「情報家電」で産業復活を

黒沢明氏の死は全世界の人々から惜しまれ、海外のニュースでも大きく取 り上げられた。これは日本の映像産業が、かつては世界をリードしていたこと を改めて思い起こさせたが、ひるがえって衰退しきった現在の日本映画や、画 一的なワイドショーやバラエティで埋まったテレビを見ると、その落差に暗然 とせざるをえない。

一般には、映画はテレビの登場によって衰退したと思われているが、米国では 映画は今や最大の輸出産業の一つであり、こうした映像コンテンツ(内容)の 分野は、今後の多メディア化における中核産業と見なされている。

ところが日 本の映画業界は閉鎖的な系列興業システムによって自滅し、NHKはサラリー マンによる自社制作を続け、民放は劣悪な制作条件でプロダクションを搾取し てきたため、日本にはまともな映像作家がほとんど育っていない。

この人材の 貧困がボトルネックとなり、通信衛星では番組の不足のために中継器が埋まら ない状態である。しかしテレビゲームやアニメーションを見ればわかるように、 条件さえ整えば日本人の映像センスは世界に通用する。この才能を生かし、次 世代の産業を育てるには、これまでの通信・放送業界の構造を抜本的に変える 必要がある。

映像コンテンツがマルチメディアの本命と考えられるようになったのは、 それほど最近のことではない。九〇年代前半には、ビデオ・オン・デマンド (VOD)と呼ばれる双方向テレビが競って開発され、中でもタイム・ワーナー が米国フロリダ州で行った実験は、数十億ドルを投じて五〇〇チャンネルのサー ビスを提供する世界最大の計画として注目を浴びた。

他方、この計画が発表さ れた九三年、イリノイ大学の全米スーパーコンピュータ・センター(NCSA) でアルバイトをしていた学生、マーク・アンドリーセンは、インターネットの ホームページを読むための小さなプログラム「モザイク」を書いてNCSAの ホームページに載せた。

マルチメディアの主役になったのは、巨額の資本の投入されたVODではなく、 時給六ドルのアルバイトで書かれたモザイクだった。これによってインターネッ トは爆発的な拡大をとげ、他方タイム・ワーナーのVODは大幅な赤字を残して昨年、中止された。

VODが失敗した最大の原因は、電話と同じ中央集権型の構造をとったことにある。中央のホスト機ですべてのコントロールを行うた めに巨大な設備が必要になり、端末の価格は一万二千ドルにもなってしまった。

これに対してインターネットは、データをコントロールしないでIP(インター ネット・プロトコル)に乗せて指定された宛て先に送るだけの「ステューピッ ド・ネットワーク」となることによって、負荷を全世界に分散した。

またHT ML(ハイパーテキスト・マークアップ言語)は、情報を記述するためのオープン・スタンダードを提供し、全世界のユーザーが情報の供給者になることを 可能にした。これによって、従来は想像もできなかった多様なコンテンツが生 み出されたのである。

このネットワークの電話会社中心からユーザー中心へのコペルニクス的転換は、 メディア全体の構造を変えつつある。米国ではインターネットを使って一分数 セントで長距離電話サービスを提供する業者が次々に登場し、電話そのものが インターネットに吸収されるのも時間の問題だろう。

さらに光ファイバーを二〇〇 五年までに全世帯で利用可能にするNTTの計画が実現すると、電話回線でテ レビ番組を見ることができるようになるから、放送も電波で行う必要はない。

現在のように大きな帯域を固定的に放送局に割り当てる方式は電波の利用効率 が悪く、携帯電話の帯域は極端に不足している。この問題を解決するには、電 話も映像もデータも区別せずにIPに乗せ、有線・無線を問わず必要なだけ使 うことが合理的である。

最終的には、映像=電波、音声=電話、データ=インターネットという現在の媒体ごとの縦割りの構造は崩れて、図のようにすべて の情報が有線・無線を問わずIPによって国境を超えて流通するようになろう。

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次世代ネットワークのイメージ


この次世代ネットワークの中心は、現在のようなデスクトップ・コンピュー ターではなく、キーボードなしで簡単に使える「情報家電」である。テレビ・ 冷蔵庫・エアコンなどに組みこまれるマイクロコンピューターの数は数年のう ちにパソコンを越え、互いにネットワークで結ばれてIPを交信して動くようになる。

デスクトップの世界は米国の「一人勝ち」状態だが、情報家電ではソ フトウェアを家電に組み込む日本メーカーの製造技術が不可欠だから、これは 日本の家電産業が活性化するきっかけとなりうる。またインターネットで映像 が全世界に流通するようになれば、コンテンツ産業は新たな成長部門となる可能性もある。

しかし、今のままでは日本の情報産業の将来は明るくない。それは、官庁 も放送局もメーカーも、いまだに従来の縦割り構造の中で既得権益を守ろうと しているからである。その典型が、先ごろ出された地上波放送のデジタル化に ついての方針である。それによれば、既存の放送局に優先的に電波が与えられ 、電波を有料でまた貸しすることまで認めらている。

この方針は、電波を持つことが放送の不可欠の条件であり、それを独占するこ とが利権だという前提にもとづいているが、インターネットで放送が可能にな れば、電波を持つ必要はない。放送局にとっても、一兆円以上かけて山の中ま で中継局を立てるよりNTTの光ファイバーを借りた方がはるかに低コストで すむ。

多チャンネル時代には、電波はもはや利権ではなく、むしろ制作能力が稀少と なる。したがって放送局は電波を切り離して制作部門に特化し、有線・無線の 中から最適の媒体を選んで番組を有効に活用した方がよい。このようなアンバンドリング(業務分離)は情報通信の世界的な潮流だ。

この点で郵政省が通信 衛星と放送衛星で中継器を持つ「受託放送事業者」とそれを利用する「委託放 送事業者」を分離したことは一歩前進である。地上波でも両者をアンバンドル して電波は入札によって一般に開放し、使途を限定しない「帯域免許」として 効率的な利用をはかる必要がある。委託放送業者の認可制は廃止し、全面的に 自由化すべきである。

日本メーカーは「高品位テレビ」などの在来型の技術にこだわったため、イン ターネットの世界では大きく出遅れ、映像伝送(ストリーミング)技術の国際 標準は米国製のソフトウェアになっている。

しかしインターネットで放送する ためには、現在のHTMLベースの技術では不十分であり、映像コンテンツを 表現する機能を備えた新しいオープン・スタンダードを作る必要がある。情報 家電の世界では日本メーカー抜きの標準化は考えられないから、これは日本発 の国際標準を作るチャンスである。われわれは今、大学と企業の共同研究でそ の基礎となる新しい言語の開発を進めている。

金融技術の発達によって銀行と証券の垣根が消滅したように、インターネット も通信と放送の境界をなくし、ネットワークの構造を根本的に変えつつある。 次世代のメディアの中心となるのは、電話会社でも放送局でもなく、みずから 映像を世界に発信するユーザーである。日本の情報産業が活性化し、新たな黒 沢が現れるためには、情報通信の分野でも既存の集権的な供給モデルに決別し て新規参入を促進する「ビッグバン」が求められているのである。

(1998年9月1日 日本経済新聞「経済教室」)

金子勝『反グローバリズム』

反グローバリズム―市場改革の戦略的思考
著者は、経済理論学会(マルクス経済学の学会)に所属する経済学者では随一のマスコミの人気者である。「ブッシュはバカだ」とか「小泉改革はニセモノだ」 というような床屋政談が受けるらしい。この本も、最初から最後まで学問とは無縁の「ぼやき漫才」のようなもので、まあそういう読み物としてはいいが、まじめに受け取るべきではない。

マル経は、 今でも一部の大学には講座の枠が残っているので、無能な学者でも職にありつける「穴場」である。しかし、よりどころとする理論が崩壊してしまったので、 「きわもの」的なテーマを探すしかない。こういう「マル経難民」が好んで選ぶテーマが「国際」「情報」である。このフレーズさえつければ文部省から科研費が引っ張れるし、状況の変化が激しくて「近経」の理論がついていけないので、「床屋理論」でも何かいえそうだからである。続きを読む

政治改革の理念が「雑食動物」自民党に飲み込まれた

政党崩壊―永田町の失われた十年―(新潮新書)
1993年6月18日、宮沢内閣の不信任案が可決された歴史的瞬間を、テレビ局で国会中継を担当していた私は、現場の中継車で見ていた。三八年間続いた自民党政権が終わるという事件を、議決の瞬間までだれも信じられなかった。その後の解散・総選挙によって連合政権ができ、細川首相が誕生したとき、「これで日本が変わる」と多くの人が思ったことだろう。

ところが、その細川政権がわずか八ヶ月で倒れてから、日本の政治は混迷を重ね、現在に至るまで「永田町の失われた十年」が続いてきた。本書は、その十年間の多くの政党の離合集散を裏方で見てきた著者のメモをもとにしたドキュメントであり、複雑な経緯を手際よくまとめている。

この混乱の主役は、いうまでもなく小沢一郎氏である。宮沢内閣を倒し、細川護煕氏を首相にしたときまでは、小沢氏の決断はすべて図に当たったが、細川内閣が倒れてからの彼の判断はすべて裏目に出た。最大の失敗は、社会党を連立政権から追い出し、自社さ連立によって自民党の復権を許してしまったことだ。

著者によれば、細川政権ができた直後から、自民党の社会党に対する工作は始まっていたという。変化をきらうことで一致する自社両党の野中広務氏と野坂浩賢氏らが「国対」ルートで連携し、それを武村正義氏が政治的野心に利用して、「小沢つぶし」で手を組んだのである。

著者もいうように、非現実的な政策を掲げて自民党の長期政権を支えた社会党こそ戦後政治の諸悪の根源であり、この「万年野党」を解体することを標的にした小沢氏の戦略は正しかった。しかし彼の戦術は、側近で固めて裏取引で合従連衡を進める派閥的な手法で、その独善的な体質が反発を招いて、混乱の最大の原因となった。

自民党の打倒を唱えながら「自自連立」を行う小沢氏の矛盾した行動の背景には、自民党が分裂しない限り安定した二大政党はできないという「保守二党論」があったという。これに対して自民党には理念も戦略もなかったが、そのしたたかさは一枚上だった。政権につくためには社会党の委員長にも投票するという奇策は、小沢氏には想像もつかなかっただろう。

こういう「野合政権」はすぐ崩壊すると小沢氏はみたが、崩壊したのは新進党のほうだった。彼に、社会党を取り込んで食いつぶした自民党のような老獪さがあれば、度重なる分裂・抗争は避けられたはずだ。この十年は、小沢氏のよくも悪くも原則的な政界再編の戦略が、「雑食動物」のような自民党に飲み込まれてしま う過程だった。

この十年を総決算する選挙が近づいているが、著者も嘆くように、この間に政党は何も成長しなかった。政治改革は選挙制度に矮小化されてしまったが、日本の政治の最大の欠陥は、政策の立案・実行装置としての政党が機能していないことだ。

小泉政権のように、首相が改革を唱えても閣僚が反対するような状態で、公約を「マニフェスト」といい換えただけで実行できるはずもない。その原因は、これまで自民党が政策を官僚機構に「丸投げ」してきたことだ。野党に至っては、細川政権のように逆に官僚機構に操られるだけだ。いま必要なのは、著者のいう「ビジョン」を描くだけではなく、それを実行するための新しい政治の「インフラ」を作ることだろう。

電波有効利用政策研究会 電波利用料制部会 最終報告書(案)への意見書

電波利用料は、レガシー無線機の「追い出し税」とすべきである

今回の最終報告書(案)は、基本的にはこれまでの電波有効利用政策研究会の方針を踏襲したものであり、それに関するわれわれの意見は、これまで公表してきたとおりである。その詳細と関連するデータについては、次のURLを参照されたい。

http://www.rieti.go.jp/it/dempa/

今回の報告書の根本的な問題点は、何のために電波利用料を徴収するのかという理念が明確でないことである。「電波の有効利用」がうたわれているが、現実の料率は無線局単位で課金されるため、逆に有効利用するほど負担が重くなる。この欠陥は、われわれが従来から指摘してきたところであり、報告書でも「逆インセンティヴだという意見がある」ことには言及しているが、結局は「制度の定着を図る」という理由で、現行の制度の手直しにとどまっている。

電波利用料の用途は、当初は電波障害対策などに限定されていたが、携帯電話の普及によってその収入が巨額になるにしたがって、テレビの「アナアナ変換」に使われるなど、用途がなし崩しに拡大されてきた。今回の報告書では、さらに研究開発や「デジタルデバイド対策」などに拡大されようとしているが、利用料は総務省の財源のために徴収するものではない。

電波は「稀少な資源」ではなく、効率的に利用すれば、ほとんど無制限に利用できる公共財である。特定の周波数を占有するレガシー無線機は、ほんらい公共財として共有できる電波を不当に独占しているので、電波利用料はその機会費用を負担させ、効率的な電波利用に移行するための「追い出し税」とすべきである。したがって料率は占有する帯域×出力に比例して決め、一般財源とすることが望ましい。

問題となっている免許不要局への課金については、そもそも「免許不要局」という概念が形容矛盾である。現在の「無線局」の概念は、無線機ごとに局舎や鉄塔を備え、政府が免許を与えることを前提にしているが、今後あらゆる家電製品に無線機能がつくようになれば、平均的なユーザーが何十もの「無線局」を持つようになるかもしれない。つまり無線デバイスは、情報機器の機能の一つにすぎないのである。

「免許不要局」に課金が行われると、あらゆる情報機器が規制の対象になるおそれがある。これは不要な規制を撤廃するという政府の方針に逆行するものである。むしろ特定の帯域を占有しない無線機については利用料を課さないで、大きな帯域を占有しているレガシー無線機に高い電波利用料をかければ、業務用無線などの無線LANによる代替が進み、周波数の開放が容易になろう。

欧州では周波数のsecondary marketの活用が検討され、米国ではFCCが免許不要帯への大幅な割り当て増を行うなど、「命令と統制」による電波割り当ては先進国では否定されている。この時期に、日本だけが命令と統制にもとづいた電波法改正を行うことは、こうした流れに逆行し、国際的に孤立する原因となる。他方、電波利用料はうまく活用すれば、公共の電波を「汚染」しているレガシー無線機を駆逐する武器ともなる。改正を急がず、電波利用の現状についての情報をわかりやすく公開した上で、あらためて国民的な議論をつくすべきである。

ホモ・サケル:主権権力と剥き出しの生

ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生
九・一一以降、セキュリティが大きな関心を呼ぶようになってきた。「米国民の安全を守るためには手段を選ばない」と公言するブッシュ米大統領のみならず、日本の「国民背番号」や「個人情報保護」をめぐる騒ぎも、そうした不安のあらわれだろう。しかし人間が生まれながらに人権やプライバシーを持っているというのは、近代国家の作り出した幻想にすぎない。人権も国籍も失った難民は、全世界で二千万人を超え、北朝鮮の金正日政権が崩壊すれば、数百万人の難民が出現するだろう。

主権者とは「例外状態について決定を下す者」だというのは、カール・シュミットの有名な定義だが、本書は国家をその例外状態の側から見る異色の政治哲学だ。近代の政治哲学や法哲学はヘーゲル以来、人権や財産権をもつ個人から出発するのが通例だが、著者が出発点とするのは、そうした権利を奪われた難民、収容所のユダヤ人などの「剥き出しの生」である。

古代ギリシャでは、こうした物質的な生存は「ゾーエー」と呼ばれてポリスの生活を意味する「ビオス」と区別され、私的な家計(オイコス)に閉じ込められていた。古代ローマでは、ある種の犯罪者は「ホモ・サケル」(聖なる人)と呼ばれ、殺害しても罪に問われなかったが、殺しても神への犠牲に供することはできなかった。秩序から排除された犯罪者は、政治的・宗教的な意味を失った物質的な存在だからである。

しかし近代に至って、物質的な生の拡大再生産が国家の目標となり、家計が拡大して経済(エコノミー)となった。国民の生命を守るために彼らの生活を全面的に管理する、ミシェル・フーコーのいう「生政治」が出現したのだ。ファシズムが民主主義によって生み出されたのも、生を政治化し、国民を「主権者」とする一方、外部の世界を例外として排除する近代国家の原理によるものだ。この意味で、ブッシュ政権を動かすネオコン(新保守主義)は、ファシズムと同じく近代国家の必然的な帰結である。

本書は三部作の第一部であり、議論が体系的に展開されているとはいえないが、ネグリ=ハートが『帝国』で分析した主権の変容を、その対極の例外状態の側から論じ、近代国家の根底にある「排除の原理」を明らかにしたことが重要だ。ネグリもフーコーもデリダも、難民に深い関心を寄せてきた。それは、すべての権利を奪われた彼らの生が、近代国家の法=権利の原初的な姿を明らかにするからだ。たとえば自由に移動し居住する権利は、自明の人権だと思われているが、難民には認められない。近代国家の人権は、他国民を排除する権利なのだ。

しかし本書も指摘するとおり、現代では内部と外部の境界が曖昧になり、例外状態が拡大している。情報社会では、私的な電子メールもすべて監視され、コンピュータ・ウイルスは国境を超えて侵入する。セキュリティやプライバシーに過敏になる昨今の風潮は、このような状況への不安のあらわれだろう。今日では、だれもが難民なのである。

華氏911

話題のマイケル・ムーア(本人はモーアと発音している)の映画を見た。

事前に情報が出回りすぎていたせいで、あまり意外性はなかったが、よくも悪くもwell-madeなドキュメンタリーという印象である。少し手を加えれば、NHKスペシャルにでもなるぐらいだ。手法も普通で、カンヌでグランプリをとるような芸術性はない。あれはやっぱり反米感情のおかげだろう。

ストーリーは単純で、前半はブッシュ政権とサウジの王族の関係や石油利権が今度の戦争の背景にあるという観点から、過去のニュース映像をつなげたもの。いくつか新事実の発掘はあるが、驚くような話ではない。どちらかといえば、古典的な「帝国主義」批判の変種だ。最後にオーウェルの「支配」「被支配」という話が引用されるのも鼻白む。

後半は、兵士個人の悲劇が中心で、息子を戦場で失ったおばさんの話が劇的に演出されている。これは息子が死んでから取材したものだろうが、愛国者のおばさんが現実に目覚めるというストーリーに仕立てているところはうまい。

議員への突撃インタビューなどは余計で、もっとワシントンの深層に迫ってほしかった。個人的に興味あるのは、ブッシュよりもチェイニーやラムズフェルドなどの狂信的な攻撃性の背景には何があるのかということだ。それが単なる石油利権ではつまらない。でも、一見の価値はある。

イノベーションのジレンマ

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)
ビジネス書の寿命は短く、数年もたつと読むに耐えないということが多い。その走りとなったトム・ピーターズの『エクセレント・カンパニー』でほめられたIBM、DEC、ワングなどの「超優良企業」は、その数年後に没落してしまった。成功体験から多くを学ぶことはできないのである。
 
これに対して、本書は一九九七年に出版された後、むしろ年とともに評価が高まっている稀有なビジネス書だ。ジョージ・ギルダーやアンディ・グローブが絶賛し、『ビジネスウィーク』などが特集を組み、多くの賞を受賞して、出版から三年後の今もアマゾン・コムのビジネス書ベスト一〇に入っている。
 
本書の特色は、失敗を分析した点にある。特に印象的なのは、著者がくわしい実証研究を行ったハードディスク業界のケースだ。大型コンピュータ用の十四インチ・ディスクのトップ・メーカーは、ミニ・コンピュータ用の八インチ・ディスクの開発に遅れをとってすべて姿を消し、八インチの主要メーカーのうちパソコン用の五インチで生き残ったのは一社だけ、そして三・五インチでも・・・・というように、ディスクの世代が変わるごとに主要メーカーがすっかり入れ替わってしまった。
 
それは、決して経営者が怠慢だったからでもなければ、技術が劣っていたからでもない。むしろ、すぐれた経営と高い技術を持った企業ほど、こうした落とし穴に落ちやすい。その原因は、新たに登場する「破壊的技術」が単価が安く、技術的にも劣ったものだからである。
 
たとえば、五インチのハードディスクとパソコンが登場したとき、それは八インチのディスクを使うミニコンとは性能面で比較にならない「おもちゃ」であり、用途もはっきりせず、利益も少なかった。それを相手にせず、在来の「持続的技術」の付加価値をさらに高めるという経営判断は、それなりに正しかったのである。
 
また技術者も「登れるが、降りられない」。高品質・高価格の製品は開発意欲をかきたて、経営者にも通りやすいが、低品質・低価格の技術を提案する技術者は少ない。それを開発するのは、新しいベンチャー企業だ。
 
では、在来企業は顧客の要求を無視したのだろうか?逆である。ミニコンの顧客は、容量の少ない五インチのディスクよりも、既存の八インチ・ディスクの大容量化を望み、メーカーはそれに忠実に従っただけだ。つまり破壊的技術は、企業と顧客からなる「バリュー・ネットワーク」のアーキテクチャ(構成)そのものを破壊するのだ。
 
現実に企業間で行われている競争は、経済学の教科書に出てくるような同じ市場の中での対等な競争ではなく、異なるアーキテクチャどうしの「制度間競争」である。ところが既存企業の経営者は、それを市場の中でしか見ることができないために没落するのである。
 
こうした事例は、ハイテクだけでなく、小売店、オートバイなど、あらゆる業界に見られる。そこで「法則」といってよいほど繰り返される失敗のパターンと、何度それを見ても歴史に学ぶことのできない企業の悲劇は、ほとんど物語のようである。
 
そして今、インターネットは、電話会社が軽蔑しているうちに低品質・低コストの通信によって電話を飲み込み、情報通信のあらゆるモデルを破壊しつつある。次の犠牲者は放送局だろう。HDTV(高精細度テレビ)は時代錯誤の持続的技術の典型であり、それを破壊するのはモバイルとインターネットだ。
 
著者も日本語版への序文でのべているように、かつての日本製品は肥大化した米国企業を倒す破壊的技術の役割を果たしたが、今では倒される側に回ってしまった。残念ながら、既存企業が自己改革によって危機を乗り越えた例はきわめて稀だ。日本経済が復活する道は、新しい世代の企業による「創造的破壊」しかないだろう。

まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか

まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか
経済学では、株式市場の情報はすべて株価に織り込まれているので、市場に勝つことはできないと教える。では年率80%以上の収益率を上げるファンドは、何か魔法でも使っているのだろうか? 

著者は、それはただの「まぐれ」だという。そういう天才投資家をつくるのは簡単だ。架空のファンドマネジャー1万人をコンピュータの中につくり、最初の年に半分が1万ドルもうけ、半分が1万ドル損をして退出する・・・というシミュレーションを繰り返すと、5年目には313人が5年連続で合計5万ドルもうける。 しかしメディアは彼らを賞賛し、その投資術を書いた本がベストセラーになるかもしれない。

こういう錯覚を「生存バイアス」とよぶ。負けた人々が目に入らないため、まぐれ当たりの成功者の結果論がもてはやされるのだ。10年ほど前、人々は「金融工学」を使えば確実にもうかると信じ、ノーベル賞受賞者を擁したファンド、LTCMは莫大な資金を集めたが、世界的な金融危機で破綻した。

普通の確率論では、この暴落の幅は「標準偏差の10倍」で、数百億年に1回しか起こらないはずだった。それは市場の出来事が正規分布に従うと仮定しているからだが、実際の相場の動きは正規分布とはほど遠い。  

著者は、このように人々の行動を確率という人工的な概念で理解することによる失敗例をあげ、市場をメカニカルにとらえる経済学を嘲笑する。経済学は、ニュートン力学の厳密性にあこがれてそれをまねたが、結果的には穴だらけの、ほとんど占いと変わらないものなってしまった。

彼は、経済学はこういうインチキな理論を忘れ、ハイエクから出直すべきだという。人間の行動を決めるのは物理ではなく心理であり、それは不完全な情報と不合理な感情に動かされるものだ、という当たり前の事実を認めることから出発するしか、経済学が役に立つ学問になる道はないだろう。  

「経済敗戦」からの復興に必要な「明るい焼け跡」

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人
本書は、昨年のピュリッツァー賞や全米図書賞をはじめ多くの賞を受賞した名著であり、今さら私が推薦するのは蛇足かもしれない。しかし「経済敗戦」とか「第二の敗戦」といわれる現在の日本を考える上で、本書の描く「第一の敗戦」の教訓に学ぶことは重要だ。

これまでの日本人の敗戦に対する態度は、それを軍国主義の帰結ととらえてアジアへの「謝罪」を求める側と、こうした立場を「自虐史観」として批判する側にわかれ、今なお対立が続いている。本書は、そうしたイデオロギー論争とは無縁な外国人歴史家の見た、明るい敗戦の風景だ。
 その特徴は、著者が日本語版の序文で強調するように、日本人の多様性を膨大な一次資料にもとづいて生き生きと描いている点にある。本書には「集団主義」で保守的なステレオタイプの日本人はほとんど登場しない。
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近代人の「底」が抜けた先に見えてくる野生の世界

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)
戦後の歴史学界では、マルクス主義が圧倒的な影響力をもっていた。これは戦前の歴史学が皇国史観によって国家に迎合したことへの反省もあったのだろうが、唯物史観が「経済決定論」や「発展段階論」として公式化されると、弊害も目立ってきた。
 
そのなかで昨年死去した歴史家・網野善彦は、マルクス主義の影響を受けながらも、それと闘い続けた。その甥である著者も、山梨県の「コミュニストの子供」として生まれ、幼いころから中ソ論争の闘わされる家で育ち、その場にはしばしば網野がいたという。
 
網野は、公式的な唯物史観よりも、マルクスがロシアの革命家、ヴェラ・ザスーリッチに出した手紙に書かれているような原初的な共同体の世界にひかれていた。そこにあるのは、近代人に理解可能な「民衆」ではなく、その「底」が抜けた先にみえてくる原初の人間存在ではないか、と網野は考えていた。それは著者の専門である文化人類学の対象とする「野生の思考」にも通じる歴史以前の世界である。
 
網野は、日本の歴史を農民の側からのみ見る通説を批判し、『無縁・公界・楽』では非農業民の自由な世界を描き、『異形の王権』では「悪党」を駆使して室町幕府と闘った後醍醐天皇を描いた。こうした研究は、日本の学界では長く異端だったが、最近になって日本の「社会史」研究の先駆として評価されるようになった。
 
こうした新しい歴史観は、日本という国家の成り立ちも疑問を投げかけ、天皇制を新たな角度から見ることも可能にする。悪党たちの行っていた密教の儀式には、チベット仏教にも通じる象徴が見られるという。
 
著者は、マルクス主義や天皇制という古くて重いテーマを、叔父の回想という軽いタッチで描いているが、網野の提起した問題は著者に受け継がれている。そこには著者もいうように、現代において、ドゥルーズやネグリたちが研究した、制度化され組織化される以前の「マルチチュード」としての民衆のエネルギーがあるのかもしれない。






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