1970年体制


日本の経済システムを戦時体制の延長上にある「1940年体制」とよんだのは野口悠紀雄氏だが、原田泰氏などは「1970年体制」という考え方を提唱している。一般には、石油危機をきっかけに日本は「成熟経済」に入ったと理解されているが、成長率の減速は石油危機の前から始まっており、原油価格が下がっても元に戻らなかったからだ。

増田悦佐『高度経済成長は復活できる』(文春新書)は、田中角栄が「弱者保護」と称して都市の金を地方に再分配するシステムを作り出したことが成長率低下の原因だと主張する。たしかにそういう面はある(その典型が放送業界だ)が、これが田中個人による「社会主義革命」だというのは、短絡的にすぎよう。

日本の社会資本投資は、70年ごろまでは私的投資よりも収益率が高かったし、日本が急速な成長にともなう都市のスラム化を避けることができたのも、このためだ。公共事業は、高度成長にともなう過剰貯蓄を地方に再分配して票田を守る自民党の集票戦略だったが、こうした「弱者にやさしい政治」は与野党を問わないコンセンサスだった。

この「田中角栄型システム」は、バブル崩壊とともに破綻したが、1970年体制に代わる新しい「アーキテクチャ」ができていないことが、混乱の長期化する原因である。著者のいうように単なる都市化で「高度経済成長が復活できる」とは思えないし、それが望ましいわけでもない。

環境税

環境税の導入が見送りになった。京都議定書の発効が確実になったというのに、反対する財界は「自発的努力」だけで実質25%ものCO2削減が可能だというのだろうか。

他方で、ロシアからCO2排出枠を買うビジネスが始まり、国内でも各社に排出枠を割り当てる検討が始まっている。こうした「財産ルール」による市場メカニズムを使った解決策は、有名な「コースの定理」にもとづくもので、経済学者には支持されているが、実際には問題が多い。

国際的に問題なのは、排出枠が「検証可能」かということだ。とくにロシアが「売った」枠を正確に実施して排出を削減するかどうかは疑わしい。単にロシアに金を出して日本が現状維持するだけに終わるおそれが強い。コースも認めるように「取引費用」が大きすぎる場合には、財産権の設定は効率的ではない。

国内では、まじめに排出枠の取引をやろうとすると、膨大な枠の割り当てが必要になり、エネルギー関連産業全体が「統制経済」になるばかりでなく、この「環境利権」をめぐる政治的な交渉が起こる。これもコースの定理の弱点で、財産権の初期分配を決めるルールはないのだ。

もっとも本質的な問題は、たとえ排出権取引が厳密に実施されたとしても、それは排出量を削減するコストの高い企業から低い企業に負担を移転するだけで、全体の排出量は変わらないということだ。したがって財産ルールが望ましいのは、削減目標に科学的な根拠があり、それを達成することが確実である場合に限られる。

しかし、これが京都議定書の最大の欠陥である。各国ごとの削減率は、科学ではなく政治によって決まったもので、議長国になってしまった日本は、もっとも不利な条件を負わされた。議定書が完全実施されたとしても、地球温暖化は100年後に6年のびるだけだ

温暖化を防ぐことは必要だが、政府が絶対的な「削減目標」を設定する意味はないし、日本が京都議定書の目標を完全実施することは不可能である。相対的に削減する努力を促進するため、環境税のような「責任ルール」で分権的に実施したほうがよい(厳密な議論はKaplow-Shavell参照)。

理解と納得


私は1992年に「追跡・不良債権12兆円」というNHKスペシャル(「不良債権」というタイトルをつけた日本初の番組)を作ったが、そのとき取材した住専の問題と今度のダイエー騒ぎが、ほとんど同じパターンなのにはあきれる。

日住金の場合には、債務超過が1兆円を超えるという絶対に助からない状況だったにもかかわらず、1992年にメインバンク(三和銀行)が「実態倒産企業」と断定する秘密報告書を出してから、最終的に清算されるまで4年かかった。第1次の債権放棄から3年9ヶ月かかったダイエー問題は、何も進歩していない。問題が発覚してから、わかりきった答に至るまでが長いのだ。

問題を「理解」するのは、そうむずかしいことではない。しかし、自分が犠牲になることを「納得」するのは、それ以外のすべての選択肢を試してからでないと、できないものだ。第三者には不合理に見えるダイエーの高木社長の迷走も、「最大限努力したが、これしかない」と社員に納得させるための演技だったのかもしれない。

最後に監査法人という「葵の御紋」が出てくるパターンも、昔から同じだ。住専のときは、中坊公平氏という「黄門様」が登場して乱暴に幕を引くと、みんな納得してしまった。「水戸黄門は、なぜ最初から葵の御紋を出さないのか」という笑い話があるが、あれは最初から出してはだめなのだ。日本の社会では、事態がとことん紛糾して、だれかが御用になるしかないことを納得するコンセンサスが大事なのである。

録画ネット

海外在住の日本人向けにテレビ番組を録画して配信するサービスを差し止めるようテレビ局が求めていた訴訟で、差し止めの仮処分決定が出た。

このサービスが違法なら、ケーブルテレビもDVDレコーダーも違法だ。グローバルな戦略のない日本のテレビ局も、ブロードバンドで地上波の番組の配信を許さないとかJASRACとの包括契約を許さないとか、著作権を名目にして既得権を守る戦術だけは、米国の業者に学んでいるようだ。

産業政策の終焉

今回のダイエー騒動には、不可解なことが多い。最初からメインバンクが「自主再建」では債権放棄に応じないといっているのだから、こういう結論しかないことは日本の常識だろう。死に体のダイエーがここまでねばったのは、経産省が「応援」したためだが、土壇場でハシゴを外されて立ち往生。これが「民間主導」とは笑わせる。

この迷走の最大の責任者が、北畑隆生・経産政策局長だ。省内でも「再生機構には経産省からも幹部を出しているのに、いい加減にしろ」「何か成算があるのか」と批判が強かったが、結局、何も策はなかった。「官邸が北畑の暴走を押さえ込んだ」という説もあるが、むしろ官邸の調整機能がなくなったから、ここまで泥沼になったのではないか。

北畑氏は、かつて通産省が繊維や造船を整理したときのような「産業政策」的な手法が、まだ通用すると思い込んでいたのだろう。今回のドタバタは、不良債権問題の最終局面の始まりとともに、彼に代表される「古い霞ヶ関」の終わりを告げているのだ。

ソフトバンクの訴訟

ソフトバンクが、800MHz帯の割当をめぐって行政訴訟を起こした。

原告が勝てる可能性は(仮処分以外は)なく、時間稼ぎという印象も強いが、法廷でオープンに議論するのはいいことだ。米国では、民間が行政と闘う最大の武器は、裁判である。司法の力も強く、AT&Tの分割を実質的に決めたのはMCIの起こした訴訟だった。逆に1996年電気通信法をめぐっては、ILECが訴訟でFCCに連勝し、結局UNE規制は空文化してしまった。

結果の是非は別だ。法律がおかしいなら、議会が改正すればよい。問題は、政策決定の過程を変えることである。今のように行政がすべて密室で決めて、警察と裁判官をかねるような状況より、「100年裁判」のほうがましだ。今週の週刊エコノミストにも書いたことだが、日本の通信をだめにしているのは、社会主義行政と「通信ゼネコン」の談合だからである。

経済学の「ノーベル賞」

今年の受賞者は、KydlandとPrescottだった。一番びっくりしたのは、本人だろう。理論的にも実証的にも葬られ、政策的にもナンセンスな「実物的景気循環」が、今ごろ学問の墓場からよみがえるとは・・・

この賞は、正確には"The Bank of Sweden Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel"であってノーベル賞ではない。ノーベル家の遺族からは「まぎらわしい名前は変えてほしい」という要望がかねてから出ており、最近の受賞者にも疑問が多い。

数学にノーベル賞がないのは、ノーベルが数学ぎらいだったからだというが、それなら応用数学にすぎない経済学が「ノーベル賞」を自称するのはおかしい。やめるのが一番いいと思うが、せめてメディアも通称を「スウェーデン銀行賞」に変えてはどうか。

NHK&NTTバッシング

きょう発売の『文芸春秋』のNHKについての記事は、なかなかおもしろい。新しい話はないが、文春がデジタル放送を批判し始めたのは注目に値する(批判している発言者は私だけだが)。

他方、「BOOK倶楽部」では、『巨大独占』を取り上げている。しかも、これを絶賛するのが書評しか業績のない松原隆一郎氏で、その相手がど素人の福田和也氏と鹿島茂氏なのだから、まるで出来の悪い3人漫才だ。

鹿島 我々はどの電話会社と契約しても、NTTに接続料を払わなきゃいけない。

松原 通話料の安いIP電話も結局はNTTに加入しないと使えない。

福田 もし[NTT東西とドコモが]統合したら、ドコモの料金を滞納すると家の電話まで止められるのかな?


福田氏と鹿島氏は、文芸業界の「オヤジ殺し」の代表だ。このツボがわかると、同じような「文春的言説」をあちこちのオヤジ系雑誌に書くだけで商売になり、この鼎談のような営業用の与太話を量産するようになる。このパターンにはまって自滅した典型が、西部邁氏である。

Jaques Derrida

ジャック・デリダが死んだ。

学生時代に『グラマトロジー』を読んだときは、意味不明の造語でレヴィ=ストロースにからんでいるだけの小物だと思っていた。「音声中心主義」などというのは、フランスのローカルな習慣の問題にすぎない。特に1970年代後半に、小説みたいなわけのわからない文章を書き始めてから、読まなくなった。

しかし、1993年の『マルクスの亡霊』には強い印象を受けた。文献学的にはナンセンスだが、マルクスを形而上学の現代的形態として読む「脱構築」は、きわめて重要だ。廣松渉が本質的な人格的関係の錯視として認識論的な意味を与えた「物神化」のメカニズムを転倒し、物神=亡霊こそ本質なのだという読解は新鮮だった。

『亡霊』の訳本(藤原書店)が10年以上たっても出ないのは、レヴィ=ストロースの『神話学』の訳本(みすず書房)が30年以上たっても出ないのと並ぶ、日本文化に対する犯罪である。

予報円

また台風が来た。台風情報では、暴風雨圏とまぎらわしい「予報円」というのが表示されるが、こんな曖昧な進路予測を出すのは日本だけである。

台風の進路は、最近はスーパーコンピュータでかなり正確に予測でき、海外の予報では進路は線で表示される。ところが日本では、かつて進路予測の精度が悪かったとき、長崎で漁船が沈没して、国会で気象庁長官がつるし上げられた。予報円ができたのは、それ以来である。要するに、これは気象庁の責任逃れのためのものなのだ。

気象庁の予報官会議を取材したことがあるが、その内容の大部分は、ピンポイントで出てくるスパコンの予測をどれぐらいぼかすかという議論である。こういう役所も悪いが、予測が外れたといって国会で追及する国民も悪い。役所の予測を無条件に信用しないという大人の常識を身につけることが最良の防災対策である。







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