2007年12月

経済学のイノベーション

今年は、サブプライムに端を発した世界不況のあおりで、年末の日経平均株価は5年ぶりに年初を下回った。しかし日米欧のチャートをよく見ると、最大の打撃を受けたはずのアメリカのダウ平均は年初に比べて7%上がっているのに、日経平均は11%も下がっている。この原因は、外人投資家が業績の低迷する日本株を売り、中国やインドに投資を移したためだといわれる。つまり日本経済の最大の問題は格差でもデフレでもなく、経済の衰退なのである。

この意味で政府の「成長力重視」という目標は正しいが、具体的な政策として出てくるのは、「日の丸検索エンジン」や「京速計算機」のような「官民一体でガンバロー」みたいな産業政策ばかり。この背景には、成長の源泉をもっぱら技術開発に求める発想があるようだが、最近の実証研究で注目されているのは「再配分の生産性」だ。別に新しい技術を開発しなくても、古い産業から新しい産業に人材を移し、グーグルのように既存技術を新しい発想で組み合わせるだけで生産性は高まる。シュンペーターも、イノベーションを新結合と定義した。

イノベーションは、経営学ではもっとも重要なテーマだが、経済学の教科書にはほとんど出てこない。新古典派経済学の扱うのは、経済が均衡状態になってエントロピーが最大になった結果なので、イノベーションはその途中の一時的な不均衡でしかないからだ。これに対してミーゼスは、市場で重要なのは資源配分の効率性といった結果ではなく、人々が不確実な世界で答をさがす過程だとした。これを継承したKirznerは、競争の本質は分散した情報の中で利潤を追求する企業家精神にあると論じた。

企業家精神のコアにあるのは技術革新ではなく、どこに利潤機会があるかを察知するアンテナ(alertness)である。技術や資金がなくても、人よりすぐれたアンテナをもっていれば、ベンチャーキャピタルを説得して資金を調達し、エンジニアに発注して技術を開発できる。だから物的資産の所有権を企業のコアと考える現代の企業理論では、サービス産業は分析できない。もちろん正しいアンテナをもっている起業家はごく少数だから、ほとんどのスタートアップは失敗するだろう。そうした進化の結果としてしか、答は求められないのだ。

いいものをつくれば売れるというのは、こうした市場の情報伝達メカニズムとしての機能を知らない製造業の発想だ。自動車や家電のようなありふれた商品ならそれでもいいが、まったく新しい製品やサービスを開発したとき、それがいくらすぐれたものであっても、だれも知らなければ使われず、したがって普及しない。つまり革新的な製品であればあるほど、消費者のアンテナにシグナルを送ることが重要になるのだ。実は新古典派理論では、広告の存在も説明できない。そこでは消費者は、すべての財についての情報を知っているから、広告は社会的な浪費である。

しかし市場の情報機能が資源配分機能よりも重要になってくると、企業にとっても消費者にとってもアンテナの感度が生産性を決める鍵になるので、検索エンジンのようなサービスが経済の中核になる。こうしたアンテナが機能しているかぎり、独占の存在も問題ではない。独占があるところには超過利潤があるので、それは新規参入のシグナルとなるからだ。問題は、その参入を阻止する人為的なボトルネックである。それは情報産業では、ASCII.jpでも言ったように、通信の「最後の1マイル」と電波、それに著作権だ。

だからイノベーションを高める上で、政府が積極的にできることは何もないが、消極的にやるべきことは山ほどある。最大の役割は、こうしたボトルネックをなくして参入を自由にすることだ。上の3つのうち、最後の1マイルと電波の問題は表裏一体である。光ファイバーの8分岐を1分岐にするとかしないとかいう論争が続いているが、それよりも700MHz帯やVHF帯の電波を早急に開放し、有線と無線で設備競争を実現するほうが有望だ。次世代無線技術(LTE)では、もう173Mbpsという光ファイバー以上の速度が出ている。

しかし2.5GHz帯の美人コンテストは談合に終わり、WiMAXは既存インフラの補完だと公言するキャリアが当選してしまった。WiMAXは、もともと最後の1マイルを無線で代替するために開発された技術なのに、これではKDDIは、帯域を押さえるだけ押さえてサービスは先送りし、いまブローバンドで優位にあるEV-DOをなるべく延命しようとするだろう。

著作権というボトルネックを維持・強化することを最大の使命としている文化庁については、今さらいうまでもない。彼らが好んで使う経済学用語が「インセンティブ」だが、クリエイターにとって重要なのは、金銭的インセンティブよりも彼らを創作に駆り立てるモチベーションである。そのためには既存のコンテンツの「新結合」を含めて、あらゆる可能性をさぐるアンテナの自由度がもっとも重要だ。それを違法化してまで妨害する文化庁は、日本経済のみならず文化の敵である。

こうしたナンセンスな政策が次々に出てくる原因の一端は、市場を単なる物的資源の配分メカニズムと考え、その情報機能を理解できない現在の経済学にもある。しかし行動経済学など人間の意識を扱う実証研究が出てくる一方、ミーゼスやハイエクの考えていた分散ネットワークとしての市場の機能は、脳科学や計算機科学でも解明されつつある。来年は、こうした成果を取り入れた経済学のイノベーションを期待したい。

独断のまどろみ

今年を振り返ってみると、私の思考の「軸」が少しずつ変わってきたような感じがする。去年までは情報産業で起こっている変化を在来の経済学の分析用具で理解しようと考え、博士論文ではできるかぎりやってみたが、それ以上は非常にむずかしいということがわかった。現在の経済学には、もともと情報の概念が入っていないからだ。「情報の経済学」と称するものも、情報が非対称で一方だけがリスク回避的だという特殊な条件のもとでの最大化問題にすぎず、ほとんど実用にはならない。

これは歴史的にいうと、20世紀はじめに社会科学が経験した「言語論的転回」を、経済学だけがいまだに経験していないということだ。すべての現象は言語化された差異の束である、とソシュールが講義したのはちょうど100年前。それを継承したヤコブゾンやレヴィ=ストロースなどが社会科学の全体像をすっかり変えてからも、経済学だけは18世紀の古典力学の世界からほとんど出ていない。そこでは均衡という概念を媒介にして、認識と存在が一致することになっている。

これは哲学史でいえば、ソシュールどころかヒューム以前の素朴実在論である。ヒュームによって独断のまどろみを破られたというのは、有名なカントの言葉だが、実はヒュームは物理学にも影響を与えている。アインシュタインが相対性理論の発想をマッハから得たことはよく知られているが、マッハの主著『感覚の分析』(廣松渉訳!)は、ヒュームの懐疑主義から大きな影響を受けている。つまり現代の物理学は、もう独断のまどろみから覚めているのだが、それを模倣した経済学だけが、まだまどろんでいるわけだ。

マッハはメンガーやシュンペーターにも影響を与えており、彼の主観主義が新古典派の一つの源泉でもあったわけだが、こうしたオーストリア学派はその後は傍流になり、ハイエクを最後としてほとんど影響力がなくなった。それを継承したシカゴ学派は、新古典派の客観主義を意匠として借りることによって主流になったが、ハイエクはフリードマンのご都合主義的な「実証主義」を批判していた。フリードマン自身も、ルーカスやサージェントは「行き過ぎ」だと考えていた。

こうした超合理主義理論が実証できないことは、やっている経済学者もわかっていたが、1990年代まではゲーム理論やRBCなど、いろいろ新しいファッションも出てきて、それなりに学問的パズルの供給も可能だった。しかし21世紀に入って、さすがにネタが尽きてきたようだ。週刊東洋経済の特集号の編集者が「経済学者に新しい話は何かと聞くと、出てくるのが行動経済学や進化心理学などの話ばかりで驚いた」といっていた。

これは、他の社会科学が100年前に遭遇したのと似た状況である。すべての現象は認識や言語を媒介にしており、それを抜きにして「物自体」の科学みたいな理論を構築しても、実証データと合わないのは当たり前だ。しかし主観を学問的に扱うのはむずかしい。行動経済学は、半世紀前に失敗した行動主義心理学の轍を踏むおそれもあるし、進化心理学やニューロエコノミックスは、短絡的な生物学主義になりかねない。パラダイムの転換を行なうには、こういうアドホックな自然科学の模倣を超え、ヒューム以来の近代の認識論をおさらいしてみる必要があるような気がする。

和解のために

本書は、朝日新聞社の主催する「大佛次郎論壇賞」を受賞し、上野千鶴子氏が日本語版の解説を書いている。特記すべきことはそれぐらいで、内容は常識的なものだ。慰安婦の「強制連行」が存在しなかったという事実を認める本を韓国人が出版したのも、これが初めてではない。ただ、韓国でこういう本を出すには大変な勇気が必要であることは想像にかたくない。事実、著者は「親日派」(これは蔑称)という批判も浴びているらしい。

本書を読んでうんざりするのは、日本が「戦後、一度も植民地支配を反省したことがない」といった話が、韓国のすべてのメディアと教育機関でいまだに流され、それを少しでも批判すると、ネット掲示板まで含めた集中的な攻撃を浴びるという状況だ。慰安婦の強制連行の証拠はない、と発言したソウル大学の李栄薫教授は辞職を要求され、「慰安婦ハルモニ」に平身低頭して謝罪させられた。

著者(朴裕河氏)は、こうした粗暴なナショナリズムが韓国の民主主義国としての評価を傷つけているというが、普通の日本人は韓国の対日批判なんか相手にしていない。当ブログでも、慰安婦について欧米メディアがデマを流したことは問題にしたが、私は韓国のメディアは読んでもいない。気の毒だが、韓国は(この面では)北朝鮮と同様、最初から普通の民主主義国とは思われていないのだ。

ただ、これまで事実を客観的にのべるのは、日本に住む「親日派」の韓国人で、その掲載されるメディアも産経・文春系だったから、逆に韓国側は中身を読まないで「日本の保守反動勢力に取り込まれた」と断罪するだけで、コミュニケーションは成り立たなかった。その意味で平凡社という「中立的」な版元から出た本書は、ハーバード大学教授が『日本帝国の申し子』を書いたのと同様の効果をもつかもしれない。

韓国が、その近代化の遅れを「日帝36年」のせいにし、日本を攻撃することでトラウマを修復しようとするのは、旧植民地が民族としてのアイデンティティを回復するための自然な反応である。その感情に配慮しない「嫌韓流」的な言説は批判されて当然だが、著者が憂慮するほど、こうした議論は日本で影響をもっていない。「つくる会」の教科書も数%しか採択されなかった。事実に反する報道で両国の対立をあおった最大の元凶は、本書に授賞した新聞社に代表される勢力なのである。

著者でさえ、日本の「進歩派」のダブルスタンダードには疑問を呈している。彼らは「女性国際戦犯法廷」などで日本のナショナリズムを攻撃する一方、「慰安婦は女子挺身隊だった」という明白な虚偽を主張する韓国のナショナリストをたしなめるどころか、彼らを煽動して日韓の対立を激化させてきた。和解のためにまず必要なのは、朝日新聞や上野千鶴子氏たちが過去に流してきた誤報やデマゴギーを、せめて本書ぐらいの率直さで訂正することだろう。

イタリアはなぜIPTVのリーダーになったか

DailyIPTV誌の今年の回顧によると、世界のIPTVのリーダーはイタリアだ。各国のIPTVサービスが赤字に苦しむ中で、イタリアのISP、FastWebのユーザーは今年40%増、利益は60%増で、1999年の創業以来はじめて黒字になる。テレビ局と提携して地上波テレビ番組をすべてネット配信し、同時録画してオンデマンド配信するサービスまで開始した。これはHDDレコーダーをISP側にもつようなもので、視聴者は放送時間を気にしないで番組表(EPG)から選んで番組を見ることができる。

このように包括的なテレビ番組のネット配信サービスは、世界に類を見ない。放送の同時再送信はケーブルテレビや衛星放送に認められているが、オンデマンド配信についてはBGM1曲にまで個別の許諾が必要なので、この交渉が最大の障壁になっている。これに対してイタリアでは、音楽・映像などすべての権利を一括して管理する芸術家のギルド、SIAEが強い力をもっており、SIAEと包括契約すれば、個別の権利者との交渉が必要ない。ロイヤルティについても鷹揚で、「まずユーザーを増やすことが第一で、サービスが広がってから料金を取ればいい」とSIAEはいう。

これにはイタリア的な事情もある。ローマ市内全域でインターネットがダウンしても、日常茶飯事なのでだれも驚かない。借金は踏み倒すのが当たり前で、貸すのがバカだと思われている。おかげで金融市場が成立せず、家族からしか借金できないので、大企業が育たない。このようにsocial capitalがお粗末なため、イタリアはEUの最貧国に転落し、ベルルスコーニは政権から追放された。

しかし、こうしたイタリア的いい加減さが、IPTVで世界のトップランナーになった理由だ。政権と放送局とギルドなどのトップがみんな親戚だったりするので、権利関係の交渉も政界のボスがOKすれば一発で決まる。イタリアは、財産権の概念がしっかりしてないと経済がだめになるという「制度派経済学」のショーケースだが、この状況をみると情報を「知的財産権」と考えるのが間違いであることがわかる。世界中の通信業者がイタリアに視察に来るようになり、EU委員会もイタリアをモデルケースにして包括ライセンスの制度化を域内各国に勧告している。

それにイタリア人は経済成長なんか気にせず、音楽や美術や食事を楽しんでいる。「芸術はみんなのものだ」という数百年の伝統があり、作品を多くの人に見てもらうのがいいことだと考えている。その結果、IPTVが広がれば、芸術家の収入も増える。いわばユーザーがルネサンス期のパトロンのような存在として芸術を支援しているのだ。かつて近代の芸術・科学がイタリアから生まれたように、21世紀の情報文化もここから生まれるかもしれない。

日本はすべてこの逆で、あらゆる権利がクリアされて「コンプライアンス」を完璧にしない限りサービスがスタートできない。役所もテレビ局も権利者団体も、新しいサービスを妨害して既得権を守ろうとしているため、新しい産業が立ち上がらないから、日本の一人当たりGDPは世界第1位から18位に転落した。真の意味で文化を愛し、クリエイターへの「思いやり」をもっているのは、どっちの国だろうか。

文化庁vs霞ヶ関

文化庁の「ビジョン」によると、将来は私的録音録画補償金を廃止し、DRMと契約ベースで著作権処理を行なうという方針らしい。これは現在の通信(自動公衆送信)と放送を区別する法体系を残したまま、通信だけに煩雑な権利処理を強要するものだ。しかし総務省は、「情報通信法」によって放送法も電気通信事業法も廃止する方針である。つまり2010年には通信と放送の区別はなくなるのだ。それなのに文化庁だけが通信と放送を区別する法体系をつくるのは、いったいどういうわけだろうか。

このように文化庁が他の官庁と矛盾する法律をつくるのは今度が初めてではない。IP放送についても、知的財産戦略本部や経産省や総務省の反対を押し切って、わざわざ3年かけて著作権法を改正した。3年前のレコード輸入権のときは、経産省は文化庁に押されて輸入権を容認する代わりに、公取委にCDの再販制度を廃止させるという取引をしようとしたのだが失敗し、輸入権だけが通ってしまった。

文科省の中でも傍流のこんな弱小官庁が、なぜ他の全官庁の反対を押し切って横車を通せるのか、というのが会場からの質問だったが、これには長い歴史がある。1980年代にIBM産業スパイ事件などでソフトウェアの法的保護が問題になったとき、通産省はプログラム権法という法案をつくって、ソフトウェアを工業所有権として規制する方針を打ち出した。ところが、これに対してアメリカ政府が強く反対し、特にIBMは1982年に本社のCEO以下、経営陣が大挙して来日し、3日間「連続セミナー」を行なって、「世界の大勢は著作権でソフトウェアを守る方向だ。通産省案では日本は世界の孤児になる」と主張して、政財界に派手なロビイングを行なった。

IBMがこれほど著作権にこだわったのは、1964年に成立した汎用機システム/360の特許が1984年で切れるためだった。そのOSがパブリックドメインになると、世界中で合法的にIBM互換機がつくれるようになるため、保護期間が50年の著作権で守ろうとしたのである。この強大な外圧のおかげで、通産省が譲歩してプログラム権法を引っ込め、それまでコンピュータに何の縁もなかった文化庁がソフトウェアを所管することになった。当時「わが省が文化庁に負けたのは、霞ヶ関でも驚天動地の事件だった」と通産官僚は嘆いていた。

これが間違いの始まりだった。もともと神社仏閣を所管する文化庁は、情報通信のことなんか何も知らないが、アメリカの法律をそのまま輸入することによって強大な権限と予算と天下り先をもつようになった。これに対して、通産省(経産省)はプログラム権法の挫折がトラウマになり、その後はコンピュータを所管する官庁でありながら、ソフトウェアやコンテンツには手が出せない状況になってしまったのである。

今後、情報通信法が法案化される段階になると、民放連(*)と並んで文化庁が抵抗勢力になるおそれが強い。「オールIP」を前提にして通信と放送の区別を撤廃し、レイヤー別に規制する法体系が実現すれば、放送業界の独占を打破してメディアへの参入を促進し、新しいコンテンツ産業が育つ上で画期的な制度になろう。官邸(IT戦略本部)も経産省も、以前から通信・放送を一本化する方針だ。

(*)私の友人は、ある民放のワイドショーで「通信と放送の区別をなくすのは当然だ」と発言したら、レギュラーを下ろされた。

佐藤優バブル

今年のベストセラー第1位は『女性の品格』だそうだが、部数×点数で最大のベストセラー作家は、佐藤優氏だろう。今年15冊、今月だけで6冊も出している。雑誌などでも、彼の名前を見ない週はほとんどない。これは『正論』から『週刊金曜日』までカバーする彼の幅広さ(というか無節操)のおかげだろう。

当ブログでも、彼の初期の本(『国家の罠』『自壊する帝国』)は評価したが、その後、山のように出た安直な対談本はすべて無視してきた。本書は書き下ろしだというので読んでみたが、神保町から自由が丘までの30分で読了。アマゾン的に表記すると、★☆☆☆☆である(だからこの画像にはリンクを張ってない)。

「国家論」と銘打っているのに、いきなり無関係な三位一体論の解説が延々と続き、『資本論』によって国家を論じるが、その解釈は宇野弘蔵。あとは柄谷行人やカール・バルトなどが脈絡なく出てきて、結論は「日本社会を強化するには、お互いに協力しあうことが必要だ」。これほど支離滅裂で無内容な本はまれにみるので、栄えある今年のワースト1にあげておこう。

こんなひどい本ができた原因は、著者がもう「貯金」を使い果たしたためと思われる。彼が系統的に勉強したのはキリスト教だけで、社会科学の基本的なトレーニングができていない。国家論という社会科学の中でも一番むずかしいテーマを、マルクスとバルトだけ読んで語ろうとするのは、めくら蛇に怖じずというしかない。致命的なのは、マルクス理解が宇野や柄谷、廣松渉などの特殊日本的マルクス解釈に依存していて、経済学の知識がまったく欠けていることだ。

そもそも『資本論』は国家なんか論じてない(篇別構成では資本論のあと国家論を書く予定だった)し、宇野も国家については何も語っていない。廣松は『存在と意味』の続編として国家論を書こうとしたが、行き詰まって放棄した。アルチュセールも晩年に気づいたように、マルクスの国家論はヘーゲル法哲学の焼き直しで、国家を市民社会の生み出した二次的イデオロギー装置と考える点で根本的に誤っているのだ(この図式の起源は、著者のいうようにキリスト教にあるのかもしれない)。

暴力装置としての国家は、市場より古い。人類の歴史は暴力とともにあったのであり、それを抑制する「定住革命」のメカニズムの一つとして市場が生まれたのだ。ところが著者の出発点は古くさい唯物史観だから、出てくる結論も「新自由主義の生み出す格差をいかに社会的に是正するか」といった陳腐な社民主義になってしまう。これが、おそらく著者の「地アタマ」の限界だろう。もうそろそろバブルは崩壊するのではないか。

総務省にFriioを規制する権限はあるか

日経新聞によれば、総務省は地デジの番組を受信して無制限にコピーできるようにする受信機Friioを規制する方向で検討するそうだ。

しかし現在のコピーワンスはARIBという民間団体が勝手に決めた規格にすぎず、そのコピープロテクトを破ることは違法ではない(*)。またFriioはB-CASを挿入して使う機材なので、通常の地デジ受信機と変わらない。B-CASカードは他のテレビのものを使ってもよいし、オークションで買ってもよい。このカードはB-CAS社が1台ずつ「認証」することになっているが、これには何の法的根拠もない。

そもそも、このように民間企業が法にもとづかないで放送の受信や私的複製を制限するB-CASやコピーワンスは、独禁法や著作権法に違反する疑いがあるFAQ参照)。むしろFriioこそ、自由に放送を受信・複製できるようにすることによって、こうした違法の疑いのある行為を是正するものだ。

Friioは基本的にはソフトウェアであり、B-CASカードの仕様(ソフトウェア)もネットで流れているので、将来はDeCSSのようなソフトウェアがP2Pで流通し、地デジが実質的にコピーフリーになることもありうる。これは消費者のみならず、放送業界や電機業界にとっても福音になるだろう。地デジの行き詰まりやDVDレコーダーの売れ行き不振の原因になっているのは、こうした消費者の権利を侵害するコピー制限だからである。

総務省は、何を法的根拠としてFriioを規制するのか。アメリカでは、無線機にbroadcast flag機能をつけるよう義務づけたFCCの決定が「FCCには電機製品を規制する権限はない」として裁判所に却下され、確定した。今回の事件を機会に、総務省は反競争的なコピー制限やB-CASを廃止し、世界の他のすべての国と同じように、公共の放送は自由に複製する消費者の権利を認めるべきだ。

(*)細かい話はリンクを張ったITproの記事を読んでほしいが、厳密にいうと、Friioはプロテクトを破っているのではなく、B-CASカードで復号化した映像信号のコピー回数のフラグを無視してハードディスクに記録するだけだから、ARIBの規格に違反するだけで、法的には何の問題もない。

宣伝:Ascii.jp(後編)でも話したが、このように規制によってボトルネックをつくることが衰退産業の最後の収益源である。

NHK会長人事は仕切り直せ

NHKの会長人事をめぐって、混乱が続いている。現在の橋本会長が来年1月末の任期で退任するのは当然だが、その後任として古森経営委員長がアサヒビール元社長の福地氏を推したのに対して、一部の経営委員が記者会見を開いて「独断的だ」と批判し、元日銀副総裁の藤原氏を推す、異例の事態になった。あす開かれる経営委員会で12人中9人以上の賛成が得られなかった場合には、年を越す可能性もある。

この騒動についてコメントを求められたが、私は間接的にしか状況はわからない。元同僚の話によれば、これまで理事会が「脳死状態」といわれていたのが、経営委まで同様の状態になっているらしい。この背景には、もともと古森氏が「安倍元首相に近い財界人」として送り込まれ、菅元総務相のバックアップでかなり強引に合理化を進めようとしていたのに対し、橋本会長や理事が片山虎之助氏を頼りに抵抗していたという構図がある。

ところが安倍氏が退陣したため、古森氏が後ろ盾を失ったのを反対派がねらって、主導権の奪回をはかっているらしい(表に出た女性委員2人はダミーで、主役は別にいるようだ)。普通なら、ここで郵政族のボスが調整するのだが、片山氏が落選したため、司令塔が不在で、みんな右往左往している――というのが実態らしい。良くも悪くも海老沢=野中ラインで全部決まった前会長時代には考えられなかった状況だが、透明性が高まったのはいいことだ。

「財界人はだめだ」という反対派の言い分には、理由がある。1988年に元三井物産社長の池田芳蔵会長がわずか9ヶ月でやめるという失態があったからだ。このときは本人が半分ボケていて、国会で突然英語で答弁し始めるなど、資質以前の問題だった。実質的な経営は、島副会長がやっていたので、実務に影響はなかった。だから「今回も財界人はだめだ」という論理は成り立たない。

新聞も「ジャーナリズムがわからないとだめだ」などと書いているが、そんなことはない。海老沢氏のようなテレビを何も知らない派閥記者でも、7年半もつとまった。副会長に実務のわかる人がつけば、会長はむしろマスコミ業界の特殊な体質に染まっていない人がいい。前にも書いたように、NHKのような行き詰まった組織を思い切って改革するには、約束を破るメカニズムが必要なのである。一部のグループが推している永井副会長などは論外だ。

しかし「営業一筋で40年ビールを売ってきた」という福地氏が適任かどうかは、また別の問題である。いまNHKの直面している問題は、半世紀前にテレビが始まって以来の抜本改革であり、情報通信の知識が不可欠だ。BBCのトンプソン会長は「BBCはもはや放送局ではない」というビジョンを打ち出し、YouTubeにチャンネルを設けたり、番組のネット配信を始めたり、大胆な改革に取り組んでいる。

ところがNHKは、今度の放送法改正でアーカイブのネット配信が可能になったが、その体制もできていない。それどころか、多メディア展開の中心だったマルチメディア局を解散し、ネット関係の業務はバラバラに進められているのが実情だ。新しい会長には、このように分散した戦力を統合し、ネット企業としてNHKを再生させるぐらいの覚悟と見識が必要である。

ただ、これまでに名前のあがった西室元東芝社長など、ベンダー出身の財界人は無理がある。通信業界、たとえばNTTのOBなどでいい人はいないのだろうか。いずれにせよ、拙速に決めなくても、まだ1月末まで時間はある。経営委でじっくり話し合って、まず内部の意思統一をしたほうがいいのではないか。

追記:福地氏が会長に選ばれたようだ。まぁ内部昇進よりはいいが・・・

空気を読むな

宮台真司氏が、「KY」と日本の論壇の幼児性を結びつけて論じているが、私も同感だ。日本のメディアは空気によって党派がわかれ、慰安婦でも沖縄でも、初めに結論ありきで、歴史的事実におかまいなしに、朝日=岩波ムラと産経=文春ムラにわかれて罵倒の応酬が続き、論理的な論争が成立しない。たとえば『諸君!』に執筆すると、文春ムラに入ったとみなされ、そっち系の雑誌からばかり注文が来るようになる。

こういう無人称の空気こそがかつて日本を戦争に引きずり込んだのだ、と指摘したのは山本七平だが、その原因を彼は分析しなかった。私は、この謎を解く鍵は、山本が空気と関連して論じたにあると思う。といっても彼は「場の空気に水を差す」というように空気=雰囲気と対立する通常性の原理として水をとらえたのだが、ここで私がいうのは文字どおりの水、すなわち農村の水利構造である。

われわれはつい忘れがちだが、日本では50年前まで人口の半分以上が農民だった。日本の高度成長を支えたのは、こうした農村から出てきた労働者(その最後が団塊の世代)だから、彼らの行動規範は基本的に農民のエートスだった。モンスーン地帯の農業の最大の問題は水の供給である。特に日本は国土の17%しか農地がなく、しかも傾斜が急で米作には適していない。そこで米作を行なうために共同で開墾と灌漑工事が行なわれ、放置すると海に流れてしまう水を貯水し、それを田に引く複雑な水路が作られた。そこを流れる水が途絶えると稲は枯れてしまうので、緊密な共同作業で水を管理しなければならない。

そもそも各戸ごとの田というのは、江戸時代後期までなかったといわれる。「池田」とか「村田」という姓が示すように、田は村全体のコモンズで、その収穫は各戸に平等に分配された。田が各戸ごとに分割されるようになってからも、村内で水の配分をめぐって争うことは固く禁じられ、そういう秩序を乱す者は文字どおり村八分によって排除された。このコモンズとしての水を守るのが、村民の共有する空気としての掟だった。自由になるには村を離れるしかなく、それは商人などとして成功する場合もあったが、ほとんどの場合は餓死を意味した。

こういう「農耕民族論」は、かつて日本的経営の後進性を説明する論理としてよく使われたが、経済学者はこういう「文化的決定論」をバカにし、ゲーム理論などで合理的に説明するのが80年代以降、流行した。しかし最近の行動経済学や進化心理学の実証研究が示すのは、遺伝的・文化的環境の影響のほうが「合理的決定」などという仮説よりはるかに人間の行動を説明する因子として有力だということである。

だから、KYといわないとわからない空気の希薄化の原因は、かつて農村から出てきた団塊の世代と、その子孫の団塊ジュニア世代のギャップにある。農村で育ち、会社を第二のムラとして、毎朝の朝礼などによって水を共有し、他の村との「水争い」では結束して闘う強い倫理を埋め込まれた世代が、まもなく引退する。この「水不足」は、単なる労働人口の不足よりも深刻な「2007年問題」を引き起こす可能性がある。それは労働者を内的に駆り立てる労働倫理の欠如だ。

しかし私は、これを解決するのが宮台氏のいうような「新しい知識人」だとは思わない。そんな知識人の特権性は、マスメディアの没落とともに失われたからだ。かといって「群衆の叡智」なるものも、今のウェブの混乱状態をみればわかるように、当てにならない。むしろ可能性は、空気の読めない若者が増え、会社にべったり埋め込まれた水利構造を脱却することにあると思う。今はフリーターとかニートとかネガティブなとらえ方しかされていないが、彼ら団塊ジュニアが本気で親の世代に「戦争」を仕掛けることが、私の希望だ。

今年のベスト10

今年も書評を2つの雑誌で担当し、そのうち1誌は来年、足かけ10年目に突入。おまけに2つの雑誌で「今年のベスト経済書」の選考委員になったりして、すっかり書評の専門家にされそうだけど、書評以外の仕事もよろしく。ブログとの書き分けは、ちゃんとやってますので。

そういうわけで、今年もブログと雑誌あわせて100冊以上(!)の本を書評したが、今年はベストを選ぶのにそう困らない。あいかわらず主流派経済学は不作で、収穫は超オーソドックスな『資本開国論』ぐらいだが、それ以外ではおもしろい本がけっこうあった。専門書とベストセラーをはずして選ぶと、
  1. The Black Swan
  2. マルクスの亡霊たち
  3. 財投改革の経済学
  4. 1997年―世界を変えた金融危機
  5. The White Man's Burden
  6. Supercapitalism
  7. 日本軍のインテリジェンス
  8. Prophet of Innovation
  9. 人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか
  10. 宇宙のランドスケープ
1は絶対のおすすめ。翻訳も進行中のようだが、いま経済学で起こっている「不確実性革命」の震源地だ。4はその普及版。8は、こうした不確実性をentrepreneurshipとして積極的にとらえたシュンペーターの再評価。『ケインズの思想』もあわせて読むと、対立する経済学者と思われている彼が、animal spiritsに資本主義の本質を求める点ではシュンペーターと共通だったことがわかる。3は、週刊東洋経済のベスト1に推した。かなりマニアックな選択だと思ったが、意外なことに同誌のベスト1になった。

今年のもう一つのテーマはグローバリゼーションだろう。5は、世銀の元チーフエコノミストが長年のフィールドワークにもとづく「虫の眼」でみたグローバリゼーション論。6は、リベラルの書いたグローバリゼーション論としては意外に新鮮で、ヒラリー政権の対外政策を考える上でも参考になる。9は、日本人の書いたグローバル経済論としてはおもしろいが、柄谷行人やウォーラーステインなどが脈絡なく出てきて論理が荒っぽい。

あと思想史に、『ハイエクの政治思想』『トクヴィル 平等と不平等の思想家』『一六世紀文化革命』など秀作が多かった。オリジナリティという点では物足りないが、この種の解釈学はやはり日本人の得意分野なのだろう。科学ものでは、後半かなり難解な『生物と無生物のあいだ』が、こんなベストセラーになるとは思わなかった。宇宙ものとしては、ベストセラーになったランドールの本より10のほうがおもしろい。

インテリジェンスとかセキュリティが話題になったのも今年の特徴だが、学問的な評価に値するのは7ぐらい。古い本の初訳としては、『セキュリティはなぜやぶられたのか』もこの分野の必読書。佐藤優氏の書き散らしている膨大なインテリジェンス本は、繰り返しが多く、マルクス理解も古い。現代の古典となった2でも読んで、ちゃんと勉強したほうがいい。彼には茂木健一郎氏とともに、今年の「食わせ物大賞」を進呈しよう。
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