国家の品格

数学者の書いた国家論(?)がベストセラーになっているというので、読んでみた(新潮新書)。感想としては、これが売れる理由はよくわかるが、教えられることは何もない。「グローバリズム」を批判して日本の「伝統」を大事にすべきだ、という類の議論は、目新しいものではない。珍しいのは、数学者が「論理よりも情緒が大事だ」と論じていることだが、これも中身は「論理の無矛盾性は仮説が真であることを保証しない」という常識論だ。

この種の議論の弱点は、「市場原理主義」が悪だというなら、それよりよい制度とは何か、という対案がないことだ。著者が提示する対案は、なんと「武士道」だが、それは新渡戸稲造の近代版であって、現実の武士が武士道にもとづいて行動していたわけではない。

数学についての議論はおもしろいが、専門外の問題になると馬脚をあらわす。経済学を批判している部分などは、ハイエクやフリードマンを「新古典派の元祖」とするお粗末さだ。致命的なのは、タイトルに「国家」と銘打ちながら、国家についての考察が欠けていることだ。著者が理想化する「品格ある国家」とは、プラトン的な「賢人政治」だが、そんな国家は歴史上どこにも存在したことはない。

要するに、著者が数学者であることを除けば、フジ・サンケイ・グループの雑誌によくある「床屋政談」にすぎない。ただ著者は新田次郎の息子だけあって、文章は読みやすく、ユーモアもある。オジサンが電車のなかで読むにはいいかもしれない。

追記:この記事は、グーグルで「国家の品格」で検索すると、第6位に出てくる。反響にこたえて、4月3日8日の記事でも本書について書いた。

電波利権

07174e88.jpg
拙著が刷り上がり、アマゾンにもエントリーした。都内では、週末には本屋に並ぶだろう。タイトルは、ちょっと悪趣味かもしれないが、帯のキャッチフレーズ(私が決めたのではない)はもっとどぎつい。

店頭のポップには「NHKは民営化できる!」と銘打つそうだから、時節柄、数万部ぐらいは売れるかも知れない。『バカの壁』の1割でも売れてくれれば、今年は遊んで暮らせるのだが...

1970年体制の終焉

「情報通信省」の話は、見る見るうちに中央省庁全体の再々編に発展し、来週出される自民党の運動方針案にも急きょ盛り込まれることになった。1999年に再編したNTTの再々編に和田社長が「時期尚早」だとかいっているのに、2001年の省庁再編をもう見直すというのだから、今や自民党のほうがスピード感がある。

これに対しては「朝令暮改だ」という批判も当然あるが、ドッグイヤーのIT業界では、朝令暮改を恐れていては何もできない。政治的にも、かつて橋本政権で行われた省庁再編を台なしにした郵政族が壊滅した今こそ、総務省を解体して津島派(田中角栄以来の利権集団)をたたきつぶそうというのは、郵政民営化の続きとしては一貫しているともいえる。

その再々編を実行することになるのは、下馬評によれば安倍晋三氏になる可能性が高い。彼が岸信介の孫であることは、偶然ではない。これは1970年代から旧田中派によって築き上げられた「大きな政府」路線を否定し、自民党を岸に連なる「保守本流」の路線に引き戻すことに他ならないのである。

「1970年体制」という見方は、かなり前から奥野正寛氏などの経済学者によって提唱され、原田泰氏は『1970年体制の終焉』(東洋経済)という本も書いている。去年、話題になった増田悦佐氏の『高度経済成長は復活できる』(文春新書)も、田中型の「弱者救済」政治が日本の成長率を低下させたという議論だ。

そしてバブルの崩壊とともに1970年体制が終わる、という見通しも彼らに共通している。しかし、それに代わる「2005年体制」(?)はどんな時代なのだろうか。まさか「高度経済成長」ではないだろうが...

中山素平氏

中山素平氏が亡くなった。GLOCOMの特別顧問だったので、たまに話すことがあった。私がRIETIに行くとき、「君のような曲がったことのきらいな性格では、役所なんて1年ももたないよ」といわれた。RIETIを辞めたあと、「3年もちましたよ」といったら笑っておられた。

去年の裁判のときも、一貫して私を応援してくださった。そのとき何度か話して、彼が「鞍馬天狗」といわれた所以がわかった。目の前の現象に右往左往せず、つねに大局を見ているということだ。結論を出すまでにはセカンド・オピニオンを聞いたりして慎重だが、いったん決めたらぶれない。

これは興銀が国策銀行だったころからのよき伝統だろう。目先の利害よりも「日本にとって何が大事か」という観点から考える。これは、大きな問題であればあるほど、なかなかできないことだ。だから90歳を超えてからも、政財界のトップがよく相談に来ていた。

新聞で、小林陽太郎氏がまるで中山氏の後継者のような顔をしてコメントしているが、彼は中山氏とは逆の経営者だ。騒ぎが起きると右往左往し、いったん決めた人事をひっくり返す。最近は断絶状態で、中山氏は「小林は閲兵式のときなどは見映えがするが、経営はだめだ」といっておられた。

インターネット・ガバナンスという「非問題」

チュニジアで行われていた国連のWSISは、幸い何も決めずに終わったようだ。中国などの主張する「インターネットを米国の独占にするな」という主張に、一時はEUが同調したが、結局「独占」の具体的な弊害は何か、という点で「国連派」の主張があやふやなため、今後は小規模な「フォーラム」で具体的な問題を話し合おうという形で、問題を先送りして終わった。

中国などの本音は、インターネットを政府の管理下において検閲しようということである。それを公式の場でいえないから、無内容な「独占の弊害」について延々と議論が行われてきた。こんな「非問題」を論じる場を(インターネットに何の権限もない)国連が開くのもおかしいし、そういうのに出て行くインターネット側のメンバーも不見識だ。こんなのはボイコットすべきだ。

地上デジタル放送についての情報通信審議会第2次中間答申に対する意見

きょう次のようなパブリック・コメントを情報通信政策フォーラムとして提出した:

意見:放送のデジタル化は、当該放送地域内に限定せず、全国にひろく伝送できるIPの特長を生かすべきである。

理由:今回の答申で「伝送路の融合」が強調され、IPマルチキャストや通信衛星の利用が提言されているのは、大きな前進である。とりわけIP伝送について、「条件不利地域」にかぎらず積極的に導入すべきとする答申の方針は、高く評価できる。その物理的なインフラは光ファイバーである必要はなく、DSLや無線LANなども活用すべきである。

問題は、IP伝送が「当該放送地域内に限定される」ことを条件としている点である。IPの特長は低コストで情報を全世界に伝達できる点にあり、これを人為的に制限することは、その特長を減殺し、視聴者の選択の幅を狭める。現在でも放送地域外で見ている視聴者は多く、県域放送の原則は厳密に守られているわけではないし、守る意味もない。

放送局は、放送地域外にIP伝送されれば地方局の既得権が脅かされると考えているのだろうが、問題は逆である。現在のデジタル化では新たな収入源はほとんどないが、県域を超えてIP伝送できるようになれば、全国127社の民放がすべて全国放送でき、放送業界に競争が導入され、新たな収入源ともなろう。これによって番組が多様化し、民放にデジタル化のインセンティブが生まれれば、普及が急速に進むかもしれない。

あと6年でアナログ放送を無条件に止めるというのは、世界にも例のない方針であり、視聴者に理解されなければ実現は不可能である。したがって第一に配慮すべきなのは、放送局の既得権ではなく、視聴者にとっていかに魅力的な放送を低コストで行うかということである。このためには、既存の方針を大胆に見直し、多様なインフラを活用することが望まれる。

私はなぜNHKを辞めたのか

「あなたはなんでNHKのようないい会社をやめたのか?」という質問は、今まで50回ぐらい受けた。たしかに公平にみてNHKは、仕事が楽で給料が高いという点では、日本で一番いい会社だったと思う。それをなぜ辞めたのかは、正確に答えると大変なので笑ってすませていたが、最近また聞かれたので、昔の原稿で答えておこう。続きを読む

サルトルの世紀

朝日新聞と日経新聞の書評で、ベルナール=アンリ・レヴィ『サルトルの世紀』(藤原書店)がそろってトップに取り上げられていた。たしかに、論証に荒っぽいところはあるが、サルトル論としては圧倒的におもしろい。

もはや「忘れられた哲学者」に近いサルトルの戦前の著作を再評価し、そこに「物の味方」としての「第一のサルトル」を見出すという発想は斬新で、またそれなりに説得力がある。マロニエの木の根元を見て吐き気をもよおすロカンタンの姿に「本質の不在」というポストモダン的なテーマを見ることは可能である。

しかし、初期サルトルの「反本質主義」を「反ヒューマニズム」と置き換えるのは、ちょっと乱暴だ。本質に先立って実存する主体は「自己」であり、サルトルはその主体(人間)そのものは疑っていないからだ。むしろ、ヘーゲル的な主体=実体を否定しつつ、実体なき主体としての自己を認めたところに、サルトルの中途半端さがあったのではないか。

これは戦後の「第二のサルトル」の惨憺たる失敗をどう理解するかという問題ともからむ。著者は、これを「第一のサルトル」と並列し、二人のサルトルが晩年まで同居していたのだとして、両者の関連についての説明を放棄しているが、これはいかがなものか。むしろ初期の哲学からあった「強いエゴ」が肥大化して「党」の絶対化につながったのではないか。

未整理で冗漫な部分も多いが、語り口はジャーナリスティックで読みやすく、900ページも一気に読める。良くも悪くも、サルトルが20世紀を代表したことは間違いない。彼の矛盾は、われわれの時代の矛盾でもあるのかもしれない。

逆囚人のジレンマ

道路公団をめぐる談合事件は、元理事が逮捕されるに至り、公団職員の関与も疑われている。しかし財界の動きはにぶく、経団連の奥田会長も「長年の慣習で、簡単にはやめられない」などと歯切れがよくない。これは談合に(少なくとも主観的には)一種の合理性があることを示唆している。

談合は、ゲーム理論でおなじみの「フォーク定理」で合理的に説明できる。1回かぎりの入札では抜け駆けで得をしても、それによって業界から追放され、指名入札に入れてもらえなくなったら、長期的には損をするからだ。しかし談合の場合には、この「サブゲーム完全均衡」は犯罪であり、ばれたら全員が最悪の状態になる。つまりここでは、通常の囚人のジレンマとは逆に、非常にリスクの大きな「協力」=談合に全員がトラップされているのである。

こういう「逆囚人のジレンマ」を壊すのは簡単である。すべての工事を一般競争入札にして、抜け駆けできるアウトサイダーを入れればいいのだ。しかしこういう解決法では、手抜き工事が行われる可能性があるので、工事の監視をきびしくするなどの事後的な行政コストが高くなる。談合は、業界内で互いに監視して品質を管理する役割もになっていたわけだ。

こういう「自主監視」のしくみは、終戦直後のような混乱した時期には必要だったかもしれない。しかし工事の質が上がり、行政による監視も厳重になった現在では、談合の積極的な意味はもう失われたのだ。奥田会長のいう「自由競争にしたら弱い会社が生き残れない」というのは理由にならない。競争が長期的には会社を強くすることは、トヨタがいちばんよく知っているはずだ。

核燃料サイクルはなぜ止められないのか

原子力と政治:ポスト三一一の政策過程
アゴラにも書いたように、核燃料サイクルがビジネスとして成り立たないことは、電力会社の経営者も技術者もわかっている。役所も2004年に「19兆円の請求書」を出したときからわかっていた。それなのに、なぜ20年近く止まらないのか。

それは「使用ずみ核燃料は青森県六ヶ所村の再処理工場に送る」という前提で、全国の原発が動いているからだ。これを知らないで2012年に「革新的エネルギー・環境戦略」で「原発ゼロ」を打ち出した民主党政権は、青森県知事に拒否権を発動されて挫折した。

青森県と電力会社の結んだ協定では、六ヶ所村でつくるプルトニウムは、他に運んで核燃料として利用することになっていた。しかし原発ゼロにするなら核燃料サイクルもなくなるので、再処理は必要ない。六ヶ所村にあった約3000トンの核廃棄物は「すべて発電所に送り返す」と青森県知事は通告したのだ。おかげで民主党政権は「戦略」を閣議決定できなかった。

もし河野太郎氏が首相になると、同じ問題に直面するだろう。彼が「核燃料サイクルをやめる」と決めると、青森県は「使用ずみ核燃料を送り返す」と通告するかもしれない。河野氏は民主党政権と違ってこの分野のエキスパートだから、その対策は考えているはずだ。

最終処分地は六ヶ所村にある

技術的には、この問題は解決できる。全国の各原発のサイト内で使用ずみ核燃料を乾式貯蔵し、十分冷却してから最終処分地に運べばいいのだ。これは今でも地元との協定を結んでやっている発電所があり、50年でも100年でも「中間貯蔵」することは可能である。

六ヶ所村も同じだ。フォン・ヒッペルなどの専門家が提言しているように、再処理工場でキャスクに入れて乾式貯蔵すればよい。今は協定で50年以内に搬出することになっているが、これを延長して半永久的に貯蔵すればいいのだ。

むつ小川原は、かつて石油コンビナートを建設するために造成されたが、それが挫折したまま放置され、図のように再処理工場に使われているのはごく一部で、今でも約250km2が空いている。

スクリーンショット 2021-09-12 155259

これは大阪市とほぼ同じ面積で、使用ずみ核燃料を300年分以上、収容できる。再処理工場を建設するとき、地盤などの問題はすべてクリアしたので、使用ずみ核燃料を置くには適している。

反対派を説得できるのは河野氏しかいない

ではなぜこの問題が迷走しているのか。それは国と青森県との間で六ヶ所村を最終処分地にしないという確認書を歴代の知事とかわしたからだ。民主党政権でも、2012年8月に枝野経産相が三村知事に対して「青森県に最終処分場をお願いすることはない」と確認した。

これには複雑な経緯があり、かつて激しい反対運動に対して「六ヶ所村は工場であって核のゴミ捨て場ではない」といって住民を説得した経緯もあるらしい。この約束には法的拘束力はないが、地元の了解なしに国が方針を変更することはできない。

これは福島第一原発の処理水と似たような問題である。再処理工場の敷地の用途を変更することは法的には問題がなくても、「約束違反だ」とか「六ヶ所村を核のゴミ捨て場にするな」という反対運動が起こる可能性がある。それを説得できるのは、河野氏しかいない。この問題のコアは技術ではなく感情なので、政治が解決できるのだ。



記事検索
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
Creative Commons
  • ライブドアブログ