2007年08月

グーグルの最大のリスク

私がどういう人間か、あるいは何をしているかを知ろうと思えば、私のグーグルとGmailの履歴を見るのが一番だろう。そこには、私の1日の活動の半分ぐらいが記録されている。しかし私がそれを意に介さないのは、私が銀行預金をいつもチェックしないのと同じだ。こうした個人情報はすべて機械によって処理され、人間が操作したり盗用したりすることはないと信じているからだ。

しかし、この信頼には何の根拠もない。ある日、グーグルの社員が私の銀行口座のパスワードを盗んで私の全財産を持ち去らないという保証は何もない。今のところパスワードはグーグルに知られていないと思うが、クレジットカード番号は知られているかもしれない。もちろん今まで世界中でその種の事件が報じられたことはないが、それは事件が起きていないということを必ずしも意味しない。

今週のEconomist誌は、ニック・リーソンという一人のトレーダーの不正取引がベアリングズ証券という大手証券会社をつぶした事件を例にとって、「グーグルにリーソンがいない、あるいはこれから現れないというという保証はあるのか」と問うている。もちろんエリック・シュミットは「万全の対策をとっている」と答えてはいるが、その可能性がゼロとは断言できないだろう。

金融機関の歴史をみれば、その種の事件は枚挙にいとまがない。日本でいえば、大和銀行NY支店のの井口俊英というトレーダーが11億ドルの損失を出して同行をアメリカから撤退させた事件を覚えているだろう。現在のグーグルは、それぐらいのスケールの事件を起こしうる莫大な情報をもっている。今まで何もなかった(ように見える)のは幸運にすぎない。

といってもちろん、日本の個人情報保護法みたいなものを作っても何の足しにもならない。必要なのは、グーグルが今や銀行と同じような社会的インフラになったという事実を認識し、それにふさわしいセキュリティを徹底することだ。そして巨額の金銭的被害や、深刻な名誉毀損事件などが起きた場合に、検索エンジンやISPがどこまで責任を負うかという賠償責任を明確化する必要があろう。それさえはっきりすれば、この種の問題は基本的には保険でヘッジできる。危険なのは、まだそういう問題の存在さえ気づかれていないということだ。

松岡利勝と「美しい日本」

松岡利勝と「美しい日本」著者は、朝日新聞の「農業記者」のベテランとして有名だった。私が、かつて農業補助金の取材をしたときもすでに、その道の第一人者だった。そのとき取材してみて、日本の農業の実態が、著者の書いている以上にひどいものであることを痛感した。

どんな役所でも、何か必要な仕事というのはある。あの社保庁でさえ、つぶすわけにはいかないから民営化する。しかし農水省には、そういうコアとなる仕事がないのだ。農業補助金の用途を現地で取材すると、客のいない温泉ランドや「農業情報化センター」と称して使われないPCが何十台も並んでいる施設などばかり。著者もいうように、かりに明日、農水省を廃止したとしても、何の支障もないだろう。そんな官庁に毎年、3兆円以上の予算がついているのである。

松岡を一躍有名にしたのは、1994年のウルグアイ・ラウンドの「補償金」をめぐる騒動だった。このとき鉢巻きを巻いて座り込みをしたりして「戦闘隊」の先頭に立った松岡は、当初の政府案だった3兆5000億円の上積みを要求し、「つかみ金」は最終的に6兆円までふくらんだ。しかし、その内訳は不明のまま全国にばらまかれ、今に至るも何に使われたのか集計はないという。

だから松岡利勝というのは、一つの記号にすぎない。彼は官僚機構という巨大な空洞の中身をあまりにもあからさまに見せてしまっただけなのだ。しかし彼が死んでも、空洞は残る。民主党まで「食料自給率の向上」をマニフェストに掲げて補助金のバラマキを約束し、自民党もその敗戦を「教訓」にして「地域格差是正」の名のもとにバラマキを増やそうとする。そして、当の松岡を農水相に選んだ首相が「美しい国」と称して居座っているのだから。

2.5GHz帯も談合か

けさの日経によれば、2.5GHz帯に進出を表明していたアッカにドコモとTBS・三井物産などが相乗りして申請するそうだ。すでにKDDIとソフトバンクも相乗りで進出を表明しており、結局インカンバント3社すべてが他社と組んで申請することになりそうだ。

こういう「オール財界」みたいな会社で免許を申請するのは、かつて放送業界でよく見られた方式だが、WOWOWやMXを見ればわかるように、無責任体制で迷走するだけだ。どうせキャリア以外の会社はダミーなのだから、「3Gキャリアは原則禁止」という規制はやめ、堂々とオークションで決めたらどうか。アメリカでは、当ブログで既報の通り、一歩進んで電波の「水平分離」の方向に動き始めている。

WiMAXの将来は、当初期待されていたほど明るくない。世界のトップを切った韓国の"WiBro"も、1年たって端末が1万台というありさまだ。特に日本の場合は、周波数が高いというハンディキャップも大きいので、よほど思い切った特長を打ち出さないと、数メガ出るという3.9Gとやらに対抗できないのではないか。そのためには「お友達連合」の談合ではなく、インフラはオークションで単独でやらせ、その代わり端末をフリーにするというFCC方式のほうが合理的だ。

多世界宇宙の探検

量子力学とか宇宙論の本がたくさん出ているが、サイエンス・ライターの類が書いたのはやめたほうがいい。この分野では、議論はすべて実験データと数式で進められるので、そういう1次情報を理解していない素人がわかりやすい「イメージ」を書いたものは、信用できない。

では専門家が書いたものがいいかというと、必ずしもそうはいかない。リサ・ランドール『ワープする宇宙』は、前半は普通の素粒子物理学の歴史や解説だが、著者の本領である「余剰次元」の話はさっぱりわからなかった。著者は、いろいろな例をあげてわかりやすく説明する努力はしているし、翻訳もこなれているのだが、そもそも実験や数式で証明するしかない学説を図で解説してもらっても、それが正しいのかどうかはわからないし、余分な次元がかりにあるとして、so what?

その点で本書は、前に紹介したサスキンド『宇宙のランドスケープ』と同じく、人間原理をテーマにしているので、少なくとも問題は理解できる。サスキンドの本題はひも理論なので、そっちは??の部分も多いが、本書はインフレーション理論以来の宇宙論がテーマなので、ずっとわかりやすい。著者は世界の第一人者なので、まだ未解決の話も出ており、素人が中身を理解できるわけではないが、「多世界宇宙」というSFみたいな話が現代の物理学の主流になりつつあるという奇妙な状況はわかる。

それを理解しても、明日の生活に何の役に立つわけでもないが、宇宙が10500もある中で、おそらく生物が存在しうるのはこのたった一つで、しかもその(今後も含めて)数百億年の歴史の中で、生物が存在するのはほんの一瞬でしかない、という理論が21世紀の物理学の通説になるとすると、私などはパスカルの有名な言葉を思い出してしまう。
この無限の宇宙の永遠の沈黙が、私をおののかせる。――『パンセ』

冷戦―その歴史と問題点

99779979.jpg本書は、冷戦についての権威がこれまでの研究を一般向けにまとめた、いわば冷戦についての教科書である。ちゃんとした書評は、週刊ダイヤモンド(9/17発売)に書くので、それに関連して先週のブッシュ演説についての感想をひとこと:

この演説は、多くのブログで「クリントンの『不適切な関係』についての演説と並ぶ歴史的お笑い演説」との評価が定着したようだ(Slate)。ただ、本書との関連でいうと気になるのは、ブッシュが(というよりはアメリカの情報機関が)冷戦の教訓をいまだに正確に分析していないと思われることだ。

ブッシュ演説で笑えるのは、冒頭から真珠湾を持ち出して、日本軍とアルカイダを同一視し、日本には"shinto"というイスラム教なみの狂信的な国家宗教があり、占領後の抵抗は容易ではないと思われたが、実際には日本人はマッカーサーを熱狂的に歓迎した、とのべている部分だ。これはイラク開戦前に彼が「フセイン政権が崩壊したら、イラク国民はわれわれを歓迎するだろう」と言っていたのと同じだが、その予測が完全に外れたあと同じことをいっているのは、どういう神経なのか。日本人をバカにしているのか。

本書では、冷戦期に行なわれた戦争をいくつかの類型に分類しているが、印象的なのは、国家の規模と戦後処理の困難には関係がないということだ。ベトナムのような小国では、アメリカの軍事力をもってすれば傀儡政権の維持は容易だと思われたが、政権に国民の支持がないため長期にわたる内戦が続き、最後は政権が崩壊してしまった。これをタイプVとしよう。

他方、ブッシュが誇らしげにあげる日本のように、相手が大国であっても、その政権基盤がすでに空洞化してしまっている場合には、政権交代はあっけないほど簡単だった。これをタイプJとすると、冷戦の終焉で(米政府を含む)だれもが驚いたのは、ほとんどの社会主義国がタイプJだったことだ。恐れられていた軍事的衝突は、旧ソ連の内戦などをのぞいては、ほとんど起こらなかった。

どっちのタイプかは、ほとんど政権が崩壊した瞬間に、テレビに映る人々の表情でわかる。その基準からいえば、イラクは明らかにタイプVである。著者はイラク戦争には言及していないが、あまりにも有名なクラウゼヴィッツの言葉を繰り返し引用している:戦争とは、政治の手段であって目的ではない。この言葉を真に理解した政治的指導者だけが、戦争を成功のうちに終わらせることができるのだ。

新帝国主義論

最近の世界の金融市場をめぐる混乱は、それほど大規模にはならないで収まりそうだ。その基本的な原因は、先日の記事でも書いたように、現代の国際金融市場ではファイナンスの世界がリアルな世界からアンバンドルされているからだろう。

このようにアジアの製造業から流入する資本をアメリカが世界中に再投資するグローバルなケインズ主義が世界的な好況の続く原因だ、と本書はいう。アメリカが「世界一の借金王」であるとともに世界中に資金をばらまく地球帝国の中心となるこの資金循環は、ドルへの信認が崩壊しない限り持続可能だろう。

著者は、水野和夫氏と同様に、この原因を1990年代以降、世界の金融市場の規制が撤廃され、情報革命によって市場が一体化し、管理通貨制度が事実上機能しなくなったことに求める。そこにあるのは、各国が管理する国際通貨制度ではなく、グローバルに動き回るドルという世界通貨だけだ。通貨発行権は国家主権の最たるものだが、その意味では今日の先進国は、経済的には主権をなかば失った領邦の連合にすぎない。田中明彦氏のいう「新しい中世」である。

こうした帝国循環を、著者はホブソンやレーニンの帝国主義論で説明しようとするが、これには無理がある。彼らの見ていた20世紀初頭の帝国主義は、産業資本主義によって蓄積された資本が工業や農業として植民地に投資されるもので、そのためには領土の再分割が必要だったが、現代の帝国循環はアウトソーシングなどの形で行なわれるので、領土を奪う必要はない。この意味で、ネグリ=ハートのいうように、これは帝国主義ではなく帝国なのである。

この新しい帝国循環の特徴は、資本が工場のような直接投資に限らず、投資ファンドによる企業買収のような形で、収益最大化を求めて世界中を駆け巡ることだ。特に日本の資本効率の低い企業がねらわれるのは当然だ。資本自由化については経済学者にも論争があるが、日本のように資本市場が整備された国では、企業買収への規制などは撤廃し、全面的に自由化すべきだというのが、IMFの結論である。

かつての(日本企業もやっている)海外生産は、労働集約的な製品を低賃金の国でつくって輸入するものだったが、現代の情報産業では、要素技術がモジュール化して世界市場が成立し、メモリやHDDなどの部品ごとに最適の国から調達するグローバルな水平分業が成立している。かつてアダム・スミスが工場の中で行なわれるピンの生産を例に見せた分業が、グローバルに拡大したのである。

これは同時に、スミスの時代にイギリスの産業資本主義が農村の「失業予備軍」を搾取して利潤を上げ続けてきた構造が、グローバルに拡大することも意味する。著者もいうように、この点はマルクスの指摘した構造とよく似ているのだが、今回は中国とインドだけでも10億人以上の相対的過剰人口がいるから、このグローバルな搾取の構造は、少なくとも10年は続くだろう。

しかしリスク要因はある。最大の問題は、明らかに過熱している中国の経済だ。これがソフト・ランディングすればよいが、カントリー・リスクも高いので、何が起こるかはわからない。またインドやロシアなどでは、帝国循環の恩恵を受ける一部の富裕層と逆に貧困化する階層との国内対立が深まっている。こうした問題がどういう形で爆発するかは、リスクというより(Black Swan的な)不確実性の問題だろう。

On the Internet, nobody knows you're a dog?

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これはインターネットの匿名性を皮肉った1993年の有名な漫画だが、今のインターネットではアマゾンやグーグルにプライバシーを吸い取られ、下のようになっているらしい。(c)New Yorker



Special thanks to 内田勝也氏(情報セキュリティ大学院大学)

日本の統治構造

防衛省の事務次官人事をめぐるドタバタは、「痛み分け」に終わったようだが、これは笑ってすませない。そもそも事務次官の任命権は防衛相にあり、次官がそれを拒否する権利はない。それなのに次官が官邸に「直訴」するのも異常なら、官房長官がその言い分を認めて話を白紙に戻すのも異常である。それを首相が傍観していたのも、何をかいわんやだ。

こういう茶番劇をみていると、「官邸主導」の意味を首相も官房長官も理解していないのかと情けなくなる。そもそも大統領制よりも議院内閣制のほうが、本来は政治の主導力は強いのである。大統領の与党が多数党であるとは限らないが、議院内閣制の首相はつねに多数党の党首だから、指導力を発揮しやすい。それは英米を比較しただけでも明らかであり、「大統領的な首相をめざす」とかいうキャッチフレーズは、無知の表明だ。

また小池百合子氏は、憲法上は「国務大臣」であって「防衛大臣」ではない。閣僚は、内閣の一員として意思決定をするのであって、防衛省の利益代表ではないのだ。それが勘違いされているのは、本書によれば明治憲法の遺制だという。明治憲法の原則は天皇による支配だったから、天皇とは別の最高権力としての「内閣」は憲法に存在しなかった。しかし現実には、もちろん各省には大臣が必要であり、それを統率する大臣も必要だから、first among equalsとして総理大臣が置かれたのだ。

したがって明治憲法では、首相は天皇への「助言者」でしかなく、五・一五事件や二・二六事件などのテロで軍が「統帥権」を盾にとって天皇の意志を僭称するようになると、抵抗できなくなった。このため、最終的な意思決定をだれが行なうのかわからないまま、戦争の泥沼に突っ込んで行ったのである。独裁者のようなイメージを持たれている東条英機は、逆に「調整型」の能吏の典型だった。

この規定は新憲法では改められ、首相の権限は強まったが、著者のいう官僚内閣制の伝統は変わらなかった。首相は単なる内閣の長であり、各省を指揮監督する権限はなく、内閣が法案も提出できなかった。これは橋本内閣で改められたが、政策は各省が発議して各省折衝で調整し、閣議はそれを事後承認するだけという実態は変わっていない。今度の防衛省の事件は、そのお粗末な実態をはしなくも明るみに出したわけだ。

しかも問題は、緊急時には一刻を争う軍事的な意思決定にかかわる。事務次官は「背広組」とはいえ、24万人の自衛官を統率するトップだ。それが閣僚の決定に公然と反旗をひるがえす重大な事態に官邸が曖昧な態度をとったことは、文民統制も危うくする。これを機会に官邸と各省庁の命令系統を明確にし、政治のイニシアティヴを確立すべきだ。

小沢一郎氏の敗北

今回の参院選で敗北したのは、安倍首相ではなく小沢一郎氏だと私は思う。私は、かつては取材する側として20年以上前から彼の行動を見てきたが、今回の参院選とその後の対応を見ていると、彼はかつての小沢氏と同一人物だとは信じられないほど変わってしまったからだ。

特に驚いたのは、先週のシーファー駐日米大使との会談で、テロ特措法の延長に反対したことだ。小沢氏は、自民党では対米関係に強い政治家として知られ、日本は「普通の国」になるべきだとする改憲派だった。湾岸戦争のときは、自民党の幹事長として「憲法」や「国連」などの神学論争ばかり続く国会を押し切って、90億ドルの「国際貢献」を実現した。その彼が、今度はその国連や憲法を持ち出して社民党みたいな議論をするのは、小池防衛相のみならず、身内の前原氏からも批判されて当然だろう。

ただ、ある意味では彼の行動は選挙前から一貫している。マニフェストで農家への所得補償を掲げたのは、勝敗の鍵を握る一人区へのバラマキだろうし、消費税の増税を引っ込め「子供手当」の創設を掲げたのは無党派向けのポピュリズムだろう。しかも、こうした政策に必要な15兆円以上の財源を「行政のスリム化」で捻出するというのも、かつての社会党の論法と同じだ。要するに「何でも反対」で安倍政権を追い詰め、解散に追い込もうというのだろう。

小沢氏の行動には、奇妙な二面性がある。彼が、かつてEconomist誌に寄稿したとき、同誌は「このように論理的な日本の政治家を初めて見た」と評した。羽田政権の末期に社民党が復縁を求めてきたときは、「烏合の衆の与党になるよりは下野する」として妥協を拒否した。これは結果的には自社さ政権を生んだ大失敗だったが、彼はのちに「まさか自民党が社民党委員長に投票するとは思わなかった」と述懐していた。分裂の続く新進党を解散して自由党に「純化」しようとしたのも、同じような原則的な性格による失敗だ。

他方で、すべてを政局の論理であやつろうとする面もある。細川政権の崩壊したあと、渡辺美智雄氏を自民党から離党させて党首にかつごうとしたり、海部俊樹氏を首相候補にしたり、「自自連立」で自民党をかき回そうとしたりした戦術はすべて失敗に終わった。特に自自連立は、自公連立与党の多数派を固定し、政権交代をさらに困難にしてしまった。このように独断で「奇策」によって政局を動かそうとする性癖が、側近の離反をまねいた。

1993年に『日本改造計画』を書いたころの小沢氏には、バブルとともに崩壊した「日本型システム」をサッチャー=レーガン流の新自由主義によって改革し、規制を撤廃して個の自立をうながすという明確なビジョンがあった。ところが細川政権はわずか9ヶ月で終わってしまい、日本はバブルの処理と称して、かえって莫大なバラマキを続けた。そしてこれを是正したのは、小泉氏の「構造改革」だった。小沢氏の出番は、なくなってしまったのである。

そこで小沢氏は、とにかく政権交代を実現するには手段を選ばないという方針をとったわけだ。結局、彼は「原則」の人ではなく「政局」の人だったのだろう。健康不安を抱える彼としては、やはり死ぬまでに一度は首相になりたいのかもしれないが、国民にとってはそんなことはどうでもいい。参院で民主党が「何でも反対」して安倍政権が行き詰まり、解散・総選挙で「民主・社民連合政権」が誕生する、という悪夢は御免こうむりたいものだ。

新東京タワー

東京タワーに代わる「新東京タワー」が来年着工され、2011年までに完成する予定だ。著者は、新タワーの予定地から1kmほどのところに住む人で、以前から何度も相談を受けた。彼の最大の心配は、強い電波を毎日あびることによって、健康被害が出るのではないかということだった。

電波の健康被害については、携帯電話についてかなり詳細な調査が行なわれており、問題はないという結果が出ているが、東京タワーから出る電波の強さは、それとは桁違いである。現在の50kWという出力は、展望台の電子機器はすべて使い物にならないぐらいの強烈な電波で、近所の住人にも頭痛や手足のしびれを訴える人がいる。特に懸念されるのは遺伝子への影響だが、今のところ「不明」という結論しか出ていない。

さらに根本的な問題は、新タワーが必要なのか、ということだ。今でも地デジは東京タワーから放送されており、特に不都合はない。「新タワーは高いので遠くまで電波が飛ばせ、エリアが広がる」というのも嘘である。関東で電波の飛ばせるエリアは決まっており、それ以上に飛ばすことはできない。難視聴世帯にはケーブルテレビなどで送信しており、そのカバー率はほぼ100%である。これ以上カバー率を上げることはできない。

要するに、新タワーの目的はワンセグの視聴範囲を広げるためなのだ。ワンセグのアンテナ(携帯電話)は地上近くにあるため、タワーが高いほうが受信しやすくなる。しかし、ワンセグはテレビ局の収入源にならない。NHKは受信料を取れないし、視聴率も出ないからだ。番組もサイマル放送だが、総務省は、来年からは別内容の放送を認める方針だという。これはなし崩しに既存テレビ局にもう1波与える不公正な電波割当だ。

しかも実は、新タワーの建設は、まだ正式に決まっていない。肝心のテレビ局が新タワーに移るかどうか「検討中」だからだ。500億円の経費をかけてタワーを建てるのは東武鉄道で、テレビ局はそれを借りるだけだ。店子が建設の決定権をもっているのも奇妙な状況だが、事務局のフジテレビがほとんど単独で交渉を進めている状態で、テレビ東京の菅谷社長は「今の東京タワーを高くするほうが現実的だ」と発言している。

タワーの位置を変えると、中継局やケーブルテレビの共聴アンテナもすべて変更しなければならない。その総工費は、タワーの建設費より高いという。この期に及んでもテレビ局が意思決定をしないのも、予想以上に経費がふくらむことが判明したからだ。

つきつめると、著者もいうように「そもそも地デジって必要なのか」という問いにたどりつく。通信衛星を使えば200億円でできる放送を1兆円以上かけて進め、貴重なUHF帯を300MHzも浪費して行なわれる地デジって、いったいだれのためのプロジェクトなのか。停波するなら、地デジを止めてUHF帯を無線インターネットに開放したほうがいいのではないか。


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