ICPFセミナー第13回「ソフトバンクモバイルの戦略」

10月からボーダフォンはソフトバンクモバイルに社名変更しましたが、それに先立ち9月1日付けで副社長技術統括兼CSO(最高戦略責任者)に松本徹三さんが迎えられました。米クアルコム社の上級副社長を務められた松本さんは、世界の携帯電話業界のリーダーのひとりとして長年活躍されています。ボーダフォンはJ-フォン時代以来、3位に甘んじてきましたが、今月下旬から「ナンバー・ポータビリティ」が始まるなか、ソフトバンク傘下でどういう戦略で巻き返すのか、その秘策を松本さんにうかがいます。

スピーカー:松本徹三(ソフトバンクモバイル副社長)
モデレーター:池田信夫(ICPF事務局長)

日時:10月26日(木)18:30~20:30
場所:「情報オアシス神田」
    東京都千代田区神田多町2-4 第2滝ビル3F(地図

入場料:2000円
    ICPF(情報通信政策フォーラム)会員は無料(会場で入会できます)

申し込みはinfo@icpf.jpまで電子メールで氏名・所属を明記して(先着順で締め切ります)

Google/YouTubeの次の課題

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GoogleのYouTube買収については、おおむね好意的な評価が多いようだ。株価も上がっている。16.5億ドルという価格も、Googleの時価総額1300億ドルからみれば大したことはないし、たとえばヤフーが1999年にBroadcast.comを57億ドルで買収したのに比べれば、まだバブルという域には達していない。

しかし懐疑的な意見も多い。Broadcast.comを売ったMark Cubanは、「Googleという深いポケットを持ったYouTubeは、損害賠償でもうけようとする弁護士たちの恰好の餌食になるだろう」と予想している。YouTubeは「DMCAのセーフハーバーで免責される」と主張しているが、セーフハーバーは、ISPの提供しているホームページにユーザーがコンテンツを載せるような場合を想定しており、投稿ビデオを配信するYouTubeに適用されるかどうかはわからない、とDeclan McCullaghは指摘している。

しかし本質的な問題は、法律論ではない。DMCAでISPが免責されたのも、すでにウェブが広がってしまい、ユーザーのコンテンツを事前にチェックする義務をすべてのISPに課したら営業が成り立たなくなる、という既成事実のためだった。だからNapsterは、P2Pが広がる前につぶされた。YouTubeが生き残る上で必要なのも"too big to fail"の力関係を作り出すことだから、Googleがバックについた意味は大きい。

さらに重要なのは、企業にとっても「YouTubeを生かしておいたほうが得だ」と思わせることだ。この買収と同時に、YouTubeはユニバーサル、CBS、ソニーと音楽ビデオの配信についてライセンス契約を結んだ。ユニバーサルは先月、YouTubeを訴える意向を示唆していたが、逆にYouTubeをプロモーションに利用するほうが有利と考えたようだ。企業にとって重要なのは、著作者の人格権ではなく利益なので、何年もかけて法律を改正するよりも、企業の利益になるしくみを作ったほうが早い。

権利処理の問題は、ある程度は技術的に解決できる。著作権のある映像についても、自動的に権利処理を行って広告収入をシェアすることは、技術的には可能だ。しかし小さなビデオクリップにいちいち権利処理コストをかけられないので、それをどこまで低コストに処理できるかが勝負だろう。GoogleとYouTubeは、そういう権利処理のプラットフォームを開発しているという。オープンで低コストの自動権利処理システムができ、Google/YouTubeが採用すれば、それが国際標準になるかもしれない。

ただし技術だけでは解決できない問題も多い。音楽では、日本でいえばJASRACのような権利者団体があり、包括契約のしくみもあるが、映像にはそういう制度がない。権利処理を自動化するには、まず権利を一本化し、強制ライセンスによって許諾権を切り離し、ライセンス料に定価を定めるなど、定型的な処理手続きをつくる必要がある。これも今までは必要に迫られていなかったので進んでいないが、Google/YouTubeが権利処理コストを下げればもうかるという先例をつくれば、まとまるかもしれない。

情報処理がウェブ上で自動化され、効率が高まる一方で、権利処理はきわめて非効率で、コンテンツ流通の最大のボトルネックになっている。この問題を解決した者が、次のマイクロソフトになるだろう。これは技術的にもビジネス的にもきわめて困難で、しかも小さな企業が採用しても意味がないという点で、Google/YouTubeにふさわしい課題だ。彼らが新しいプラットフォームをつくって成功すれば、制度は後からついてくるだろう。

スウェーデン銀行賞

今年のスウェーデン銀行賞(通称ノーベル経済学賞)は、Edmund Phelpsが受賞した。またも疑問の多い人選である。今回の授賞理由になった業績は、1970年に出た本だ。内容は、その2年前に発表されたFriedmanの「自然失業率」仮説を数学的に理論化したもの。いわゆるmicrofoundationの流行するきっかけとなり、合理的期待形成理論の先駆ともいえるが、それならLucasと一緒にでも授賞すればよかったのではないか。

ただ、このへんからマクロ経済学が大きく変わり、ケインズ理論が終わる節目になった意味は大きい。日本では90代まで、不況になると「景気対策」と称して財政出動が行われたが、そういう政策がナンセンスであることは、すでにFriedman/Phelpsが明らかにしていた。日本では、政治家や官僚が「経済学は役に立たない」とかいって勉強しないために、バラマキ公共事業に100兆円以上の国費が浪費されたのだ。

とはいえ、Phelpsから始まったNew Classical Economicsも、かなりいかがわしいものだ。この種のモデルは、マクロ理論と称しながら、実際には巨大な「代表的個人」の確率的な行動を記述しているだけである。これは各個人の行動が独立で同型的であることを仮定しており、そのモデルの「合理的」なふるまいは、実はこの同型性の仮定から導かれる。各個人が合理的であっても、効用関数や所得が異なれば、集計的な行動は不規則になりうる。数学的には、任意の集計的な超過需要関数が合理的個人から導けるのである(Sonnenschein-Mantel-Debreu)。

実際には、個人の行動は同型的でもなければ合理的でもなく、相互依存していて、バブルも恐慌も起こる。それがケインズの予測したような動きをしなくなったことは事実だとしても、NCEの予測が当たった試しもない。そもそも(行動経済学で実証されたように)ミクロで合理的でない経済が、マクロで合理的に動くはずはないのである。Phelpsの業績は、その後30年にわたってマクロ経済学者の雇用を創出した点では意義があるが、実証科学としての経済学の発展にはほとんど寄与しなかった。

日本金融システム進化論

星 岳雄・アニル カシャップ

日本経済新聞社

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著者の書いた1991年の論文は、日本のメインバンク・システムの役割を実証した先駆的な業績として有名だ。銀行と融資先の長期的関係によって情報が共有され、収益性を高めているという結論は、「日本的経営」の優位性を示すものとして注目された。しかしその後、日本経済が沈没すると、「行政や銀行が高度成長に寄与したという証拠はない。彼らは生産性の高い製造業にただ乗りしただけではないか」という批判が出てきた。本書は、こうした批判に反論し、通説的な見解を擁護するものである。

戦前の日本の金融システムは、株式や社債を中心とする市場型だったが、戦時体制における指定金融機関制度によって銀行中心へのシステム転換が行われた。このような規制に支えられた銀行中心のシステムは戦後も続き、高度成長の原動力となった。証券市場を抑止する規制のおかげで銀行が資金チャネルを独占し、長期的関係によって情報の非対称性の問題(逆淘汰・モラルハザード)を防いだのである。

著者は高度成長期の銀行の役割を肯定的に見る立場だが、それでも70年代には銀行の役割は終わっていたと見る。ファイナンスのグローバル化によって、大企業は市場から資金調達するようになり、銀行の融資によるガバナンスもきかなくなった。欧米では80年代に規制改革が終わったのに、日本の銀行・証券業界は改革に抵抗したため、システム転換が10年以上遅れた。これが金融技術革新への立ち遅れをもたらし、バブルを引き起こし、そして不良債権によって日本経済をめちゃめちゃにしたのだ。

しかしファイナンス業界は、業界が壊滅するという劇的な形でシステム転換を遂げた。関係依存型から市場型への転換は、もう本質的には終わっているのだ。この経済システムのコアにおける変化は、ガバナンスの変化を通じて日本の企業システム全体に及ぶだろう。

局所効率化と全体最適化

4日の「効率の高すぎる政府」という記事には、当ブログで最大のリンクが集まった。これはわかる人にわかるようにしか書かなかったので、当ブログの読者のレベルが高いことには驚いた。友人の話によると、霞ヶ関にも読者が多いようだ。ただ、ゲーム理論などの説明が省略されてわかりにくいというコメントもあったので、ちょっと長文になるが、付録として問題を簡単に整理して参考文献やリンクをあげておく。

日本の官民のガバナンスが長期的関係に依存したものだという指摘は、そう新しいものではない。よく日本の銀行は効率が悪いといわれるが、銀行員の数は、邦銀(4大グループ)が2~3万人なのに比べて、欧米の商業銀行は10万人を超え、邦銀の行員1人あたり資産は外銀の数倍である。それが可能なのは、邦銀が個別プロジェクトのリスクを管理しないで、メインバンクと融資先との長期的関係によってモラル・ハザードを防いできたからだ。「卸し売りのモニタリング」というのは、邦銀についてのゴールドマン・サックスのDavid Atkinsonの表現である。

Rajan-Zingalesは、こういうしくみをリレーションシップ資本主義と呼んでいるが、これは彼らもいうように中世以来の伝統的なガバナンス様式である。Greifも示すように、中世のマグレブ商人の相互監視メカニズムは、裏切り者を村八分にすることによって規律づけるものだった。日本でも、企業システムでこの種のメカニズム成立しているが、それについての系統的な説明はあまり見当たらない。我田引水だが、拙著(絶版)の第5・6章にそういう話がまとめてある。

長期的関係によってモラル・ハザードが予防できることは、前にも書いたようにフォーク定理で簡単に説明できる。これは「囚人のジレンマ」が同じメンバーで繰り返される場合、「集団内で得られる長期的なレントの割引現在価値が十分大きければ、裏切って集団から排除されるよりも協力するほうが得になる」という命題である。これはAxelrodの進化ゲームと混同されることが多いが、TIT FOR TATが最強の戦略だという結論は、学問的にはもう葬られた話だ。フォーク定理でサブゲーム完全均衡になるのは引き金戦略(GRIM)である。この種の理論の解説としては、松井がくわしい。

この関係依存型システムには、前にも書いたように競争を阻害するという欠陥があるが、自発的に市場型システムに移行することはむずかしい。関係依存型システムが成立するには、メンバーが固定され、ゲームが長期にわたって続くという期待(割引因子)が高く、集団内で得られるレントが大きい必要がある。こうした条件は互いに補完的なので、関係依存型システムの一部だけを変えると、かえって効率が落ちてしまう。

こうした異なるシステムの関係は、一つのゲームに複数のナッシュ均衡が存在する複数均衡になっていると考えられる。これは縦軸に利得をとると、図のように複数の山(局所解)がある状態で、市場のような逐次最適化メカニズムでは必ずしも全体最適に到達できない。初期状態がXよりも右側にあるとき、逐次最適化によって斜面を上ると、B(関係依存型)に到達する。これが大域的にA(市場型)に劣る場合でも、Bも局所的には頂上(ナッシュ均衡)なので、そこから自分だけ離れることはできないという「コーディネーションの失敗」が起こってしまうのである。



この種の非凸の最適化問題には、いろいろな解き方がある。アプリオリに関数がわかっていれば、問題はトリヴィアルで、聡明な官僚が全体最適解を決めて民間を指導すればよい。しかし実際の問題では、関数が与えられることはないので、どこに全体最適があるのかをさがす試行錯誤が必要になる。こういうときのアルゴリズムとしてコンピュータ業界の人々におなじみなのは、遺伝的アルゴリズムだろう。これは一定の確率で突然変異を起こして一方の山から他方の山にジャンプさせるものだ。同様のアルゴリズムとして、ニューラルネットで使われるsimulated annealingがある。これはシステム全体のエネルギーを上げて撹乱し、ゆるやかにエネルギーを下げて全体最適(ポテンシャル最小の点)をさがす方法だ。

経済システムにこういうアルゴリズムを適用すると、一つの均衡から他へのシステム間移行は、市場メカニズムで行うことはできず、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こるということになる。ところが同質的なメンバーで構成される関係依存型の「総動員体制」では、突然変異や撹乱が抑制されるので、システム間の移行は困難になる。しかも危機に直面すると、「日の丸検索エンジン」のように、逆に総動員で既存のシステムを守ろうとする傾向が強い。

だから前の記事にも書いたように、行政の中だけの局所的な効率化を考えていてはだめで、全体的な最適化を考える必要がある。それは市場だけではできないので、重要なのは意図的にシステムを撹乱し、さまざまな実験を行って最適解をさがすことだ。そのために役所にできる最善の政策は、規制を撤廃して行政の代わりに資本市場のガバナンスにゆだね、紛争を事後的に低コストで処理する司法的なインフラ(ADRなど)を整備することだろう。

日の丸検索エンジンの逆襲?

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「情報大航海プロジェクト」が、CEATECで眞鍋かをりを使って「グーグル八分」のデモを行い、「検索結果が海外の特定企業に決められるのは怖い」と訴えているらしい。この「日の丸検索エンジン」には、経産省が来年度50億円の予算を要求している。そういう公的なプロジェクトが、特定の企業を名指しで攻撃するほうがよっぽど怖い。これは、日本政府はグーグルを日本から排除するという意図を示しているのか。

かりにグーグルが特定のサイトを排除しているとして、官製検索エンジンはそういうことをしないという根拠があるのか。グーグルは邪悪で日本政府は善良だ、と政府が考えているとすれば、おめでたいというしかない。現実には、国家のほうがいろいろなフィルターをかけ、「危険」なサイトを差別するおそれが強い。グーグルが不正をしたら、ヤフーに切り替えればすむことだ。競争が機能している限り、ユーザーは何も困らないのである。

地域コード

ブルーレイ・ディスク(BD)にも地域コードがつけられることが決まった。地域は「日韓と米州」「EU・中近東」「中国・ロシア・インド」の3区分で、異なる地域で製造されたディスクは再生できない。日経新聞は、その理由を「海賊版対策」などと書いているが、これは嘘である。地域コードごと複製すればよいので、これは海賊版対策にはならない。それは現在のDVDと同じく、世界市場分割のためにつけられるのである。

CDには、地域コードはない。DVDも、麻倉怜士氏によれば、もともと世界共通に再生できる技術的優位性を生かすため、地域コードは導入される予定はなかったが、土壇場になって映画会社の要請で入れられることになったという。今回のBDの場合も、中国で安く製造されたディスクが他の国に輸出されることをきらったのだろう。

しかし、すべての工業製品は、こうしたグローバルな競争にさらされているのである。たとえば中国で製造される半導体メモリが安いからといって、メモリのメーカーがカルテルを組んで地域コードをつけたら、競争は阻害され、PCの価格は上がって、PCメーカーも消費者も損をする。そもそも、そういう国際的な価格カルテルを各国の独禁当局が許さないだろう。著作権という名前に隠れてカルテルが横行するのは、かつての「レコード輸入権」と同じだ。

デジタル情報がグローバルに流通する時代に、デジタル技術を悪用して地域独占を守ろうとする映画会社の発想は救いがたいが、これは両刃の剣だ。ディスクもハードウェアも、日本製品は中国という大市場を失う結果になる。またHD DVDは今のところ地域コードをつけない方針だから、標準化競争でBDが負ける要因にもなろう。自業自得である。

追記:コメントで指摘されたが、HD DVDも地域コードの導入を検討しているようだ。しかしBDとHD DVDの最大の敵であるハードディスクには、もちろん地域コードはない。こういう愚かな囲い込みは、パッケージ配信からダウンロード配信への移行を促進するだけだろう。

日本の経済システム改革

鶴 光太郎

日本経済新聞社

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著者は、経済産業研究所で私の隣の研究室にいた元同僚である。考え方も読んでいる文献もよく似ており、本書の内容も私にとってはあまり新鮮味はない。しかし一般の読者にとっては、日本経済の改革についての論点や「制度の経済学」の文献を幅広く網羅したサーベイとして便利だろう。

1990年代からの「失われた15年」についての著者の見方は、戦後の日本経済を支えてきた「関係依存型システム」が破綻し、「非干渉・市場型システム」に移行する過程だということである。これは長期的関係にもとづく繰り返しゲームから短期的な戦略的ゲームへの変化といってもよいが、両者はまったく異なるシステムなので、過渡期には変化を避けようとする「問題先送り」が発生する。それが異常に長期化したのが、失われた15年だった。

制度改革の原則として、著者は「成長へのボトルネックを特定し、除去する改革」をあげる。90年代にボトルネックになったのは、古い関係依存型取引が残って新しい取引を妨げていたことであり、これを清算したという意味で、著者は小泉政権の「金融再生プラン」を、条件つきながらも評価する。今後の改革の方向としては、これまでのインフォーマルな人間関係や「評判」にもとづくガバナンスに代わって、フォーマルな司法手続きの役割が大きくなろう。また政府が「将来ビジョン」を示して民間を指導するのではなく、多様な実験を通じて「進化的」に改革を進める必要がある。

効率の高すぎる政府

橘木氏の本でも論じられているが、日本の国民負担率は37%と、OECD諸国の中でアメリカに次いで低い。今の財政赤字をすべて増税でファイナンスしても50%に満たず、先進国では最下位グループだ(経済財政白書)。だから小泉政権でも「小さな政府」というスローガンはやめて「簡素で効率的な政府」などというようになり、安倍政権では「筋肉質の政府」という変な表現も出てきた。しかし行政の効率を公務員(独立行政法人などを含む)の人口比率で比べても、日本は1000人あたり35人と、OECDで最低だ。つまり数値的な国際比較で見るかぎり、日本はすでに効率的な政府なのである。

本質的な問題は財政負担ではなく、むしろなぜこのように効率が高いのかということだ。たとえば、かつての金融行政は、ほとんど銀行・証券業界の業界団体による「自主規制」で運用されていた。大蔵省はそれを監督するだけだったため、SECの数十分の一の要員で規制できたのである。日本の規制の大部分は、こうした非公式の行政指導で行われているが、それを破る者はいない。そんなことをしたら、許認可の権限をもつ役所にどんな仕返しをされるかわからないからだ。要するに、官庁が業界団体や系列の長期的関係を通じて卸し売りでモニタリングできるため、効率が高かったわけだ。

法的な規制の数(製品市場規制指標)で比較しても、日本はOECDの平均より少ない。官僚自身にも、強大な権限を行使しているという自覚はなく、よく「私たちは調整しているだけですから・・・」という。しかし民間から見ると、その「調整」が暗黙の強制力をもつのである。たとえば、NTTの放送事業への出資を3%以下に規制しているのは、法律でも通達でもなく、1999年の電波監理審議会の議事録である。これはもちろん法的な拘束力はないが、今でもNTTグループ各社は3%以上の出資をしていない。

こういう効率が維持できるのは、その集団のメンバーが長期的に同じ取引を繰り返すときに限られる(ゲーム理論でよく知られるフォーク定理)。だからモニタリングの効率を高めるには、参入を禁止してメンバーを固定し、集団内でレント(既得権)を保証することによって「村八分」になった場合の機会損失を高めるしくみが必要だ。「護送船団行政」は、この教科書どおりの制度だが、このような参入規制が競争を制限し、日本のファイナンス業界や通信・放送業界をだめにした。裁量的な事前規制は、行政の効率は高いが、経済の効率を低下させるのである。

重要なのは、行政の効率ではなく経済の効率を高めることだ。そのためには、参入規制を撤廃しなければならないが、これによって行政の直接経費が下がるとは限らない。参入が自由になると、長期的関係による暗黙のモニタリングは困難になるので、ルールを明文化し、違反を取り締まる公務員を増やして、事後的に小売りでモニタリングしなければならないから、SECのように監督機関の規模は大きくなる。

しかし橘木氏のいうように、もっと「大きな政府」にすべきだということにはならない。政府支出には一定のオーバーヘッドがあるので、北欧などの小国で財政のGDP比が高くなり、日米のような大国で低くなるのは、ある程度は当然だ。日本の政府支出の絶対的な規模はアメリカに次いで大きいので、財政的にも今以上に大きな政府にすべきではない。もっと重要なのは、統治機構の中で行政に権限が集中していることだ。

日本では立法・司法機能が弱いため、官僚が法律をつくり、それを解釈し、行政処分で処罰する権限までもっている。Shleiferなどの実証研究が示すように、行政中心(大陸法)の国の成長率は司法中心(英米法)の国に劣る。事前の規制で紛争を押さえ込む制度は、摩擦は少ないが、自由度が低いからだ。日本でも、官僚の役割を司法で代替し、個人間の紛争処理で解決する制度改革が必要である。奇妙な表現だが、日本の政府は効率が高すぎるので、行政の権限を縮小する必要があるのだ。

追記:TBで、公益法人などを含めると「公務員」は1000人あたり50人近くになるという指摘があるが、政府の経営していない公益法人を「政府企業」に含めるのはおかしい。また国際比較でもわかるように、たとえ50人になるとしても、主要国で最低である。

格差社会―何が問題なのか

橘木俊詔

岩波新書

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最近の「格差社会」ブーム(?)の火つけ役になった著者の、これまでの批判への反論を含むまとめ。日本の経済格差は、かつて著者が指摘したよりもさらに拡大し、今では先進国でトップクラスになった。特に若者に「非正規雇用」が拡大していることは、人的資源の質を劣化させ、日本の将来にとって深刻な問題である。

格差拡大の大部分は、高齢化と単身世帯の増加によるものだ。その原因として著者は「構造改革」の弊害を強調するが、それを裏づけるデータはない。実際には、格差の最大の原因は、バブル崩壊後の長期不況による雇用削減である。不況期に、日本の企業が中高年の既得権を温存して、新卒の採用を抑制したり、派遣社員に切り替えたりした結果、高給を取って社内失業している中高年の正社員と、不安定な雇用しかない若者の「二重構造」が生まれたのである。

著者も指摘するように、日本は財政規模でみても公務員の数でみても、先進国の中では「小さな政府」である。それでも高度成長期に貧富の格差があまり大きくならなかったのは、企業が長期的雇用によって福祉コストを負担する「日本的福祉システム」のおかげだった。しかし90年代の不況でこのシステムは壊れ、正社員とそれ以外の格差が拡大した。つまり日本の格差は、「日本的経営」の崩壊の副産物なのだ

だから「福祉国家」と「市場原理主義」を対立させ、小さな政府を批判する著者の図式は不毛である。日本の福祉水準が低いことは事実だが、格差の原因となっている企業システムのゆがみを是正せずに所得移転だけ増やしても、根本的な解決にはならないだろう。特に若者の問題は、バラマキ福祉ではどうにもならない。

これまで行政も、税制などで日本的経営を優遇して、福祉コストを企業に負担させてきた。しかし退職一時金や(ポータブルでない)企業年金などは、中高年が会社にしがみつく原因となり、雇用の流動性を低下させ、結果的に若者の雇用機会をせばめている。長期的な解決策は、このような日本的経営を補強している制度を廃止し、労働市場をオープンにすることではないか。









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