ウルカヌス

米国の国務長官がパウエルからライスになって、政権運営が「右寄り」になるという懸念があるようだが、ジェームズ・マン『ウルカヌスの群像』(共同通信社)によると、彼らを含む共和党の外交指導部(チェイニー、ラムズフェルド、ウォルフォヴィッツ、アーミテイジ)は、みずから「ウルカヌス」(Vulcan:ギリシャ神話の火の神)とよぶ集団を形成しており、だれがリーダーになっても基本方針は変わらないという。

彼らの出発点は、ベトナム戦争の失敗と冷戦の勝利だ。戦争を「殺人効率」で考えて戦力を逐次投入したマクナマラや、「力の均衡」によってデタントを推進したキッシンジャーが失敗し、徹底的に「悪の帝国」を敵視して戦力を増強したレーガン外交が勝利したのは、戦争や外交においては機会主義的な経済合理性よりも倫理的原則と力の優位のほうが重要であることを示す――というのが、彼らが冷戦の終結から得た教訓である。

これは対ソ戦略としては、意味があったかもしれない。相手が合理的であり、全面核戦争を恐れていたからだ。しかし、サダム・フセインやオサマ・ビンラディンのような相手にいくら力で威圧しても、向こうは最初から死を覚悟しているのだから、効果は疑わしい。

それにしても、ブッシュ政権は2期目になって、ネオコンの影響力は弱まったが、キリスト教原理主義の影響はますます強まりそうだ。ケインズもいったように、もっとも危険なのは既得権ではなく、理想なのかもしれない。

電波封建制

私の「電波社会主義」という言葉は、最近は総務省の研究会でも使われるほどポピュラーになったが、先日ある電波関係者に「電波村の実態は、社会主義というより封建制だ」といわれた。

たとえばMXの免許には当初、100社以上が名乗りを上げたが、最終的には(数十社の出資する)1社に「事前調整」された。第3世代携帯電話のときも、3つの枠に3社しか申請がなく、美人投票さえ行われなかった。所定の枠に官僚が資源を割り当てるのが社会主義だとすれば、「お上」の意をくんで民間が談合する日本の現状は、たしかに封建制に近い。

しかしソフトバンクが「パンドラの箱」をあけたことで、封建制も崩壊が始まった。総務省の周波数検討会では、既存業者3社と新規参入組4社が公開の場で大論争を繰り広げている。これでは事前調整は無理だし、美人投票の結果にも、だれも納得しないだろう。

米国でも、1980年代に携帯電話の審査を抽選にしたら何万件も申請が殺到して事務が破綻し、周波数オークションをやらざるをえなくなった。日本の電波行政は、それから20年遅れで「近代市民社会」の夜明けを迎えているのかもしれない。

レゾナント

ひところNTTが提唱していた「レゾナント・ネットワーク」(RENA)という言葉が、中期経営戦略からは消えてしまった(1度だけ引用として出てくるが)。

これは、もともとはGMPLSという光でIP伝送を行うプロトコルをイメージしていたらしいが、「わかりにくい」と評判が悪かった。その中核会社「NTTレゾナント」の社長になった資宗克行氏まで、雑誌のインタビューで「RENAサービスなど存在しない」といって社員を驚かせた。

全光ネットワークというのは、理論的には可能だが、アクセス系まで光を「3000万世帯」にする意味は疑わしい。むしろ光・DSL・無線LANなどの混在するIPネットワークになるのが現実的ではないか。この意味では、BTのように「2009年までにネットワークをすべてIPにする」というほうがわかりやすく、現実的だ。

レゾナントというのは「共鳴」という意味だが、つねに調和して共鳴しているのがいいとは限らない。モーツァルトの有名な四重奏曲のように「不協和音」(dissonance)も音楽的に重要なのである。

デジタル放送の土壇場

米国のデジタル放送は、2006年にアナログ放送を停波するデッドラインが近づいているが、「デジタル受像機の普及率85%」という停波の条件を満たすことは不可能だ。

BusinessWeekによると、期限を2009年に延期し、デジタル放送をアナログに変換してケーブルTVに"must carry"規制で配信させるという案が、FCCで出ているらしい。米国のケーブルの普及率は85%に達しているので、停波の条件を満たすわけだ。アナログをデジタルに移行し、アナログに変換して放送するという悪い冗談みたいな話で、テレビ局もケーブル局も反対している。

こんな無意味なデジタル放送はやめて、Tom Hazlettの主張しているように、放送はすべてケーブルに移行し、残りの15%は政府が補助する代わりにVHF・UHF帯を全部あける「ネグロポンテ・スイッチ」をやってはどうか――と去年、FCCのペッパー局長に提案したら、肩をすくめて"You can't be too cynical about broadcasters"という答が返ってきた。

24

レンタル・ビデオのベストセラー(というのだろうか)になっている"24"を、DVDで第3シーズンの前半まで見た(後半は12月にレンタル開始)。

24時間で起こるドラマを同時進行で追うというのが売り物だが、手法はハリウッド定番のノンストップ・アクションだ。警察官が単独行動をして事件が次々に起こるという設定は「ダイ・ハード」に似ているが、ちょっと台本が荒っぽい。大した必然性もなく旅客機が爆破されたり、ほとんど10分ごとに人が殺されるのには辟易した。

しかし家庭で見るには、劇場映画をビデオ化したものより、こういうお手軽なテレビ・シリーズのほうがいいのかもしれない。この番組などは、明らかにパッケージ化を前提に制作されている。映画は今や興行収入よりビデオ・DVDの売り上げのほうが多いが、テレビもそういう時代が来るだろう。「電波利権」にこだわるより、番組の質を高めるほうが大事だ。

スモールワールド

「世間って狭いものだ」という経験はよくあるが、実際にどの程度、狭いのだろうか。たとえば、あなたが旭川市に住む未知の歯科医師の名前(Aさんとしよう)を聞かされ、あなたの知人にeメールを出して「Aさんを知っていると思われる人にこのメールを転送してください」と頼んだとしたら、何回ぐらいでAさんに到達するだろうか?

1967年に行われたミルグラムの(手紙を使った)実験によれば、必要なステップの平均値は、5.5だった。つまり、あなたと任意の他人との間は、たった6人しか離れていないのだ。この結果は、一見するほど驚くべきものではない。普通の人が覚えている知人は100~200人とされるが、あなたの友人100人がそれぞれ100人を知っているとすると1万人、彼らがそれぞれ・・・と計算すると、たった4段階(1004)で1億人になってしまう。

しかし、よく考えるとこれはおかしい。あなたと友人は同じ社会的集団に属していることが多いので、最初の100人と次の100人はかなり重複しているはずだから、メールは同じグループの中をぐるぐる回って、旭川までたどりつかないかもしれない。不思議なのは、こういう重複した「友達の輪」をたどって、わずか6次で目標にたどりつくことなのだ。

このパラドックスは、実は経済物理学とも関係のある奥の深い問題だ。興味のある人は、ワッツ『スモールワールド・ネットワーク』を読んでください。

電子投票

フロリダ州の電子投票で、ブッシュの得票が過大だったのではないかという疑惑が浮上している。

「投票する者は何も決めることはできない。決めるのは票を数える者だ」というスターリンの言葉があるが、これは別の意味でも真理を指摘している。1票の差で選挙結果が変わる確率は事実上ゼロなのだから、ひとりの有権者は何も決めることはできないのである。

むしろ説明を必要とするのは、なぜ人々は罰則も報酬もないのに、何の意味もない投票に行くのかということだ。これは意外にむずかしい問題で、Grossman-Helpman, Special Interest Politics (MIT Press)はさまざまな説明を試みたあげく、「経済的なインセンティヴで説明することは不可能だ」という結論を出している。

これは経済学で人間の行動を説明する限界を示すと同時に、政治が「特殊利益」に誘導されやすい根本原因を示している。政治に影響を与えたければ、投票するより選ばれた議員を買収するほうがはるかに「効果的」なのである。あるいは電子投票機をハッキングするほうが・・・

ザスーリチへの手紙

中沢新一氏とは、かつて1年以上いっしょに仕事をしたことがある。私がサラリーマンをやめるとき、彼に相談したら「リスクは大きいと思うけど、君はサラリーマンに向いてないから止めないよ」といってくれた。

そのころ、私が「文化人類学に興味をもったのは、マルクスのヴェラ・ザスーリチへの手紙がきっかけだった」といったら、中沢氏は「網野さんみたいなこというね」と笑っていた。彼の新しい本『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)には、網野氏がザスーリチ書簡について語る話が出てくる。

この手紙は、マルクスの手紙のなかでもっとも重要なものの一つとして知られている。それは、彼が『資本論』の分析の射程は「西欧諸国に明示的に限定されている」とのべているからだ。これは彼の歴史観を「単線的な進歩史観」だとする通俗的な批判への反証であるばかりか、近代西欧の「自民族中心主義」への批判として、レヴィ=ストロースよりも100年近く先行するものだ。

晩年のマルクスは、西欧文化圏の特殊性を自覚し、ロシアの共同体などを研究していた。パリ・コミューンがわずか72日間で終わったのに対して、こうした「原コミューン」は何百年も存続してきた。その知恵は未来社会にも生かせるはずだ、というところで彼の研究は途絶えた。しかし、このマルクスの問題提起は「マルチチュード」の概念として現在にも受け継がれているのである。

基本的人権

自民党の憲法改正案が出た。世の中の注目は「自衛軍」などの第9条に関連する部分ばかりに集まっているが、私はむしろ基本的人権の「追加」が問題だと思う。

報道によれば、名誉権、プライバシー権、肖像権、知る権利、犯罪被害者の権利を新たに基本的人権として創設するそうだが、最初の3つは表現の自由を侵害するおそれが強い。特にプライバシー権を認めると、個人情報保護法をめぐって起こっている混乱は、さらに拡大するだろう。名誉権や肖像権も、表現の自由を侵害する理由になりやすい。

そもそも、こうした「人権」を憲法に明記する意味は疑わしい。ハイエクもいうように、正義の概念は、ポジティヴな人権としてではなく、最小限度の財産権などを保護するネガティヴな自由権として規定すべきなのだ。

集中排除原則

読売新聞社に続いて、中日新聞社日経新聞社TBSも「マスメディア集中排除原則」に違反していることがわかった。

こういう形骸化した原則は、もうやめるべきだ。デジタル放送にともなって地方民放を再編するうえでも、この原則が障害になっているが、なかなか改正できない。県域の地方民放を地元での「宣伝塔」として使っている政治家が、統廃合を許さないからだ。

「報道ステーション」に朝日新聞の記者が堂々と出てくるような状態で、持株比率だけ制限しても、事実上の集中は排除できない。それよりも番組と電波をアンバンドルして、周波数オークションなどで新規参入を認めたほうがよほど競争的になるだろう。特定の企業の支配力が強まったら、公取委が取り締まればよい。

追記:朝日新聞社、産経新聞社、日本テレビ、フジテレビもやっていたようだ。新聞社とキー局で、やっていない会社はないのではないか。









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