おとくライン


きょう日本テレコムの「おとくライン」の電話勧誘がきた。乗ってもいいと思ったのだが、よく聞くと、DSLはヤフーBB以外とは共存できないのだという。基本料金わずか250円の違いのためにアドレスを変えるのはばかばかしいので、やめた。

ただ「他のISPとも話し合っているので、来年1月のサービス開始までにはSo-netでもよくなるかもしれない」とのこと。つまり、これまではNTTの電話回線が「ハブ」のような役割を果たし、各社ともNTTと共存さえできればよかったのだが、ハブがなくなると「組み合わせの爆発」が起き、調整が飛躍的に複雑になるわけだ。

同じような問題は、IP電話でも起こっている(おとくラインはIPではない)。「NTT後の世界」では、標準化でNTTの果たしていた役割をどういう組織が継承するのかも重要な問題になりそうだ。

50Mbps


遅まきながら、DSLのモデムを8Mbpsから50Mbpsに変更した。

ダウンロードは、驚異的に速くなった。数MB程度のファイルなら、ほとんど瞬間である。しかしウェブサイトへのアクセスは、体感上ほとんど変わらない。サーバ側の問題が大きいのだろう。これでは、わざわざ面倒な工事をしてFTTHに変える気は、まったく起こらない。たぶんFTTHの市場は、新築のマンションなどで一括して新規に引くときに限られるだろう。

NTTは、中期経営戦略で「2010年までに光ファイバー3000万世帯」という経営目標を掲げたが、これでは絶望的だ。賢い官僚は、実現できそうにない数値目標を掲げるときは時期を明記せず、時期を明記するときは数値目標は曖昧にするものだ。この目標は、ちょっと知恵が足りなかったのではないか。

電子投票


フロリダ州の電子投票で、ブッシュの得票が過大だったのではないかという疑惑が浮上している。

「投票する者は何も決めることはできない。決めるのは票を数える者だ」というスターリンの言葉があるが、これは別の意味でも真理を指摘している。1票の差で選挙結果が変わる確率は事実上ゼロなのだから、ひとりの有権者は何も決めることはできないのである。

むしろ説明を必要とするのは、なぜ人々は罰則も報酬もないのに、何の意味もない投票に行くのかということだ。これは意外にむずかしい問題で、Grossman-Helpman, Special Interest Politics (MIT Press)はさまざまな説明を試みたあげく、「経済的なインセンティヴで説明することは不可能だ」という結論を出している。

これは経済学で人間の行動を説明する限界を示すと同時に、政治が「特殊利益」に誘導されやすい根本原因を示している。政治に影響を与えたければ、投票するより選ばれた議員を買収するほうがはるかに「効果的」なのである。あるいは電子投票機をハッキングするほうが・・・

ザスーリチへの手紙


中沢新一氏とは、かつて1年以上いっしょに仕事をしたことがある。私がサラリーマンをやめるとき、彼に相談したら「リスクは大きいと思うけど、君はサラリーマンに向いてないから止めないよ」といってくれた。

そのころ、私が「文化人類学に興味をもったのは、マルクスのヴェラ・ザスーリチへの手紙がきっかけだった」といったら、中沢氏は「網野さんみたいなこというね」と笑っていた。彼の新しい本『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)には、網野氏がザスーリチ書簡について語る話が出てくる。

この手紙は、マルクスの手紙のなかでもっとも重要なものの一つとして知られている。それは、彼が『資本論』の分析の射程は「西欧諸国に明示的に限定されている」とのべているからだ。これは彼の歴史観を「単線的な進歩史観」だとする通俗的な批判への反証であるばかりか、近代西欧の「自民族中心主義」への批判として、レヴィ=ストロースよりも100年近く先行するものだ。

晩年のマルクスは、西欧文化圏の特殊性を自覚し、ロシアの共同体などを研究していた。パリ・コミューンがわずか72日間で終わったのに対して、こうした「原コミューン」は何百年も存続してきた。その知恵は未来社会にも生かせるはずだ、というところで彼の研究は途絶えた。しかし、このマルクスの問題提起は「マルチチュード」の概念として現在にも受け継がれているのである。

基本的人権


自民党の憲法改正案が出た。世の中の注目は「自衛軍」などの第9条に関連する部分ばかりに集まっているが、私はむしろ基本的人権の「追加」が問題だと思う。

報道によれば、名誉権、プライバシー権、肖像権、知る権利、犯罪被害者の権利を新たに基本的人権として創設するそうだが、最初の3つは表現の自由を侵害するおそれが強い。特にプライバシー権を認めると、個人情報保護法をめぐって起こっている混乱は、さらに拡大するだろう。名誉権や肖像権も、表現の自由を侵害する理由になりやすい。

そもそも、こうした「人権」を憲法に明記する意味は疑わしい。ハイエクもいうように、正義の概念は、ポジティヴな人権としてではなく、最小限度の財産権などを保護するネガティヴな自由権として規定すべきなのだ。

集中排除原則


読売新聞社に続いて、中日新聞社日経新聞社TBSも「マスメディア集中排除原則」に違反していることがわかった。

こういう形骸化した原則は、もうやめるべきだ。デジタル放送にともなって地方民放を再編するうえでも、この原則が障害になっているが、なかなか改正できない。県域の地方民放を地元での「宣伝塔」として使っている政治家が、統廃合を許さないからだ。

「報道ステーション」に朝日新聞の記者が堂々と出てくるような状態で、持株比率だけ制限しても、事実上の集中は排除できない。それよりも番組と電波をアンバンドルして、周波数オークションなどで新規参入を認めたほうがよほど競争的になるだろう。特定の企業の支配力が強まったら、公取委が取り締まればよい。


追記:朝日新聞社、産経新聞社、日本テレビ、フジテレビもやっていたようだ。新聞社とキー局で、やっていない会社はないのではないか。

ミクロとマクロ


ケインズ理論などのマクロ経済学が新古典派的なミクロ経済学で基礎づけられないことは、昔から経済学の悩みの種だ。現在の主流は、今年ノーベル賞を受賞したKydland-Prescottに典型的にみられるように、経済全体を超合理的な「代表的個人」の行動の単純な集計と想定する「新しい古典派」アプローチだが、これは実証に合わないばかりでなく、論理的にも欠陥がある。

こういう想定が成り立つためには、各個人の効用関数が同一であるばかりでなく、全員が他人の需要関数について共通知識を持っていなければならない。これは「各人は価格だけを知っていればよい」という市場メカニズムの特徴に反するし、そもそも全員の効用関数が同じだったら、取引は起こらないだろう。

現実には、個人からみると合理的な行動の集計がバブルなどの非合理的な経済現象を引き起こすことは珍しくない。こういう非線形のミクロ的なふるまいをマクロ的に粗視化(coarse graining)する方法論は、物理学では「くりこみ」理論として知られているが、経済学にもようやく経済物理学として導入され始めた。

この観点からみると、新しい古典派の致命的な難点は、合理性の仮定ではなく、ミクロとマクロの「スケーラビリティ」を仮定していることだ。この種の理論が数学的に過度にテクニカルであることがよく非難されるが、むしろまだ経済学の数学的手法は十分テクニカルでないのかもしれない。

第三のビール


政府税調が、サッポロの「ドラフトワン」などの「第三のビール」の増税を決めたという。

このように、相手の投資がサンクコストになってから、事後的に不利な条件を持ち出すことを「ホールドアップ」という。こういうことが起こると事前にわかっていると、ビール会社は新商品の開発投資をしなくなり、経済全体に悪影響を与える。税調の石弘光会長は「税の秩序を乱す」とかいったそうだが、彼はもう経済学者を廃業したのだろうか。

問題は、第三のビールの税率が低いことではなく、ビールの税率が他のアルコール類に比べて高すぎることだ。「税の公平」をいうなら、ビールの税率をドラフトワンに合わせるべきなのである。



ゲーム理論


ゲーム理論が流行しているらしい。そういえば、最近、本屋で「ゲーム理論で経営に勝つ」みたいなタイトルをよく見るが、こういう本を読むのはやめたほうがいい。経済学を学んでも金がもうからないように、ゲーム理論を学んでもゲームに勝てるわけではない。それに経営学者の振り回すゲーム理論は、恐ろしくお粗末だ。

他方で「ゲーム理論批判」みたいなものも出てくるようになったが、これはもっと相手にしないほうがいい。金子勝に典型的にみられるように、もともとゲーム理論を理解していないのがほとんどだからである。そのなかで、竹田茂夫『ゲーム理論を読みとく』(ちくま新書)は、少なくとも著者が理論を理解しているだけでも救われる。

ただ、この本も「人間の行動は戦略的ではない」という類の超越的な批判で、経済学者が読んでも参考にはならない。経済学は、人間を利己的な個人として単純化する点に特長があるので、それを捨ててヴィトゲンシュタインだのハーバーマスだのといい出したら、本書のように何の結論も出ないのである。

大陸型と英米型

大陸型の「市民法」の影響の強い国よりも、英米型の「コモンロー」の国のほうが成長率が高いというShleiferたちの実証研究は有名だが、官僚制についても同じような類型がある。

Silberman, Cages of Reasonによると、日仏の官僚制度は中央集権・終身雇用・「組織特殊的」な技能形成などの特徴でよく似ており、英米の官僚制度は分権的・専門家志向・ローヤー中心という点で似ている。ここでも著者が指摘しているのは、実は米国の官僚制が「最古」だということで、英国の制度はそれに追随したものだという。各州ごとに政治・司法システムがばらばらにできたのをつなぎあわせたのが英米型で、それにあとから追いつくために国家に権力を集中して工業化を行うシステムが日仏型だというわけだ。

この2類型は、企業組織の「アーキテクチャ」についての一般的な類型にも対応している。Holmstrom-Milgrom(1994)などの「マルチタスク」モデルで知られているように、複数の業務に補完性がある場合、「強いインセンティヴと弱いコーディネーション」(英米型)か「弱いインセンティヴと強いコーディネーション」(大陸型)の組み合わせが望ましく、これ以外の組み合わせは安定な均衡にはならない。

この二つの均衡のどちらが最適になるかは環境に依存し、帝国主義の脅威に対抗して短期間に国家建設を行うには日仏型が向いていたという見方もありうる。ただ経済が成熟してくると、英米型の「モジュール的」な官僚制のほうが、柔軟にシステムを組み替えられるぶん有利になる。民間のほうはかなり「英米型」への移行が進んでいるが、行政の転換はこれからだ。







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