2006年11月

いじめのニュースはもう沢山だ

先日、海外出張から帰ってきて感じたのは、日本のテレビの異様さだった。どこの国でも、テレビニュースには基本的な順序があって、ラムズフェルド国防長官が辞任したときは、CNNのトップはいつもラムズフェルド関連ニュースだった。子供の自殺のような「町ネタ」は、取り上げるとしてもずっと下というのが常識である。ところが日本では、NHKの19時ニュースまで、最初からいじめと自殺の話。おまけに、それが学校教育と因果関係があるのかないのかよくわからないのに、校長が出てきて記者会見で頭を下げる。朝日新聞は1面で「いじめられている君へ」というシリーズを連載する。

これは日本のメディアの特殊性と関連する。たいていの国では、全国メディアと地方メディア、あるいは高級紙と大衆紙は歴然とわかれていて、前者には子供の自殺のようなニュースはほとんど出ない。後者(数の上では圧倒的多数)には大きく出るが、それはその国の世論の代表だとは思われない。ところが日本では、全国紙が数百万部も出ているので、高級紙と大衆紙の性格が混在しているのである。

その違いは、社内では政治部・経済部・社会部という日本独特の区分にあらわれる。社会部は、記者の数では全体の半分以上を占めるが、政治部・経済部は社会部を一段下に見ている(朝日新聞の社長は、政治部と経済部の出身者が交替でつとめているほどだ)。メディアの「顔」になるのは政治記事だが、視聴率が取れるのは「社会ネタ」だ。社会ネタが政治ネタに勝てるのは、人が死ぬニュースである。それも異常な死に方ほど大きく扱われる。大人の鬱病による自殺はベタ記事にもならないが、子供の自殺は大ニュースになるから、社会部記者は張り切るのだ。

しかしニュース価値は稀少性で決まるので、絶対的な重要性を必ずしも反映しない。水よりダイヤモンドのほうが高価だからといって、ダイヤモンドを公的に供給すべきだということにはならないように、鬱病で毎年1万人以上が自殺していることは深刻な問題であり、対策が必要だが、年間数十人しかない子供の自殺はマイナーな問題だ。その理由も不明であり、いじめ云々というのは大人が後からつけた理屈にすぎない。

もういいかげんに、この「祭り」はやめてほしい。自殺する子供を英雄扱いすることが、自殺の連鎖をまねいていることは明らかだ。他人の不幸を商売にするメディアが騒ぐのはまだわかるが、政府まで出てきて、教育再生会議で「いじめはやめろ」などと緊急提言するのは、スタンドプレーとしても滑稽である。

現代は「情報大航海時代」か

経産省の日の丸検索エンジンの正式名称は、「情報大航海プロジェクト」という。その心は、人々が情報の大海で迷わないように針路を示す羅針盤になるということらしい。明日のICPFセミナーでは、これについて経産省の久米さんに話してもらうが、このついでに大航海時代について調べてみた。最初に、この入試問題を解いてみてほしい:
「地理上の発見の時代」という用語は問題があるという理由で、「大航海時代」と言い替えられることがある。「地理上の発見の時代」という用語はどういう理由から批判されると考えるか。50字以内で述べよ。(東京学芸大・1989)
答を50字以内で述べると、「アメリカ大陸には先住民がいたのだから、西洋人が新大陸に到達したことを発見と呼ぶのはおかしい」。つまり大航海時代というのは、「差別語」を避けるためにつくられた言い替えなのである。それでも、この言葉が西洋の自民族中心主義にもとづくことに変わりはない。「大航海」の時代は、先住民からみれば西洋人による「侵略の時代」であり「植民地化の時代」だった。

それよりも問題なのは、このメタファーが、征服すべき「新大陸」の存在はあらかじめわかっており、正確な羅針盤と国家の資金援助さえあれば、コロンブスのような大発見が保証されていると示唆していることだ。重要なのは、大陸を発見することよりもそれを経営することである。初期に新大陸を発見したスペインやポルトガルは、結果的には衰退し、北米はイギリスの植民地になった。それは欧州の戦争でイギリスが勝ち、植民地経営を国内経済に組み込む資本主義というシステムをつくったからである。

情報の海も、ただ大航海するだけでは何の意味もない。グーグルの本質的なイノベーションは、数十億ページを検索する技術ではなく、それによって年間1兆円近い広告収入を上げるビジネスモデルである。検索広告のような「すきまビジネス」がここまで大きくなることは、誰も(おそらくグーグルの創業者たちも)予想していなかった。やみくもに検索の効率を上げているうちに「新大陸」にぶつかっただけだ。

情報大航海プロジェクトも、国営検索エンジンをつくれば、いくらでも検索はできるだろう。しかし重要なのは技術開発ではなく、ビジネスモデルを開発することである。政府が関与すると、収益が上がるかどうかという肝心の問題が検証できない。いまグーグルが行っているのは、かつて物的資源を財産権で囲い込んで収益を上げる資本主義が発見されたように、情報を囲い込まないで持続可能な経済システムが存在するのかどうかという歴史的な実験である。それが存在するのかどうかはあらかじめわからないし、コロンブスのようにインドだと思ったら新大陸だったということもあるかもしれない。

要するにわれわれは、正確な羅針盤さえあれば、あらかじめわかっている答に到達するという意味での「大航海時代」にはいないのである。かつてグーグルがバナー広告を出し抜いたような「破壊的イノベーション」を見つけるには、多くの企業が(一見ばかげた)ビジネスを立ち上げるオプションを拡大し、「多産多死」によって解を見出すしかない。そのための資金調達の改革などのフレームワーク政策も経産省が進めているが、日の丸検索エンジンのようなターゲティング政策は、それと矛盾するものだ。省内でも批判が多いようだから、予算がつく前にちゃんと議論したほうがいいのではないか。

議論に参加したい方は、明日のセミナーにどうぞ。席はまだあります。

日本の論点 2007

文藝春秋編

文藝春秋

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毎年恒例の『日本の論点』に、私も執筆した(地デジについて)。この種の企画は、いつも「朝日新聞vs文芸春秋」の延長戦ばかりで興味がないのだが、さすがにそういう話題を好む読者層が高齢化してきたため、格差社会とかITとか、幅を広げようとしているようだ。執筆者も、「いかにも進歩的知識人」という人や「いかにも右翼」という感じの人は少なくなったが、そのぶん論争の温度も低くなっている。

気になるのは、松原聡氏が通信・放送懇談会で「NTTのアクセス部分を本体から機能的に分離し、さらに現在、持株会社の下にぶら下がる形になっている四つの事業会社を独立させるべきとの提言をまとめた」とのべていることだ。これは事実に反する。懇談会の最終報告書では、「機能分離」と「資本分離」が両論併記になり、それも自民党の片山虎之助氏(通信・放送産業高度化小委員長)との調整で2010年に先送りされた。そもそも、この懇談会の出発点は「現在のNTTの経営形態は電話時代の区分で、インターネット時代にはそぐわない」ということだったはずだ。それを今ごろ電話時代のまま資本分離せよというのは、座長が懇談会の議論を理解していなかったことを示している。

ワースト1は、松原隆一郎氏の「民間に不要な費用負担を強いる『小さな政府』論は虚妄である」という記事だろう。彼は、当ブログでも取り上げた国民負担率などの周知のデータをあげて、「日本は小さな政府を目ざすべきではない」ことを力説する。では、どうすればいいのかといえば、「適正な政府」を目ざすべきなのだそうだ(笑)。こういう人物が、駒場では経済学を教えているというから、東大生の学力低下が心配だ。

英音楽産業が提案する「包括ライセンス」

TechCrunchで、Peter Jennerが批判されている。彼はピンク・フロイドやクラッシュなどを世に出した大物プロデューサーで、問題の発言はイギリスの音楽業界の著作権法改正への提案にそったものだ。その趣旨は「音楽産業は、このままでは絶滅する。DRMもP2Pで大量にコピーが流通している状況では役に立たないので、ISPや携帯キャリアなどに課金し、それをプールしてミュージシャンに比例配分しよう」というものだ。料金は、TechCrunchによれば、キャリアあたり1ヶ月4ユーロぐらいだという。

たしかに、この提案はかなりずさんで、TechCrunchが「音楽税」だと批判するのもわかるが、正確にいうとこれは税金ではなく、BBCのライセンス料のような私的契約である。しかもJennerの話の重点は、課金よりも包括ライセンス(blanket license)のほうにある(これは私が先日の記事で紹介した「強制ライセンス」と同じものだが、この名前はよくない)。これは1曲ごとに許諾するのをやめて流通は自由にし、大口ユーザーから定額の利用料を取る方式で、放送局では行われているが、それをインターネット配信にも拡大しようというわけだ。

おもしろいことに、音楽産業とは対極の立場にあるEFFが同じような提案をしている(彼らはVoluntary Collective Licensingと呼んでいる)。これは音楽産業がユーザーと集団的な契約を結んで、ひとり毎月5ドル徴収するものだ。アメリカでは、P2Pユーザーは訴訟の脅威にさらされているが、この契約を結ぶことによって訴訟からまぬがれるというわけだ。しかし音楽産業は、この提案に「定額料金は市場メカニズムの否定だ」と反対している。

最大の問題は、こうして集めた著作権料をミュージシャンにどう分配するかということだ。サンプリング調査をして、ダウンロードされた回数に応じて比例配分するということになっているが、そういうしくみは放送局でも機能したことがない。この点は、Jennerも「巨大なブラックボックス」ができるおそれがあることを認めているし、EFFも「透明性が重要だ」としかいっていない。日本では、これをJASRACがやるようでは、だれも信用しないだろう。

ただ重要なのは、音楽産業の側から許諾権をみずから放棄する提案が出てきたことだ。経済学的にいうと、著作権はコントロール権とキャッシュフロー権にわけられるが、ビジネスにとって重要なのは後者であって、前者は必要条件ではない。許諾権を放棄することによって多くのコンテンツが流通し、その結果多くのキャッシュが得られるならば、そのほうがビジネスとしては賢明だろう。この種の提案の最大の難点は、音楽産業が乗ってこないことだったが、P2Pが彼らを追い込んだ結果、状況が変わってきたわけだ。EFFのようなユーザー側からの提案との接点はあると思う。

追記:同様の提案は、ハーバード大学のバークマン・センターが以前から行っており、William Fisherの本にまとめられている。しかし、これは文字どおり政府が「音楽税」をとるもので、賛同者は少ない。

憂鬱な科学

経済学が"dismal science"と呼ばれることはよく知られているが、その意味はあまり知られていない。普通これは、トマス・カーライルがマルサスの『人口論』を批判した言葉だと思われているが、実はカーライルの著作にそういう言及はない。彼がこの言葉を使ったのは、1849年の奴隷制に関する評論である。彼はそこで「この世界の秘密は需要と供給にあるとし、支配者の義務を個人の選択に帰着させる社会科学」をdismal science(つまらない学問)と呼んでいる。当世風にいえば「労働力を供給するには市場原理主義にまかせていてはだめで、(奴隷制のような)規制が必要だ」といっているわけだ。

憂鬱になるのは、カーライルから160年たっても、同じような「経済学批判」が繰り返されていることだ。もちろん今では奴隷制を擁護する人はいないが、市場よりも国家の力を信じる人は多い。そういう人々がいうのは、「経済学は非現実的で、役に立たない」ということだ。たしかに経済学は、実証科学といえるかどうか疑わしい。たとえば新古典派経済学のコアである一般均衡理論の主要な結論(均衡の存在や一意性など)は完全競争や完全情報などの強い条件に依存しているが、そんな状況はどこにも存在しないから、自然科学の基準でいえば、新古典派理論は棄却されてしまうのである。

70年代には、こういう限界を突破しようとして、「ラディカルエコノミックス」とか「ソシオエコノミックス」などというのが試みられたが、すべて失敗に終わった。経済学が他の社会科学に比べて見映えするのは、人間の行動を条件つき最大化問題に単純化することによって、古典力学の体系をそっくりまねることができるからであって、「学際的」に風呂敷を広げると、曖昧な「お話」になって収拾がつかなくなってしまうのである。そういう失敗の残党は、西部邁氏を初めとして、みんな国家の市場への介入を求める自称保守主義者になった。

80年代以降の経済学でもっとも成功したのは、むしろ人間の行動を徹底的な合理主義で記述するゲーム理論だった。それを応用した契約理論も、企業理論や金融理論に大きな前進をもたらした。かつて社会学的にしか語られなかった「制度」の問題を、合理的に分析するツールができてきたのである。これもよくできたお話にすぎないが、仮定が明確なので、どういう場合に成り立つのかという限界がはっきりしているだけ、政治学や社会学のお話よりもましだ。

これに対して、「市場原理主義」を批判する人々のふりかざすお話はお粗末だ。たとえば金子勝氏は単に経済学を知らないだけだし、佐和隆光氏は「収穫逓増」の概念さえ理解していない。しかし世の中的には、彼らの「グローバリズムが格差を拡大した」という類のお話のほうが受けてしまう。経済学は、実証的なチェックを欠いたまま数学的な(見かけ上の)厳密性を高めてきた結果、現実との距離が広がりすぎて、市場以外の複雑な問題について何もいえないからだ。

このように経済学は、いまだにdismal scienceの域を脱することができない。それが世の中に認知してもらうために必要なのは、数学的なお話のテクニックを競うことではなく、複雑な現象を合理的に説明する実証的な分析用具を開発することだろう。物理学の理論には、自然界の真理を解明するという本質的な意味があるが、経済学は現状分析や政策決定のための応用科学にすぎないので、理論的な「美学」を追求するのはナンセンスである。

イスラーム帝国のジハード

小杉 泰

講談社

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イスラムというのは、わかりにくい。キリスト教の場合には、多かれ少なかれ日本人もキリスト教的な文化にふれているので、なんとなくわかった気になるが、イスラムについては、その文化的背景がまったく異質なので、あの特殊な教義がなぜこれほど広範な地域に普及したのか、よくわからなかった。しかし本書で、それがやっと少しはわかったような気がする。

イスラムがわからない一つの原因は、それをキリスト教と同じような「宗教」と考えるからだろう。実際には、それは宗教であると同時に法であり、イランの指導者ホメイニやハメネイも法学者である。イスラムが世界に広がったのは、それが宗教として深遠だったからでも現世利益があったからでもなく、この宗教=法による結束の強さが軍事的にきわめて強力であり、征服によって多くの民族をその版図に入れたからである。

戦争にとってもっとも重要なのは、著者も指摘するように「共同体のために命をかけて戦えるかどうか」である。合理的に考えれば、自分が死んでしまえば共同体がいかに栄えても意味がないので、戦争に参加するには何らかの意味での狂気が必要である。国家というのは、そうした狂気を生み出す「戦争機械」であり、もっとも強力な狂気を生み出した国家が栄える。イスラムは、人々を政治的=宗教的に「垂直統合」することによって兵士の強いコミットメントを実現したのである。

戦争に勝つもう一つの要因は、国家の規模である。戦闘では多くの軍勢を動員したものが勝つので、伝統的な村落や都市国家は軍事的には弱い。イスラムは、その普遍主義的な教義によって部族の枠を超えた帝国を実現し、他の民族を征服した。しかし、こうした宗教的統合に依存した垂直統合型の帝国は、大きくなりすぎると求心力が弱まる。末期のオスマン帝国は、宗教も言語もバラバラだった。

イスラムが衰退したのは、それよりも強力な戦争機械である西欧の主権国家に敗北したからである。主権国家は、イスラムと違って世俗的な政治・経済システムをキリスト教と「水平分離」して科学技術を発展させ、強力な武器を開発した。その兵士を駆り立てるのは、宗教に依存しない「愛国心」という狂気である。それを「郷土や伝統を愛する心」などと言い換えるのは偽善であり、愛国心は「国家のために命をかける心」にほかならない。よくも悪くも、こうした狂気の強さが国際秩序を決めているのである。

ピーナツバター宣言

米ヤフーの株価が急落している。年初から40%も下がって、時価総額でグーグルの1/4まで落ち込み、社内では危機感が広がっている。それを示すのが、WSJが「ピーナツバター宣言」としてすっぱ抜いた内部文書だ:
当社の戦略は、オンラインの世界で進化し続ける無数の機会にべったりとピーナツバターを塗りたくるようなものだと聞いたことがある。その結果、事業のすべてにわたって薄く広く投資し、どこにも特別な焦点がなくなるのだ。
これを書いたのは、上級副社長のBrad Garlinghouse。彼はヤフーの欠陥として、次の3点をあげている:
  • 焦点のはっきりし一貫した企業理念の欠如
  • 信賞必罰と説明責任の欠如
  • 意思決定の遅れ
まぁ大企業病の症状としては当たり前で、その処方箋にも意外性はないが、幹部がそれを自覚しているところが救われる。日本では、885社も連結子会社を抱え、550億円も赤字を出して株価がボロボロになっても、社長がまだ「シナジーの創出」を訴えている会社があるのだから恐れ入る。ちなみに、この会社の従業員数は連結でグーグルの40倍だが、時価総額は1/8である。日本のどこに「市場原理主義」や「株主至上主義」があるのか、見せてほしいものだ。

追記:TechCrunch日本語版に、この宣言の和訳が出ている。これは派閥抗争にからんでいるようだ。

携帯電話が本当に「0円」になる日

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スカイプが、無線IP電話の端末と無線LANルータのセットを発売した(欧米のみの発売だが、端末だけなら日本でも発売されている)。目をひくのは、スカイプが基地局としてFONの無線ルータをバンドルしたことだ。これは無線ルータで公衆無線網を実現しようというスペインのベンチャー企業で、グーグルのサンフランシスコの実験をサポートし、スカイプとグーグルがFONに出資して注目された。

FONのシステムは、もともとソフトウェアで、これをダウンロードすればユーザーの無線ルータをFONの基地局にすることができる。これを無料で公開する代わりに他人のルータも無料で使えるLinusコースと、ルータを有料で使わせて収入をFONとシェアするBillコース、そしてルータを持たず他人のルータを有料で使うAlienコースがある。このルータも30ドルで売っており、今回のスカイプのセットは、端末とルータをあわせて160ドル。これをペアで持ち運んでインターネットにつなげば、どこでも無料で携帯電話がかけられる。

スカイプはすでにIP電話の世界標準になりつつあるので、インフラとしてFONのシステムが標準になれば、コア・ネットワークとしては有線のインターネットに「ただ乗り」でき、携帯電話は本当に「0円」になる。エリアを広げるには、グーグルがその無料パックにFONのソフトウェアを加えるだけでも十分インパクトがあるだろう(スカイプはすでに入っている)。

FONが成功するかどうかはわからないが、今のバカ高い携帯料金も固定電話のような「価格破壊」の洗礼を受けることは避けられない。今後の電話サービスは、どこでもつながるが高価格の携帯電話とエリアは限定されるが0円の無線IP電話の競争になるだろう。デュアル端末も出てくるだろうが、長期的には後者のエリアが広がれば、IPの勝利に終わる可能性が高い。最後の垂直統合モデルである携帯電話が解体されれば、音声・映像を含めてすべてのサービスはアプリケーション層で実現され、キャリアは電力会社のようなユーティリティになるだろう。

追記:アップルのiPodに無線IP電話を組み込んだiPhoneが、来年1月のMacworldで発表されるという噂もある。ただし、これは普通の携帯電話になる可能性もあるようだ。

追記2:FONの創業者Martin Varsavskyが12月4日に来日する。

Milton Friedman

ミルトン・フリードマンが死去した。NYタイムズWSJだけでなく、日本の新聞まで1面で報じている。経済学者の死がこれほど大きなニュースになることは、おそらく空前絶後だろう。

私の学生時代(1970年代)には、日本の大学ではまだフリードマンは極右の特殊な学者という位置づけで、宇沢弘文氏などは口をきわめて批判していた(*)。しかしケインズ派とシカゴ派の論争は、理論的にも実証的にも70年代にほぼ決着し、80年代にはシカゴ派よりもさらに過激な「新しい古典派」が学問的には主流になった。ところが東大では、宇沢氏が「合理的期待一派は水際で阻止する」と公言して、そういう研究者を東大に帰さなかったため、日本ではケインズ派がながく生き残り、90年代には巨額の「景気対策」が行われた。

現実の政治でも、80年代にはサッチャー首相やレーガン大統領がフリードマンの理論を政策として実行したが、日本ではその理論さえ知られなかった。日本で「新自由主義」的な政策を提案したのは、小沢一郎氏である。1993年に細川政権が誕生したときは、日本でも10年遅れで改革が始まるかと思われたが、非自民連立政権は1年足らずで倒れ、自社さ連立という奇怪な政権ができたため、政策の対立軸が混乱した。小沢氏が『日本改造計画』で構想した改革は、小泉政権でやられてしまい、今度は小沢氏が社民的な「格差是正」を訴えるという奇妙な役回りになっている。

しかし、これは偽の争点である。日本では、英米で行われたような改革は、ほとんど行われていない。郵政や道路公団の民営化は、改革の名には値しない。政府の役割を洗い直して「福祉国家」を卒業することは、先進国が一度は通らなければならないステップだが、それを中途半端に終えたまま、自民党は昔の姿に戻ろうとしている。いま民主党は来年の参院選むけマニフェストを作成しているようだが、対立軸として打ち出すべきなのは90年代の小沢氏の原則である。

40年前の『資本主義と自由』を読み返すと、そこでフリードマンが提案している政策が、今でも新しいことに驚く。変動相場制は、この本で提案されたときはほとんど笑い話だった。公的年金の廃止は年金改革のなかで論じられ、法人税の廃止はブッシュ政権の政策として提案された。負の所得税は、アメリカでは勤労所得控除として部分的に導入されはじめた。教育バウチャーは、ようやく安倍政権で検討が始まっている・・・こう列挙すると、彼の提案はほとんど未来的である。

日本は市場志向の改革の洗礼も受けていないのに「市場原理主義」を罵倒する自称エコノミストがいるが、そういう人々にはフリードマンの本を読んでほしいものだ。『選択の自由』は、内容的には『資本主義と自由』の二番煎じだが、文庫で出ているので、この機会に一読をおすすめする。

(*)宇沢氏がいつも言っている「フリードマンがポンドの空売りを試みたので、フランク・ナイトが彼を破門した」というゴシップは嘘であることを田中秀臣氏が検証している。

「NHKオンデマンド」の幻想

NHKの和田郁夫氏が、マイクロソフトやIIJなどあちこちのイベントで、NHKの過去の番組をネット配信する「NHKオンデマンド」を2008年から始めると宣伝している。関連業界が期待するのも無理はないが、現実にはこのサービスにはほとんど中身がない。川口市にある「NHKアーカイブス」に行ってみればわかるが、60万本以上ある番組の中で、見られるのは6000本足らず。それも館内で(無料で)見られるだけで、有料でネット配信するには別途また許諾と著作権料の支払いが必要だ。

その原因は、番組のネット配信について著作権の処理ができていないからだ。番組の著作権はNHKにあるが、脚本家、出演者、さらにBGMのレコード会社などにも著作者隣接権があり、これらの関係者がすべてOKしないと再送信できない。特にNHKの場合には、ドキュメンタリーで取材した人々の肖像権をクリアしなければ配信しないという独自の基準を設けているため、処理コストは禁止的に高い。たとえば水俣病を扱った有名なドキュメンタリー「奇病のかげに」を再放送するため、この番組をつくったスタッフの取材メモを見て登場人物(ほとんど死亡)ひとりひとりの家族に了解をとったという。これではマイナーなオンデマンド配信では、とても採算はとれないだろう。

ケーブルテレビ(有線放送)の場合には、CATV局が著作権者(放送局)と包括契約を結べば隣接権者との契約は必要ないのに、通信(ネット配信)ではBGM1曲ごとに許諾が必要だというのは、制度として非対称である。電気通信役務利用放送法ではIPマルチキャストを放送と規定しているのに、著作権法(の文化庁による解釈)では通信(自動公衆送信)に分類しているのは、縦割り行政の弊害だ。知的財産戦略本部でさえ、これを是正するよう提言したが、文化庁は権利者の抵抗を理由にして、IPマルチキャストによる放送の同時再送信に限って有線放送と同じ扱いにする中途半端な著作権法改正を決めた。オンデマンド配信については、包括契約は認められない。

だから問題は配信技術でもなければ、NHKのネット配信規制でもない。和田氏は、来年この規制が廃止されれば自由にオンデマンド配信できると思っているのかもしれないが、最大のボトルネックは著作権なのだ。オンデマンド配信で採算がとれるようにするには、著作者(および隣接権者)に拒否権を認めないで定額の料金を支払う強制ライセンスの制度を導入し、肖像権などの「権利のインフレ」に歯止めをかける必要がある。そもそも「創造のインセンティブ」という観点から考えると、肖像権などというものは認めるべきではないのだ。

一部の音楽評論家などが「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」なるものを設立したようだが、「アンチ延長派ではない」という人物まで発起人になっているこの団体は、いったい何なのか。テーマを保護期間の延長というマージナルな問題に限って、今ごろから両論併記で「国民的な議論」を呼びかけるという腰の引けた姿勢では、とても闘いにはならないだろう。著作権がネット配信のボトルネックになっている現状を打開するには、強制ライセンスを創設することを含めて、現在の著作権法の枠組そのものを考え直すことが必要だ。



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