2005年07月

サルトルの世紀

朝日新聞と日経新聞の書評で、ベルナール=アンリ・レヴィ『サルトルの世紀』(藤原書店)がそろってトップに取り上げられていた。たしかに、論証に荒っぽいところはあるが、サルトル論としては圧倒的におもしろい。

もはや「忘れられた哲学者」に近いサルトルの戦前の著作を再評価し、そこに「物の味方」としての「第一のサルトル」を見出すという発想は斬新で、またそれなりに説得力がある。マロニエの木の根元を見て吐き気をもよおすロカンタンの姿に「本質の不在」というポストモダン的なテーマを見ることは可能である。

しかし、初期サルトルの「反本質主義」を「反ヒューマニズム」と置き換えるのは、ちょっと乱暴だ。本質に先立って実存する主体は「自己」であり、サルトルはその主体(人間)そのものは疑っていないからだ。むしろ、ヘーゲル的な主体=実体を否定しつつ、実体なき主体としての自己を認めたところに、サルトルの中途半端さがあったのではないか。

これは戦後の「第二のサルトル」の惨憺たる失敗をどう理解するかという問題ともからむ。著者は、これを「第一のサルトル」と並列し、二人のサルトルが晩年まで同居していたのだとして、両者の関連についての説明を放棄しているが、これはいかがなものか。むしろ初期の哲学からあった「強いエゴ」が肥大化して「党」の絶対化につながったのではないか。

未整理で冗漫な部分も多いが、語り口はジャーナリスティックで読みやすく、900ページも一気に読める。良くも悪くも、サルトルが20世紀を代表したことは間違いない。彼の矛盾は、われわれの時代の矛盾でもあるのかもしれない。

逆囚人のジレンマ

道路公団をめぐる談合事件は、元理事が逮捕されるに至り、公団職員の関与も疑われている。しかし財界の動きはにぶく、経団連の奥田会長も「長年の慣習で、簡単にはやめられない」などと歯切れがよくない。これは談合に(少なくとも主観的には)一種の合理性があることを示唆している。

談合は、ゲーム理論でおなじみの「フォーク定理」で合理的に説明できる。1回かぎりの入札では抜け駆けで得をしても、それによって業界から追放され、指名入札に入れてもらえなくなったら、長期的には損をするからだ。しかし談合の場合には、この「サブゲーム完全均衡」は犯罪であり、ばれたら全員が最悪の状態になる。つまりここでは、通常の囚人のジレンマとは逆に、非常にリスクの大きな「協力」=談合に全員がトラップされているのである。

こういう「逆囚人のジレンマ」を壊すのは簡単である。すべての工事を一般競争入札にして、抜け駆けできるアウトサイダーを入れればいいのだ。しかしこういう解決法では、手抜き工事が行われる可能性があるので、工事の監視をきびしくするなどの事後的な行政コストが高くなる。談合は、業界内で互いに監視して品質を管理する役割もになっていたわけだ。

こういう「自主監視」のしくみは、終戦直後のような混乱した時期には必要だったかもしれない。しかし工事の質が上がり、行政による監視も厳重になった現在では、談合の積極的な意味はもう失われたのだ。奥田会長のいう「自由競争にしたら弱い会社が生き残れない」というのは理由にならない。競争が長期的には会社を強くすることは、トヨタがいちばんよく知っているはずだ。


スクリーンショット 2021-06-09 172303
記事検索
Twitter
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
Creative Commons
  • ライブドアブログ