途上国に必要なのは「温暖化対策」ではない

日経新聞によれば、政府は今年の洞爺湖サミットの目玉として、発展途上国の地球温暖化対策に、5年間で総額100億ドルを無償資金協力や円借款などで援助する方針だという。このニュースを見て思い出したのは、2000年の九州・沖縄サミットで採択された「IT憲章」だ。

当時は「IT革命」が騒がれた最中で、「ITを目玉にしたい」と外務省が主導して、途上国に5年間で150億ドルの「IT支援」を行なうことを決めた。しかし途上国から「電力もない地域にPCを配ってもらっても困る」と批判されたため、土壇場で感染症対策に30億ドルの追加を決めた。このとき森首相(当時)が「電力がなくても携帯電話は使える」と発言したのは有名な笑い話だ。

今度の100億ドルも、これと同類の話題づくりだ。途上国が求めているのは、温暖化対策なんかではなく、医療と食料である。このように政府や国際機関が、費用と便益のバランスを考えず、優先順位もつけないで政策資源をばらまく現状を、編者ロンボルグは批判している。本書は、途上国にどんな問題があり、それを解決するにはどれだけコストがかかるかを、23項目にわけて各分野の専門家が定量的に分析している。その内容は、たとえば
  • 麻薬は合法化して政府が管理し、高率の課税を行ったほうがよい。現在の麻薬による被害のほとんどは、その摂取よりも取引にからむ犯罪で起きているからだ。この政策費用はゼロだが、税収は世界で年間1300億ドルにのぼるので、これは最優先で行なうべき政策である。
  • 次に優先順位が高いのは、感染症対策だ。このコストは90億ドル程度だが、便益はその7倍から30倍にのぼる。特に多くの人命がかかっていることからも、これは緊急の課題である。
  • 地球温暖化については、その対策の便益が費用を上回るかどうかも疑わしいが、やるなら「国際的枠組」も排出権取引も必要なく、トンあたり50ドルの炭素税をかければよい。温暖化の被害が出てくるのは50年後なので、緊急度はもっとも低い。
だから温暖化対策を、開発援助のバラマキで行なうという発想そのものがナンセンスだ。必要なら、途上国も炭素税をかければいいだけの話である。それ以前に、1兆円以上の税金の使い道を、費用対効果も途上国の必要も考えないで、「温暖化対策のリーダーシップをとる」という国際的な体面のために使うという発想が、いかにも外務省らしい。しかも「温暖化翼賛体制」のメディアは、どこも批判しない。被害者は、納税者である。

追記:本書に関連するCopenhagen Consensusプロジェクトの内容は、公式サイトにある。

日本の政治はなぜ「変化」できないのか

アメリカの大統領予備選は、ヒラリー・クリントンが土俵際で踏みとどまり、おもしろくなったが、特に民主党の演説でうんざりするのは"change"という言葉がやたらに出てくることだ。「変革」と訳しているメディアもあるが、これは小規模な改良も含む幅広い概念なので、「変化」と訳したほうがいい。

内田樹氏は、これを変革と訳して「私は変革には反対」で、必要なのは社会システムの断片(ピースミール)をとりあえず「ちゃんと機能している」状態に保持する「ピースミール工学」だといっているが、これはポパーの(誤った)受け売りだろう(*)。ポパーは『歴史主義の貧困』や『開かれた社会とその敵』で、社会主義のようなユートピア社会工学を批判し、ピースミール社会工学を提唱したが、彼はchangeを否定したわけではない。また社会工学という概念については、ハイエクが「設計主義の一種だ」と批判し、自生的秩序を提唱した。

内田氏は「『社会を一気によくしようとする』試みは必ず失敗する」と断定しているが、これも根拠がない。ハイエクは、議会制度の改革を提唱した。市場では限界原理のような漸進的な改良の積み重ねで最適化が可能だが、政治には制度変化が必要な場合があるからだ。そしてポパーやハイエクの影響を受けたサッチャーの「保守党」政権が、戦後のイギリスではもっとも「革命的」な変化を起こしたのは皮肉である。その結果、かつて「英国病」に苦しみ欧州の最貧国だったイギリスは、一人あたりGDPがG8諸国でアメリカに次いで第2位になった。

だから改良ですむ場合もあれば、変革が必要な場合もある。日本の政治は戦後60年以上、事実上の一党独裁が続き、変革も改良もしていないから、Dankogai氏もいうように、今は変革が必要なのだ。しかし民主党を見ていると、まともな変革ができそうにもない。それは彼らの能力の問題以前に、日本の選挙制度が欠陥だらけだからである。よく知られているのは1票の格差が最大5倍も開いていることだが、もっと重要な問題は、現在の選挙区が本質的な利害対立を反映していないことだ。

小選挙区はもちろん、比例代表もブロックという形で地域代表になっているが、これは利害が特定の地域で完結し、その中では均一だということを前提にしている。しかし交通機関やメディアの発達によって首都圏全域が一つのエリアになっているとき、小選挙区のような県議会より狭い単位の利害を代表することは「地元利益」への強いバイアスを生み、バラマキ政策をもたらす。これから政権を取ろうとする民主党に、そのバイアスが強いのは当然だ。

さらに深刻な問題は、一つの地域の中でも利害が均一ではないことだ。現在の日本経済で最大の対立は、払った以上の年金をもらい、天下りなどによって戦後の高度成長の果実を「食い逃げ」しようとする団塊以上の世代と、その逆に年金収支はマイナスになり、中高年の終身雇用を守る犠牲でフリーターになっている若い世代の世代間対立である。これは世論調査では明白だが、選挙結果には反映されない。おかげで若い世代が政治に絶望し、投票率が低くなるため、よけいに老年・農村の利益が選挙結果に反映される・・・という悪循環になる。

これを打開する方法として、井堀利宏氏が提唱しているのが、年齢別選挙区だ。たとえば30代までの有権者を青年区、40~50代を中年区、60代以上を老年区とし、地域と年齢の2次元の指標で選挙区を構成するのだ。これだと多くの青年層が棄権しても、青年区の定数が青年有権者の人口に対応しているので、青年世代の利害を代表する政治家が選出される。今は変革のときである。

(*)重箱モードでいっておくと、piecemealは「断片的な」という意味の形容詞。「断片」はpieceである。

東芝のチャンス

ワーナーがHD DVD(東芝)による映画の販売を打ち切り、ブルーレイ(ソニー・松下など)だけに絞ったことで、次世代DVDをめぐる標準化競争は勝負がついた。すでに日本では市場の9割以上、アメリカでも7割はブルーレイだ。勝者は誰かって? もちろん東芝だ。

もともと次世代DVDなんて、筋の悪い技術だ。私の6万円のPCでも160GBのハードディスクがついているのに、なんでたかだか50GBぐらいのDVDドライブに10万円も出さなきゃいけないのか。ディスクを買いに行かなくても、インターネットで映画もダウンロードできる。音楽と違って、映像は何回も見ることがあまりないので、ストリーミングでも十分だ。もうDVDというものが過去の技術なのだ。

WSJも、今回のブルーレイの「勝利」がソニーの経営にとってプラスになるかどうかは、まだわからないと書いている。次世代DVDは「過渡的な技術」であり、そのうちUSBフラッシュメモリに、そして最終的にはインターネットに取って代わられるだろう。CDの寿命は25年だが、DVDは10年、そして次世代DVDは、たかだかあと5年ぐらいの寿命だろう。こういう先の見えた市場に、コンテンツが出てくるかどうかもわからない。

それでも、ソニーはブルーレイを出し続けるだろう。かつてベータマックスのテープが世の中から消えても、再生機を製造し続けたように。不幸なことに、彼らは映画部門をもっているので、ディスクからも撤退できない。他方、松下はグーグルと組んでネットTVを開発する。戦いは、もう「次世代の次」に移っているのだ。

東芝は、今回の「敗北」を機に次世代DVDから撤退し、IPTVに経営資源を集中したほうがいい。松下がグーグルなら、東芝はヤフーと提携してはどうか。1980年代のアメリカでは、無意味に多角化したコングロマリットが、LBOによって解体・売却された。洗濯機からDVDまでつくる日本の「総合電機メーカー」も、時代遅れのコングロマリットである。これは「選択と集中」のチャンスなのだ。

追記:FTによれば、パラマウントもHD DVDをやめるようだ。これで完全にゲームは終わりだろう。

「消費者省」を創設せよ

社民党のコメントなんて、ふだんは誰も読まないだろうが、昨年末に出された独立行政法人の整理合理化についての書記長談話は、いいポイントをついている。「これだけ消費者問題や偽装が騒がれている中、国民生活センターについては、行革の観点だけがクローズアップされ、廃止・統合が議論されるのはおかしい」として、逆に各省庁に分散している消費者行政機能を統合した「消費者庁」の創設を求めたのだ。

今年の年頭に出された首相談話では、さっそく首相がこれに乗った。自民党内には「行革に逆行する」との声もあるようだが、これは逆である。今の「経済産業省」「農林水産省」などと産業別にわかれている官庁を解体・再編し、消費者省に統合すればいいのだ。市場経済の原則は消費者主権だから、これはもっとも重要な官庁である。

日本の官庁は、産業を振興することを目的とし、供給側の立場で政策を立案してきた。これは生産を増やして先進国に追いつくことが目標だった時代にはそれなりに意味があったが、そういう時代は終わった。いまだに官庁が業界ごとに縦割りになり、政策が「業法」として立案されるため、文化庁のように供給側の都合だけを考えて政策を出す傾向が強い。いま必要なのは、規制改革によって競争を促進し、消費者の利益を最大化する政策である。

1997年の橋本行革の初期にも、これに似た発想はあり、当時の行政改革会議の議事録には「発展途上国型の産業振興を、市場原理を中心に据えた経済運営に転換した行政を行う省として、経済省を設置する」と書かれている。ところが、この「経済省」構想は挫折して、通産省の看板をかけ替えただけに終わり、経産省はあいかわらず「発展途上国型の産業振興政策」を続けている。

民主党は、農業補助金や児童手当などの下らないバラマキ政策を掲げるより、産業中心の行政から消費者中心の行政への転換を掲げて総選挙を闘ってはどうだろうか。具体的には、現在の産業別に所管がわかれた各省の設置法を消費者を主語にして書き換えるとともに、たとえば経産省と農水省を公取委に吸収して消費者省を創設するのだ。ついでに総務省の情報通信部門と文化庁の著作権課もこれに吸収すれば、情報通信行政の一元化もはかれる。社民党とも共闘できるし、自民党も反対しにくいだろう。

中国は「自由の国」になるか

今年は、中国がいろいろな意味で注目されるだろう。もちろん最大のトピックはオリンピックだが、ITでもアジアのトップランナーになる可能性がある。その行方を占うのが、昨年末に出た検索エンジンについての二つの著作権訴訟の判決だ。12月21日に出た ヤフーチャイナについての判決ではヤフーが負けたが、31日に出た百度(Baidu)についての判決ではBaiduが勝訴した。

どっちの事件も音楽業界が訴えた理由は同じで、.mp3という拡張子のファイルを検索するサービスを提供していることが著作権法違反だというのだ。しかし、たとえばグーグルでも"imagine.mp3"で検索すれば4万以上のMP3ファイルが出てくる。他方、Baiduは.docや.pdfなどの拡張子で検索するサービスも提供しているが、こっちは著作権侵害にはならないのだろうか?

・・・と考えればわかるように、著作権法を厳密に適用すれば、すべての検索エンジンばかりか、インターネットの利用を全面的に禁止しなければならない。これは日本でも同じで、現在の著作権法(無方式主義)では、すべての文書に著作権が自動的に付与されるので、他人のファイルを複製(ダウンロード)することはすべて違法行為になる。これでは不便なので、著作権法の第30条では「私的使用」に限って複製が認められている。しかし、これさえ制限しようというのが、今度の文化庁の改正案だ。

他方、Baiduが中国でグーグルをしのぐ人気を集めている最大のセールスポイントは、このMP3検索機能だ。BaiduはNASDAQに上場し、その株価上位100企業に入っている。時価総額は126億ドル。NECを上回り、富士通とほとんど同じだ。これによってCDの売り上げが減ったと音楽業界は主張しているが、中国に行ってみればわかるように、正規のCDは売っているのを見つけるのに困るほどだ。アジア全域で売られている海賊盤の半分以上が、中国で製造されているともいわれる。マルクスは未来社会を、私有財産が廃止されて人々が資本主義の法則から解放される「自由の国」として描いたが、著作権に関するかぎり、中国は世界でもっとも自由な国なのだ。

Baiduのユーザーと株主が、そのサービスで大きな利益を得ていることは明白だが、それによって音楽業界のこうむっている損害はよくわからない。特に重要なのは、所得分配に及ぼす効果だ。中国の最貧層(1日の所得が1ドル以下)は、まだ3億人近くいると推定される。彼らにとっては、CD1枚の価格は1週間分の賃金を上回り、とても正規の市場で買える商品ではない。しかし彼らが海賊盤やMP3ファイルで音楽を知れば、音楽の市場は確実に広がり、さらにはその中からミュージシャンが出てくるかもしれない。

ただ中国がWTOに加入して以来、「知的財産権」を守れと主張する先進国の圧力も強い。今回、裁判所の判断(それは中国共産党の方針を反映している)がわかれたのも、こうした外圧にどう対応するか、判断がわかれているためだろう。この大規模な社会実験がどっちに向かうかは興味深い。従来の開発経済学の常識では、財産権を確立することが経済発展の必要条件だとされているが、中国や韓国でコンテンツが自由に流通することでブロードバンドが急速に普及している状況をみると、情報については違うかもしれない。

「反グローバリズム」の類の議論のほとんどはナンセンスだが、知的財産権に関しては、欧米型モデルはルールとしての整合性さえ破綻しており、中国の13億人に自然な規範として受け入れられるとは思えない。日本がアメリカよりも極端な「不自由の国」に退行しようとしているのをみると、Baiduを先頭とするアジア型モデルが、情報をオープンに共有して収益を上げる新しいシステムを開拓し、日本を追い抜くかもしれない。

追記:中国の音楽事情については、The Registerの記事がくわしい。

ネガティブ・シンキングのすすめ

当ブログの記事には、多いときは100以上のコメントがつくので、ほとんど読んでないのだが、中には管理人が読んでないうちに本文から脱線して掲示板みたいになっているスレがある。12/29の記事のコメント欄では、ちょっとおもしろい論争が行なわれているので紹介しておく。たぶんきっかけは
制限ではなく許可が良い (就職氷河期っ子) 2007-12-31 16:40:32
セキュリティエンジニアリングでは、何を制限するのかではなく、何を許可するかを考えます。これは必要最低限の権限しか与えない事により、起こりうる災害を減らすのと同時に、犯罪経路を狭めるためです。
ですから、日本の経済を発展させるためには、何でも官僚にまかすのではなく、何を任せるのか明確に定義し、何かを制限するのではなく、何を許可するのかという点に着目すればよいと私は思います。
というコメントだと思うが、この「制限するのではなく許可する」という話を一般社会に適用すると困る。「~してよい」というポジティブ・リスト方式は、セキュリティ管理などの手間を省くのにはいいが、ユーザーの自由度は最低になる。私のマシンもVistaに替えてから、ちょっとしたプログラムを実行するたびに「許可するか?」という警告が出て面倒だ。これがまさに「コンプライアンス不況」で全国的に起こっていることである。

これに対してハイエクは、自由とは「強制されない」という消極的概念であり、法は本質的に自由を侵害するものだから、自由な社会のルールは最小限度の「~してはいけない」というネガティブ・リストでなければならないと論じた。これだと「法で禁止されていないことは何でもやっていい」ということになるので、管理者の手間は増えるが、民間の自由度は上がる。これがコモンローの標準的な考え方である。

そういう消極的自由だけでは不十分であり、「~できる」という積極的自由が必要だ、と考えるのが大陸系(特にドイツ)の発想だ。何かをするには、そのための手段(富)が必要であり、それを平等に分配しないかぎり、労働者には「飢える自由」があるだけだ、とマルクスは論じた。これは「自由とは必然の認識である」というヘーゲルの歴史観から来ており、カール・シュミットは「人々がドイツの運命に服従することで民族として最大の自由を得る」というレトリックでナチを擁護した。

だから積極的自由とか「許可する」というのは筋のよくない話だが、就職氷河期っ子さんのコメントは目的語を「官僚」にしているから、これはこれで成り立つ。というか、法律の建て前はそうなっているのだ。官庁の権限は、設置法で「~してよい」と定めるポジティブ・リスト方式なのだが、そこに列挙された権限が非常に包括的なので、ほとんど何でもできる結果になっている。『日本の統治構造』にも書かれているように、日本の政府は「天皇の官吏」がすべてを取り仕切る明治憲法以来の「官僚内閣制」なので、議会のコントロールもきかない。

こうした官僚独裁を改めるには、国民の考え方も変えなければならない。昔から日本人は「お上が許可しないことはやってはいけない」と考えがちだ。検索エンジンが日本に置けないというのも、著作権法にそう書いてあるわけではなく、30条の制限事由(ポジティブ・リスト)にないからだめだろう、と解釈しているだけだ。おかげで著作権法の制定当時になかった複製技術は、すべて自動的に違法になってしまう。これは逆で、本来は著作権法そのものが表現の自由を侵害する危険な法律なのだから、禁止行為を最小限の具体的なネガティブ・リストとして列挙し、そこに書いてないことは自由とすべきだ。

今年は、何をすべきかを役所が積極的に決める「ポジティブ・シンキング」を改め、役所が法律で禁じないかぎり何をやるのも自由だという「ネガティブ・シンキング」に転換してはどうだろうか。

自由な社会のルール

今年の動きとして、企業の財務・IT担当者にとって頭が痛いのは、金融商品取引法(通称J-SOX法)が来年3月期決算から適用されることだろう。担当者の話を聞くと、その負担は相当なもので、コンプライアンス不況が深刻化するおそれが強い。

磯崎さんのブログでも、この話題にふれているが、彼のいう「一部の人が社会全体のことを考えて計画をする」か「各自が利己的に考えて行動する(『自由』が建前だが実態はルールでがんじがらめの)社会」かという二者択一はまちがっていると思う。前者がだめであることは明白だが、その補集合は後者ではないからだ。

本家のSOX法がもう改正される予定であることでも明らかなように、企業の行動を「がんじがらめのルール」でしばることは、コストがかかるばかりで効果はほとんどない。以前の記事でも書いたが、そもそもエンロン事件もワールドコム事件も、法の不備によって起こったわけではなく、違法行為をSECや監査法人が見逃しただけだ。日本のライブドアや村上ファンドの事件に至っては、法律の解釈問題にすぎない。

「各自が利己的に考えて行動」すると無政府状態になるから、法律でしばらなければだめだ、という発想をハイエクテシス(人工的秩序)と呼び、これに対して各自の意思によって進化的に形成される秩序をノモス(自生的秩序)と呼んだ。後者のうちもっとも重要なのは暗黙の社会的規範であり、それを裁判によって明文化したものが判例であり、それを立法化したものがコモンローである。

他方、日本のような大陸法型システムでは、立法によって細部まで規制し、その解釈は政省令で決め、処罰も行政処分で行なう。これは法技術的にも大変なので、コーディングの専門家である官僚がほとんどやり、政治家は事後的に(利権がらみの)注文をつけるだけということになりやすい。当ブログでも何度か書いたように、こうした実定法主義によって官僚に権力が集中し、行政が立法も司法も兼ねていることが、イノベーションを阻害し、日本経済を窒息させている最大の原因である。

そしてJ-SOX法の要求する内部統制の文書化は、こうした実定法主義の欠陥を企業に持ち込むものだ。企業内の手続きをすべて文書化するとなると、会計コストがふくらむだけでなく、機構改革やプロジェクトの変更にも余計な手間がかかり、改革はとどこおり、業務効率は確実に落ちる。アメリカのように、SOX法の適用を避けるためにIPOを見送ったり、本社を海外に移すといった行動が起こることも考えられる。自由な社会を守るためにはルールが必要だが、そのルールにも自由度が必要なのである。

科学者への質問

恒例のEdge誌の年頭の質問の今年のテーマは「何があなたの考えを変えた?」。たくさんの科学者から答が来ているが、おもしろいのをピックアップすると:

Freeman Dyson:日本に原爆を落としたことで戦争が終結したというのは嘘である。広島への原爆投下のニュースは、御前会議でほとんど議論されなかった。日本が降伏を決めたのは、8月9日にソ連が参戦した直後に召集された御前会議である。長崎への原爆投下のニュースが入ったのは、その決定後だった。

Nassim Taleb:確率と称するものを信用してはならない。社会生活で一意の確率が知られている事象は、カジノか宝くじぐらいしかない。高度な確率論でヘッジしたはずのサブプライムローンで、多くの銀行が莫大な損失を出した。地球温暖化の確率なるものは、もっとあやふやな占いみたいなものだが、地球は今のままにしておくべきだ。

Daniel Kahneman:幸福は金で測れない、というのは誤りである。「あなたは今の生活に満足か?」という問いに「はい」と答える人の比率は、所得水準にあまり依存しないといわれてきたが、126カ国の13万人を対象にした最近の調査では、GDPと満足度の相関は0.4以上あった。人々の生活でもっとも大事なのは、やはり物質的な富なのだ。

明けましておめでとうございます

今年も年賀状は出さないので、ブログでごあいさつ。

1980年代、私がNHKにいたころ、「アメリカの衰退」とか「円が世界を買い漁る」といった類の番組をよく作ったものだ。日本の工業製品が世界を席捲し、アメリカでは「来年の暮らしは今年より悪くなる」という言葉が流行した。かつてシュペングラーが「西洋の没落」を論じたように、アメリカの没落も必然なのだと説くポール・ケネディの大著『大国の興亡』がベストセラーになった。

今の日本を見ていると、そのころのアメリカと似てきたような気がする。日経新聞の正月のトップ記事は「縮む日本」。円の実質為替レートはプラザ合意以来、最低になり、日本のGDPの世界経済に占めるシェアは9%と、ここ15年で半減した。このまま円安と低成長が続くと、2020年には一人当たりGDPがアメリカの半分になるという。かつて円高を国難のように騒いだことがあったが、本当に恐いのは通貨の価値が失われることなのだ。

しかしアメリカ経済はその後、立ち直った。古いコングロマリットはLBOによって解体され、最盛期に40万人を超えたIBMの社員は、90年代前半には20万人に半減したが、職を失ったエンジニアは西海岸へ行って起業した。かつて半導体産業が栄えて「シリコンバレー」と呼ばれた地域は、日本との競争に敗れて半導体産業が壊滅したが、インターネットの拠点として生まれ変わった。経済を立て直したのは政府の産業政策ではなく、「ハゲタカ」とののしられた投資銀行や「山師」とバカにされたベンチャー企業の、資本主義の精神だったのである。

だから日本の没落も、不可避の運命ではない。だが財界は「三角合併」に反対し、企業はこぞって「買収防衛策」を講じ、厚労省は「偽装請負」を摘発し、労組と組んで規制強化をはかっている。政治も、小泉政権のころには少し変化の兆しも見えたが、政権が代わると争点が「年金」や「格差」などの分配問題に移った。分配すべき母集団が縮小しているというのに・・・

日本経済の最大の問題は、このようにアジェンダ設定を誤っていることだ。まちがった問題をいくら考えても、正しい答は出てこない。今年は政権交代が起こるかもしれないが、民主党政権になったら、むしろ労組の影響力が強まってバラマキが悪化するおそれが強い。あまり明るい展望の見えない新年だが、個人的には経済学の勉強を(既存の学問体系にこだわらないで)やり直そうと思っている。

経済学のイノベーション

今年は、サブプライムに端を発した世界不況のあおりで、年末の日経平均株価は5年ぶりに年初を下回った。しかし日米欧のチャートをよく見ると、最大の打撃を受けたはずのアメリカのダウ平均は年初に比べて7%上がっているのに、日経平均は11%も下がっている。この原因は、外人投資家が業績の低迷する日本株を売り、中国やインドに投資を移したためだといわれる。つまり日本経済の最大の問題は格差でもデフレでもなく、経済の衰退なのである。

この意味で政府の「成長力重視」という目標は正しいが、具体的な政策として出てくるのは、「日の丸検索エンジン」や「京速計算機」のような「官民一体でガンバロー」みたいな産業政策ばかり。この背景には、成長の源泉をもっぱら技術開発に求める発想があるようだが、最近の実証研究で注目されているのは「再配分の生産性」だ。別に新しい技術を開発しなくても、古い産業から新しい産業に人材を移し、グーグルのように既存技術を新しい発想で組み合わせるだけで生産性は高まる。シュンペーターも、イノベーションを新結合と定義した。

イノベーションは、経営学ではもっとも重要なテーマだが、経済学の教科書にはほとんど出てこない。新古典派経済学の扱うのは、経済が均衡状態になってエントロピーが最大になった結果なので、イノベーションはその途中の一時的な不均衡でしかないからだ。これに対してミーゼスは、市場で重要なのは資源配分の効率性といった結果ではなく、人々が不確実な世界で答をさがす過程だとした。これを継承したKirznerは、競争の本質は分散した情報の中で利潤を追求する企業家精神にあると論じた。

企業家精神のコアにあるのは技術革新ではなく、どこに利潤機会があるかを察知するアンテナ(alertness)である。技術や資金がなくても、人よりすぐれたアンテナをもっていれば、ベンチャーキャピタルを説得して資金を調達し、エンジニアに発注して技術を開発できる。だから物的資産の所有権を企業のコアと考える現代の企業理論では、サービス産業は分析できない。もちろん正しいアンテナをもっている起業家はごく少数だから、ほとんどのスタートアップは失敗するだろう。そうした進化の結果としてしか、答は求められないのだ。

いいものをつくれば売れるというのは、こうした市場の情報伝達メカニズムとしての機能を知らない製造業の発想だ。自動車や家電のようなありふれた商品ならそれでもいいが、まったく新しい製品やサービスを開発したとき、それがいくらすぐれたものであっても、だれも知らなければ使われず、したがって普及しない。つまり革新的な製品であればあるほど、消費者のアンテナにシグナルを送ることが重要になるのだ。実は新古典派理論では、広告の存在も説明できない。そこでは消費者は、すべての財についての情報を知っているから、広告は社会的な浪費である。

しかし市場の情報機能が資源配分機能よりも重要になってくると、企業にとっても消費者にとってもアンテナの感度が生産性を決める鍵になるので、検索エンジンのようなサービスが経済の中核になる。こうしたアンテナが機能しているかぎり、独占の存在も問題ではない。独占があるところには超過利潤があるので、それは新規参入のシグナルとなるからだ。問題は、その参入を阻止する人為的なボトルネックである。それは情報産業では、ASCII.jpでも言ったように、通信の「最後の1マイル」と電波、それに著作権だ。

だからイノベーションを高める上で、政府が積極的にできることは何もないが、消極的にやるべきことは山ほどある。最大の役割は、こうしたボトルネックをなくして参入を自由にすることだ。上の3つのうち、最後の1マイルと電波の問題は表裏一体である。光ファイバーの8分岐を1分岐にするとかしないとかいう論争が続いているが、それよりも700MHz帯やVHF帯の電波を早急に開放し、有線と無線で設備競争を実現するほうが有望だ。次世代無線技術(LTE)では、もう173Mbpsという光ファイバー以上の速度が出ている。

しかし2.5GHz帯の美人コンテストは談合に終わり、WiMAXは既存インフラの補完だと公言するキャリアが当選してしまった。WiMAXは、もともと最後の1マイルを無線で代替するために開発された技術なのに、これではKDDIは、帯域を押さえるだけ押さえてサービスは先送りし、いまブローバンドで優位にあるEV-DOをなるべく延命しようとするだろう。

著作権というボトルネックを維持・強化することを最大の使命としている文化庁については、今さらいうまでもない。彼らが好んで使う経済学用語が「インセンティブ」だが、クリエイターにとって重要なのは、金銭的インセンティブよりも彼らを創作に駆り立てるモチベーションである。そのためには既存のコンテンツの「新結合」を含めて、あらゆる可能性をさぐるアンテナの自由度がもっとも重要だ。それを違法化してまで妨害する文化庁は、日本経済のみならず文化の敵である。

こうしたナンセンスな政策が次々に出てくる原因の一端は、市場を単なる物的資源の配分メカニズムと考え、その情報機能を理解できない現在の経済学にもある。しかし行動経済学など人間の意識を扱う実証研究が出てくる一方、ミーゼスやハイエクの考えていた分散ネットワークとしての市場の機能は、脳科学や計算機科学でも解明されつつある。来年は、こうした成果を取り入れた経済学のイノベーションを期待したい。


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