起業が必要だというと、「日本人は集団主義だから終身雇用が向いているのだ」という類の反論をする人がいる。しかし小池和男氏も指摘するように、これは事実を無視したステレオタイプである。日本の人事査定は欧米より個人主義的で、企業内の「同期」の競争はきわめて激しい。高度成長期には中小企業の開業率は40%、廃業率は30%を超え、こうした激しい新陳代謝が成長のエンジンだった。最近の開業率は5%以下に落ち、これが成長率の低下した重要な原因だ。
日本人が「農耕民族」だというのも不正確で、網野善彦なども説いたように、もともと「百姓」というのは多様な民衆のことであり、農民はその半数以下だった。近代以前の農村は自給自足の均質な農耕共同体ではなく、商人や職人などの多様な人々が村落の境界を超えて行き交う複合的な社会だったのだ。明治以降の近代化を実現したのも官営企業ではなく、民間の起業家だった。官営事業のほとんどは赤字で、それが発展したのは民間に払い下げられてからだった。
ただ商人や職人は、垂直統合による大企業が支配的な生産形態になった20世紀前半には相対的に不利になり、大組織に吸収されて自律性を失った。1920年代に内部請負制などの職人をベースにした組織が直接雇用に置き換えられ、労働組合が結成されるようになったのは、世界的な傾向である。こうした組織は、本来の市場経済の原則から考えると競争を制限するカルテルだが、大恐慌のもとで合法化され、企業組織が巨大化した。
第2次大戦後は、チャンドラーのいう「見える手」の時代だった。大量生産の時代には、垂直統合型の巨大企業と労組に組織された「会社人間」が有利になった。その後期の多品種少量生産の時期には、職域を超えた協力によって不断の「改善」を行なう日本の製造業が高い効率を発揮した。「終身雇用」のサラリーマンを中心とし、会社をムラ的な共同体とする組織は、むしろ60年代以降の労使協調のなかで生まれたものだ。
しかし時代は一めぐりして、今また個人主義的な商人や職人のエートスが生きる時代が来たのではないだろうか。垂直統合型の企業が職人型の組織にまさるのは、契約理論でいう補完性の強い部品を数多く組み合わせる場合だが、グローバルな水平分業の進展によって部品がモジュール化され、補完性は小さくなった。液晶パネルにみられるように、標準的な部品を何億個という単位でつくる規模の経済が非常に大きくなったため、特定の企業(系列)の中だけで完結した生産システムは競争で不利になってきたのだ。
ウェブ上のビジネスでも、かつてはサーバや通信回線などのインフラとサービスの補完性が強かったため、インフラに巨額の設備投資を行なってシステムを囲い込むことが競争優位の源泉だったが、インフラのコストは「クラウド」化によって劇的に小さくなった。インフラをアウトソースしてしまえば、サービスのコストは人件費だけになる。ここでは大きな固定費を背負った既存メディアより、自由にいろいろなサービスを実験できるベンチャーのほうが有利だ。このように初期投資が小さくなって起業がローリスク化したことが、いわゆるWeb2.0以降の特徴だ。
だから起業は、もはや一発勝負の冒険ではない。マイクロソフトやグーグルになることはむずかしいが、失敗して夜逃げするリスクも低くなった。Shaneも指摘するように、もともとアメリカの自営業の大部分は小売業や外食産業などのローテクで、VCから資金調達するハイテク事業は0.1%しかない。それでいいのである。日本ではサービス業の生産性がきわめて低いので、おいしいラーメン屋や低価格のクリーニング屋を起業するだけで、日本経済は元気になる(これもフランチャイズ化でリスクは低くなった)。アゴラ・シンポジウムに1日で100人以上の申し込みがあったのをみると、日本でもそういう変化のマグマがたまっているのかもしれない。
日本人が「農耕民族」だというのも不正確で、網野善彦なども説いたように、もともと「百姓」というのは多様な民衆のことであり、農民はその半数以下だった。近代以前の農村は自給自足の均質な農耕共同体ではなく、商人や職人などの多様な人々が村落の境界を超えて行き交う複合的な社会だったのだ。明治以降の近代化を実現したのも官営企業ではなく、民間の起業家だった。官営事業のほとんどは赤字で、それが発展したのは民間に払い下げられてからだった。
ただ商人や職人は、垂直統合による大企業が支配的な生産形態になった20世紀前半には相対的に不利になり、大組織に吸収されて自律性を失った。1920年代に内部請負制などの職人をベースにした組織が直接雇用に置き換えられ、労働組合が結成されるようになったのは、世界的な傾向である。こうした組織は、本来の市場経済の原則から考えると競争を制限するカルテルだが、大恐慌のもとで合法化され、企業組織が巨大化した。
第2次大戦後は、チャンドラーのいう「見える手」の時代だった。大量生産の時代には、垂直統合型の巨大企業と労組に組織された「会社人間」が有利になった。その後期の多品種少量生産の時期には、職域を超えた協力によって不断の「改善」を行なう日本の製造業が高い効率を発揮した。「終身雇用」のサラリーマンを中心とし、会社をムラ的な共同体とする組織は、むしろ60年代以降の労使協調のなかで生まれたものだ。
しかし時代は一めぐりして、今また個人主義的な商人や職人のエートスが生きる時代が来たのではないだろうか。垂直統合型の企業が職人型の組織にまさるのは、契約理論でいう補完性の強い部品を数多く組み合わせる場合だが、グローバルな水平分業の進展によって部品がモジュール化され、補完性は小さくなった。液晶パネルにみられるように、標準的な部品を何億個という単位でつくる規模の経済が非常に大きくなったため、特定の企業(系列)の中だけで完結した生産システムは競争で不利になってきたのだ。
ウェブ上のビジネスでも、かつてはサーバや通信回線などのインフラとサービスの補完性が強かったため、インフラに巨額の設備投資を行なってシステムを囲い込むことが競争優位の源泉だったが、インフラのコストは「クラウド」化によって劇的に小さくなった。インフラをアウトソースしてしまえば、サービスのコストは人件費だけになる。ここでは大きな固定費を背負った既存メディアより、自由にいろいろなサービスを実験できるベンチャーのほうが有利だ。このように初期投資が小さくなって起業がローリスク化したことが、いわゆるWeb2.0以降の特徴だ。
だから起業は、もはや一発勝負の冒険ではない。マイクロソフトやグーグルになることはむずかしいが、失敗して夜逃げするリスクも低くなった。Shaneも指摘するように、もともとアメリカの自営業の大部分は小売業や外食産業などのローテクで、VCから資金調達するハイテク事業は0.1%しかない。それでいいのである。日本ではサービス業の生産性がきわめて低いので、おいしいラーメン屋や低価格のクリーニング屋を起業するだけで、日本経済は元気になる(これもフランチャイズ化でリスクは低くなった)。アゴラ・シンポジウムに1日で100人以上の申し込みがあったのをみると、日本でもそういう変化のマグマがたまっているのかもしれない。