最近、ホワイトカラー・エグゼンプションをめぐって議論が盛んになっている。こういうわかりにくい英語で議論するのも問題だが、状況もわかりにくい。政府部内でも、厚労省は通常国会に労働基準法の改正案を提出する方針だが、公明党ばかりか自民党からも慎重論が出ている。安倍首相は「少子化対策に役立つ」と発言して失笑を買ったが、その後慎重論に転じた。野党は全面対決の構えで、提出されれば対決法案になりそうだ。しかしこういう議論をしている人々は、ホワイトカラー、特に勤務時間の不規則な情報産業の労働者の実態を知っているのだろうか。
私がかつて勤務していたNHKは、おそらく日本でもっとも早く残業時間をとっぱらった企業のひとつだろう。1970年代から、記者には「特定時間外」という制度が適用され、一定時間の「みなし残業」によって賃金が支払われていた。それ以外の職種は、ほとんど同じような仕事をしている(私のような)ディレクターも含めて、普通の時間外規制のもとで勤務していた。
どっちが勤務実態に即しているかといえば、明らかに記者のほうだった。報道局の中でも、ニュース番組のようなデイリーの仕事をやっていると、残業はすぐ100時間近くになってしまう。こういう場合、NHKのタイムカードは、打刻していない部分を手書きで修正できるようになっていた(!)ので、法定残業時間(50時間)に収まるように修正する「サービス残業」が常態化していた。他方、教育番組のような暇な職場では残業はほとんどないので、逆に残業時間を手書きで水増しするのが普通だった。要するに、残業規制なんて形骸化しているのだ。
今では、テレビ局のような仕事は「裁量労働制」が適用できるから、もう少し柔軟になっているかもしれない。また他の業種でも、「機長全員管理職」で有名な日本航空のように、管理職にすれば残業規制をまぬがれるので、「店長」などの管理職を量産している企業が多い。私がいま代表取締役を務めている会社などは、全社員が請負契約である。こうすれば雇用にからむ余計な規制がなくなり、勤務時間は自由だし「在宅勤務」でもよい。このように雇用はすでに多様化しており、今度の制度改正もそういう実態に合わせて規制を整理する意味あいが強い。
これを「残業代ゼロ法案」などと呼ぶのは誤りだ。厚労省は、現在の残業手当が総額で減らない水準をめどにしているので、これはNHKの記者と同じ「残業手当の定額制」である。手当をなくしたら「長時間労働の歯止めがなくなる」と労働組合などは反対しているが、上にのべたように今でも歯止めなんかないのだ。実態的な歯止めは労使の力関係であり、労働分配率が低下しているのは、長期不況によって労組の交渉力が低下したためである。これは規制を強化しても変えられない。
いま日本で重要なのは、既存の雇用を守ることではなく、新しい雇用を創造することである。雇用規制は、社内失業している中高年を守る役には立つかもしれないが、新しい企業の雇用コストを高め、雇用創造を困難にする。労働市場から締め出されているニートを救済するには、雇用規制を弱めて少しでも労働需要を増やすことが重要だ。「弱者」の名を借りて労組が既得権を守ろうとするのは、おなじみのレトリックだが、労組の組織率が18%まで低下した今日では、彼らは労働者を代表してはいない。
労働を時間で測るのは、工業社会の遺物である。商品の価値が労働時間で決まるという労働価値説は100年以上前に否定されたのに、いまだに賃金が労働時間で決まっているのが時代錯誤なのだ。定刻に出勤・退勤するのは機械制工業のなごりであり、情報社会では人々は時計で同期する必要はない。
もちろん製造業では、いまだに資本設備をもつ資本家と労働者の力関係の違いは大きい。企業理論が教えるように、資本家が物的資本の所有権によって労働者を間接的に支配することが資本主義の根幹である。しかし、すべての労働者が資本設備(コンピュータ)をもつ情報産業では資本主義の前提が崩れ、個人がE2E的に契約ベースで生産を行うことが可能になった。
ここで知的生産の鍵になるのは、物的資本ではなく人的資本であり、それをいかに効率的に配置するかが労働生産性にとって決定的に重要だ。長期不況の間に、日本の労働生産性はG7諸国で最低になってしまった。このまま低生産性・高コストが続けば、雇用は中国に流出するだろう。「フラット化」する世界の中で日本の企業と労働者が生き残るには、むしろ率先して雇用の多様化を進める必要がある。
追記:結局、法案の提出は見送られた。財界も「残業代ゼロ法案」という名前が悪かったと反省しているようだが、「エグゼンプション」なんてわかりにくい名前で議論した厚生労働省が悪い。これを機会に、霞ヶ関のカタカナ言葉を整理してはどうか。
私がかつて勤務していたNHKは、おそらく日本でもっとも早く残業時間をとっぱらった企業のひとつだろう。1970年代から、記者には「特定時間外」という制度が適用され、一定時間の「みなし残業」によって賃金が支払われていた。それ以外の職種は、ほとんど同じような仕事をしている(私のような)ディレクターも含めて、普通の時間外規制のもとで勤務していた。
どっちが勤務実態に即しているかといえば、明らかに記者のほうだった。報道局の中でも、ニュース番組のようなデイリーの仕事をやっていると、残業はすぐ100時間近くになってしまう。こういう場合、NHKのタイムカードは、打刻していない部分を手書きで修正できるようになっていた(!)ので、法定残業時間(50時間)に収まるように修正する「サービス残業」が常態化していた。他方、教育番組のような暇な職場では残業はほとんどないので、逆に残業時間を手書きで水増しするのが普通だった。要するに、残業規制なんて形骸化しているのだ。
今では、テレビ局のような仕事は「裁量労働制」が適用できるから、もう少し柔軟になっているかもしれない。また他の業種でも、「機長全員管理職」で有名な日本航空のように、管理職にすれば残業規制をまぬがれるので、「店長」などの管理職を量産している企業が多い。私がいま代表取締役を務めている会社などは、全社員が請負契約である。こうすれば雇用にからむ余計な規制がなくなり、勤務時間は自由だし「在宅勤務」でもよい。このように雇用はすでに多様化しており、今度の制度改正もそういう実態に合わせて規制を整理する意味あいが強い。
これを「残業代ゼロ法案」などと呼ぶのは誤りだ。厚労省は、現在の残業手当が総額で減らない水準をめどにしているので、これはNHKの記者と同じ「残業手当の定額制」である。手当をなくしたら「長時間労働の歯止めがなくなる」と労働組合などは反対しているが、上にのべたように今でも歯止めなんかないのだ。実態的な歯止めは労使の力関係であり、労働分配率が低下しているのは、長期不況によって労組の交渉力が低下したためである。これは規制を強化しても変えられない。
いま日本で重要なのは、既存の雇用を守ることではなく、新しい雇用を創造することである。雇用規制は、社内失業している中高年を守る役には立つかもしれないが、新しい企業の雇用コストを高め、雇用創造を困難にする。労働市場から締め出されているニートを救済するには、雇用規制を弱めて少しでも労働需要を増やすことが重要だ。「弱者」の名を借りて労組が既得権を守ろうとするのは、おなじみのレトリックだが、労組の組織率が18%まで低下した今日では、彼らは労働者を代表してはいない。
労働を時間で測るのは、工業社会の遺物である。商品の価値が労働時間で決まるという労働価値説は100年以上前に否定されたのに、いまだに賃金が労働時間で決まっているのが時代錯誤なのだ。定刻に出勤・退勤するのは機械制工業のなごりであり、情報社会では人々は時計で同期する必要はない。
もちろん製造業では、いまだに資本設備をもつ資本家と労働者の力関係の違いは大きい。企業理論が教えるように、資本家が物的資本の所有権によって労働者を間接的に支配することが資本主義の根幹である。しかし、すべての労働者が資本設備(コンピュータ)をもつ情報産業では資本主義の前提が崩れ、個人がE2E的に契約ベースで生産を行うことが可能になった。
ここで知的生産の鍵になるのは、物的資本ではなく人的資本であり、それをいかに効率的に配置するかが労働生産性にとって決定的に重要だ。長期不況の間に、日本の労働生産性はG7諸国で最低になってしまった。このまま低生産性・高コストが続けば、雇用は中国に流出するだろう。「フラット化」する世界の中で日本の企業と労働者が生き残るには、むしろ率先して雇用の多様化を進める必要がある。
追記:結局、法案の提出は見送られた。財界も「残業代ゼロ法案」という名前が悪かったと反省しているようだが、「エグゼンプション」なんてわかりにくい名前で議論した厚生労働省が悪い。これを機会に、霞ヶ関のカタカナ言葉を整理してはどうか。