「さよならマルクス」と題したブログの記事がある。何の話かと思ったら、学校教育に「弱肉強食」の競争原理を持ち込むな、という教育再生会議の批判だ。その論旨はともかく、問題は『資本論』の児童労働に関する記述が引用され、まるでマルクスが内田樹氏と同じことを主張したかのように書かれていることだ。たしかにマルクスは児童労働の悲惨な状況を描いたが、「競争原理から子供を守れ」などと主張したことはない。それどころか、彼は次のように書いているのだ:
運動会で着順をつけるのが「差別」だからみんな同着にしよう、というように子供を競争原理からずっと保護し続けることができるなら、それもいいだろう。しかし彼らは、いずれ社会に出て弱肉強食の現実に直面する。競争原理から保護されているのは、業績に関係なく給料のもらえる教師だけだ。彼らのセンチメンタリズムを子供に押しつけることは、「子供を守る」どころか、社会で闘えず、現実に適応できないニートを増やすだけである。
マルクスは競争原理を否定したこともないし、平等を実現すべきだと主張したこともない。戦後の日本社会を毒してきたのは、こういう少女趣味的なマルクス解釈であり、それを清算することが現代の「思想」的課題である。「さよなら」をいう前に、内田氏はちゃんとマルクスを読んだほうがいいのではないか。
この[ロバート・オーウェンの]教育は、一定の年齢から上のすべての子供のために生産的労働を学業および体育と結びつけようとするもので、それは単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法でもある。(『資本論』第1巻 原著p.508)内田氏は「現代思想」の研究者ということになっているようだが、マルクスが肉体労働と精神労働の対立を止揚するものとして児童労働を積極的に評価したということは、思想業界の常識である。後年の『ゴータ綱領批判』では、もっとはっきり書いている:
児童労働の全般的な禁止を実行することは――もし可能であるとしても――反動的であろう。というのは、いろいろの年齢段階に応じて労働時間を厳格に規制し、また児童の保護の為にその他の予防措置をするなら、生産的労働と教育とを早期に結合する事は、今日の社会を変革するもっとも強力な手段の一つであるからである。文献学的には、内田氏の主張は問題にならないとして、彼とマルクスの主張のどちらが正しいだろうか?もちろん後者である。子供を特別な保護すべき存在とするようになったのは「ブルジョア社会」になってからであり、歴史的には(途上国では今でも)子供は労働力である。公教育は(内田氏の主張するように)子供を保護するためではなく、工場の規律に合わせて労働者を規格化するためにつくられたものだ。学校だけが、社会のルールから保護された楽園であるはずもない。
運動会で着順をつけるのが「差別」だからみんな同着にしよう、というように子供を競争原理からずっと保護し続けることができるなら、それもいいだろう。しかし彼らは、いずれ社会に出て弱肉強食の現実に直面する。競争原理から保護されているのは、業績に関係なく給料のもらえる教師だけだ。彼らのセンチメンタリズムを子供に押しつけることは、「子供を守る」どころか、社会で闘えず、現実に適応できないニートを増やすだけである。
マルクスは競争原理を否定したこともないし、平等を実現すべきだと主張したこともない。戦後の日本社会を毒してきたのは、こういう少女趣味的なマルクス解釈であり、それを清算することが現代の「思想」的課題である。「さよなら」をいう前に、内田氏はちゃんとマルクスを読んだほうがいいのではないか。