命か特許か?

きのうのNHKスペシャルで、AIDS治療薬の特許をめぐる対立を取り上げていた。「命か特許か」という問いにすれば答は自明だが、問題はそう単純ではない。ブラジルなどは政府が代用薬を大量生産して輸出しており、AIDS治療薬の国際価格が暴落したため、新薬開発が滞っているともいわれる。

一番いいのは「命も利益も」守ることで、そのためには現在の特許制度は最善のシステムとはいえない。特に薬品の場合には、Kremerが明らかにしたように、特許を政府などが買い上げることによって利益を守りながら命も守ることができる。こういうシステムは世銀や赤十字などが検討しているが、きのうの番組を見るかぎり、まだ実を結んでいないようだ。資金がないからか、製薬資本にとっては在来の特許のほうがもうかるからか。

ただ、AIDSの「治療薬」というのは、しょせん対症療法で、HIVそのものをなくすわけではないので、開発援助で配布することには反対論もある。症状を緩和すると、感染者がHIVをばらまくからだ。コンドーム使用の徹底などの性教育のほうが効果的だ、とPosnerは論じている。

もっと効果的なのは、Posnerも論じているように、先進国が農業保護をやめることだ。アフリカの問題は、結局アフリカ自身が解決するしかない。先進国がやるべきなのは、腐敗した政府に渡るだけの援助よりも、彼らの自立をさまたげている不公正貿易の是正である。

情報通信審議会 第2次中間答申

地上デジタル放送についての中間答申が総務省のホームページに出ている。注目されるのは、IP配信について「条件不利地域に限らず、積極的に活用すべき」と明記されていることである。これは「難視聴解消にかぎった補完的利用」という民放連の抵抗を総務省が踏み越えたものと読める。

ただし、それが許容されるための技術的条件は「送信が当該放送地域内に限定される」ことであり、この点では抵抗勢力に譲歩している。しかし現実には、アナログ放送でさえ「当該放送地域外」で受信されており、こんな制限はデジタル放送がきらわれる原因になるだけだ。たとえば徳島県などは、大阪の局が受からないと民放は1局しか見えなくなってしまう。

この点では、もう一つのポイントである「コピーワンス」の教訓に学ぶべきだ。これも供給側の都合で不便なシステムを導入したため、デジタルTVが敬遠されるもとになった。放送のデジタル化は公共事業ではなく、最終的には視聴者が受け入れなければできないのだ。

第1回ICPFシンポジウム

きょうのシンポジウムでは、地上デジタルが話題になった。栄村などには放送のIP配信を禁止しておきながら、地上デジタルではIP配信を開始するというのは不可解だが、それだけ「2011年」のタイムリミットに追い詰められているのだろう。

これはIP配信を阻んでいる壁を突破するチャンスだが、厄介なのは「県域」の問題だ。配信地域を限定することは、やればできなくはない(NTTには「地域IP網」というのもある!)が、それではIP配信の意味がない。総務省は、どこまで本気でIP配信をする気なのだろうか。きょうの情報通信審議会で、このへんの中間報告が行われたはずである。

サルトルの世紀

朝日新聞と日経新聞の書評で、ベルナール=アンリ・レヴィ『サルトルの世紀』(藤原書店)がそろってトップに取り上げられていた。たしかに、論証に荒っぽいところはあるが、サルトル論としては圧倒的におもしろい。

もはや「忘れられた哲学者」に近いサルトルの戦前の著作を再評価し、そこに「物の味方」としての「第一のサルトル」を見出すという発想は斬新で、またそれなりに説得力がある。マロニエの木の根元を見て吐き気をもよおすロカンタンの姿に「本質の不在」というポストモダン的なテーマを見ることは可能である。

しかし、初期サルトルの「反本質主義」を「反ヒューマニズム」と置き換えるのは、ちょっと乱暴だ。本質に先立って実存する主体は「自己」であり、サルトルはその主体(人間)そのものは疑っていないからだ。むしろ、ヘーゲル的な主体=実体を否定しつつ、実体なき主体としての自己を認めたところに、サルトルの中途半端さがあったのではないか。

これは戦後の「第二のサルトル」の惨憺たる失敗をどう理解するかという問題ともからむ。著者は、これを「第一のサルトル」と並列し、二人のサルトルが晩年まで同居していたのだとして、両者の関連についての説明を放棄しているが、これはいかがなものか。むしろ初期の哲学からあった「強いエゴ」が肥大化して「党」の絶対化につながったのではないか。

未整理で冗漫な部分も多いが、語り口はジャーナリスティックで読みやすく、900ページも一気に読める。良くも悪くも、サルトルが20世紀を代表したことは間違いない。彼の矛盾は、われわれの時代の矛盾でもあるのかもしれない。

Negroponte Switch

かつてMITのNegroponteは「将来は今までとは逆に、電話が無線になり、テレビが有線になるだろう」と予言した。この前半は携帯電話によって現実になったが、デジタル放送が光ファイバーで行われれば、後半も実現することになる。

AEIのHazlettは2001年に、放送のデジタル化を電波ではなくケーブルでやるNegroponte Switchを提案した。米国では、視聴者の9割近くがケーブルテレビを見ているのだから、デジタル化はケーブルでやり、UHF帯は空けるべきだというのだ。

同じことが、日本にもいえる。NTTの目標とする「2010年までに3000万世帯に光ファイバー」が完全に達成できなくても、4年で1300万世帯を超えたDSLと合わせれば、2011年には8割以上の家庭がブロードバンドでカバーできるだろう(残りはCSでカバーすればよい)。政府の規制改革・民間開放会議でも「デジタル化はネットでやり、電波は不足している携帯に空けろ」という意見が出ているという。

「アナアナ変換」に計上された1800億円の国費は、この対策費に使えばよい。これによってUHF帯を空けることができるなら、安いものだ。ローカル民放は、被害者意識をもつ必要はない。デジタル放送がIPになれば、今は実質的に5社しかない全国放送の民放が127社に増え、制作能力のあるローカル局にとってはチャンスなのである。

民放ローカル局

地上デジタルのIP配信について、民放連は「域外の放送が見られないようにする技術が確立していなければ流さない」方針だという。IPでキー局の放送が全国で見られるようになれば、それを中継するローカル局の営業が成り立たなくなるからだ。

これは本末転倒である。キー局の番組が直接みられるなら、それを垂れ流すだけのローカル局はいらない。ローカル局はローカルサービスに徹してもよいし、全国放送を流してキー局と対等に競争してもよいのだ。

総務省は、この民放連の方針を前提にして地域限定の「実証実験」を行う予定と伝えられるが、視聴者の選択の幅をわざわざせばめる技術に(ローカル局の延命以外の)どういう意味があるのか。総務省は、業者の側に立つのか視聴者の側に立つのかが問われる。

地上デジタルのIP配信

総務省が、地上デジタル放送の光ファイバー配信を認める方針だという。これは、私が7年前から主張してきたことである。こんな自明の事実を政府が今ごろやっと認めたのは遅すぎるけれど、認めないよりはましだ。

今のところ、電波を使うか光ファイバーを使うかは放送局にまかすことになっているらしいが、これはおかしい。ファイバーで配信できるなら、電波はいらないので、免許は返上すべきだ。これはキー局も同じで、最初からIP配信にして、UHF帯はすべて無線LANや携帯電話に空けるべきだ。ICPFのシンポジウムでも、この問題は論じる予定である。

NHK民営化

内閣府の規制改革・民間開放会議の中間答申にNHKの「有料放送化」が盛り込まれる方向だという。デジタル放送になれば、スクランブルをかけるのは当然であり、不払いの激増による不公平感を払拭する意味でも、避けて通れない問題だ。

NHKが普通のペイテレビになれば、「市場の声に耳を傾けなければならない仕組み」すなわち民間企業になるのが自然だろう。最終答申でそこまで踏み込んだ結論が出るのかどうかわからないが、これまでタブーになっていたこの問題に言及しただけでも意義がある。NHKの「懇談会」でもスクランブル化の方向が検討されるようだが、そうなれば受信料制度そのものの見直しに発展することは必至だ。

逆囚人のジレンマ

道路公団をめぐる談合事件は、元理事が逮捕されるに至り、公団職員の関与も疑われている。しかし財界の動きはにぶく、経団連の奥田会長も「長年の慣習で、簡単にはやめられない」などと歯切れがよくない。これは談合に(少なくとも主観的には)一種の合理性があることを示唆している。

談合は、ゲーム理論でおなじみの「フォーク定理」で合理的に説明できる。1回かぎりの入札では抜け駆けで得をしても、それによって業界から追放され、指名入札に入れてもらえなくなったら、長期的には損をするからだ。しかし談合の場合には、この「サブゲーム完全均衡」は犯罪であり、ばれたら全員が最悪の状態になる。つまりここでは、通常の囚人のジレンマとは逆に、非常にリスクの大きな「協力」=談合に全員がトラップされているのである。

こういう「逆囚人のジレンマ」を壊すのは簡単である。すべての工事を一般競争入札にして、抜け駆けできるアウトサイダーを入れればいいのだ。しかしこういう解決法では、手抜き工事が行われる可能性があるので、工事の監視をきびしくするなどの事後的な行政コストが高くなる。談合は、業界内で互いに監視して品質を管理する役割もになっていたわけだ。

こういう「自主監視」のしくみは、終戦直後のような混乱した時期には必要だったかもしれない。しかし工事の質が上がり、行政による監視も厳重になった現在では、談合の積極的な意味はもう失われたのだ。奥田会長のいう「自由競争にしたら弱い会社が生き残れない」というのは理由にならない。競争が長期的には会社を強くすることは、トヨタがいちばんよく知っているはずだ。

天下り

経団連がよびかけていた「天下り自粛」は、会議に提案もされずに引っ込められた。橋梁談合をきっかけに、トヨタなどの「国際派」企業が言い出した改革は、「国内派」の抵抗によって、あえなく腰くだけになってしまったわけだ。

「人材の官民交流は必要だ」というのが抵抗勢力の言い分らしい。米国にもrevolving doorがあるじゃないか、というのはよく聞く擁護論だ。しかし、両者には決定的な違いがある。米国では、大臣官房の秘書課が再就職の世話をしたりしないということだ。

官僚が個人の実力で民間に再就職するのは望ましいことだし、若手官僚にも増えている。問題は、官庁の権限を背景にして再就職の斡旋をすることだ。官民の人材交流は大いに奨励し、その代わり役所による斡旋は法律で禁止してはどうだろうか。







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