民主主義の内なる敵

民主主義の内なる敵
20世紀は、民主主義が全体主義と闘った時代だった。民主主義の勝利は自明のようにみえたので、冷戦の終結以降、東欧や途上国で多くの国が民主主義を採用した。しかし2010年代には「アラブの春」は挫折し、先進国では民主主義はポピュリズムになった。民主主義の敵はもはや社会主義ではなく、その内部にあるのだ。

その原因は民主主義と一体で語られる自由主義にある、と著者はいう。その起源を彼は、5世紀初めのアウグスティヌスとペラギウスの神学論争に求める。アウグスティヌスは「原罪」の概念を確立したが、これをペラギウスは批判した。神は自分に似せて人間をつくったのだから、人間が罪を犯すはずがない。そもそも人間の運命が神の意志ですべて決まっているのなら、罪を犯すこともできない。

これは論理的には強力な批判だったが、ペラギウスは論争に敗れ、異端として追放された。しかし18世紀の啓蒙思想は彼を再発見し、「個人が自由意思で政権を選択し、その結果に責任を負う」というペラギウス主義が民主国家の原理になった。それを大規模に実験した最初の試みがフランス革命だが、結果は悲惨だった。何が間違っていたのだろうか。

続きは9月10日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

被害者の再生産する「風評差別」の構造

福島のトリチウム水をめぐって、反原発派も最近は「危険だ」とはいわなくなった。トリチウムは環境基準以下に薄めて流せば人体に害はなく、他の原発ではそうしている。福島第一原発でも事故までは流していた。それをゼロにしろという科学的根拠はない。その代わり彼らがいうのは「風評被害で魚が売れなくなる」という話だ。

これを聞いて私が思い出したのは、子供のころの出来事だ。私の実家は京都の大きな被差別部落の隣にあり、子供のころよく差別事件が起こった。中でも根強く残ったのが結婚差別だった。このとき親が反対したのは「部落出身者と結婚してはいけない」という理由ではなかった。「私はかまわないが世間には偏見がある」という理由だった。

続きはアゴラで。

「敗戦革命」の危機はあったのか

日本占領と「敗戦革命」の危機 (PHP新書)
戦後史を国際的な文脈で理解することは重要である。1945年、東ヨーロッパを支配下に収めたソ連は、次に東アジアをねらった。敗戦を機に軍部の中の「共産勢力」がソ連と呼応して「敗戦革命」を起こす可能性がある、と昭和天皇に進言したのが1945年2月の近衛上奏文だった。
敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯。[中略]敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存侯。 国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に侯。
敗戦の後に起こる共産革命を防止するために軍の中の共産勢力を一掃して戦争を早期終結すべきだ、というこの提言は天皇に却下されたが、「敗戦革命」への警戒はアメリカの占領統治にも影響を及ぼした。アメリカはソ連の参戦前に戦争を終結し、単独で日本を占領しようとした。天皇の在位を認めたのも、共和制にすると共産勢力が強まると考えたからだ。

しかし当時の日本に「敗戦革命」を実行できる政治勢力はあったのか。1946年の総選挙で日本共産党が得たのは5議席だった。GHQ民政局は社会党を支援したが、それは短命な片山内閣を生んだだけに終わった。知識人の中には社会民主主義に共感する人もいたが、大部分の国民は共産主義も社会主義も知らなかったのだ。

続きは9月3日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

日本型資本主義は江戸時代に生まれた

日本型資本主義-その精神の源 (中公新書)
非西欧世界で日本だけに資本主義が自生したのはなぜか、というのは多くの歴史学者が取り組んできた問題だが、明快な答は出ていない。最近では資本主義は普遍的な経済システムではなく、18世紀のヨーロッパに一度だけ出現した突然変異のようなものだった、というのが通説的な理解になりつつあるが、だとすれば極東の日本がそれを輸入してうまく行ったのはなぜか。

その原因が江戸時代にあったことは、ほぼ間違いないだろう。本書はその答を社会資本(social capital)の蓄積に見出すが、その源泉は何だったのか。一つの有力な答は勤勉革命説だが、著者はこれを「おそらく経済理論的に整合的な仮説としては成立しない」としりぞける。もう一つは日本を含む東アジアを「儒教資本主義」とする説だが、これも実証的に成り立たないという。

では社会資本が蓄積された原因は何か。それは「鎌倉新仏教による道徳律の確立」だというのが本書の仮説である。著者はそれがプロテスタンティズムに似た役割を果たしたというのだが、この仮説には疑問が多い。そもそも元のウェーバー説が、現在ではほぼ否定されている。プロテスタントの国だけで資本主義が成功したわけではなく、その教義(予定説)が資本主義の精神になったという証拠もない。

続きは9月3日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

トリチウム水を止めているのは福島県漁連だ



福島第一原発に貯蔵された「トリチウム水」をめぐって、経産省の有識者会議は30日、初めて公聴会を開いた。これはトリチウム貯蔵の限界が近づく中、それを流すための儀式だろう。公募で選ばれた14人が意見を表明したが、反対意見が多数を占め、福島県漁連の野崎会長は「海洋放出されれば福島の漁業は壊滅的な打撃となる」と反対した。

福島第一原発で1000基近いタンクに貯水されているトリチウム水は92万トン。それを毎日5000人が取水してタンクに貯水する作業をしている。他の原発ではトリチウムを環境基準以下に薄めて流しており、福島だけまったく流さないことには科学的根拠がない。

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3・11は朝日新聞の「満州事変」

原発とメディア 新聞ジャーナリズム2度目の敗北
かつて朝日新聞は原発推進のリーダーだった。本書は震災後の連載を2012年に書籍化したもので、朝日の「黒歴史」の記録としては貴重だが、問題を取り違えている。著者は朝日の原発推進キャンペーンを満州事変と比べて「2度目の敗北」と書いているが、これは逆である。満州事変に相当するのは3・11なのだ。

1931年9月まで朝日は軍縮論だったが、一夜にして主戦論に変わった。福島第一原発事故の前は、朝日の社内でも賛否両論だったようだが、事故後は反原発一色になり、「プロメテウスの罠」を初めとする放射能デマを大量に流した。放射能による人的被害はなく、ほとんどの被害は朝日を中心とするマスコミが作り出した風評被害である。そういう報道の原因も満州事変と同じで、反原発でないと売れないからだ。

ところが当の記者は、著者のように自分が正義だと思い込んでいる。結果論で放射能デマを正当化するうちに、嘘が正義にすり替わったのだ。かつての戦争のときも、慰安婦問題のときも、こうだったのだろう。それをリアルタイムで検証することは大事である。

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地球温暖化といかに共存するか



きのう放送した言論アリーナでは、杉山大志さんと有馬純さんとともに地球温暖化を経済問題として考えた。今後、地球温暖化が起こることは確実で、その一部が人為的な原因によるものであることも確実だが、そのリスクははっきりしない。

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「サン・チャイルド」の小さな事件が示す大きな変化


サン・チャイルド像(作者ホームページより)

福島市長が、福島駅の近くに設置した「サン・チャイルド」という像を撤去することを決めた。これ自体は大した事件ではないが、福島をめぐる「空気」の変化を示している。作者のヤノベケンジ氏は、2011年にこれを制作した動機をこう語っている。
黄色い放射能防護服を着ていますが、ヘルメットを脱いで左手に抱え、顔に傷を負い、絆創膏を貼りながらも、空を見上げて逞しく立っています。胸のガイガー・カウンターは、ゼロを表示しています

子供は未来を表しており、それらは放射能の心配のない世界を迎えた未来の姿の象徴でもあります。そして、右手に持つ「小さな太陽」は、次世代にエネルギー問題や放射能汚染が解決される「未来の希望」を象徴しています。

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核燃料サイクルをめぐる経産省と電力会社の攻防

電力と政治 上: 日本の原子力政策 全史
原子力の問題は、政治の問題である。だから「電力と政治」の関係を学問的に解明することは重要だが、政治的なバイアスをまぬがれることはむずかしい。『日本の原子力外交』はその貴重な例外だが、本書は第2章が「活発化する反原発運動と暗躍する原子力ムラ」と名づけられているように、バイアスを隠そうともしていない。

中身も新聞記事の孫引きばかりで、学問的オリジナリティはないが、網羅的な新聞の切り抜き帳としては便利だ。特に重要な転換点となった2003年の核燃料サイクル見直しについては、電力会社の中でも意見がわかれていたことを指摘している。技術部門は核燃料サイクルを推進しようとしたが、企画部門は採算性に疑問をもっていた。

最初に核燃料サイクルを止めようとしたのは、電力会社だった。2002年5月に、東電の荒木会長・南社長・勝俣副社長が、経産省に六ヶ所村再処理工場の稼働中止を申し入れ、広瀬事務次官と大筋で合意したという。ところが8月に原発のトラブル隠しが発覚し、後任の村田事務次官が荒木と南を辞任に追い込んだため、話がこじれた。

2003年には資源エネルギー庁と電力会社の首脳が、核燃料サイクル撤退について何度も会合を開いたが、物別れに終わり、電力会社は再処理コストを電気料金に転嫁しようとした。経産省はこれに反対し、「19兆円の請求書」をマスコミに配布して、核燃料サイクルをつぶそうとした。これに対して電力会社は自民党の族議員を使って反撃し、戦いは経産省の敗北に終わった。

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日本国憲法に正統性はあるのか

異端の時代――正統のかたちを求めて (岩波新書)
正統という概念は日本人にはなじみがないが、キリスト教では「正統か異端か」をめぐって、血で血を洗う戦争が続けられた。丸山眞男はこの概念を日本にも適用しようとして、教義上のO正統(Orthodoxy)と事実上のL正統(Legitimacy)という対概念を考えたが、40年かかっても著作は完成しなかった。本書の前半は、キリスト教神学の立場からこれを批判する。

正統としてもっとも有名な三位一体説は聖書に根拠はなく、イエスを神と考えるローマ帝国の民衆の信仰と、神は父なる神だけだとするユダヤ教の教義の妥協だという。それは初期には多くの人々の合意によるL正統だったが、教義として確立するとO正統になり、それを批判する人々は異端として排除されるようになった。

つまりO正統とL正統に本質的な違いはないのだ。これは丸山批判としては成功しているが、それを現代に適用する後半は、お約束の反原発とか新自由主義批判が出てきて、陳腐になってしまう。むしろ問題が大きいのは(本書が避けている)日本国憲法だろう。それを「押しつけ憲法」だと考える人々は民主的正統性がないと批判し、それを守ろうとする人々は「八月革命」で正統性が与えられたという倒錯した論理で擁護する「ねじれ」が続いてきた。

続きは8月27日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。






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