自由のコスト

世間的には、もう「有罪」の判決が出たようなホリエモンだが、本人はいまだに全面否認で、検察は「100人体制」だという。弁護士や会計士にも「今まで出た話だけで公判を維持するのはかなり大変だ」という意見がある。今回の逮捕容疑である証券取引法第158条とは

何人も、有価証券の募集、売出し若しくは売買その他の取引若しくは有価証券指数等先物取引等、有価証券オプション取引等、外国市場証券先物取引等若しくは有価証券店頭デリバティブ取引等のため、又は有価証券等の相場の変動を図る目的をもつて、風説を流布し、偽計を用い、又は暴行若しくは脅迫をしてはならない。

という総論的な規定で、何とでも解釈できる。「風説の流布」は、これまでにも株価操縦にからんで立件された例が多いが、「偽計」のほうはあまり聞いたことがない。検察としては、本来は家宅捜索で証拠を固めて粉飾決算(商法違反)のようなはっきりした容疑で逮捕したかったが、株式市場が動揺したので、早く事態を収拾するためにとりあえず「別件逮捕」したのかもしれない。

問題になっている投資事業組合についても、情報開示義務はないので、その実態を隠していたことは違法ではない。したがって、ニッポン放送株のときの時間外取引と同じように「グレーだが違法ではないと考えた」という主張は、論理的には成り立つ。

こういうホワイトカラーの犯罪でむずかしいのは、「意図」の立証である。単なる過失ではなく「偽計」だとするためには、「相場の変動を図る目的をもつて」行ったという故意の立証が不可欠だからだ。エンロン事件の主犯Skillingなどは、証拠固めに4年以上かかり、初公判はこれから始まるほどだ。こういうとき、英米法では司法取引で内部の協力者を使うが、日本ではそれはできない。

そもそも証取法違反ぐらいの事件に検察が出てくるのがおかしい。証券取引等監視委員会は何のためにあるのか。「日本の経済犯罪についての捜査の武器は、ダンビラ(刑事訴追)しかないので、執行するほうも慎重になるし、一罰百戒しかできないので、結果的に残りの九九は見逃されてしまう」と捜査関係者は嘆いていた。

本来は、米国のSECのように日常的に取引を監視し、徹底的な情報開示を求めるしくみが必要だ。SECのスタッフは証券監視委の10倍以上いるが、この分野だけは「小さな政府」の例外である。本質的な行政改革とは、人減らしではないのだ。Rajan-Zingalesも指摘するように、資本市場の健全性を守る仕事には膨大なコストがかかるが、それは必要な「自由のコスト」である。

ボーダフォンの世界戦略

Economist誌によれば、かつて携帯電話で世界を制覇する勢いだったボーダフォンが、世界戦略の見直しを迫られている。これまで、固定網をもたないで携帯だけに特化してグローバルな「規模の経済」を追求してきたが、米国と日本でつまずいた。

米国ではVerizon Wirelessに45%出資したものの、その方式はボーダフォン(GSM)とは違うCDMAのまま。日本ではGSMが使えないので、日本向けの端末を開発するなど、規模の経済が生かせない。大口株主は、日米の現地法人を売却してGSM地域に特化することを求めている。日本から撤退するかもしれない。

また次世代のサービスの焦点が、トリプルプレイとFMCを合わせた"quadruple play"(固定電話・携帯電話・データ・映像)になろうとしているなかで、携帯のみに特化する戦略では展望が見えない。ましてこれらのすべてがIPになるとき、今の電話網ベースの技術では対応できない。

たぶん、これらの要求をすべて満たす技術の候補はWiMAXだが、これが実用化するには、あと3、4年はかかるだろう。W-CDMAなどという中途半端な技術にコミットしないで、しばらくはGSM(GPRS/EDGE)を延命させて様子を見よう、というのが現在のボーダフォンの方針のようだ。

Saving Capitalism from the Capitalists

セイヴィング キャピタリズムRajan-Zingalesの新著の訳本が出た。邦題の『セイヴィング キャピタリズム』では何のことかわからないが、原題は「既得権益を守ろうと金融市場への規制を求める資本家から自由な資本主義を守る」という意味である。

「グローバリズム」が伝統を破壊する、という類の議論は俗耳に入りやすい(『国家の品格』もその一例)。しかし実際の統計をみれば、自由な金融市場が機能するようになったのは、ごく最近(1980年代以降)であり、それも英米など一部の国に限られる。日本やドイツでさえ、自由とはほど遠い。国際金融市場は脅威どころか、むしろ努力して維持しなければ機能しない脆弱な制度なのである。

著者は2人ともシカゴ大学の教授(Rajanは昨年からIMF)だが、彼らはフリードマンのように自由な市場を前提とするのではなく、むしろ市場の基盤となる財産権の保護がいかにして成立するかといった「制度」の問題を理論的・歴史的に分析している。これはHartやShleiferなどのハーヴァード学派の立場に近い。「ケインジアン対マネタリスト」などという対立は終わり、制度の研究では学界全体にコンセンサスができつつあるように思われる。

また問題を市場と政府の二分法ではなく、既存業者との関係で論じているのがおもしろい。これまでの経済学では、政府は「市場の失敗」を補正するvisible handだが、本書では既存業者の意を受けて規制によって新規参入を妨害する(Shleifer-Vishnyのいう)grabbing handである。

しかし彼らは「われわれの既得権を守れ」とは決していわない。「規制によって守られている弱者を救え」と主張するのだ。このような「既得権と弱者の連合」は、どこの国でもみられるありふれた現象だ。そして、こうした既得権益共同体を崩壊させる「蟻の一穴」がグローバルな市場からの圧力である。改革には「外圧」が一番だというのは、日本だけではない。

通信・放送懇談会

竹中総務相の懇談会の第2回会合が開かれた。松原座長によれば、「通信・放送のビッグバンをやろうとしている」のだそうである。その方針は結構だが、「NHKの業務範囲」とか「二元体制を守る」といった業界的な議論ばかり先行すると、このblogでも書いたように、不毛な垣根論争に迷い込みやすい。

ビッグバンに必要なのは、業界の縄張り争いではなく視聴者の立場から考えること、既得権をどういじるかという発想ではなくゼロベースで考えること、そして「原則規制」から「原則自由」に180度転換することだ。「公共放送」が必要だとしても、その担い手が「官営放送局」である必要はない。「民間にできることは民間に」という小泉政権の原則を忘れないでほしいものだ。

サーバー型放送

けさの日経新聞によれば、「サーバー型放送」が2007年度から始まるそうだ。不可解なのは、これがHDDレコーダーに番組を蓄積して見るのとどこが違うのかということだ。記事に出ている表でも、違うのは「メタデータ」をつけるかどうかだけである。

メタデータなんかなくても、今のHDDレコーダーがやっているように、テレビの番組表をデータとして持っていれば、番組予約も検索も容易にできる。すべての番組をサーバで一括して録画し、あとから再生するというしくみは、録画ネットやクロムサイズのシステムと同じだ。彼らを違法だと訴えたテレビ局が、みずから同じビジネスを始めるとはどういうことなのか。

しかも、またもや総務省の指導のもとにコンソーシャムをつくってメタデータを標準化し、「専用受信機」を開発するという。専用機なんか使わなくても、普通のHDDレコーダーで十分である。たとえば、ソニーのVAIO Xなどは1週間の全チャンネルの番組を蓄積できる。こうなればリアルタイムで「放送」する必要はなく、映像を圧縮したままインターネットでファイル転送してHDDに蓄積すればよいのだ。

経営者のヘロイン

ライブドア事件は、米国のエンロン事件とよく似ている。企業買収→株価の値上がり→株式交換が有利になる→さらなる企業買収・・・という悪循環によって株価が過大評価され、最後はその株価に見合った業績を「創造的会計処理」で作り出す。その道具としてエンロンの利用したのがオフバランスの特別目的会社であり、ライブドアの場合は投資事業組合だったわけだ。

これは特殊な犯罪的企業だけの問題ではなく、株価が過大評価された企業には起こりがちな「エイジェンシー問題」の一種である、とJensenは論じている。こうした株価操作は、一度手を染めると、その結果として生じる株価の値上がりを正当化するためにさらに大きな嘘をつかなければならない「経営者のヘロイン」である。

この麻薬を撲滅することはむずかしい。それは古典的なバブルのように市場全体で起こるとは限らず、ライブドアのように特定の(株価を意図的に膨らませている)企業に限って起こることもあるからだ。しかし、それを見分ける方法はある。経営者がメディアの有名人になって「世界一の会社になる」などと大言壮語するのは、悪い兆候である。

NHKのガバナンス

NHKの経営計画案が、来週発表される。その内容は、去年の「新生プラン」の延長上で、経営委員会のなかに「指名委員会」を作るなど、「企業統治」を強化するのだそうだ。民間企業の「委員会等設置会社」にならったものだというが、いくら委員会ばかり作っても、経営陣が劣悪だと役に立たないのは、ソニーをみればわかる。

肝心の受信料については、学生に割引するなど細かい話ばかりで、制度そのものを見直す気はないらしい。竹中懇談会のテーマになりそうな「電波の整理」についても、やめる方向で検討しているのはFMの文字放送だけだという。このように最初から枠組みをせばめてしまったら、思い切った改革などできっこない。問題は一部のCPの着服ではなく、見ても見なくても徴収される受信料という奇妙な制度への不信が高まっていることなのだ。

企業統治を論じるなら、まず検討すべきなのは、予算に国会の承認を得る「特殊法人」という経営形態である。これが変わらないかぎり、政治家に弱みを握られ、海老沢氏のような「国会対策」のプロが実権を握ることは避けられない。たしかに小泉首相のいうように、2001年の閣議決定ではNHKを特殊法人のままとすることになっているが、これは省庁の再編にともなって特殊法人を民営化したり独立行政法人に移行したりしたときのものだ。その省庁の再々編も議論するというのだから、わずか4つだけ残った特殊法人の形態を見直すのは当然だろう。

シンポジウムのお知らせ

第2回ICPFシンポジウム「通信と放送の融合:その真の姿を求めて」

通信と放送の融合が話題になっている。地上波テレビのデジタル化が進むにつれて、通信網を通じて放送コンテンツを送信することが、計画の補完手段として注目されるようになってきた。一方、通信事業者を中心に、ビデオ映像のオンデマンド配信がビジネスとして動き出している。情報通信系企業と放送系企業の間で買収合戦も起きている。これらさまざまな動きを説明するキーワードが「通信と放送の融合」である。

しかし、この言葉は、語る人によって別の意味で用いられているようだ。それを反映するかのように、「通信と放送の融合」が作り出していくであろう未来の姿も、人によってイメージが異なっている。このシンポジウムは、各界の識者の意見を戦わせることで、「通信と放送の融合」の真の姿を明らかにすることを目的とする。

主催:情報通信政策フォーラム(ICPF)
後援:日本経済新聞社
場所:日経ホール 
   東京都千代田区大手町1-9-5 日本経済新聞社8F(地図
月日:2006年2月22日(水)
入場料:無料
入場希望者は、info@icpf.jpまで電子メールでお申し込みください。先着順で締め切ります。

プログラム:
12時40分:開場
13時05分:総合司会兼趣旨説明 池田信夫(ICPF事務局長)
13時10分:講演1 松原聡(東洋大学教授、通信・放送の在り方に関する懇談会座長)
13時35分:講演2 林紘一郎(情報セキュリティ大学院大学副学長)「通信と放送の融合と法制度」
14時00分:休憩

14時15分:パネル討論
  モデレータ:山田肇(東洋大学教授)
  パネリスト:
   鈴木祐司(NHK解説委員 兼 放送文化研究所主任研究員)
   関口和一(日本経済新聞社産業部編集委員)
   中村伊知哉(スタンフォード日本センター研究所長)
   西和彦(尚美学園大学教授)
   藤田潔(情報通信総合研究所代表取締役社長)
   宮川潤一(ソフトバンクBB常務取締役)
  パネリストの発表(各8分)
  討論(各20分ずつ3テーマ程度)
   テーマ1:通信と放送の融合は誰のビジネスチャンスか
   テーマ2:通信と放送の融合の隘路は何か、どう解決するか
   テーマ3:通信と放送の融合と公共性、言論の自由
16時15分:閉会

ロングテール

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CNETの森祐治さんのブログに、おもしろい指摘がある。Googleなどの広告は、従来のマス・マーケティングとは違い、「ロングテール」と呼ばれるカーブの裾野の部分を対象にしているのだという。これは、このブログでも取り上げた「ベキ分布」のことである。

ベキ分布の特徴は、横軸に商品を売れる順に並べ、縦軸にその売り上げをとると、裾野が長いということだ。左端のピークの部分がマス市場だとすると、裾野の部分はニッチ市場だが、この部分がきわめて長いと、その面積がマス市場を上回ることもある。この話題のきっかけとなったWiredの記事によれば、普通の本屋の在庫は最大でも13万タイトルだが、アマゾンの売り上げの半分以上は上位13万タイトル以外の本から上がっているという。

マス・マーケティングでは「20%の商品が売り上げの80%を稼ぐ」といわれるが、これはロングテールの途中で取引費用が売り上げを上回り、尾っぽが切れてしまうためだ。インターネットでは、取引費用が極度に小さくなるため、この尾っぽが果てしなく長くなり、その部分から上がる売り上げが大きくなるのだ。この尾っぽの部分に顧客を誘導するのがアマゾンの「おすすめ」である。

これがインターネットにおけるマーケティングがマス・マーケティングと決定的に異なる点であり、eBayやGoogleのAdSenceが成功した原因である。これから「通信と放送の融合」が進む際にも、インターネットではテレビのような大衆的な番組よりもマニアックな(少数の人に強く支持される)番組のほうが成功するだろう。

国家の品格

数学者の書いた国家論(?)がベストセラーになっているというので、読んでみた(新潮新書)。感想としては、これが売れる理由はよくわかるが、教えられることは何もない。「グローバリズム」を批判して日本の「伝統」を大事にすべきだ、という類の議論は、目新しいものではない。珍しいのは、数学者が「論理よりも情緒が大事だ」と論じていることだが、これも中身は「論理の無矛盾性は仮説が真であることを保証しない」という常識論だ。

この種の議論の弱点は、「市場原理主義」が悪だというなら、それよりよい制度とは何か、という対案がないことだ。著者が提示する対案は、なんと「武士道」だが、それは新渡戸稲造の近代版であって、現実の武士が武士道にもとづいて行動していたわけではない。

数学についての議論はおもしろいが、専門外の問題になると馬脚をあらわす。経済学を批判している部分などは、ハイエクやフリードマンを「新古典派の元祖」とするお粗末さだ。致命的なのは、タイトルに「国家」と銘打ちながら、国家についての考察が欠けていることだ。著者が理想化する「品格ある国家」とは、プラトン的な「賢人政治」だが、そんな国家は歴史上どこにも存在したことはない。

要するに、著者が数学者であることを除けば、フジ・サンケイ・グループの雑誌によくある「床屋政談」にすぎない。ただ著者は新田次郎の息子だけあって、文章は読みやすく、ユーモアもある。オジサンが電車のなかで読むにはいいかもしれない。

追記:この記事は、グーグルで「国家の品格」で検索すると、第6位に出てくる。反響にこたえて、4月3日8日の記事でも本書について書いた。






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