刺客

「刺客」は今年の流行語大賞にでもなりそうだが、ちょっと実態とずれてきたような気がする。もともとは「共倒れ覚悟で殺しに行く」という(ヤクザ映画の)鉄砲玉のイメージだったが、刺客がこれだけ脚光を浴びると、むしろ割を食うのは民主党のほうで、鉄砲玉が生き残るケースも多いのではないか。

解散の記者会見で小泉首相が「郵政民営化に賛成か反対かを選択する選挙にする」と宣言したとき、それを真に受けた人は少なかったはずだ。分裂選挙で民主党が漁夫の利を得る、というのが「政界の常識」だった。それを強引に自分の土俵にひっぱりこんでしまった首相のプロデューサーとしての力量には恐れ入る。これは計算というよりも、天性の勘みたいなものだろう。

実は私も、4年前の参院選に出ないかと自民党の代議士に説得されたことがある。そのときは森政権の末期で、候補者も集まらなかったらしい。もちろん即座に断ったが、あのときOKしていれば、小泉政権のもとで選挙になったから、私の人生はどうなっていただろうか・・・

ユニバーサル・サービス

郵政法案をめぐるテレビの討論を見ていると、「改革」を主張する与党に対して反論する野党の論点は、ほとんど「ユニバーサル・サービス」しかなく、この点では自民党内の反対派も同じだ。しかも、与党側も「ユニバーサル・サービスは守る」と主張するから、争点がわかりにくい。

ユニバーサル・サービスというのは、20世紀初めにAT&Tが1社独占を正当化するためにつくった政治的な言葉だ。それが日本では、さらに政治的に拡大解釈されて、金融にまでユニバーサル・サービスが必要だという話になっているらしい。しかし、この種の問題の大部分は社会福祉の問題であり、私も3年前に書いたように、基本的には所得補償で解決することが望ましい。

公的補助によってサービスを維持する場合にも、過疎地こそ民間で効率的にやらないと公的負担がかさむ。たとえば郵便事業を請け負う業者をオークションでつのり、最小の補助で事業を行う業者に委託するなどの工夫が必要だ。

さらに本質的な問題は、今の郵便局ネットワークを丸ごと守る必要があるのかということだ。今の特定郵便局は、日本人の7割が農民だった時代の配置で、それを今後もすべて守ることは不可能だし、その必要もない。与党が「構造改革」をいうなら、そういう論点も正面から争わなければ、また2兆円の基金で赤字補填する家父長的な保護行政になってしまう。

IPマルチキャストは放送か

先月の情報通信政策フォーラムのシンポジウムでも議論になったように、電気通信役務利用放送法によるIPマルチキャストのサービスが放送と認知されていないことが、栄村などさまざまな混乱を呼んでいる。これは日本の著作権法でインターネットを「自動公衆送信」という概念で規定し、放送と区別したことが原因だ。

実際には、IPマルチキャスト(UDP/IP)は「公衆によって同時に受信される」点で、有線テレビ法による放送(ケーブルテレビ)と変わらないのに、IPだというだけで自動公衆送信のような扱いを受け、BGMなどにも1曲ずつ許諾を得なければならない。これはIPといえばTCP/IP=インタラクティヴ通信という固定観念があるからだろう。

さらにいえば、放送と通信で権利関係にこんな大きな差があるのがそもそもおかしい。こういう法的な非対称が、放送業界の既得権を守る武器になっているのだ。1次権利者に個別に許諾を得るなんて実際には不可能なのだから、通信にも強制ライセンスと包括契約を認めるべきだ。

総務省人事

総務省の今年の人事異動は、郵政民営化騒動のあおりで、かなり大幅なものになった。総合通信基盤局長になるはずだった鈴木康雄政策統括官が小泉首相の「一本釣り」で郵政行政局長に異動してしまったため、基盤局長が旧自治省系から出る。

情報通信政策局長に竹田電波部長(技官)が昇格したのも異例だし、逆に電波部長に事務官がなったのも初めてだろう。これまで電波部は特殊な「ムラ」で、技官の牙城だったが、通信と放送の融合時代には、有線・無線の枠を超えてインフラの効率化を考える必要がある。こういう人事の「融合」は歓迎すべきことだ。

解散

衆議院が、とうとう解散された。紫色の解散詔書を見て思い出したのは、12年前の宮沢内閣による解散だ。あのとき私は、国会内の中継車から解散を見ていた。歴史の歯車が回る音を聞いたような気がした。それがサラリーマンをやめようと決意したきっかけだった。

いま思えば、私の決意は早すぎた。日本が大きく変わると思ったが、政治はすぐ元に戻ってしまった。経済はボロボロになって持ち直してきたが、行政は何も変わっていない。12年前の連立与党のときも、行政主導は、かえって強まった。今度、もしも民主党が勝ったとしても、大した期待は持てない。日本を支配しているのは、明治以来100年以上になる「官治国家」システムだからだ。

FCCの規制撤廃

FCCは、地域電話会社へのアンバンドル規制を事実上撤廃し、ケーブルと「平等な競争条件」にする決定を行った。これで1996年電気通信法以来の規制は、完全に逆戻りしたわけだ。

このような「設備ベースの競争」路線は、アンバンドル規制を強める日本や欧州とは逆である。長期的にどっちが成功するかはわからないが、この10年の試行錯誤でわかったことは、中間の解はないということだ。垂直統合か水平分業かというのは、産業全体のアーキテクチャの選択だから、一部の業者に別の規制をしたり、規制が二転三転したりするのは最悪である。その意味では、最近のFCCの政策は、一貫しているだけましかもしれない。

命か特許か?

きのうのNHKスペシャルで、AIDS治療薬の特許をめぐる対立を取り上げていた。「命か特許か」という問いにすれば答は自明だが、問題はそう単純ではない。ブラジルなどは政府が代用薬を大量生産して輸出しており、AIDS治療薬の国際価格が暴落したため、新薬開発が滞っているともいわれる。

一番いいのは「命も利益も」守ることで、そのためには現在の特許制度は最善のシステムとはいえない。特に薬品の場合には、Kremerが明らかにしたように、特許を政府などが買い上げることによって利益を守りながら命も守ることができる。こういうシステムは世銀や赤十字などが検討しているが、きのうの番組を見るかぎり、まだ実を結んでいないようだ。資金がないからか、製薬資本にとっては在来の特許のほうがもうかるからか。

ただ、AIDSの「治療薬」というのは、しょせん対症療法で、HIVそのものをなくすわけではないので、開発援助で配布することには反対論もある。症状を緩和すると、感染者がHIVをばらまくからだ。コンドーム使用の徹底などの性教育のほうが効果的だ、とPosnerは論じている。

もっと効果的なのは、Posnerも論じているように、先進国が農業保護をやめることだ。アフリカの問題は、結局アフリカ自身が解決するしかない。先進国がやるべきなのは、腐敗した政府に渡るだけの援助よりも、彼らの自立をさまたげている不公正貿易の是正である。

情報通信審議会 第2次中間答申

地上デジタル放送についての中間答申が総務省のホームページに出ている。注目されるのは、IP配信について「条件不利地域に限らず、積極的に活用すべき」と明記されていることである。これは「難視聴解消にかぎった補完的利用」という民放連の抵抗を総務省が踏み越えたものと読める。

ただし、それが許容されるための技術的条件は「送信が当該放送地域内に限定される」ことであり、この点では抵抗勢力に譲歩している。しかし現実には、アナログ放送でさえ「当該放送地域外」で受信されており、こんな制限はデジタル放送がきらわれる原因になるだけだ。たとえば徳島県などは、大阪の局が受からないと民放は1局しか見えなくなってしまう。

この点では、もう一つのポイントである「コピーワンス」の教訓に学ぶべきだ。これも供給側の都合で不便なシステムを導入したため、デジタルTVが敬遠されるもとになった。放送のデジタル化は公共事業ではなく、最終的には視聴者が受け入れなければできないのだ。

第1回ICPFシンポジウム

きょうのシンポジウムでは、地上デジタルが話題になった。栄村などには放送のIP配信を禁止しておきながら、地上デジタルではIP配信を開始するというのは不可解だが、それだけ「2011年」のタイムリミットに追い詰められているのだろう。

これはIP配信を阻んでいる壁を突破するチャンスだが、厄介なのは「県域」の問題だ。配信地域を限定することは、やればできなくはない(NTTには「地域IP網」というのもある!)が、それではIP配信の意味がない。総務省は、どこまで本気でIP配信をする気なのだろうか。きょうの情報通信審議会で、このへんの中間報告が行われたはずである。

サルトルの世紀

朝日新聞と日経新聞の書評で、ベルナール=アンリ・レヴィ『サルトルの世紀』(藤原書店)がそろってトップに取り上げられていた。たしかに、論証に荒っぽいところはあるが、サルトル論としては圧倒的におもしろい。

もはや「忘れられた哲学者」に近いサルトルの戦前の著作を再評価し、そこに「物の味方」としての「第一のサルトル」を見出すという発想は斬新で、またそれなりに説得力がある。マロニエの木の根元を見て吐き気をもよおすロカンタンの姿に「本質の不在」というポストモダン的なテーマを見ることは可能である。

しかし、初期サルトルの「反本質主義」を「反ヒューマニズム」と置き換えるのは、ちょっと乱暴だ。本質に先立って実存する主体は「自己」であり、サルトルはその主体(人間)そのものは疑っていないからだ。むしろ、ヘーゲル的な主体=実体を否定しつつ、実体なき主体としての自己を認めたところに、サルトルの中途半端さがあったのではないか。

これは戦後の「第二のサルトル」の惨憺たる失敗をどう理解するかという問題ともからむ。著者は、これを「第一のサルトル」と並列し、二人のサルトルが晩年まで同居していたのだとして、両者の関連についての説明を放棄しているが、これはいかがなものか。むしろ初期の哲学からあった「強いエゴ」が肥大化して「党」の絶対化につながったのではないか。

未整理で冗漫な部分も多いが、語り口はジャーナリスティックで読みやすく、900ページも一気に読める。良くも悪くも、サルトルが20世紀を代表したことは間違いない。彼の矛盾は、われわれの時代の矛盾でもあるのかもしれない。







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