教育改革はなぜ失敗するのか

日本のサービス産業の効率が低いことは周知の事実だが、教育サービス(特に高等教育)はその中でも最低の部類だろう。私立大学の過半数が定員割れで、中国人留学生で定員を埋めている状態だ。一時、文科省が「大学院重点化」によって乱造した大学院大学も、ほとんどが定員割れで「学歴ロンダリング」の温床になっている。

こういう状況について何度も改革が試みられたが、ほとんど改善されていない。その根本的な原因は、企業システムにある。拙著(第5章)でも書いたように、日本の企業のガバナンスは資本主義の原則である所有権(ownership)による支配ではなく、長期的関係にもとづいた会員権(membership)による支配だから、大事なのは組織に忠実で協調性の高いことで、専門的技能は必要ないのだ。

前にも書いたように、日本の大学はシグナリングの装置だから、その役割は入試のとき終わっている。重要なのは「東大卒」の学歴ではなく「東大入学」の能力だから、4年間は遊んでいてもかまわないし、大学の成績も重視されない。仕事は徒弟修行によってOJTで覚えるので、それを習得する文脈的技能が高ければよい。あのつまらない受験勉強を耐えて東大に入った学生は、どんなつまらない仕事も我慢し、上司の求める答を出す忠実な社員になるというシグナルを出しているのである。

だから企業システムを変えないで、教育システムを変えることはできない。企業が汎用サラリーマンを求めているのに、必要もない大学院卒を増やしても、労働市場での価値は上がらない。長期雇用・年功序列システムの特長は、需要の変化に対応して多くの部門に配置転換できる柔軟性なので、へたに博士号をとったりして「専門バカ」になると、つぶしがきかなくて使いにくい。

こうした教育システムが行き詰まっているのは、日本企業の行き詰まりに対応している。かつては市場の変化には配置転換や出向・転籍で対応できたが、情報革命とグローバル化によって変化が急速になり、競争が激しくなると、高度に専門化された企業による水平分業が起こり、サラリーマンでは対抗できなくなる。ところが企業の人事システムは昔のままだから、専門的な判断力のない調整型の経営者が組織内のコンセンサスで経営戦略を決めて失敗を繰り返す。

逆にいうと、学生が専門的技能を生かすには、柔軟な労働市場が必要だ。そのためには、企業が現在のような長期的関係に依存した閉鎖的な共同体ではなく、資本市場で所有権を移転して柔軟に組み替えるモジュールになる必要がある。これはゲーム理論でいうと、繰り返しゲームから戦略的ゲームへの転換である。つまり
  1. 日本型:会員権―長期的関係―文脈的技能
  2. 英米型:所有権―労働市場―専門的技能
という2種類の補完的な組み合わせがあり、1から2にワンセットで変えないとうまく行かないのだ。このどちらがすぐれているかは先験的にはわからないので、自民党や民主党のように長期的関係にもとづく「安心・安全」を守るために「市場原理主義」を拒否するというのも、それなりに一貫した戦略だ。藤原正彦氏から中谷巌氏に至るまで、そういう戦略を推奨する人もいるので、どちらを選択すべきかは自明ではない。

問題は、1のシステムが長期的に維持可能かどうかということだ。私は、グローバル化の進む世界経済の中でこういうシステムを死守することは、玉砕戦法に等しいと思う。だとすれば、好むと好まざるとにかかわらず、普通の資本主義に移行するしかない。異なる均衡への「パラダイム転換」にともなうリスクや社会的コストはかなり大きいが、それを先送りした結果が「失われた20年」の長期停滞である。

だから教育改革も、産業構造の改革の一環として進めないと失敗を繰り返すだろう。大学進学率が50%を超えた現状では、もう大学はアカデミズムではないので、大部分の私立大学は専門学校と同じように労働市場で即戦力になる人的資源を養成すべきだ。それが離職者の受け皿になれば、柔軟な労働市場を実現して企業システムの改革にもつながるだろう。この意味で、NIRAも提言するように、文科省が経産省や厚労省と連携して、産業政策として大学教育を再建する必要がある。

戦後世界経済史

本書は、自由と平等のトレードオフを軸にして、戦後の世界経済を概観したものだ。平等という言葉には曖昧さが含まれており、著者も指摘するように「法の下の平等」という意味での機会均等は近代社会の絶対条件だが、みんなの所得を同じにする結果の平等は、しばしば自由を侵害し、貧困をもたらす。ところが著者もいうように、
「平等」への情熱は一般に「自由」へのそれよりもはるかに強い。すでに手にした自由の価値は容易には理解されないが、平等の利益は多くの人々によってただちに感得される。自由の擁護とは異なり、平等の利益を享受するには努力を必要としない。平等を味わうには、「ただ生きていさえすればよい」(トクヴィル)のである。(p.372)
分配の平等を求める感情が合理的な計算より強いことは、行動経済学の実験でも確かめられている。これは進化の過程で「古い脳」に埋め込まれた本能なので、文化の違いにかかわらず見られる。それが市場経済の基礎にある「自由な利益追求」の原則と矛盾することは、アダム・スミスの時代から認識されてきた。

戦後の世界でも、自由の拡大によって経済が発展すると平等を求める感情が強まり、規制や過剰な再分配によって経済が行き詰まると自由主義的な改革が行なわれる、というパターンが各国で繰り返された。そのもっとも劇的なケースが社会主義である。分配の平等によって目の前の貧しい人が救われるメリットは誰にもわかるが、そういう政府の介入によって市場がゆがめられ、経済の効率が落ちる弊害を理解するためには教育が必要だ。社会全体が破綻するという結果が誰の目にも明らかになるには、社会主義のように70年以上かかることもある。

1980年代までの日本では、こうした矛盾を年率10%以上の成長率が帳消しにしてきたが、成長の止まった90年代には利害対立が顕在化し、政府がそれをバラマキで解決しようとして、問題をさらに大きくしてしまった。財政と年金の破綻は、個人金融資産1400兆円をすべて吹っ飛ばす「時限爆弾」に膨張したが、政治家は与野党ともにその破壊力を理解せず、さらなるバラマキを「成長戦略」と称している。著者もいうように、平等化の進展が自由を浸食して効率を低下させやすいのは「人的資本の水準の低い国」だとすれば、日本の知的水準はまだ先進国には達していないのだろう。

倒壊する巨塔

"The Looming Tower"の邦訳が出た。原著はアルカイダを単なる狂気のテロリストとして否定するのではなく、イスラム原理主義がいかにして生まれたかをたどり、彼らの思想を内在的に理解しようとする、すぐれたルポルタージュである(ピュリッツァー賞受賞)。

利己的な欲望を肯定する資本主義は、人々の自然な倫理観にあわないという欠陥を抱えており、これを「超克」しようとする運動は、マルクスから北一輝に至るまで無数に繰り返されてきた。イスラム原理主義も、こうした「裏返しのモダニズム」の一種である。

しかしこの種の思想がもたらしたのは、資本主義よりはるかに悲惨な世界だった。「新自由主義」を敵視する自民党・民主党の温情主義も、こうした反モダニズムを薄めたもので、市場メカニズムを理解しないでそれを否定する点でも、アルカイダと大した違いはない。

日本のバランスを回復する

今週のEconomist誌は、日本の過大な経常黒字=過少消費が世界経済と日本自身にとって有害だと論じ、規制撤廃によってサービス業の労働生産性を上げて内需を拡大すべきだと提言している。
日本の経常収支の黒字は、2007年にGDPの4.8%と過去最高を記録した。これは日本の輸出が世界の脅威となった80年代を上回る。当時、前川リポートは「内需拡大」を呼びかけたが、その後も輸出産業に依存する体質は変わらなかった。90年代以降は、国内産業の業績悪化によって輸出への依存度はむしろ高まり、危機前には工業生産の1/3が輸出産業によるものだった。

国内消費が増えない要因は、労働分配率の低下や高齢化、大企業と中小企業の二重構造、非正規労働者の増加による平均賃金の低下などだが、好不況にかかわらず消費が伸びないのには文化的要因も考えられる。日本人は勤勉を重んじて長時間労働に耐え、余暇を楽しむすべをあまり知らず、借金で分不相応な生活をすることを好まない。

国民に代わって政府が消費する景気対策は、悪化している財政を考えると好ましくない。今は国債が順調に消化されているが、日本政府の返済能力に不安が出てくると危険だ、とIMFは警告している。根本的な対策は、サービス業の効率を上げて消費を拡大することだ。日本のサービス業の労働生産性が低い原因は、規制に守られて競争が阻害されていることだ、とOECDは指摘している。

日本企業のR&D投資は高いが、サービス業のR&D比率はアメリカの1/4しかない。通信サービスや旅行代理店など成長の見込める分野も、規制が複雑すぎて外資が入れない。外資が参入した部門の生産性上昇率は平均の1.8倍なので、対内直接投資を拡大することが有効な対策だ。

今後10年で人口が9%も減少する経済においてもっとも緊急性の高い問題は、「子作り」を奨励することではなく労働生産性を上げることだ。そのためにはリストラによって労働移動を促進するしかない。それは古い企業で雇用喪失をまねくだろうが、サービス業の効率を上げて消費が増えれば、最終的には雇用は増える。重要なのは、「安心・安全」などの理由で過剰に規制されているサービス業を政府の介入から解放し、新規参入を促進することだ。

しかし今度の総選挙では、この日本経済のバランスを回復するというもっとも重要な問題が、争点にさえなっていない。逆に製造業の派遣労働を禁止するなど、規制を強化する政策が提案されている。こういう愚かな政策は不況を悪化させて消費者の不安を増し、消費を減らして問題をさらに悪化させるだろう。
これがOECDやIMFやEconomistに代表される世界の常識である。それが誤った「市場原理主義」だというなら、自民党や民主党はそれよりも合理的な成長戦略を提案すべきだ。こうした常識をふまえることなく、不況の責任を「小泉・竹中改革」に押しつけるだけでは、長期停滞はますます深刻化するだろう。

心をつくる

経済学の依拠している功利主義は、独立した<私>がある財から得る<効用>を最大化すると想定しているが、このような素朴唯物論は心理学でも脳科学でも否定されている。本書もいうように、そもそも私という存在が無数のニューロンの刺激を合成した錯覚であり、それが外部の物体を直接に知覚することもありえない。脳はまず外界のモデルをつくり、その予測を経験によって修正しながら知覚するのだ。

こうした知覚が意味として成立するには、他人との相互作用によってモデルを共有する必要があり、認識は本源的に相互主観的だ――こうした認識論は100年前にフッサールが内省によって導いたものだが、最近の脳科学はそれを裏づけている。フッサールが地平と呼んだものが、脳内のモデルに対応している。こうした相互主観的な認識の成立する過程では、他人の気持ちを感じるミラーニューロンが重要な役割を果たす。

もう一つ重要な発見は、こうした知覚が身体化されていることだ。脳内にはホムンクルスと呼ばれる身体の地図があり、知覚は身体と対応している。デカルト以来の心身二元論は、脳には存在しない。メルロ=ポンティのいったように、身体が知覚を規定し、認識は行動によって条件づけられているのだ。

意味が形成される過程も、対象に表現が対応するといった記号論的なものではなく、コミュニケーションの中で個人のモデルの類似点や相違点を見つけながら、再帰的にモデルを修正する「言語ゲーム」によって行なわれる。これもウィトゲンシュタインが提唱したことだ。本書はこうした哲学や認知科学の議論を参照しているわけではないが、結果的に20世紀後半の「認知論的転回」を実証している。

ニューロンの変化がそのまま経済行動に反映すると想定する「ニューロエコノミックス」の素朴唯物論は、あまり意味のある成果を生んだとはいえない。むしろ脳内でどういうモデル(フレーム)が形成されるかを見たほうがいいのではないか。

戦時経済の再来?

岩本康志氏のブログより:
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軍事費抑制論者であった高橋是清が1936年に暗殺されて,軍部の意向が強く働くようになり,債務比率は膨張を続け,1944年度末に約200%のピークに達する。戦後のインフレによって国債は事実上償還され,債務比率は急速に低下する。石油ショック以降は再び上昇に転じ,最近の動きは第2次世界大戦期の動きを彷彿させる。債務比率の動きだけを見れば,日本は石油ショック以降,度重なり戦争をしているみたいだ。やや煽情的な言い回しとなるが,私は,近年の債務残高の動きを説明するときに「日本は景気を相手に戦争を始めた」という表現を使うことがある。

経済の役に立つ経済学がほしい

田中秀臣氏によれば、「白川総裁、上海で池田信夫と化す」とのことだ。
1990年代後半以降、日本の政策当局に対し、国内外のエコノミストや国際機関から様々な政策提言がなされたことは記憶に新しいと思います。[・・・]中でも、最も有名な提言の1つは、「無責任な政策にクレディブルにコミットすべし」というものです。興味深いことに、今回の危機では、急速な景気の落ち込みにもかかわらず、エコノミスト達からは、同様の大胆な政策提案は行われていませんし、そうした急進的な措置も実施されていません。
日銀総裁が私と同じ意見だとすれば名誉なことだが、これは事実を語っているだけだ。かつてリフレ派が日銀を攻撃して「世界標準の政策」だとか称していた人為的インフレ政策を採用した中央銀行は、どこにも存在しない。その教祖バーナンキは、「インフレを阻止するためには金融引き締めが必要になる」とのべている。クルーグマンも撤回した(なぜか日本にだけは人為的インフレを迫っているが、日銀は英語が読めないとでも思っているのだろうか)。マンキューも一時、人為的インフレを提案したが、私がEメールで問い合わせたところ、クルーグマンの1998年の論文も読んでいなかった。その後は、彼もこの種の議論はやめた。

こういう不毛な議論がいつまでも続くのは、日本の経済学界がガラパゴス化している証拠だが、マクロ経済学にも問題がある。Economist誌も批判するように、現在のマクロ経済学では金融危機は起こりえないので、それについて理論的には何もいえない。無理やり問題をマクロ経済学の中だけで理解すると、人為的インフレのようなナンセンスな政策しか出てこない。アカロフ=シラーも指摘するように、危機管理でもっとも重要なのは金融システムに対する信頼であり、金利や通貨供給量などのマクロ変数はその補助的な手段にすぎない。ところが、どうやって信頼を回復するかという中央銀行にとってもっとも切実な問題に答える理論が存在しないのだ。

私は経済学は物理学ではなく医学に学ぶべきだと思うが、今のマクロ経済学は、健康診断は精密にできるが、病気になったら診断も治療もできない医学のようなものだ。医学にとって「本番」は危機管理であり、体温や血圧を予測することではない。手元に血圧計しかないからといって、ガン患者の血圧だけを見て「血圧降下剤をもっと投与しろ」という医者は失格である。日本の政治家が経済学を無視した政策ばかり出してくるのは、彼らがそれを理解していないことも事実だが、こうした経済学の実態を経験的に知っているからだ。医学を無視した民間治療は役に立たないが、経済学はもともと民間療法みたいなものなので、それを無視しても大した実害はないと思われている。

こういう批判は、私の学生のころから繰り返され、経済学もそれなりに努力してきたが、現実との距離は縮まっていない。最大の問題は、経済学者のインセンティブが歪んでいることだ。彼らにとって重要なのは学界で出世することで、そのためには国際学会誌に論文を載せることが重要なので、その基準にあわない研究はしない。このように形だけは自然科学に似せているが、実証データで反証された理論は棄却するという科学の原則は無視して、「美学的」な基準でモデルを選ぶ。経済学者の役に立つ経済学ではなく、経済の役に立つ経済学が必要である。

「内需拡大」についての誤解

池尾・池田本で「外需主導を脱却して内需を拡大する必要がある」と書いたとき、一つ心配があった。これを前川リポートと同一視されると、あのときのように内需拡大が「公共投資の拡大」と誤解されるおそれがあったからだ。その懸念は、残念ながら現実になってしまった。民主党のマニフェストは「成長戦略」についての修正で、
子ども手当、高校無償化、高速道路無料化、暫定税率廃止などの政策により、家計の可処分所得を増やし、消費を拡大します。それによって日本の経済を内需主導型へ転換し、安定した経済成長を実現します。
と書いているが、これは誤りである。このような「内需」の財源はすべて税か国債であり、所得再分配にすぎない。たとえば子供手当をもらう家庭の可処分所得の増加は、配偶者控除や扶養控除を減らされる子供のない家庭の可処分所得の減少で相殺されるので、ネットの消費は増えない。

成長戦略とは、みんなの党だけが正しく認識しているように、「生産要素を成長分野に再配分」することによって経済の効率を高めることだ。これはゼロサムの所得分配とはまったく別の問題であり、民主党のマニフェストはこの基本的な考え方を理解していない。税金のバラマキによる「内需拡大」がいかに悲惨な結果をもたらすか、われわれは90年代に学んだはずだ。

日本企業はなぜ敗れたのか

竹森氏の本を読んで、なぜこんなに現状認識が違うのか考えたが、ふと思い当たった。彼が、かつてリフレ派として「不況期に構造改革をするのはバカだ」という論陣を張っていたのは、日本経済の「構造」に問題がないと思っているからなのか。90年代以降の「失われた20年」は超長期の景気循環で、その原因はマネタリーなものだから、金融政策を適切に運営すれば日本経済の成長は回復する――という趣旨のことを彼は何度か書いている。

率直にいって、これは認識不足といわざるをえない。長期停滞の最大の原因は、TFP上昇率の低下によって潜在成長率が低下したことだ。生産性の低下は80年代から始まっていたが、バブルによって隠れていた。90年代のバブル崩壊によって、それが顕在化しただけなのだ。これはHayashi-Prescottのような一部門モデルではわからない、戦略産業であるIT部門で起こった構造的な変化である。

その分水嶺がPCだった。1981年、IBM-PCの誕生によってオープン・アーキテクチャの時代が始まり、80年代後半にはマイクロソフトとインテルを中心とする新企業が、IBMを倒産の一歩手前まで追い込んだ。そのころ日本では、PC-9800とその他のパソコンがコップの中で争い、IBM互換のPCをつくるメーカーはほとんどなかった。ようやく彼らが1993年にDOS/Vで世界標準に合わせたとき、世界のソフトウェアも部品もアメリカとアジアのメーカーに占拠され、日本企業の入り込む余地はなかった。

同様の失敗が、その後も繰り返された。特に大きいのは、1993年にNTTが携帯電話の規格に日本独自のPDCを採用したことと、ISDNの普及にこだわってTCP/IPを拒否し続けたことだった。この結果、日本の携帯電話が「ガラパゴス化」し、ウェブでも検索などの基幹的なサービスはアメリカに押さえられてしまった。

こうした水平分業構造は、当初は意図されたものではなく、IBMはオープン化に抵抗し続けたが、最終的には部品メーカーである「ウィンテル」が完成品メーカーであるIBMを倒す形で、グローバルな部品市場が成立した。これは新興国にとっても大きなビジネスチャンスとなり、90年代以降の成長を支えた。つまりアメリカ企業がソフトウェアやアーキテクチャを支配し、それを低賃金のアジアでハードウェアに実装するという国際分業が成立したのである。

日本はこのどちら側にも入れず、かつて世界を制覇した電機産業の優位性は崩れ、NTTファミリーを中心とする通信産業は没落し、自動車のような「すり合わせ」構造の残る製品によりかかって低成長を続けてきた。同様に金融機能のアンバンドリングが進行したファイナンスの分野でも、日本の銀行はまったく構造転換に対応できず、昔ながらの「金貸し」を脱却できないまま、公的資金と低金利によって延命された。

産業構造の変化というとき、池尾・池田本で想定しているのは、こうした広義の情報産業における垂直統合から水平分業への変化である。それは不可避で不可逆であり、すべての工業製品やサービスが何らかの意味でデジタル化する現代においては、このグローバルな分業構造の変化に適応できない企業は淘汰されるしかない。

ところが、日本の経営者はいまだにこの変化に気づかず、要素技術の「ものづくり」にエネルギーを費やしている。長期的関係によってきめ細かいすり合わせのできる日本企業が、ものづくりに比較優位をもつことは事実であり、それを放棄する必要はない。しかしこうした「匠の技」の通用する分野は狭まっており、ビジネス的には袋小路である。また持続的な成長によるレントを分配することも困難になった今、長期的関係も不安定になり、すり合わせの有効性にも限界がある。市場ベースの水平分業に移行することは避けられない。

20年にもわたる経済の低迷の原因は、マネタリーなものではありえない。貨幣は長期的には中立なので、そのヴェールをはいだ実体経済の「成長力」の劣化が本質的な問題であり、そのもっとも重要な原因は、こうした産業構造の変化に日本の製造業が対応できなかったことだ。リフレ派を自称する人々が、構造改革を嘲笑して「ミクロな政策なんて意味がない」などというのは、彼らが構造変化を知らないからなのだ。以上のような話は私が12年前の本で書き、経営学では常識だが、経済学ではまだ理解されていないようだ。

経済危機は9つの顔を持つ

本書は日経ビジネスオンラインの連載をまとめたもので、テーマは経済危機後の世界と日本を考えるものだ。その批判のターゲットは池尾・池田本でも提唱した「内需拡大」だが、内容を正確に理解しないで、池尾さんのいう「藁人形」論法になっている。今年の経済財政白書も「成長を維持するには内需だけではだめで、輸出も重要だ」と書いているが、それは自明の理である。われわれは輸出の伸びには限界があり、製造業だけの「片肺飛行」では今回のようなリスクがあるので、国内型のサービス業の効率を上げて雇用を創造すべきだ、といっているだけだ。

ところが著者は、これを「内需をリーディング産業にしろ」とか「ものづくりは必要ない」という主張と取り違え、黒田東彦氏には「日本の輸出は世界経済に迷惑をかけていないので、今のままでいい」といわせ、藤本隆宏氏には「トヨタのものづくりは健在だ」といわせている。全体としては、日本の産業構造は今後も自動車や電機などの輸出産業が中核で、医療や介護などの内需産業は成長には貢献しない、という話になっている。

そうだろうか。自動車を除く工業製品は、ほとんど水平分業に転換しており、いくら要素技術の「技」を磨いても、収益の大部分はアーキテクチャをつくった欧米企業に持って行かれ、コモディタイズした工業製品は新興国との競争に負ける。その典型が、要素技術は世界一でありながら、端末のシェアは国内8社あわせて世界の1割にも満たない携帯電話だ。パソコンもルータも、IT産業は壊滅状態で、一度こうなると挽回は不可能に近い。自動車も、中国などではモジュール化が始まっている。

サービス業が内需に限られるわけでもない。通信サービスはグローバル化しており、グーグルのような情報サービスもグローバル産業だ。これまで内需型とみられてきた流通業もグローバル化し、ウォルマートやGAPも国際展開をはかっている。小売業は規制に守られて効率が低いので、ユニクロのような新企業がグローバル展開するのが理想だ。もうグローバル化=輸出産業=製造業という図式は成り立たないのだ。その意味では「内需拡大」という表現もミスリーディングで、「サービス業の効率化」といったほうがいいかもしれない。

日本の潜在成長率が低下した根本的な原因は、こうしたデジタル革命による産業構造の転換に対応できず、戦後の一時期に一部の製造業でたまたま成功した「すり合わせ」の成功体験にこだわってアーキテクチャ競争に敗れ、リーディング産業を失ったことにある。池尾さんも私も福祉や医療がリーディング産業になるとは思っていないが、雇用吸収力のあるのはそれぐらいしかない。G7諸国で最低になった労働生産性を、労働移動によってせめて平均ぐらいに戻そうというのが、われわれの慎ましい目標なのである。

業務連絡:夏休み中はサテライト・キャンパスは閉まるので、献本は自宅にお願いします。住所は、右のSBI Businessのバナーをクリックして下さい。



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