2006年09月

岸信介の影

安倍首相には、いつも祖父、岸信介の影がつきまとう。安倍氏のいう「戦後レジームからの脱却」も、占領軍に押しつけられた憲法を改正しようという岸の路線への回帰だと思われるが、ここにはパラドックスがある。戦後レジームをつくったのは、他ならぬ岸だからである。

岸のキャリアを決定的に決めたのは、満州国である。彼は1936年に、国務院実業部総務司長として満州国に赴任し、東条英機や松岡洋右などとともに、国家統制のもとに重化学工業を中心とするコンツェルンをつくって工業化を進めた。このときの計画経済的な手法の成功体験が、のちの国家総動員法にも生かされる。

岸が思想的にもっとも強い影響を受けたのは、北一輝の国家社会主義であり、「私有財産制には疑問を持っていた」とみずから語っている。彼の建設した満州国の「五族協和」の思想も、大川周明の大アジア主義の影響であり、これが大東亜共栄圏の思想的骨格となった。要するに、岸の本来の思想は、自由経済や親米路線という自民党の党是とは対極にあったのだ。

岸は東条内閣の閣僚として国家総動員体制を指導し、これによって戦後、A級戦犯容疑者となったが、不思議なことに起訴されなかった。この原因には諸説あるが、GHQの諜報部門(G2)がマッカーサー元帥に「岸釈放勧告」を提出したことが確認されており、釈放と引き換えに岸から情報提供を受けるという取引があったとも推定される。だとすれば、日本はアメリカへの「情報提供者」を首相にしたことになる。少なくとも岸がアメリカに屈服したことによって、日本は「自主憲法」を放棄して対米追従に転換したのである。

岸を頂点とする満鉄人脈は、戦後の経済安定本部の中核となった。戦後復興でとられた「傾斜生産方式」は、戦前と同じ総動員体制によって工業化を行う統制経済の手法であり、これが戦後の経済体制の骨格となった。このとき経団連の会長として民間企業をまとめる役割を果たした植村甲午郎も、商工省で岸の腹心だった。戦後復興が終わった後も、この手法は通産省の産業政策に受け継がれ、「日の丸検索エンジン」にみられるように、今も再生産されている。

このように岸のつくった戦後レジームは、戦前の満州国から連続しており、それは日本の官僚機構の基本構造でもある。安倍氏が戦後レジームを否定するとき、念頭にあるのは、サッチャーやレーガンが英米の「福祉国家」を否定して「小さな政府」に舵を切った歴史だと思われるが、日本の戦後を支配してきたのは、ケインズ的な福祉国家ではなく、岸に代表されるマイルドな国家社会主義なのである。それが現在の日本で通用しないことは確かだが、これを脱却する課題は単純ではない。

「押しつけ憲法」を改正しようというのは、本質的な問題ではない。軍事・外交的な自主権をアメリカに奪われている状況は、占領時代と大して変わらないからだ。独自の「自衛軍」を持つという主張も、自衛隊が米軍に組み込まれようとしている現在では、あまり実質的な意味があるとも思われない。いま行き詰まりに逢着しているのは、戦後できた制度ではなく、岸に代表されるように戦前から続く官僚統制の思想なのだ。

だから問題の淵源は、戦後ではなく明治にあり、重要なのは、「憲法は花、行政法は根」という岩倉使節団の結論にもあるように、憲法よりも行政法だろう。この「明治レジーム」の遺伝子は、敗戦によっても断絶せず、「昭和の妖怪」とよばれた岸に象徴されるように、日本の政治経済システムを呪縛し続けてきた。それを変える立場におかれているのが、文字どおり岸の遺伝子を受け継いでいる安倍氏だというのは皮肉である。彼が戦後レジームに代わる新しいレジームを描けず、所信表明ではそれを引っ込めてしまったのも、そのせいではないか。

P2Pと「インフラただ乗り」

Winnyの作者、金子勇氏が、きのうICPFセミナーで講演した。主な内容は、Winnyを初めとするP2Pネットワークの紹介と、彼がいま開発しているSkeedcastの説明だった。ちょうどTVバンクがP2Pでマルチキャストを始めたというニュースも出た。日本でもようやくP2Pの冬の時代が終わり、ビジネスとして認知されるようになったのだろう。

映像をネット配信する場合、加入者線の帯域だけみると、DSLで数十Mbpsあれば、DVD画質の映像(1.5Mbps程度)は十分送れるように思える。しかし実際には、回線費用やサーバの負担を考えると、そうは行かない。TVバンクの中川氏によれば、「通常のユニキャスト方式では100kビット/秒で100万ユーザー,1.5Mビット/秒だと1000ユーザーに同時に配信するのもコスト的に厳しい」。P2Pによって、トラフィックは78%削減できたという。

しかしP2Pのトラフィックが増えると、「インフラただ乗り」論で指弾されるように、P2Pが日本のインターネット全体の半分以上を占めるといった状態が生じる。これを解決する方法は、従量料金(パケット課金)しかないが、そうするとP2Pを使うことはむずかしくなる。ユーザーが使っていなくても、他人が自分のマシンからP2Pでダウンロードしたら、知らないうちに莫大な料金がかかる可能性があるからだ。金子氏は「従量制にしたら、P2Pは死ぬだろう」といっていた。

P2Pをただ乗りと呼ぶのは正しくない。インターネット全体をみると、ほとんどの資源は遊んでいるので、それをP2Pで活用することは効率的だ。つまり、ただ乗りは全体最適という観点からは望ましいのである。パケットに課金すると、使っていない資源の囲い込みが生じて、効率は低下する。この問題を解決するには、従量料金に一定のプライス・キャップを設けるとか、ISP間のピアリングで行われているように、トラフィックを精算して下りから上りを差し引いた分に課金するなどの工夫が必要だろう。

ただ、従量課金そのものがインターネットの発展を阻害するという意見も強い。今後のインターネットの進化の方向として、世界中のコンピュータを並列に結んで、すべてのユーザーが膨大な計算能力とデータベースをもつグリッド・コンピューティングが想定されているが、従量制になると、そういう進化は不可能になるだろう。従量課金はユーザーが資源の消費者だという前提にもとづいているが、実はインターネット・ユーザーはCPUやメモリなどの資源や消費者生成コンテンツの供給者でもあるのだ。

この種の問題のもっとも簡単な解決法は――可能であれば――消費される量を絶対的に上回る資源を用意して、自由に使うことだ。現実にLANではこういう資源管理が行われ、グリッドもローカルには実現しているし、テキストベースのウェブでは、資源に余裕がある。しかしストリーム情報になると、消費される帯域が桁違いに増えるため、このような解決法は困難だろう。あと10年もムーアの法則が続けば、こういう「桃源郷」によって問題が解決するかもしれないが・・・

追記:金子氏の講演資料をICPFのサイトで公開した。

進化するネットワーキング

林紘一郎 湯川抗 田川義博

NTT出版

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林氏の『ネットワーキングの経済学』(1989)の第3版。第1部が旧著の改訂版、第2部がWeb2.0など最近の現象を扱っている。第1部の主要なテーマが「ネットワークの外部性」による「ひとり勝ち」であるのに対して、第2部は「ロングテール」などのニッチな世界をテーマにしているが、両者は実はベキ分布という同じものの表と裏である。そのへんのネットワーク理論のおさらいも、まとめられている。

動きの激しいこの世界で、初版から17年もたって第3版が出るというのは、きわめてまれなことだ。それだけ、著者の着眼に先見性があったということだろう。通信規制の水平分離の考え方も、日本では林氏が初めて提唱したものだ。しかし、日本ではなぜか放送業界が、IT戦略本部の使ったこの言葉に激しく抵抗し、民放連の会長が首相官邸にどなり込むという騒ぎまで演じた。おかげで総務省は、通信設備を利用した放送を規制する法律を「電気通信役務利用放送法」と名づけ、水平分離の代わりに「水平的市場統合」という間違った言葉を使っている。

悲しい嘘

「嘘つき」というのは、社会人としては失格だが、嘘をつくことが許されている職業がある。それは小説家だ。その嘘が許されるのは、事実よりも効果的に人の心を動かすからだ。しかし自分の利益のために他人をだますのは、小説家を自称していても単なる嘘つきである。

日本文芸家協会などのつくる「著作権問題を考える創作者団体協議会」は22日、著作権の保護期間を著作者の死後50年から70年間に延長するよう求める要望書を文化庁に出した。その理由を議長の三田誠広氏はこう語る:
70年が国際的なレベルであり、日本だけ50年なのは、創作者の権利のはく奪だ。延長により作家の創作意欲が高まる。生前作品が売れなくても没後に評価され配偶者や子どもに財産権を残すことが励みになる
三田氏は、本当に自分の死後の保護期間が20年延長されることが「励みになる」のか。彼は1948年生まれだから、日本人男性の平均寿命まで生きるとして、死ぬのは2026年。その50年後は2076年である。彼の風俗小説がその時点で出版されている可能性は低いが、かりに出版されているとして、その著作権が2096年まで延長されても、彼の曾孫(存在するとして)の小遣いが増えるぐらいだろう。それによって三田氏は、本当に「創作意欲が高まる」のだろうか。

この種の主張は、レッシグの闘った「ミッキーマウス訴訟」で、ArrowからFriedmanに至る17人の経済学者の意見書によって完全に論破されたものだ。保護期間を20年延長することによる著作権料の現在価値の増加は1.5%にすぎない。死後の保護期間を延長することで利益を得るのは著作者ではなく、出版社だけだ。著作者は、業者の独占維持の口実に利用されているのである。自分がだまされていることにも気づかず、読者をだまそうとするような嘘つきが、業界団体の代表をつとめる日本の小説業界の精神的な貧しさは悲しい。

迷走するソニー

先週、SCEの久多良木社長は、PS3を発売前に2割値下げすると発表した。これは、もちろん消費者にとってはよいニュースだが、ソニーの株主である私にとっては、また一つ不吉なニュースを聞かされた感じだ。最大の戦略商品の価格決定というのは、こんないい加減なものだったのか。これで初年度1000億円の予定だったPS3の赤字幅がさらにふくらむというが、この「博打」に失敗したら、ソニーの屋台骨が大きく傾くのではないか。株価は5000円を大きく割り込み、年初来安値に近づいている。

そうでなくとも、このところソニーをめぐるニュースは、ろくなものがない。リチウムイオン電池のリコールは600万個を超え、コンポーネント部門の年間の営業利益300億円を吹っ飛ばすと予想されている。PS3も、青色レーザーの不良で、欧州の出荷を来年に延ばすことが決まったばかりだ。このときの「ソニーのものづくりの力が落ちているのではないかと問われれば、今日の時点ではその通りというしかない」という久多良木氏の発言は、NYタイムズの1面を飾った。

関係者の話を聞くと、出井氏が社長になってからの経営戦略の迷走が、士気の低下をまねいているようだ。出井氏は「デジタル・ドリーム・キッズ」なるキャッチフレーズを掲げたが、社内の本流はアナログで、彼は社内で浮いていた。出井氏はネットバブルに乗り、情報家電でマイクロソフトと提携すると発表して世界を驚かせたが、社内の反対でこの提携はつぶれてしまった。特にバブル崩壊後は、すっかり社内の信用を失った。

ここで駄目になってしまえば、出直しのチャンスもあったのだが、そこにPS2という「救世主」が出現したため、連結ではなんとか利益が計上でき、抜本的なリストラのチャンスを逃がした。おかげで、ソニーグループの連結子会社は942社。非効率な多角化の代名詞とされる日立グループと並んで日本最多だ。

iPodやiTunesのような事業は、本来ソニーが先に始めてもおかしくなかった。ところがソニーは「ネットワーク・ウォークマン」でも当初、音楽部門の既得権を守るために、MP3をサポートしなかったばかりか、「価格決定権」に固執して、いまだにiTunesに音楽を配信していない。かつて「シナジー」を求めて買収した映画・音楽部門が、かえって足枷になっているのだ。

かつてPS2の発表のとき、久多良木氏は「インターネットには興味がない。オマケで勝負する気はない」と公言した。その思い切りのよさが、PS2の成功の原因だったが、PS3は汎用半導体「セル」を頭脳とし、ブルーレイ・ディスク(BD)などのオマケが満載されている。しかも開発に5000億円を投じたセルには、いまだにPS3以外の用途が見えないし、BDはコストと納期の足を引っ張っている。

要するにソニーも、過去の遺産に呪縛される「イノベーションのジレンマ」に陥っているのである。PS2の成功体験に全面的に依存したPS3は、クリステンセンのいう持続的技術(sustaining technology)の典型だ。久多良木氏は「ゲーム機ではなくスーパーコンピュータだ」というが、家庭でスーパーコンピュータを何に使うのか。

今のソニーで、久多良木氏に反対できる経営者はいないという。たしかに彼は天才かもしれないが、ゲームの専門家にすぎない。かつて久多良木氏がPSで成功したのは、出井氏も含めてほとんどの経営陣が反対する中で、大賀会長(当時)がOKを出し、SCEで好きなようにやらせたからだが、今のソニーにはそういうリスクをとって新しい市場を立ち上げる「暴れ者」がいない。

これから通信と放送の融合が進む中で、コアになるのは家庭の端末だから、ソニーがiPodを超える大ヒットを放てる可能性は十分ある。出井氏のネットバブル路線が失敗したからといって、インターネットを軽視するのは大きな間違いだ。いま必要なのは、水ぶくれした組織を思い切って整理し、インターネットを踏まえた新しい戦略を立案することだが、それができるのは、久多良木氏の世代ではないだろう。

「みんなの意見」は正しいか

平野啓一郎氏のブログの記事が、話題になっている。事の発端は、Wikipediaの彼についての項目に「盗作疑惑」が掲載されたという話だ。その部分はすでに削除されたが、きょう現在ではまだグーグルのキャッシュに残っている(*)
1998年に新潮社から刊行された平野のデビュー作『日蝕』が、1993年に同じ新潮社から刊行された佐藤亜紀の『鏡の影』と「内容が似ている」ことが問題となった。平野が『日蝕』で芥川賞を受賞すると、新潮社側は佐藤亜紀が執筆していたウィーン会議を題材にした作品の雑誌掲載を拒否し、同社から刊行されていた『鏡の影』、さらには佐藤の小説『戦争の法』を絶版とした。[以下略]
この根拠として、佐藤氏のウェブサイトにリンクが張られているが、平野氏も指摘するように、その記事には肝心の盗作(佐藤氏の表現では「ぱくり」)の事実が何も具体的に示されておらず、Wikipediaのような公的な媒体で紹介する質のものとは思われない。

実は、私にも似たような経験がある。3年前に、「はてなキーワード」の私についての項目に、事実無根の中傷が掲載されたので、はてなに抗議したところ、近藤淳也社長から謝罪のメールが来た。私は、中傷の責任を追及するため、「犯人」を明らかにせよと申し入れたが、近藤氏はそれを拒否した。結局「キーワード」の項目だけは残し、内容は全面的に削除された。

このときの近藤氏の対応は誠意あるものだったが、中傷の責任は結局、誰も負わないままだ。さらに問題なのは、平野氏もいうように、こういう「消費者生成メディア」で名誉を傷つけられないためには、つねにそれをウォッチしなければならず、参加を強制されることだ。こういうメディアに疎い人の名誉が傷つけられても放置されるし、死者の名誉は誰も守らない。

同様の問題は、本家のWikipediaでも起こっている。有名なのは、去年のJohn Seigenthalerをめぐる問題だ。これは、彼についての項目で「ケネディ暗殺に関与した」という虚偽の経歴が記されたもので、その経緯もWikipediaの項目としてまとめられている。この問題は大きな論議をよび、これを機にWikipediaは新しいガイドラインや監視システムをつくった。

ところが、日本では「2ちゃんねる」でもっとひどい名誉毀損が大量に行われているのに、主宰者は損害賠償も支払わず、逃亡している。被害者もあきらめたのか、破産申し立てをしていないし、メディアはおもしろがっている。日経新聞に至っては、そういう人物を「デジタルコア」なる会議のメンバーにして市民権を与えている。このように言論についての規律が不在の状態で、ビジネスとしてのWeb2.0だけがもてはやされても、またバブルに終わるだろう。

こうした問題について、スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』がよく引用されるが、これは「集団の知恵」で成功した例を列挙しているにすぎない。現実には、WikipediaやLinuxの成功の陰には、何百という失敗したオープンソース・プロジェクトがある。集団的選択理論が教えるように、ほとんどの民主的な意思決定は間違っているのである(**)。むしろ重要なのは、こうした間違いを事後的に修正するフィードバック装置だ。

しかし日本では、ブログの「炎上」にもみられるように、ウェブ上の議論には他人を説得するという目的がなく、匿名で悪口をいうことでストレスを解消する傾向が強い。こういう言論は、いくら大量に生成されても、情報の質を高める役には立たない。事実、日本のWikipediaには、単純な事実誤認が本家よりもはるかに多く、確認には使えない。いま必要なのは、みんなの意見は必ずしも正しくないという懐疑主義にもとづいて、事実をチェックするしくみを整備することだろう。

(*)コメントで、Wikipediaのサイトに「保存版」が残っていることを指摘された。gooにも残っている。

(**)オープンソースと集団的選択の部分に引っかかった人が多いようだが、書き方がミスリーディングだった。これは似たような話を並べただけで、両者は別の話である。オープンソース・プロジェクトの大部分は、できたものがユーザーの支持を得られないから失敗するので、民主的意思決定の間違いとは関係ない。

民主的な意思決定が「間違っている」というのも、いろいろな意味があるが、ここで想定しているのは、Gibbard-Satterthwaite定理のように、投票によって各人の選好を整合的に集計できないという問題である。さらに代議制民主主義には、投票の個人的便益(1票の差で選挙結果が変わる確率)がゼロに等しいという致命的な欠陥があるので、政治が特定の利益団体に支配されることは必然的な結果である。

もう一つは、コンドルセ定理のように集団によって「真理」に到達できるかという問題だが、これも一般的な条件では成り立たない。「みんなの意見」が正しいのは、各人の意見が(一定の確率以上で)正しく、それが整合的に集計可能な場合に限られるが、そういう理想的な状況は現実には存在しないのである。ウェブでみんなの意見が正しいようにみえる原因は、こういう論理整合性ではなく、間違いがあったら多くの人が参加して事後的に訂正できる柔軟性だろう。

ロングテール

26a6ef62.jpgクリス・アンダーソン

早川書房

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先日、紹介した本の訳本が間もなく出る(アマゾンでは予約受付中)。内容の紹介はそこで書いたが、学問的には疑問も多い。最大の問題は(一般書だからしょうがないが)、原データがなくてアバウトなグラフしか描いてないので、どこまで厳密にベキ分布に従っているのかよくわからないこと、もう一つは、なぜベキ分布になるのかについて、ほとんど説明がないことだ。

後者については、スケールフリー・ネットワークなどで「複雑性」の概念を使った説明が行われているが、実はこれはもっと簡単に導ける。たとえばランダムにキーボードをたたいて、その単語長をとればよいのである。アルファベット26字とスペースの合計27字をランダムに打つとすると、アルファベットがn字続く(スペースがn+1字目に初めて出現する)確率は、(26/27)n×1/27(*)という指数分布になる。一般に指数分布は、ベキ分布に変換できる(cf. Li)。つまりベキ分布は「複雑性の法則」ではなく、単なる「変換の法則」なのである。

(*)コメントで指摘を受けて修正した。

追記:変数の「変換」というのはちょっとわかりにくいが、この場合は単語長を頻度のランクに変換すること(Mitzenmacher: pp.238-9)。

ウィンドウズがデバイスドライバになるとき

Gmailやグーグル・カレンダーを使っていると、「ウィンドウズはデバグの不十分なデバイスドライバ(a poorly debugged set of device drivers)になるだろう」という有名な言葉を思い出す。これはネットスケープのMarc Andreessenが言ったとされ、ビル・ゲイツがこれを聞いて激怒したという話もあるが、その出所はわからない。おそらく、よくできた民間伝承なのだろう。

たしかに、この言葉はIT産業における競争の本質をうまく言い当てている。ウィンドウズに対する脅威はOSではなく、別の階層から来るだろう。それはおそらくブラウザで、それさえ動けばOSは何でもよいし、なくてもかまわない。事実、ネットスケープはコードをJavaで書き直してOSに依存しないブラウザを開発しようとしたが、失敗に終わった。

今、グーグルが実現しつつあるのは、このOSのデバイスドライバ化だ。ウェブに加えて、メール、カレンダー、スプレッドシート、文書作成(Writely)が使えれば、ウィンドウズ上のアプリケーションはほとんど必要なくなるかもしれない。このシステムがすぐれているのは、そのAPIを使って第三者が多くのアプリケーションを「マッシュアップ」し、日々進化することだ。そのスピードは、ウィンドウズ上のアプリケーションをはるかに上回るし、すべて無料だ。

ネットスケープが失敗したのは、第一にマイクロソフトがIEによってネットスケープをつぶしたからだ。しかし、より本質的な原因は、ネットスケープがIEの追撃を振り切る囲い込みの手段をもっていなかったことだ。初期には、クライアントは無料にしてサーバでもうけるというモデルだったが、これはうまく行かなかった。後年にはNetcenterを「ポータル」にしてもうけることを試みたが、これは遅すぎた。

他方、グーグルが成功したのは、これも第一にマイクロソフトがつぶさなかったからだ。これは、ある意味では最初の成功の副産物である。IEによってウィンドウズを守ることに成功したマイクロソフトは、司法省との訴訟でブラウザをOSの一部と主張した結果、MSNなどのサービスと統合する戦略をとれなかった。訴訟後は保守的・官僚的になり、主な仕事はセキュリティのパッチをつくることになってしまった。そしてグーグルは、メールやカレンダーなどの個人情報によって着実に囲い込みを始めている。

ビル・ゲイツの後継者となるRay Ozzieは"Internet Service Disruption"という内部文書で、マイクロソフトの失敗の原因を分析している。彼が、その第一の原因にあげているのが、広告による経済モデルの軽視だ。パッケージを売るという伝統的なソフトウェア流通チャネルにこだわった結果、マイクロソフトはインターネットによる効率的な流通システムの開発に後れをとってしまったのである。

しかしマイクロソフトは、パッケージ流通モデルを捨てることはできないだろう。失うものが大きすぎるからだ。Ozzieがタイトルで暗示しているように、かつてIBMが大型機のビジネスを守ろうとしてPC革命に敗れたのと同様の「イノベーションのジレンマ」に、マイクロソフトも直面しているのである。

グーグルがウィンドウズに代わる独占的なプラットフォームになるかどうかは、まだわからないが、確実なのは、ようやくマイクロソフトの時代が終わろうとしているということだ。ウィンドウズは(少なくともデスクトップでは)独占であり続けるだろうが、それは電力を東電が独占しているのと大して変わらない意味しかなくなるだろう。これは成功した企業としては自然なライフサイクルである。むしろMS-DOSから20年以上にわたってトップランナーだったのは、交代の激しいこの業界では、異例に長い「青春時代」だった。

The King is dead. Long live the King!

グーグル・アマゾン化する社会

森健『グーグル・アマゾン化する社会』(光文社新書)には、次のような記述がある:
ウェブブラウザというソフトが生まれたのが、1994年。NCSAの研究員だったマーク・アンドリーセンによって開発されたそのソフトは、モザイクと名付けられ、まもなくネットスケープ・ナビゲータと改名された。(p.52)
ブラウザが生まれたのは、1994年ではない。最初のブラウザは、1990年にTim Berners-Leeの開発したWorldWideWeb(のちにNexus)であり、NCSA Mosaicが公開されたのは1993年である。アンドリーセンは研究員ではなく、学生アルバイトだったし、モザイクとネットスケープはまったく別のソフトウェアである。

これ以外にも、ライブドアの堀江貴文代表や、シカゴ大のローレンス・レッシグが登場したり、ベル研がルーセントから独立したりする珍無類の本だ。内容は、ほぼすべてウェブなどの2次情報の切り貼りで、最後は靖国問題やら同時多発テロがどうとかいう床屋政談で終わる。Web2.0でプロとアマとの差が縮まっているというのは、本当らしい――プロのレベルがアマの域に近づいている点では。

婚外子を差別する自民党の高市政調会長

2013年12月に、結婚していない両親から生まれた婚外子の遺産相続を嫡出子と同等にする民法の改正案が成立した。これは同年9月に最高裁が、婚外子の遺産相続を嫡出子の半分と定めた民法の規定を違憲と判断したことを受けたものだが、野党が提出した戸籍法の「婚外子」の記載をなくす法案は、公明党は賛成したが自民党の反対多数で否決された。

この背景には、自民党内の保守を自称する政治家の抵抗がある。高市早苗政務調査会長は最高裁判決について「ものすごく悔しい」とコメントし、夫婦別姓にも反対して「日本の伝統を守ろう」という。彼女の守ろうとする伝統とは何だろうか。
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