アラブ世界の復讐

The Looming Tower: Al Qaeda And the Road to 9/11

Lawrence Wright

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9/11から来週で5年になるが、あの事件についてはいまだにわからない部分が多い。特にわからないのは、なぜ彼らがアメリカに対してあれほど強い敵意を抱くようになったのかということだ。本書は、それを1940年代に渡米したエジプト人、クートゥブから説き起こす。彼はアメリカに憧れたが、挫折して故郷に帰り、イスラム原理主義の運動を起こした。こういう西洋に対するアンビバレントな感情は、非西欧圏の知識人には共通のものだ。それが日本などではナショナリズムになったが、近代化に失敗してオスマン帝国の崩壊したアラブ世界では、宗派にアイデンティティを求める原理主義になったわけだ。

イスラム原理主義の標的は、当初はエジプトのムバラク大統領やアフガニスタンのソ連軍など、アラブ世界の宗教的秩序を乱す権力だったが、しだいに活動は「国際化」し、特に反イスラム勢力の後ろ盾になっている(と彼らの考える)アメリカをねらうようになる。中でもエジプトの過激派を率いたザワヒリと、腐敗したサウジアラビアの王家に敵対する勢力を率いたビンラディンが連合して、アルカイダという統一テロ組織ができた。

後半は、アルカイダが世界各地でテロの戦線を拡大する一方、アメリカの対応が後手に回り、破局的な事態を防げなかった経緯を描く。特にFBIのテロ対策の責任者、ジョン・オニールは、90年代前半からイスラム原理主義のテロが国際化していることに気づいて対策をとろうとしたが、縄張りを侵されることを恐れたCIAの妨害にあい、FBIから追放される。彼は偶然にも世界貿易センターの保安対策責任者となり、9/11で犠牲になった。

9/11を防ぐことは可能だったか、という問いについての本書の答は、「イエス」である。クリントン政権の時代から、アルカイダはアフリカや中東でアメリカの施設や軍艦をねらっており、不審なアラブ人がアメリカの航空学校で操縦を習っていることについて、FBIは「航空機を使ったテロの可能性がある」と警告する報告書まで出していた。しかし、こうした警告は無視され、CIAやNSAと情報は共有されず、重複して諜報活動が行われ、結果的にテロ活動の全体像をだれも知らないまま、9/11を迎えたのである。

5年たっても、9/11を引き起こした問題はまったく解決しておらず、テロの脅威はまだ残っている。アメリカの圧倒的な軍事力をもってしてもテロリストを全滅させることができないのは、アラブ世界の西洋に対する敵意が彼らを支えているからだ。それはアラブを分断し、寄ってたかって食い物にしてきた欧米諸国への歴史の復讐ともいえるのではないか。

グレーゾーン金利と家父長主義

「グレーゾーン金利」についての記事には、70近いコメントがついて、なおも議論が続いている。価格メカニズムについての無知にもとづくコメントも多いが、重要なのは「債務者は必ずしも合理的ではない」という行動経済学的な批判である。これについては、47thさんがかなりくわしく取り上げているので、そこで紹介されているSunsteinの論文を参考にして、この問題を少し考えてみる。

まず、すべての債務者が新古典派経済学の想定するように合理的であれば、問題は簡単である。借金で破産するのは自己責任であり、そういうリスクを承知の上で借り入れることを規制する理由はない。しかし実際には、高利で借りざるをえないところに追い込まれた債務者が、合理的に行動するとは想定できない。人間は、新古典派的なアルゴリズム(演繹法)ではなく、行動経済学的なヒューリスティクス(帰納法)で考えるので、その帰納手続きの違いによっていろいろなバイアスが生じる。借金の場合には、たとえば「100万円借りて、1年後に元利合計129万円を返済する」という契約は拒むが、「10日ごとに1万円の金利を支払う」という契約にはつい乗ってしまうという類の近視眼バイアスが起こりやすい。

このような問題を防ぐもっとも簡単な方法は、いま金融庁がやろうとしているように、一律に上限金利を20%以下に引き下げる規制である。この根底には「高利で借りるような債務者はバカだから、賢明な政府が彼らの借り入れを制限すべきだ」という強い家父長主義がある。たしかに、規制によって20%以上の金利で借り入れができなくなれば、債務も減るだろう。しかし、これは「交通事故を減らすには車の販売を禁止すればよい」というようなもので、対策の名には値しない。それによって返済能力のある人も借りられなくなるばかりでなく、多重債務者が闇金融に走って、事態はかえって悪化するおそれが強い(2000年の上限金利引き下げでは悪化した)。

かといって、何もしないで自己責任にゆだねよ、というわけにも行かない。必要なのは、債務者から借り入れの機会を奪うことではなく、彼が合理的に判断できるように非バイアス化(debias)することである。これには(現在も規制されているように)事前説明や書面交付を義務づけることも含まれるが、それだけでは不十分だ。サラ金に駆け込む債務者は、すでに心理的に追い込まれているので、複雑な契約書を提示されても「ああそうですか」とメクラ判を押すことになりかねない。そのバイアスを中立化するには、彼の置かれている環境(フレーミング)を変えて、冷静に考え直す余裕を与える必要がある。

そういう非バイアス化の一つの手段として、クーリングオフの制度が考えられるのではないか。一定期間までは、債務者が貸金契約を一方的に破棄する(元金だけを返済する)権利をもつことを法律で定めるのだ。現在のクーリングオフ制度は、訪問販売などに限定されているが、これを貸金業に適用すればよい。貸金業者のリスクは大きくなるが、これは一種のオプションを売るようなものなので、そのリスクはコントロール可能である。債務者のバイアスを勘案すると、こういう弱い家父長主義は対策としてありうると思うが、どうだろうか。

追記:コメント欄にも書いたが、グレーゾーンをなくすという金融庁の方針は当然である。問題は、出資法と利息制限法のどちらに寄せるかだが、私は出資法に一本化すべきだと思う。ただし、上限を超える金利に刑事罰は必要ない。

シグマ計画

経済産業省は、「日の丸検索エンジン」について50億円を概算要求することを決めた。これは初年度だけの予算で、総額は300億円といわれる。これについて取材した記者が、経産省の担当者に「過去に第5世代コンピュータやシグマ計画が失敗したことをどう考えているか?」と質問したところ、驚いたことに「知らない」と答えたそうだ。第5世代については、先日の記事でも紹介したので、シグマについてごく簡単にまとめておく。

シグマ計画は、1985年から5年かけて250億円の国費をつぎこみ、国内のコンピュータ・メーカーを集めて、日本語で使えるUNIXツールの標準規格をつくろうという計画だったが、これについての通産省の事後評価は存在しない。業界でも、シグマの話はタブーとされており、ウェブにも関連する情報はほとんど出ていない。当事者の話としては、提唱者のインタビューや「被害者」の書いたでふれられている程度である(その他の情報のリンク集)。

そのきっかけは、「1990年には60万人のソフトウェア開発技術者が不足する」という産業構造審議会の1984年の答申だった。これを克服するには、ソフトウェア開発を効率化しなければならない、という目的で、このプロジェクトは始まった。ソフトウェア部品を共通化し、それを企業間で共有しようという理想も悪くなかったし、そのベースにUNIXを採用したことも、ワークステーションの技術としてはそう間違っていなかった。

問題はそこからだ。全コンピュータ・メーカーのコンセンサスで進めたため、当初の目的だった研究開発よりも、メインフレームで使われていた既存のツールをUNIXに移植することが主な作業になってしまった。UNIXベースのツールとしては、EmacsやTeXなどすぐれたソフトウェアがたくさんあるが、それも「シグマ化」したものしか使えなくなった。またプラットフォームとしてUNIX System Vという少数派の方言を固定したため進歩が止まり、日本ローカルのUNIXツールを大量に作り出す結果になってしまったのである

しかも本来はソフトウェアのプロジェクトだったのに、主要なメンバーがハードウェア・メーカーだったため、予算の大部分はハードウェアにつぎ込まれた。「Σセンター」に各社のメインフレームを4台も置き、そこに蓄積されたΣツールを各企業のΣワークステーションと結んで転送するΣネットワークも構築されたが、ほとんど利用されなかった。

ツールを国費で作らせて共有させるというのも、ビジネスを考えない甘い構想だった。企業にとっては、開発の成果をライバル会社と共有するのはいやだから、シグマに出すのはつまらないものばかりで、アップデートも止まり、使い物にならなくなった。結果的には、予算のほとんどはコンピュータやネットワークのコストとしてメーカーの食い物にされ、全国に性能の悪いΣワークステーションをばらまいただけに終わった。

しかも、この種の国策プロジェクトの常として、失敗を想定していないため、exit strategyがなく、最初の2年ぐらいでだめとわかってからも、延々とプロジェクトは続けられ、その「成果」を売る会社「シグマシステム」まで作られた。最終的にこの会社が解散したのは、95年である。今回の日の丸検索エンジンについても、記者が「失敗したらどうするのか?」と質問したところ、経産省の担当者は「失敗は想定していない」と答えたという。歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、2度目は茶番として・・・

テレコム産業の競争と混沌

ロバート・W・クランドール

NTT出版

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アメリカの1996年電気通信法ができて10年になる。当初は、通信業界の規制を緩和すると同時に「ネットワーク要素のアンバンドリング」によって競争を促進しようという目的でつくられた法律だが、10年たった今、その成果はほとんど上がっていない。ネット・バブルの時期には多くのCLEC(競争的地域通信事業者)が参入したが、そのほとんどの経営は破綻し、アメリカはブロードバンドでは大きく立ち後れている。

その原因は、本書も指摘するように、規制によって競争を作り出すことはできないということに尽きる。特に通信設備はILEC(既存地域通信事業者)の私有財産であるため、ILECがアンバンドル規制を「財産権の侵害だ」とする訴訟が相次ぎ、多くのケースでFCCが敗訴したため、規制の実行はきわめて困難になった。結果的には、FCCはアンバンドル規制をほとんど放棄し、現在アメリカのブロードバンドのインフラのうちILEC以外の業者によって供給されているのは1%程度にすぎない。

本書の主要な結論は、FCCの意図した階層別の競争はうまく機能せず、成功したのは携帯電話やケーブルテレビとの設備ベースの競争だけだったということである。この例外は日本と韓国だが、日本の成功はいろいろな偶然の重なった「競合脱線」のようなものであり、他の国に一般化することはできないし、もう一度おなじことが起こるとも期待できない。

ところが日本では、ボトルネックではない光ファイバーにもアンバンドル規制が課せられ、総務省の通信・放送懇談会でも「NTT完全分割論」が出てきた。これに対してNTTは、いっさい制度に手をつけさせないという方向で自民党にロビイングを行ったため、結果的に通信改革はすべて先送りになってしまった。今月、竹中総務相は「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」を立ち上げたが、今度は通信・放送懇談会のような素人談義にならないようにしてほしいものだ。

グレーゾーン金利

利息制限法と出資法の上限金利が異なる「グレーゾーン金利」について、アメリカの金融業界団体が上限金利の引き下げに反対する書簡を与謝野金融担当相に出した。

今年1月に、最高裁がグレーゾーンを事実上認めない判決を出したことを受けて、金利の返還訴訟が頻発している。金融庁は、上限金利を一本化して年率15~20%とする方向で、来年の通常国会で法律を改正する予定だ。アイフルの悪質取り立て事件で批判を浴びた消費者金融業界は、正面きって反論もできない。メディアも、取り立ての実態を暴いて業者を指弾する報道ばかりで、異論を唱えているのは外資だけという状況だ。

しかし、ちょっと冷静に考えてほしい。現在の上限(29.2%)を20%以下に引き下げることが何をもたらすかは、経済学的には明らかである。金利は貨幣のレンタル価格だから、それが人為的に抑えられると、資金の供給(貸出)が減少して超過需要が発生する。この超過需要が満たされなければ破産が起こるか、闇金融に流れることが予想される。事実、2000年に出資法の上限金利が40%から引き下げられたあと、個人破産と闇金融が増えた。

こうした金利の制限は、先進国にはみられないものであり(*)、終戦直後の混乱期に闇金融を規制して「弱者」を保護するために設けられた規制である。同様の規制としては、借家人の権利を強く保護する借地借家法がある。これも終戦直後に戦争未亡人を守るために設けられた規制だが、結果的には借家の過少供給をもたらし、家賃の高騰をまねいた。今回の金融庁の懇談会のヒアリングでも、多重債務の被害者や弁護士は規制強化を強硬に主張したが、そういう近視眼的な「正義」は、長期的には弱者のためにもならない。悪質な取り立ては、金利とは別の問題である。

上限金利が20%に制限されるということは、木村剛氏もいうように、企業も「20%以上の金利で借金する権利がなくなる」ことを意味する。中小企業の場合には、短期的な資金繰りで高利の資金が必要な場合もあるし、収益率が20%を超えることはそう珍しくない。金利を必要以上に抑制すると、収益はあるのに資金繰りで行き詰まる「黒字倒産」が増えるおそれがある。

ファイナンス業界の合理化のためにも、規制強化は有害である。消費者金融などのリテール分野は、成長の期待される部門だが、日本では「サラ金」という特異な業態として社会から白眼視されてきた。いま日本で必要なのは、ハイリスク・ハイリターンのオプションを広げ、新しい分野にチャレンジする機会を増やすことだ。ところが長期にわたる「量的緩和」のおかげで不良銀行が延命され、企業金融の多様化は中途半端に終わってしまった。さらに今回のような規制強化が行われると、外資を含めたファイナンス業界の競争が阻害され、日本経済全体にも悪い影響が出るだろう。

(*)これは誤り。アメリカ(連邦レベル)・イギリスには上限規制はないが、ドイツ・フランスにはある。ただし金融庁の懇談会に提出されたACCJの資料によれば、多重債務や違法貸付の問題は、イギリスよりもドイツ・フランスのほうが多い。

SIMロックの解除は犯罪か

きのう警視庁は、携帯電話のSIMカードのロックを解除して売っていた業者L&Kの社長を、商標法違反と不正競争防止法違反などの容疑で逮捕した。気になるのは、メディアの扱いである。たとえばTBSは(おそらく警視庁のリークで)事前取材をした形跡があり、この商売をいかにもいかがわしいものとして描いている。テレビ朝日の「報道ステーション」でも、解説者が「こういう不正改造を許したら携帯電話業者のビジネスは成り立たない」とコメントしていた。

果たしてそうか。SIMカードは、もとはヨーロッパ統一規格のGSMで、一つの端末を各国で使うためにできたものだ。端末とSIMカード(携帯電話アカウント)を別に売っているので、一つのカードで複数の端末を使うこともできる。これによって端末とサービスがアンバンドルされ、両方の市場で競争が促進された結果、GSM端末の原価は日本の携帯電話よりも一桁ぐらい安く、通話料金も日本よりはるかに安い。端末の国際的ポータビリティは、ヨーロッパでは当たり前なのである。

これに対して、日本では郵政省がPDCというNTTローカル規格に一本化したおかげで、市場が広がらず、携帯電話オペレータが端末を買い取って流通を支配する垂直統合型の構造ができてしまった。したがってPDCの端末には、SIMカードはない。W-CDMAは世界共通規格なので、UIMというSIMと同様のカードが内蔵されているが、日本のオペレータは垂直統合のビジネスを守るため、端末にロックをかけて他社のUIMでは動かないようにしている。L&Kは、このロックを解除し、日本の端末で中国などのUIMが使えるようにして輸出していたのである。

しかし、このビジネスのどこが悪いのか。これは技術的には「不正改造」ではなく、端末の本来の機能を使えるようにするだけである(日本でもNokiaの端末ではSIMが交換できる)。商標法違反という容疑も理解に苦しむが、それは逮捕しなければならないような凶悪犯罪なのか。すでにブログでも、たとえばタイ在住者から次のような批判が出ている:
仕事でタイにしょっちゅう来ている人。当然タイでも携帯電話を使いたいですよね。国際ローミングなんて、ばかばかしい値段を払いたくないし。一台の携帯で、SIMカードだけ交換して使えれば便利ですよね。[・・・]「各社の販売戦略上の理由などから、」SIMロックなんてばかばかしいことが行われていることが間違っているわけで。
日本では、オペレータが販売店に多額のインセンティブを出し、販売店はこれを原資にして端末を大幅に割り引き、オペレータはインセンティブのコストを通話料に上乗せして回収するしくみになっている。L&Kのように端末を安く買って解約し、改造して高く転売されると、インセンティブがまるまる損失になってしまう、ということらしいが、これはビジネス上の問題にすぎず、警察の動くような事件ではない。オペレータが端末1台4万円以上という異常なインセンティブを下げ、異常に高い通話料金を値下げすればいいのである。

10月から、ナンバー・ポータビリティ(MNP)が始まる。その大義名分は「競争の促進」だが、数千億円もかかるMNPに比べて、SIMロックを解除して端末をポータブルにするコストはゼロである。端末をもとのまま使えばいいからだ。欧米で行われている競争促進策は、どんなコストがかかっても業者に強制するが、日本だけでやっている(*)競争制限策は放置する総務省のダブルスタンダードも問題だが、さらに問題なのは、競争を促進する業者を「別件逮捕」する警察と、その尻馬に乗って業者を犯罪者扱いするメディアである

ケータイWatchによれば、今回の事件を警視庁に垂れ込んだのはボーダフォンだという。同社は10月からソフトバンクモバイルになるが、かつてADSLでNTTに対して果敢な価格競争を挑んだソフトバンクが、警察まで使って閉鎖的なビジネスモデルを守ろうとするのは筋が通らない。むしろ率先してSIMロックを解除し、グローバルな端末を使って価格競争を仕掛けることが挑戦者らしいのではないか。

(*)これは事実誤認だった。SIM lockは海外でも行われている。しかしEUでは、これは反競争的な行為として規制され、オペレータは消費者が要求した場合にはロックを解除することが義務づけられている。総務省は、ロック解除が違法行為ではないことを言明し、消費者の求めに応じて解除することを義務づけるべきだ。

追記:TBで指摘されたが、総務省もSIMロックの規制は検討しているようだ。とすれば今度の逮捕は、総務省にも相談しないで警視庁が「暴走」したものと思われる。

愛国心の進化

毎年この季節になると、靖国神社をめぐる不毛な議論が繰り返される。メディアでは、首相の参拝に反対の意見が多いが、世論調査では逆だ。特に若い世代では、70%以上が賛成している。これは「中国や韓国が介入するのは許せない」という感情的な反発によるものだろう。当ブログの『国家の品格』スレも、コメントが200に達してまだ続いているが、藤原氏を批判する人々がその事実誤認や論理の矛盾を指摘するのに対して、擁護する人々は「愛国心は理屈ではない」と反発するのが特徴だ。

教育基本法の改正でも、愛国心が論議になっているが、それは「伝統や郷土を愛する心」というような自然な感情ではない。愛国心が存在するためには、当然その対象である国家が存在しなければならないが、主権国家という概念は17世紀以降の西欧文化圏に固有の制度であり、家族や村落などの自然な共同体とは違う。国家は、ベネディクト・アンダーソンのいう想像の共同体であり、具体的な実体をもたないがゆえに、それを愛する心は人工的につくらなければならないのである。

近代国家が成功したのは、それが戦争機械として強力だったからである。ローマ帝国や都市国家の軍事力は傭兵だったため、金銭しだいで簡単に寝返り、戦力としては当てにならなかった。それに対して、近代国家では国民を徴兵制度によって大量に動員する。これが成功するには兵士は、金銭的な動機ではなく、国のために命を捨てるという利他的な動機で戦わなければならない。逆にいうと、このような愛国心を作り出すことに成功した国家が戦争に勝ち残るのである。

こういう利他的な行動を遺伝子レベルで説明するのが、群淘汰(正確にいうと多レベル淘汰)の理論である。通常の進化論では、淘汰圧は個体レベルのみで働くと考えるが、実際には群レベルでも働く。動物の母親が命を捨てて子供を守る行動は、個体を犠牲にして種を守る「利他的な遺伝子」によるものと考えられる。ただし、こういう遺伝子は、個体レベルでは利己的な遺伝子に勝てないので、それが機能するのは、対外的な競争が激しく、群内の個体の相互依存関係が強い場合である。内輪もめを続けていると、群全体が滅亡してしまうからだ。利他的行動は戦争と共進化するのである。

人間の場合にも、利己的な行動を憎む感情の原因は、利他的な遺伝子だと考えられるが、ミーム(文化的遺伝子)の影響も強い。そもそも明治以前には、日本という国民国家が成立していなかったのだから、愛国心という概念もなかった(したがって江戸時代の武士道を引き合いに出して国家を論じる藤原氏の議論はナンセンス)。しかしアジアが帝国主義諸国の植民地支配下に置かれるなかで、日本は急いで国家意識の育成につとめた。その天皇制のミームが近代化を支えたわけだが、他方ではそれが暴走して破局的な戦争をまねいた。

ミームも多レベルで進化するから、愛国心(利他的なミーム)が機能するのは、国家間で争いが激しく、国内ではあまり激しくない場合に限られる。現在のように対外的に平和になる一方、国内で競争が激しくなると、愛国心が薄れるのは当然である。それを強めるには、愛国心教育を行うよりも、対外的に敵をつくるほうが有効だ。その意味で、中国や韓国を挑発して敵を作り出した小泉首相の演出は、なかなか巧みだったといえよう。

こういうナショナリズムは感情の問題だから、論理的に説得するのは無駄だし、「アジアの国民感情」を理由にして封じ込めようとするのは、かえって反発を強めてしまう。その感情は、靖国神社のようなシンボリックな装置によって演出されるものだから、散文的な「国立追悼施設」は代替策にはならない。むしろ小泉氏が引退して、安倍氏が参拝しなければ、問題は自然消滅するのではないか。いま日本が、中国・韓国と本当の意味で争う理由はないからである。

制度の経済学

Microeconomics: Behavior, Institutions, and Evolution

Samuel Bowles

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著者は、1970年代に「ラディカル・エコノミスト」として活躍した経済学者。本書にも、マルクスへの言及がたくさんあるなど、その影響は残っているが、分析用具は意外にオーソドックスだ。裏表紙では、Maskin、Rubinstein、Arrow、Binmoreといった主流派の巨匠が、本書を「最新の成果を踏まえたオリジナルな教科書」として賞賛している。日本のマル経のように「床屋評論家」にならないのは立派なものだ。

新古典派の教科書には、「市場」の説明はあっても「資本主義」の説明はない。そのコアであるArrow-Debreuモデルにおいて一般均衡の成立する条件がきわめて非現実であることはよく知られているが、その後この条件をゆるめる研究はみんな失敗し、そのうち一般均衡にはだれも興味をもたなくなった。しかし資本主義が(少なくとも社会主義よりは)うまく機能したことは事実だから、その理由は一般均衡のような「空想的資本主義」ではなく、もっと現実的なコーディネーション装置に求めなければならない。

本書は、そうした「制度」としての資本主義を、いろいろな分析用具を使って説明する。消費者行動の説明には限界効用ではなく行動経済学が使われ、企業の理論には不完備契約、経済全体のコーディネーションにはゲーム理論が使われる。特に重視しているのは、市場による分権的コーディネーションを支える制度としての財産権で、その発生を進化ゲームでシミュレーションしている。

ただ応用されている個々の理論は既知のもので、オリジナリティはあまりない。制度を内生的に説明しようとする点は(著者の盟友だった)青木昌彦氏の「比較制度分析」と似ているが、分析用具の選択がアドホックで、体系的に説明されていないので、教科書としては中途半端だ。明らかに初心者向きではないが、体系的なだけがとりえの新古典派の教科書に飽きた人には、それを補完する刺激的な「制度の経済学」の入門書としておもしろいだろう。

Web2.0の経済学

Web2.0という言葉ほど、定義の不明なまま濫用されているバズワードも珍しい。いまだに「Web2.0って何だ?それを気にする必要はあるのか?」というコラムが書かれている。その特徴は、しいていえばユーザーによる情報生産ウェブベースのサービスという点だろう。このいずれも今に始まったものではないが、それが顕著な特徴としてみられるようになったのは最近である。その理由を少し経済学的に考え、概念を整理してみよう。

ネットワークの経済学というのは古くからある分野で、有名なのはBolton-Dewatripontだが、その基本的な考え方は単純だ。個人をプロセッサ、組織をネットワークと考え、情報処理コストと通信コストのどちらが相対的に高いかによってネットワークの構造が変わると考えるのである。簡単にいうと、情報処理コストが高いときには集中処理したほうがよく、通信コストが高いときには分散処理したほうがよい

電話網のような回線交換は、情報処理コストが禁止的に高いとき、交換機でネットワークを集中的にコントロールするもので、端末は電話機のようなdumb terminalになる。これに対してインターネットのようなパケット交換は、(専用線の)通信コストがきわめて高いとき、ネットワークを共有して必要なときだけパケットを送るものである。ここでは個々のホストが自律的な単位で、ネットワークはホストを結ぶだけのdumb networkになる。これが「ユーザーがネットワークをコントロールする」というインターネットのE2Eの構造である。

しかしインターネットが一般ユーザーに普及すると、E2Eの原則は非現実的になる。ユーザーの処理能力が情報量の増加に追いつけないので、ISPのメールサーバやウェブサーバなどで代行処理するようになるわけだ。これをWeb1.0と定義すると、それは原初的なE2Eに比べて、個人の情報処理コストが上がったため、ネットワークのコントロールを部分的にサーバに集中するものである。ここでは通信インフラは主としてダイヤルアップなので、処理はサーバ側に任せきりにすることが多い。

ではWeb2.0とは何か。それはブロードバンド(常時接続)によってネットワークに滞留するコストが大きく低下すると同時に、ウェブ・アプリケーションの発達でユーザーの情報処理能力が上がった結果、分散的に情報生産が行われるようになったものと考えることができる。他方、インフラやプラットフォームはサーバ側に集中する傾向が強いが、その役割はユーザーの情報生産をサポートする従属的なものになる。この点で、インフラは超集中型だが、情報のランキングはユーザーによるリンクの数で決めるグーグルは、Web2.0のモデルといえよう。

こういう変化は、ファイナンスの世界ではよく知られている。インターネットで一時はやったdisintermediation(中抜き)という言葉も、もとはファイナンス用語で、ITの発達によって銀行のような金融仲介機能が不要になり、「直接金融」に移行するという意味で使われたものだ。しかし現実にはそんなことは起こらず、証券会社やファンドのようなリスクとリターンを顧客がコントロールする仲介機関が相対的に増えただけである。Web1.0がリスクもリターンもサーバ側でプールする「銀行型」だったとすると、Web2.0の特徴は、そのコントロールをユーザーにゆだねる「証券型」である。

これまではインフラと情報をともに集中するか分散するかという選択しかなかったが、これをレイヤー別に分解し、インフラはサーバ側に集中し、情報処理はユーザー側に分散するのがWeb2.0の特徴だと考えれば、統一的に理解できるのではないか。これはブロードバンドで物理的な通信コストが下がる一方、ムーアの法則によって情報処理コストも指数関数的に低下し続けているためである。もちろん銀行と証券が併存しているように、1.0と2.0も併存するだろうが、仲介機能の多様化にともなって後者の比重が高まってゆくと予想される。

しかし今後、インターネットで映像が伝送されるようになると、通信コストが相対的に高くなり、サーバがボトルネックになる可能性が高い。したがってWeb3.0が登場するとすれば、それはインフラも情報処理もピアに分散してユーザー側でコントロールするP2P型だろう。

放送ゼネコン

CBSが、9月から始まる新番組"Evening News with Katie Couric"をウェブで同時放送すると発表した。これはネットワーク局としては初めてである。これまでテレビ局が同時放送をためらっていたのは、それが広がると、ただでさえ難航している地上デジタル放送が、インターネットに中抜きされてしまうことを恐れていたからだ。しかしテレビ視聴者が高齢化しているため、スポンサーから若い視聴者を獲得するよう求められ、背に腹は代えられなくなったというのが実情らしい。

他方、日本では、海外から日本の番組を見る「まねきTV」のサービス中止を求めて訴訟を起こしていたテレビ局が敗訴した。同様の事件としては、昨年「録画ネット」事件でテレビ局側が勝訴したが、今回の判断はその流れを変えるものだ。こうした一連の訴訟の背景には、同様のサービスであるサーバー型放送と競合するサービスをつぶそうというテレビ局のねらいがある。

アメリカでも日本でも、デジタル放送が行き詰まっている状況は同じだが、アメリカでは曲がりなりにもインターネットに対応しようとしているのに、日本ではもっぱら後ろ向きの妨害工作に懸命だ。おまけにコピーワンスとかサーバー型放送とか、既得権を守るための「独自技術」まで開発している。よくもこういう後ろ向きの知恵ばかり次々と出てくるものだ。

しかしNHKの元同僚によれば、テレビ局の経営者には、良くも悪くもそんな知恵はないという。こういう知恵をつけるのは、家電メーカーらしい。メーカーの中でも放送部門は、民生品とほとんど同じ機材をテレビ局に随意契約で高く売りつけてもうけているので、利益率は高いが、成熟分野で、いつもリストラの対象にあげられている。そこで、こういう後ろ向きの技術を開発して、またテレビ局から金を引き出そうというわけだ。要するに、テレビ局も「放送ゼネコン」の食い物にされているのである

デジタル放送は、家電メーカーにとっては、サービスが失敗しても大型家電が売れるノーリスク・ハイリターンだが、テレビ局にとっては投資リスクは大きく増収はゼロのハイリスク・ノーリターンである。こういうプロジェクトに1兆円以上つぎこむのは、お人好しというしかない。テレビ局も、そろそろだまされていることに気づいてはどうだろうか。


スクリーンショット 2021-06-09 172303
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