ライブドア事件への疑問

昨夜の「朝まで生テレビ」でも話題になったが、今週のテレビはホリエモン出所で大騒ぎだった。しかし、これまでの容疑事実がすべてなら、証取法違反ぐらいであれほど大量に逮捕して死者まで出し、3ヶ月も拘留するというのは、人権侵害だ。

ライブドアのウェブサイトに書いたときは、あとから大きな犯罪が出てくるかもしれないと思って、歯切れの悪い書き方になったが、結果的には「見込み捜査」が失敗したといわざるをえない。検察も100人体制で、政治家や組織暴力にからむ筋を海外まで追ったようだが、結局何も出なかった。検察のねらいは、村上ファンドだという説もあるが、こっちは財界の大物もバックにいるので、検察も慎重になっているのだろう。

新聞もテレビも、検察の機嫌をそこねたくないので、捜査に対する疑問を出さないが、最初に筋書きを書いて、そこに事件を当てはめてゆく「国策捜査」には問題がある。ホリエモンが犯意を徹底的に否認したら、公判の維持もあやういのではないか。

TVに明日はあるか?

今夜(正確にいうと明日の未明)の「朝まで生テレビ!」に出演することになった。テーマは「激論!TVに明日はあるか?!」。民放連の広瀬会長や、通信・放送懇談会の松原座長も出演する。

討論の焦点は、デジタル放送とNHK問題になるようだ。これまで私は、地上波テレビ局には出入り禁止だったが、ようやくテレビ局も、現実を直視せざるをえなくなったということだろうか。

会社は誰のものか

当ブログの「国家の品格」板では延々と議論が続いているが、きのうのTBでおもしろい問題提起があった。藤原氏のいう「会社は従業員のもの」というのは間違いで、商法では「会社は株主(法律用語では「社員」)のもの」だという批判である。実は私も、これとほとんど同じ論旨のコラムを『PC Japan』の今月号に書いた。

藤原氏は「会社が従業員のものではない、というルールは、私の理解を絶する」という。普通は、理解を絶するルールが法律になっていれば、どうしてそうなっているのか理解しようとするが、藤原氏はこれが諸悪の根源だと断じる。彼の主張が正しければ、大変だ。商法が間違っているのなら、至急改正しなければならない・・・

もちろん、そんなことは起こらない。なぜなら、間違っているのは藤原氏のほうだからである。会社とは、株主の投資によって得た非人的資産の集合体なのだから、その所有権が株主にあるのは当然だ。従業員は、会社と契約した「使用人」にすぎない。経済学的にも、「会社は従業員のものであるべきだ」というのは間違いである。現実に、チトー時代のユーゴスラヴィアでは、「労働者自主管理」によって企業が経営されたが、従業員は果てしなく賃上げを求め、設備投資は行われず、企業経営は破綻してしまったのである。

ただ従業員も人的資本に投資しているので、これを資本家が搾取すると、「企業特殊的な人的資本」への投資が行われない。したがって従業員にも一定の配慮が必要だが、彼らが意思決定をすべきではない。従業員が拒否権をもつと、企業の効率化を拒否し、資本の浪費が行われるからである。日本的経営の失敗も、これに近い。

この問題については、何千本もの論文があるが、Jean Tiroleのサーヴェイ(新著の第1章)によれば、多くの利害関係者(stakeholder)の合議によって意思決定を行う「ステークホルダー資本主義」は、理論的にも現実的にも、うまく行かない。したがって制度設計としては、株主が企業をコントロールし、労働者は流動的な労働市場で他に動けるようにすることが望ましい、というのが経済学の標準的な結論である。

ソフトバンクは1兆円ドブに捨てた?

今週の『週刊文春』に「孫正義は1兆円をドブに捨てた」という記事が出ている。要するに、ボーダフォン日本法人の買収価格2兆円(債務肩代わり2500億円を含む)は高すぎるというのである。

ボーダフォンの現在の経常利益は800億円だが、LBOで新たに発生する負債(1兆7000億円)の金利を3%とすると、このうち500億円が飛んでしまう。買収後も、基地局の建設などに数千億円の追加投資が必要であることを勘案すると、相場は1兆2000億円ぐらいだという。ボーダフォン側も株主の突き上げで売り先をさがしていたのだから、じっくり交渉していれば、もう少し値切れたはずだ。

ところが、その買収交渉の最中に、Financial Timesに「投資ファンドのKKRとサーベラスがボーダフォン買収に乗り出す」というニュースが出た。とくにKKRというのは、世界最強の投資ファンドで、資金調達力はソフトバンクとは比較にならない。さらにロイターが「サーベラスの提案は150億ドル(1兆7500億円)」と報じた。ソフトバンクは、このニュースにあせって言い値で買ったが、実際にはサーベラスが買収を行う可能性はなかったという。これはボーダフォン側の投資銀行UBSによる情報操作だった疑いが強い。

私も、このKKRの話は続報も出ないし、おかしいなと思っていた。こういう情報操作は、大規模な企業買収では当たり前で、「だまされるほうが未熟」というのが投資ファンドの見方だ。

ケインズの亡霊

小泉政権が、今日で満5年になる。その「光と影」について各紙が書いているが、最大の功績は「不況のときは財政出動」という「常識」をくつがえし、緊縮財政のもとで景気回復をなしとげたことだという。しかし、これは霞ヶ関や自民党の常識だったかもしれないが、経済学ではとっくの昔に常識ではなくなっている。

欧米でも、戦後しばらくは「ケインズ政策」が常識だったが、1960年代後半から始まったスタグフレーション(不況とインフレの共存)がケインズ理論では説明できなかった。それを見事に説明したのが、ミルトン・フリードマンの「自然失業率」(のちにNAIRU)仮説だった。これは簡単にいうと「財政支出を増やしても、人々の期待がそれを織り込むと効果はなくなる」というもので、合理的期待学派によって数学的に定式化された。さらに「財政支出を国債でファイナンスしても、人々はそれが増税で償還されることを予想するので、財政政策は無効だ」という中立命題によって財政政策の役割は理論的に否定され、1990年ごろまでに先進国では財政政策はとられなくなった。

ところが日本では逆に、80年代までは、不況のときは増税し、好況のときは減税する「逆ケインズ政策」がとられていた。これは大蔵省の財政均衡主義によるものだが、景気循環を増幅することになる。その最大の失敗が、バブルの発生である。1985年以降の「円高不況」に対して、緊縮財政を続けて金融政策だけで「内需拡大」しようとしたため、異常な金余りが発生したのである。これによって大蔵省の権威は失墜し、90年代になって「遅れてきたケインズ政策」がとられるようになり、100兆円以上の財政出動が行われたが、効果はほとんどなかった。

実証的には、合理的期待も中立命題も「ハードコア」のモデルは支持されていない。欧米で財政政策がとられなくなったのは、その政治的弊害や無駄な公的投資が大きいためだ。しかし、マクロ経済を動かす期待の役割を重視した点で、これらの「新しい古典派」は正しい。日本の景気回復の最大の原因も、期待の変化である。財政支出がジャブジャブだと、企業はそれを織り込んで不良債権処理などを先送りするが、財政を引き締めると、企業は政府を当てにしないで「自己責任」でリストラを行い、資本や労働が非効率な部門から効率的な部門に移転されるので、自律的な景気回復が起こるのである。

この意味で、小泉政権の緊縮財政によって景気が回復したのは不思議な現象ではなく、むしろ(新しい)マクロ経済学の教科書どおりの現象である。ところが日本では、いまだに不況になると「よい公共事業」が必要だという経済学者や自称エコノミストが徘徊している。日本経済を健全化するには、経済学界もリストラし、こういう「ケインズの亡霊」には成仏してもらわなければならない。

小沢ブーム

千葉7区の補選で民主党が勝って、にわかに「小沢一郎ブーム」が再来したようだ。しかし、これまでの彼の軌跡をみると、新党を結成した当初は期待されながら分裂し、彼に近い人ほど彼のもとを去ってゆくということを繰り返してきた。私の友人に小沢氏の元秘書がいたが、彼も、小沢氏が大事なことをまわりに相談しないで、ひとりで「奇策」によって解決しようとすることが不信感を生んできたといっていた。

細川内閣が崩壊したあと、小沢氏は渡辺美智雄を首相に擁立しようとしたが、羽田氏はその話を聞かされておらず、小沢氏に連絡がとれないので、自宅までやってきた。私の友人は留守番をしていたが、羽田氏は「小沢はいるんだろ?帰ってくるまで待たしてもらう」と座り込んだ。ところがそこへ、渡辺氏から電話がかかってきた。羽田氏が出て「あなたがこっち(新生党)に来るという話は聞いていない」と答えたところ、渡辺氏は驚き、これをきっかけに彼が自民党を(派閥をひきいて)出るという話は、立ち消えになってしまった。

また羽田内閣が総辞職したあと海部氏を擁立するときも、まわりに協力を求めなかったため、社会党が「村山首班」支持にまわり、非自民連立政権は9ヶ月で終わってしまった。伊藤惇夫氏によると、村山内閣というのは、かなり前から自社両党が「国対ルート」で画策していたという。小沢氏の裏工作は、その裏をかかれたのである。同じような失敗は、その後の新進党や自由党でも繰り返され、「自自連立」で結果的に「自公連立」のきっかけをつくり、与党の絶対多数を固定化してしまった。

それから、あまり知られていないことだが、彼の霞ヶ関に対する力もなくなった。かつては大蔵省の斉藤次郎事務次官と小沢氏だけで「国民福祉税」を決めるぐらい力があり、そのころ小沢氏についた官僚は、斉藤氏だけでなく各省庁にたくさんいた。ところが小沢氏が野党に転落すると、こういう「小沢派」官僚は、斉藤氏のように各省で徹底的にいじめられ、組織(天下り先を含む)から追放された。このため、今度民主党が政権をとったとしても、官僚はついてこないだろう。

私の友人は、こういう彼の性格を「田中角栄に甘やかされて育った『政界おぼっちゃま』だ」といっていた。田中は、たとえば地元の陳情を電話で受けるとき、小沢氏をそばに呼んで、「一郎、陳情処理はこういうふうにするもんだ」と教えたという。47歳で幹事長になり、49歳で総裁に推されて断ったという輝かしい経歴が、「その気になれば首相になれた」というおごりを生んだ(最近もインタビューでそういう発言をしている)。しかし、その「小沢神話」の貯金も、野党になってからの失敗で使い果たした。いま彼にもっとも重要なのは、自分の政治力を過信しないことだろう。

グーグルの価値

まず訂正。先日のこのブログの記事には間違いがあり、米国の広告費(検索広告を除く)のGDP比は、3%ではなく1%強でした。この数字をもとに記事を書いた磯崎さんには、ご迷惑をかけました。

広告産業は成熟産業だが、ネット広告は成長産業である。しかしグーグルのCEO、Eric Schmidtの「ネット広告はまだ広告全体の3%しかない」という話はおかしい。前にリンクを張ったTNS-MIの統計でも、ネット広告(83億ドル)の広告全体に占める比率は5.8%だが、これは検索広告を除いた数字なので、これにグーグルの61億ドルを足しただけでも、10%を超えている。

問題は、この先ネット広告がどれぐらい増える余地があるかということだ。ここで重要なのは、広告が卸売りのビジネスだという点である。企業の予算のなかで広告費の比率はほぼ一定であり、宣伝担当者も各メディアにバランスをとって出稿するから、おのずとメディア別のシェアはどこの国でも同じぐらいになる。今はネット広告のほうが効率がいいので成長率も高いが、経済学でよくやるように、成長とともに各メディアの広告の限界効率が均等化すると想定すると、新聞・雑誌・テレビ・ネットに各20~25%というのが妥当なところではないか。

しかもスポンサーは、ネット広告のなかでも各社にバランスをとって出稿するから、ネット広告の全部をグーグルが取るということはありえない。かなり大胆にネット広告費の半分をグーグルが取ると仮定しても、広告業界全体の12.5%、180億ドルである。これは現在の61億ドルの3倍だが、このへんが上限だろう。要するに、今までの倍々ゲームがあと2年以上続くことは考えられないのである。

ただグーグルは「装置産業」なので、今の調子で売り上げが伸びても、コストはそれほど増えないから、利益率は高いと予想される。今の24%という高い利益率が変わらないとすると、売り上げが180億ドルに達した場合の純利益は43億ドル。これは現在のトヨタの利益の1/3、ホンダと同じぐらいだ。これぐらい行くことは十分考えられる。それにしても、グーグルの時価総額がホンダとニッサンの合計より大きいというのは理解できない。

追記:この記事にはたくさんTBがついている。その多くは「グーグルは広告産業以上のものになる」という意見だが、今のところグーグルの収入の99%は広告であり、それ以上の収入源は見つかっていない。しかも検索エンジンはOSのようにユーザーを囲い込むことができないので、たとえばマイクロソフトがIEに検索機能を内蔵したら、ネットスケープのような運命をたどる可能性もある。

岩波新書

新書の元祖でありながら、昨今の新書ブームに乗り遅れていた岩波新書がリニューアルした。しかし、そのラインナップをみればわかるように、発想は古色蒼然。昔ながらの教養主義とマルクス主義と東大法学部である。中途半端に変更した表紙のデザインに、それがよく現れている。

中でもひどいのは、トップバッター(No.1001)の柄谷行人『世界共和国へ』だ。全世界の歴史を新書版200ページで語る荒っぽさもさることながら、枠組がいまだにマルクスだ。最後は予想どおりネグリ=ハートが出てきて、カントの『永遠平和のために』で終わる。え?と思うと、あとがきで「これはいま書いている『トランスクリティーク』の続編のダイジェスト版なので、くわしいことはそれを読んでくれ」。

読者をバカにするのにも、ほどがある。そもそも、今どき柄谷行人なんてありがたがっているのは、岩波の編集者ぐらいのものだ。『国家の品格』が、通俗的ナショナリズムをそれなりに新しい装いで世の中にアピールしているのに、左翼は中身も装いも十年一日だ。新書の元祖が新書ブームの中で消えて行くのも、時代の流れだろう。

IPv6

総務省の委託でインテックネットコアなどが調べたIPv6の普及度調査の結果が、ウェブサイトに出ている。それによれば、のように、v6のトラフィックは2002年の2.5%をピークとして減少し、今年は0.1%にも満たない。

RFC2460(v6の基本仕様)が出てから8年たってもこういう状況では、もう「次世代のアドレス体系」ではありえない。WIDEでも最近は「v4をv6に置き換える」という表現をやめて「v6を普及させる」としているようだ。v6はローカル・アドレスと割り切れば、それなりの用途はある。v4サイトから見えないぶん、安全だというメリットもある。

Windows Vistaには、出荷時からv6のアドレスがつく予定だが、これは混乱のもとになる。NTTやIIJなどの一部のv6専用サービス(閉じたネットワーク)で、すでにv6のアドレスをもっているユーザーは、1つのホストに2つのグローバル・アドレスをもつことになるからだ。ローカルのサーバにアクセスしたらVistaのアドレスで同定されてはじかれる、といったトラブルが起こるおそれが強い。これはマイクロソフトがVistaの仕様で複数のv6アドレスの優先順位を決めるなどの対応をするしかないが、マイクロソフトはその気はないという。

こういう混乱が起こるのは、しょせんローカル・アドレスでしかないv6をWIDEが「次世代」のアドレスとして宣伝したり、それを真に受けた政府が「国策」としてv6を推進したりした結果だ。v4のアドレスが「涸渇」することはありえない、という事実は、山田肇氏と私が4年前の論文で指摘したことだ。この論文は1年で3万回もダウンロードされ、IETFのシンポジウムでもテーマになったが、事実関係は村井純氏も認めた。

ところが霞ヶ関では、まだこの程度の基本的な認識もない。あるとき某省の審議官にv6についてのレクチャーを求められ、「v6はv4と完全互換ではない。v4のサイトからv6のアドレスは見えない」と説明したら、審議官が「それは本当か」と驚いていた。こんな初歩的なことも知らないでv6に100億円以上の補助金をつける無謀さには、こっちが驚いた。v6をめぐる混乱は、要素技術に政府が介入するとろくなことにならないという好例である。

民主化するイノベーション

今週のEconomist誌の特集は、New Mediaである。タイトルはちょっとダサいが、『ウェブ進化論』『グーグル』とは違って、メディアで起こっている変化について多くの1次情報に取材して書かれた、バランスのとれたサーヴェイである。

この特集は、いま起こっている変化を「イノベーションの民主化」ととらえる。かつてグーテンベルクによる活版印刷の普及が知識を教会の独占から解放したように、インターネットが通信制御を電話会社から解放したことによって、blog、Wikipedia、SNS、podcastなど多くの「参加型メディア」が登場し、既存メディアを脅かしている。その革命的な変化は、かつてのドットコム・ブームのときは幻想にすぎなかったが、今度は現実である。

しかし、こうした新しいメディアが社会をどう変えるかは明らかではない。活版印刷は個人を自立させたが、プロテスタントを生み出し、宗教戦争を引き起こした。いまメディアの世界でも、宗教戦争が起こりつつある。アンシャン・レジームの側では、革命を拒否するのか、それともそれを取り込もうとするのか、いろいろな試行錯誤が繰り返されている。LAタイムズやNYタイムズは、紙面をWikiのように読者に編集させようとしたが、多数の「荒らし」によってサイトを閉鎖した。

他方、革命派でも戦略はわかれる。ウェブ上の情報を徹底的に蓄積して選択はユーザーにゆだねるグーグルと、タイム=ワーナーからCEOをまねいて「メディア企業」になることをめざすヤフーの違いは、フランス革命のジャコバン派とジロンド派に似ている。革命は近代市民社会を生み出したという評価もあるが、エドマンド・バークのように混乱と流血をもたらしただけだという評価もある。すべての市民が「参加」する民主主義などというものは、幻想だからである。

おそらく、今後インターネットが成熟する過程で既存メディアとの「融合」が進み、「憲法」のようなルールができてゆくのだろう。しかし、それはかつての近代化の過程で行われた「建国」よりもはるかにむずかしい。新しい憲法は、グローバルでなければ効力をもたないからである。しかし、いま起こっている変化がグーテンベルク以来のスケールだということは、ほぼ明らかになったといえよう。

参考までに、エリック・フォン・ヒッペル『民主化するイノベーションの時代』(ファーストプレス)も同様の現象を分析している。






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