費者金融部門も日本から撤退する。消費者金融の大手4社だけでも、1月末の融資残高は前年比7800億円も減少し、貸し渋りが拡大している。日銀が懸命に金融緩和しているとき、もっとも有望な市場だった消費者金融が収縮しているのだ。

今さらいうまでもないが、消費者重視の行政というのは、このような統制経済にすることではない。たとえば著作権法を改正するにあたって、企業の「経済的被害」ばかり強調し、消費者が自由に音楽を聞いたりリミックスしたりする利益を無視する文化庁のような態度を改め、政策を立案するにあたって、第一に「それは消費者の利益になるのか」を基準にすることだ。著作権の強化に意味があるのは、それが創作のインセンティブとなって多くのすぐれた作品が生み出され、消費者の利益になる場合に限られる。したがって遺族に支払われるライセンス料を延長するような、消費者にとって有害無益な改正を阻止するのが「消費者省」の業務である。

野口悠紀雄氏も指摘するように、日本の行政は1940年代以来、①国家が正しい供給量を決め、②それに従って銀行が産業に資金を配分し、③消費者はその結果に従うという官僚社会主義を続けてきたが、今ではこれが消費者の(したがって日本経済の)利益を損なっている。だから消費者行政のコアになるのは、食品偽装などの苦情処理ではなく、これまでの意思決定を逆転し、①まず消費者全体(市場)の利益を最大化する政策を決め、②企業は市場に従い、③官庁はそれをサポートする、という順序に改めることである。それは別に革命的な変化ではなく、市場経済の当たり前の原則に従うだけのことだ。

追記:「貞子ちゃんの連れ連れ日記」でも、NBオンラインの連載記事への怒りが爆発している。

なぜ日本は失敗し続けるのか

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今週のEconomist誌の日本特集は、これまでになくきびしいトーンだ。もう一つの要約記事とあわせて、簡単に紹介しておく(訳はかなり適当):

いま世界の注目は、日本に集まっている。それはその未来に対してではなく、過去に対してである。サブプライムローン問題は、1990年代に日本の経験した不良債権問題に、性格も規模もよく似ている。そして日本は、考えられるかぎり最悪の対応によって、その危機を10年以上も引き延ばし、経済を壊滅させた。アメリカはこの教訓に学び、すばやい償却や金融緩和などによって、危機を早く克服しようとしている。

しかし当の日本には、あまり危機感が感じられない。小泉政権によって日本は改革の方向に歩みだしたようにみえたが、その終わりとともに元に戻り始めている。その最大の原因は、政治が脳死状態に陥っていることだ。これについて当誌の記者が、自民党の大島国対委員長に取材したところ、彼は「何かいい対策はありませんか?」と逆に記者に質問した。

長年の低金利と円安によって輸出は回復し、設備投資も堅調だ。しかし問題は、その投資収益率がアメリカの半分にしかならないことである。だから低金利政策で日本経済を回復させようとするのは間違っている。それは消費者の金利収入を奪うことで、消費を減退させる効果のほうが大きい。日本の家計消費のGDP比は、主要先進国で最低だ。

しかも政治家や官僚は、ただでさえ低い家計支出をさらに低下させる政策をとっている。昨年、日本の政治家はサラ金の上限金利を大幅に引き下げ、消費者金融業を壊滅させた。また建築基準法の改正にともなう過剰規制によって住宅投資は激減し、GDPを0.6%も引き下げた。

日本に必要なものは明白だ――市場を世界に開放することである。特に重要なのは、資本市場の改革だ。外資規制を撤廃し、労働市場を柔軟にして、海外の投資家にとって魅力的な環境をつくる必要がある。ところが日本政府の高官は株主をバカよばわりし、日本の老朽化した企業を海外の投資家から守る制度改正に熱心だ。

改革がほとんど進んでいない最大の責任は、政治にある。特に小泉政権の改革を継承するはずの安倍晋三氏が政権を途中で投げ出し、そのあと自民党のボスの誰からも文句が出ないのが唯一の取り柄である福田康夫氏が首相になった。これは、自民党の老人クーデタである。彼らは公然と公共事業などの既得権の維持を要求し、福田首相はそれを押さえられない。

もう一人の責任者は、小沢一郎氏である。民主党には若い改革派の政治家が多数いるが、彼らも最近の小沢氏の「大連立」や辞任騒動などの迷走ぶりにはうんざりしている。特に小沢氏が、先の参院選で農家の友達になる政策を掲げたことは、民主党の改革勢力としてのイメージを台なしにしてしまった。ただ実質的な権限は、鳩山由紀夫氏に徐々に禅譲されつつあるようにみえる。次の総選挙までに、民主党が体制を一新できるかどうかが鍵となろう。

次の総選挙でどちらが勝っても、絶対多数を得ることはできず、政界の混沌は深まると解説する向きも多い。しかし今のように何となく安定したまま没落してゆくより、混沌が表面化したほうがましだ。
私のコメント:Economist誌の記者は、日本語がほとんど読めないで、英語で電話取材してくる(私も受けたことがある)ので、こうした危機感の欠如の根本原因である、日本のメディアの程度の低さ(それは政治といい勝負だ)に気づいていないようにみえる。

ミルトン・フリードマンの時代

Greg Mankiw's Blogより:

JELに載ったShleiferの書評論文。1冊はBalcerowicz-Fischer、もう1冊はStiglitz et al.だが、タイトルからも予想がつくとおり、「20世紀の最後の1/4はグローバルな自由主義の勝利の時代だった」と総括し、Stiglitzを「いまだに政府の介入を求める古くさい傍流経済学者」として笑いのめすもの。特に彼が強く非難したIMFの「ショック療法」を受けた韓国と、彼が賞賛したマレーシアの「資本鎖国」の結果を10年たって統計的に比較すると、どっちがよかったかは明らかだ。

当ブログには、衆議院や財務省からも多くのアクセスがあるが、この論文にまとめられた多くのグラフは、ここ25年の世界経済のサマリーとして便利なので、参考にしていただきたい。特に今後、北畑氏のような資本鎖国政策や後藤田氏のような統制経済政策を進めたりすると、こういうふうに世界から嘲笑されるということも知っておいたほうがいい。


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