P2Pの逆襲

KazaaやSkypeを開発したZennstromとFriisが、今度はテレビ番組を配信する"Venice Project"を開発しているそうだ。これはP2Pを使ってテレビ局から配信するもので、先日も紹介したBitTorrentの方式と似ている。

レコード業界の訴訟によって壊滅したかにみえたP2Pだが、映像の世界では効率的なコンテンツ配信システムとして注目を集めている。クライアント=サーバ型のアーキテクチャでは、YouTubeにみられるようにサーバに負荷が集中してボトルネックになる。GyaOも、オンデマンドで配信できるのは、現在の数百kbpsが限界だという。日本のインフラは世界的にみても恵まれているが、それでも普通のテレビ並みの映像をオンデマンド配信するのはむずかしいのである。

P2Pでは、各端末(ピア)を直接つなぐことによって、負荷を分散できる。さらにBitTorrentは、ダウンロードされた映像を分割したキャッシュをピアに残し、複数のピアが同時にダウンロードするときは、このキャッシュをピア同士でコピーする。これによって配信サーバの負荷を軽減し、多くの人がダウンロードしたコンテンツほど多くのキャッシュが残るので、効率的な転送が可能になる。こうしたキャッシュ配信型P2Pの先駆がWinnyなのだが・・・

レコード会社は、P2Pを殺すことによって効率的なオンライン配信システムの道を絶ち、みずからを窮地に追い込んでしまった。映画会社やテレビ局がYouTubeを黙認し、P2Pと提携するのは、好意的に解釈すれば、レコード会社の失敗に学んでいるのだろう。タイム=ワーナーは、VeohというP2Pシステムを使ってテレビ番組の配信実験を始める。

P2Pが合法的な用途を見出しているのは、IP電話だ。Skypeに続いて、今度は普通の電話機で無料通話のできるJajahというIP電話システムが登場した。これはSkypeのようなヘッドセットなしで使え、音質もSkypeよりいいそうだ。

追記:Kazaaはレコード業界と和解し、Sherman Networkは1億ドル以上の和解金を支払って合法的なサービスを開始するそうだ。しかし、広告だけで1億ドルも回収できるのだろうか。

Imagine

映画の著作権が製作後70年に延長されたのに続いて、音楽や文芸なども死後70年に延長するよう政府に要望することで、業界の意見が一致したそうだ。前回の著作権法改正で、映画の著作権が延長される動きが出たときも、私は反対したが、メディアは沈黙した。土壇場になって「レコード輸入権」だけが騒ぎになったが、手遅れだった。今回も、法案提出のスケジュールから考えると、文化庁とはすでに話がついている疑いが強い。

業界は、オノ・ヨーコまで使って、著作権の延長を首相に陳情させた。彼女は、夫の歌を忘れたのだろうか:
Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world

広告と狭告

グーグルの第2四半期の売り上げが前年同期比77%増となり、シェアも48%と、ヤフーの31%を大きく引き離した。このうちグーグル本体の売り上げは58%で、「グーグル・ネットワーク」と呼ばれる提携サイトからの売り上げが41%を占めている。日本でも、ヤフーとMSN以外のすべての検索サイトは、エンジンにグーグルを使っており、それを含めたグーグルのシェアは、ヤフーを上回る(*)

グーグルの売り上げの99%は広告だが、これは従来の電通型の広告ではなく、ロングテールのテールの部分で、特定の商品を検索してくるユーザーにターゲットをしぼった「狭告」ともいうべきものだ。グーグルが急成長を続けることができるのは、まだ多くの人々が両者の違いに気づいていないからである。

ネット広告は、年率30%で成長しているが、その売り上げはやっとラジオを抜いた程度で、広告単価(読者一人あたり)は紙媒体の20~30%だ(Economist)。これに対して、グーグルのAdSenseのクリック単価は、雑誌の2.5倍だといわれる。これは高いように見えるが、紙媒体の場合には、ただ眺めているだけなのに対して、AdSenseの場合には、意図的にその商品を検索して狭告をクリックしたわけだから、実際に買う確率は高い。グーグルの村上社長の言葉を借りれば、両者の価格差はattentionとintentionの差だということもできる。

さらに重要な違いは、従来の媒体が広告代理店を通して広告を取るのに対して、グーグルは代理店を「中抜き」し、サイトで自動的に広告の出稿を受け付け、その価格をオークションで決めることだ。したがって代理店が「世間相場」を決める従来の広告(バナー広告を含む)とは違って、グーグルに対しては、広告主は「本当の価値」に等しい価格をつけるのである。

広告代理店のつけるネット広告の単価が紙の25%であるのに対して、本当の価値が2.5倍だとすると、大ざっぱにいって、ネット広告の価値は1/10に過小評価されているということになる。グーグルが高い利潤率を上げている原因のひとつは、このように従来は代理店や広告主に奪われていた剰余価値を取り戻したことにある。いいかえれば、グーグル自体が「狭告代理店」の役割を果たし始めているのである。

もちろん従来型の広告も、大衆的な商品には意味があるので、残るだろうが、狭告のシェアも単価も、まだ現在の数倍以上にはなるだろう。後者の限界的な価値が逓減すると仮定すると、両者の価値/単価の比が均等化するところで新しいバランスが成立すると予想される。狭告のほうが宣伝効率が高いばかりでなく、消費者にとっても余計な情報を見せられず、必要な情報を見ることができるので、最終的には両者の付加価値が逆転する可能性もある。

問題のYouTubeも、AdSense以外にアマゾンのアフィリエイトも始めたようだから、差し止め訴訟を起こされて負けなければ、採算に乗るようになるかもしれない。従来は2ちゃんねるのように公然と著作権を侵害するサイトには、大企業の広告はつかなかったが、機械的な狭告なら、契約の相手はアマゾンやグーグルだから、企業イメージへの影響は小さい。少なくとも、狭告の効率が広告の数倍になる限り、そのメリットが心理的な障壁を越える可能性は高い。

(*)コメントで指摘されたが、「すべての」というのは誤り。YSTを使うサイトも増えているようだ。

グーグルの限界

きのうのICPFシンポジウムは、本来は『ネットがテレビを飲み込む日』の著者が自分の原稿について話す場だったのだが、話がYouTubeから脱線して、Web2.0の話ばかりになってしまった。執筆してから出版されるまでの2ヶ月の間に、ドッグイヤーでいえば1年以上たってしまい、店頭に出たときは、もう時代遅れになっている、というのがインターネット本のこわいところだ。

また「Web1.0と2.0の違いは何か」という話が出たが、これはやはりよくわからない。しいていえば、コンピュータ中心からネットワーク中心への移行なのだろうが、これ自体は新しいコンセプトではない。昔「ネットワーク・コンピュータ」とか「シン・クライアント」とかいう言葉で、サンやオラクルがはやらせようとして、こけた話だ・・・と片づけるのが落とし穴なのである。

一度、失敗したビジネスモデルは、普通の世界では二度とものにはならないが、コストが3年で1/4になるITの世界では、3年前には赤字だったプロジェクトが、今やったら黒字になることが十分ありうる。ウェブには「三度目の正直」があるのだ。グーグルも、検索エンジンのパイオニアでもなければ、検索広告の発明者でもない。その要素技術は、ほとんど二番煎じだ。問題は、そういう技術をどう組み合わせ、どういうタイミングで世に出すかという総合的な戦略である。

経産省の「日の丸検索エンジン」は「映像検索でグーグルを超える」ことを目ざしているそうだが、税金の無駄づかいはやめてほしい、というのが会場の一致した意見だった。西さんは、フランシス・コッポラに「映像を編集するのは面倒だから、セリフで編集できる機材はつくれないか」といわれたそうだが、私も同感だ。テレビ番組の編集も、映像を編集しているのではなく、もっぱらインタビューの言葉を編集しているのである。わざわざ効率の悪い映像を検索するなんて、映像を知らない官僚の作文にすぎない。

グーグルの「イメージ検索」も、実際には映像につけられたメタデータを検索しているだけで、お粗末なものだ。これ以上にするには、メタデータ自体をくわしくするしかないが、それは検索エンジンには不可能だ。グーグルの研究部長Peter Norvigは、「セマンティック・ウェブの実現はむずかしい」とTim Berners-Leeを批判したそうだ。HTMLも書けないウェブマスターが何百万人もいるのに、どうやって彼らにXMLのメタデータを書いてもらうのか、という疑問はもっともだ。

だからグーグルを超えるものを目ざすなら、変える必要があるのは、検索対象のデータのほうだろう。Berners-Leeのいうように、「われわれのエンタープライズシステムをご利用いただければ、あなたのデータをすべてRDFに変換します」という仲介業者でもいいし、自動的にメタデータを生成するオーサリング・ツールを無料でばらまくというのもあるかもしれない。

グーグルの限界は、それが静的なデータベースだということである。マウンテンビューの本社には、30万個以上のCPUで並列処理する巨大コンピュータがあるというが、そういう「超分散計算環境」は、インターネット全体では実現していない。これも、かつてJavaの初期に実現が試みられたが、失敗した(NetscapeをJavaで書き直すプロジェクトは放棄された)。しかし今、同様のシステムがAJAXと名前を変えて普及し始めている。

もう一つの限界は、ユーザー・インターフェイスである。今のキーボードで入力する検索エンジンは、パソコンでいうと、コマンドラインで入力していたMS-DOSの世界だ。日本では、まだキーボードを使えない(使わない)人も多い。そういう人が「黙って座ればぴたりと当たる」というのが究極の目標だ、とLarry Pageは言っているそうだが、それを実現するのはグーグルではないかもしれない。

YouTube訴訟

ついにYouTubeに対して、著作権侵害の訴訟が起こされた。ただZDNetの記事によれば、原告はRobert Turというカメラマンで、YouTubeに「違反1件あたり15万ドルの罰金と、原告の素材の使用差し止め」を求めているだけで、サイトの停止は求めていないので、さしあたり影響は限定的だろう。YouTube側は、ISPを免責するDMCAを根拠にして責任を否定している。

YouTubeは、1日のアクセスが1億回を超える巨大サイトになったが、テレビ局やハリウッドは沈黙しており、MTVやNBCはYouTubeと提携してプロモーション・ビデオを流し始めた。その一つの原因は、YouTubeがアップロードを10分以内に制限しており、短い(画質の悪い)ビデオクリップばかりで、映画やテレビ番組を代替するような「実害」が少ないと見ているからだろう。

この種の問題についての最近の重要な判例は、昨年アメリカの連邦最高裁が出した「Grokster判決」である。Groksterは、Napsterのようなウェブサイトではなく、分散的にファイルを交換するソフトウェアだが、その配布も違法とされた(*)。それに比べると、YouTubeは古典的なサーバ型のサイトであり、かつて敗訴して閉鎖されたMP3.comに近いので、MPAAなどが訴えれば勝てる可能性は高いようにみえる。

しかし著作権訴訟のランドマークとなった1984年の「ベータマックス判決」では、著作権を侵害しない利用が十分あるかどうかが違法行為の基準とされ、Grokster判決も基本的にこれを踏襲している。この基準に照らすと、Groksterで交換されるファイルの大部分は違法な音楽ファイルだったが、YouTubeの場合には"Broadcast Yourself"と銘打っているように、ユーザーが自作のビデオを投稿するという建て前になっており、現実にそういうファイルが多い(人気があるのは海賊ファイルだが)。

またYouTubeは、サイトの利用規約に「著作権法違反の投稿を禁止する」と明記しており、著作者から抗議があると、すぐ違法ファイルを削除している。むろん1日65000件にも上る投稿をすべてチェックすることは不可能だから、放置された違法ファイルも多いが、番組の丸ごとコピーはなくなった。これは、Groksterが違法行為を抑止することを拒否したのと異なる点だ。これまでの多くの判例でも、業者が著作権侵害を奨励したかどうかが違法性の重要な目安になっている。こういう法的な観点からYouTubeをみると、意外に周到な安全対策を講じており、その成功の秘訣は「訴訟対策のイノベーション」といえるかもしれない。

ただ最近は、YouTubeのサーバも負荷に耐えられなくなり、ビデオが途中で止まることが増えた。やはりアーキテクチャとしてはP2Pのほうが合理的であり、「違法ファイルを許さない」と宣言するだけで許されるのなら、同じようなしくみをP2Pで実現するサイトが出てきても不思議ではない。事実BitTorrentは、5月からタイム=ワーナーと提携してP2Pで映画の配信を始めた。

しかし、まだわからない。Napsterを最初に訴えたのも、メタリカのドラマーだった。今回の訴訟が、P2Pのときのような訴訟の洪水のきっかけとなる可能性も否定できない。一連のP2P訴訟のおかげで技術革新は大きく阻害されたが、レコード業界の衰退は止まらなかった。テレビ業界が、その教訓に学んでくれることを祈りたいが・・・

(*)ただし、この判決でソフトウェアの開発者は賠償責任をまぬがれることも確定した。それに比べると、Winny事件でソフトウェアの開発者を逮捕した京都府警は、世界的にも突出した「過激派」である。

追記:この「法律豆知識」は、DMCAの解説が不十分だったので、27日の記事で補足した。

IP時代の競争ルール

総務省の「IP化の進展に対応した競争ルールの在り方に関する懇談会」の報告書が公表された。総務省には、当ブログの熱心な読者もいらっしゃるようなので、簡単にプライベート・コメントを述べておく:

設備競争について(p.17):今後の競争のあり方のトップに設備競争が掲げられ、なかでも線路敷設基盤の開放促進が最初にあげられているのは(この優先順位に)賛成である。これは当然のことだが、通信・放送懇談会の混乱した論点整理に比べると、プロの仕事という感じがする。特に管路の開放は、これまでリップサービスばかりで実質的な進展がないので、ぜひ「官邸主導」で実行してほしい。

指定電気通信設備について(p.23):ところが、こちらでは回線の開放規制について「メタル回線と光ファイバ回線を一体的に運用」する従来の方針を堅持するとしている。これではNTTグループは、永遠に非対称規制から逃れられず、設備競争は実現しないだろう。この報告書でも、光ファイバーの開放規制をしている国が他にないことを認めているが、「市場構造の違い」を理由にして、従来の規制を継続するという結論を出している。

NTT東西の子会社に対する規制について(p.31):NTT東西の子会社は、NTT法の適用範囲外で規制の抜け穴になっているので、「一体的な規制」を行う必要があるとしているが、これは逆である。アメリカでは、ILECの子会社も96年通信法の規制対象になるので、LoopCoなどの組織革新を阻害している、と当時のFCC計画政策局長ペッパー氏はこぼしていた(CNET)。

むしろ必要なのは、規制の対象をなるべく低いレイヤーに最小化して、NTTの「自発的アンバンドリング」を促進することだ。これはNTT東西の余剰人員10万人を(規制の対象外である)地域子会社に移すという形で、NTT自身も行ったが、まだ東西会社にはサービス部門が残っている。規制を管路(レイヤー0)に限定し、ダークファイバー(レイヤー1)の開放規制を撤廃すれば、NTT東西は管路だけを持つ「0種会社」になり、他のインフラ・サービスはすべてスピンオフして規制を逃れることが合理的だ。もっとも、NTTがこういう合理的な行動をとるかどうかは疑問だが。

次世代ネットワークについて(p.44):日経新聞の観測記事とは違い、この報告書ではNGNの開放規制は打ち出されておらず、「検討する場」を設けるとしているだけだ。これは当然だが、NGNがかつてのISDNのようなものになるリスクも大きいことに注意したほうがよい。90年代に、郵政省は「ISDNのユニバーサルサービス規制」を行おうとして、通産省に反対された。規制は「技術中立的」であるべきだ。

ネットワーク中立性について(p.71):総務省が基本的に規制しない方針をとったのは賢明だ。これは一部のネット企業とレッシグ一派の作り出した「非問題」である疑いが強い。

全体として、従来よりも介入的な色彩が薄れ、規制の必要性を検討する姿勢がみられるのは前進だが、インフラ規制については依然として「教育ママ」的なおせっかいが多い。設備競争こそがNTTの独占を打破する真の競争を生み出すことは、携帯電話をみればわかる。もしもドコモの基地局に「開放規制」を行って、他の業者がそれにぶら下がっていたらどうなったかを想像すれば、光ファイバーについても結論はおのずと明らかだろう。

最大の疑問は、競争政策として緊急の課題であり、社長同士の討論でも激しく議論されたNTTの再々編について、何もふれていないことである。これは通信・放送懇談会の意味不明な「二重改革案」が自民党に一蹴されたことに敬意を表してのことと思われるが、136ページもの報告書に「NTTの経営形態」の文字さえないのは、いかがなものか。NTT問題を回避して通信業界の競争政策を語るのは、トヨタを抜きにして自動車業界を語るようなもので、ナンセンスと評価せざるをえない。

追記:この報告書には「水平的市場統合」という奇妙な表現が出てくる(p.6)。経済学で水平統合というのは、同一の業種の企業が合併することだから、この表現はおかしい・・・と書いて、あとで気づいたのだが、これは放送業界のきらう「水平分離」という言葉を避けたためらしい。言論統制を行う言論機関と、それに「配慮」して自己規制する行政という救いがたい状況をみると、この「競争ルール」も空しい。

アソシエーションとしてのインターネット

「マルクスとロングテール」シリーズには多くの反響があったが、タイトルがミスリーディングなので、変更して少し論点を補足する。

最初の記事のコメント欄でも書いたことだが、マルクスが『資本論』で未来社会として展望したのは、「生産手段の国有化」による「社会主義」の実現ではなく、「個人的所有の再建」による「自由な個人のアソシエーション」であり、これは今日の言葉でいうと「労働者自主管理」に近い。インターネットも、私がHotWiredのコラムで書いたように、アソシエーション(協同組合)の一種である。

問題は、こうしたアソシエーションが、自立した社会として維持できるかということである。それを文字どおり実行しようとした柄谷行人氏の「NAM」は、無残な失敗に終わった。こうした「コミューン」の実験はこれが初めてではなく、18世紀の「空想的社会主義」の試み以来、無数に行われたが、一部の宗教的共同体以外は、みんな自壊している。一定の生活水準を維持するには、彼らのきらう市場経済によって資源を供給することが不可欠だからである。

インターネットは、電話会社のインフラに「寄生」することによって、資源の制約を乗り越えた。TCP/IPもHTTPも、ボランティアのつくったものだが、彼らはそれで生活していたわけではない。多くは大学や研究所の職員として生活を維持し、専用線の料金は研究所が支払っていたのである。研究者にとっては、ネットワークの設計が業績として評価されるメリットもあった。

しかしインターネット上で大規模なサービスを行うときは、このような「ただ乗り」はできないので、市場から利益を吸い上げる必要がある。ここで厄介なのは、資源を共有するアソシエーションの思想が、市場の必要条件である財産権と両立しないことだ。デジタル情報をコピーするコストはゼロに近いのだから、価格が限界費用に均等化する(無料になる)ことが効率的だが、それでは開発費が回収できない。そこで、リアルスペースの側は「知的財産権」を武器にしてコピーを取り締まろうとする。この問題を根本的に解決するには、国際著作権条約にまで及ぶ大がかりな制度変更が必要で、実際には不可能だ。

そこで出てきたのが、著作権フリーの情報だけでサイトを運営する方法である。グーグルの検索結果やオープンソースのコードは、著者が自発的に公開しているものだから、基本的には著作権にはふれない。YouTubeの動画も、建て前としてはユーザーが自分の作品をアップロードしたものだ。つまり、いまウェブで大量に発生している消費者生成メディア(CGM)は、著者が自発的に情報を提供することによって財産権の問題を迂回する手段なのである。

これは今後のブロードバンドを考える上でも重要だ。映像配信で、既存のコンテンツの権利者の許諾を得ようとすると、非常に煩雑な手続きが必要で、実用に耐えない。それなら逆に、ユーザーが許諾するものを出してもらえばいいのである。この場合、それが無料である必要はなく、DRMで料金をとってもかまわない。それによってウェブがコンテンツの主要な流通チャネルになれば、権利者の側が過去のコンテンツを出す工夫をするようになるかもしれない。

今世紀の初め、レコードが出現したとき、音楽家の組合はそれが職を奪うとして、録音をボイコットした。1950年代にテレビが出現したときも、映画会社はそれをボイコットし、80年代にVTRが出現したときは、それが著作権を侵害するとして製造禁止を求める訴訟を起こした。結局、敗北したのは新しい技術を拒否した側だったが、それは彼らにとって勝利でもあった。今日、映画会社の収入の半分以上は、ビデオやDVDからの収入である。

マルクスが構想していた私有財産権が完全に廃止されるユートピアは、今後とも実現することはないだろう。しかし、重要な知的活動が財産権に制約されずに行われることは可能である。現在でも、学問・研究の大部分は、利潤動機で行われているわけではない。NPO(アソシエーション)の役割が大きくなっているのも、それが情報をコントロールするしくみとして、しばしば政府よりも効率的だからである。資本主義の権化であるビル・ゲイツが、NPOの経営者に転じたことは、資本主義の終わりの始まりを象徴する出来事なのかもしれない。

追記:YouTubeが著作権法違反で訴えられたようだ。Napster事件では、仲介業者は「コピーをゼロにできない限り違法」という判例が出ているので、敗訴するおそれが強い。

マルクスとロングテール(その2)

最近は、当ブログにも「アルファブロガー」からのTBがつくようになった。きょうは私の「マルクスとロングテール」に関して、R30氏から「悪夢のロングテール考」という批判をもらった。

しかし、その論旨がよくわからない。まず確認しておかなければならないのは、第1に、元の記事で紹介したクリス・アンダースンによるマルクス(というかエンゲルス)の引用は、ロングテールについての議論ではなく、"The Long Tail"という本の中の「生産手段の民主化」に関する議論だということである(タイトルがミスリーディングだった)。したがって、ロングテールの「オプション価値」についてのR30氏の議論は、私の記事とは無関係である(*)

第2に、引用部分は私の主張ではなく、マルクス・エンゲルスの分業論である。私は「ロングテールによって人間がネット上で適当な情報生産を行う『自由な時間』だけで暮らしていける」と主張してはいないし、アンダースンもそう書いてはいない。彼は、生産手段の民主化によってアマがプロ並みの仕事もできるようになる、という状況をマルクスのユートピアになぞらえただけだ。

たしかにマルクスは、資本主義の矛盾を止揚すれば、すべての人々が「自由時間」で暮らせるようになると考えていた節がある。彼は、計画経済によって市場の「無政府性」を克服すれば、飛躍的に生産の効率が上がり、「富の爆発的な増大」が起こって、資源の稀少性が消滅すると予想していたからである。もちろん、これは誤りだった。物的資源の稀少性が克服されることは永遠にありえないし、社会主義はそれを悪化させただけだった。

しかしサイバースペースで「マルクス的」な現象が見られるのは、そこでは計算機資源の稀少性が生産の制約にならない「自由の国」が、ムーアの法則のおかげで局所的に実現しているからである。「必然の国」のルールである市場原理は、ここでは無視され、価格の代わりにリンクやRSSが情報を伝達し、その数がサイトの価値をあらわす。ハイエクが「社会全体に分散した情報をコーディネートするしくみ」として賞賛した価格メカニズムの役割を、サイバースペースではリンクが果たしているのである。

ただし、こういう「自由の国」は、私が元の記事でも書いたように、「必然の国」に支えられたサブシステムでしかありえない。リアルな世界との関係を完全に断ち切ったら、リチャード・ストールマンのような天才でも、MITのソファで寝泊りするしかないのである。グーグルのように、サイバースペースの活動によってリアルな金を稼ぐビジネスモデルもあるが、それがどこまで一般化できるのかはわからない。

そもそも「自由時間だけで暮らしていける」社会をめざす必要もない。現在の社会も、市場メカニズムだけで成立しているわけではなく、公的部門(一般政府支出)のGDP比は約40%であり、司法・警察機能がなければ市場メカニズムも機能しない。通信のモデルでいえば、市場レイヤーが法制度レイヤーの上に乗っているように、自由時間レイヤーも市場レイヤーの上に乗っているのである。ただし自由時間が増え、公的部門が減るのは望ましいことであり、今後も長期的にはそういう傾向が続くだろう。

(*)ちなみに、インターネットなどの情報技術が「オプション価値」を高めるというのは、山形氏の独創ではなく、ボールドウィン=クラークが10年以上前から主張していることである。

インターネットの法と慣習

インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門

白田秀彰

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きのう著者の「出版記念パーティ」に行ってきた。政治家でも財界人でもない人の出版記念パーティというのは初めてだが、意外に知っている人が多く、ネット業界も「スモールワールド・ネットワーク」であることを実感した(*)

扉を開くと、いきなり明治時代のような「著者近影」が出てきて驚くが、これは内容とは関係ない。テーマは、リアルな世界の法律(特に著作権)のサイバースペースにおける有効性の問題だ。日本のような大陸法の国では、法律(statute)の条文がすべてであり、それを解釈して具体的な事件についての判断が決まるが、英米法では常識としての法(law)が優先され、法律の条文はその判断のガイドラインにすぎない。

法的強制力のないサイバースペースでは、慣習や「名」によってコントロールするしかないが、日本では匿名で無責任なメッセージを書き込む慣習が成立してしまった。2ちゃんねるのような巨大な匿名掲示板があるのは、欧米ばかりでなく、隣の韓国と比較しても特異な現象だ。著者は、こうした日本の「名無しさん」文化を批判するが・・・

本書の内容は、HotWiredで連載されたものに「あまり手を加えないで本にした」とのことで、おしゃべり口調で読みやすいが、話にまとまりがない。著者の論文なども含めて、書き直したほうがよかったのではないか。

ところでHotWired Japanは、今年3月で更新が止まってしまった。運営していたNTTレゾナントはNTTコミュニケーションズの子会社になり、アメリカのHotWired本社は雑誌Wiredの版元に買収され、いずれも前途は多難だ。編集長の江坂さんもパーティに来ていたが、日本版の再建はむずかしいようだ。サイトが消滅する前に、私のコラムもアーカイブしておいたほうがいいかもしれない。

(*)ちなみに、BBCによれば、この理論のもとになったミルグラムの「任意の相手に6段階で手紙が届く」という実験のノートが最近、発見され、実際には手紙の95%はどこにも届いていなかったという。

ネット株の心理学

ネット株の心理学

小幡績

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これまで経済学者の書いた投資のガイドブックといえば、有名な『ウォール街のランダム・ウォーカー』のように、市場に勝つことはできないので、インデックス投信のようなバスケットを長期保有してファンダメンタルズでもうけよ、と教えるものが多い。この立場からは、デイトレーディングはリスクの高いギャンブルであり、株式市場で使われている罫線分析などは、まったくナンセンスな占いみたいなものだ、ということになる。

こういう「効率的市場仮説」では、情報はすべて株価に織り込まれているので、値動きは外的なショックによって生じる予測不可能なランダム・ウォークになるはずだ。しかし現実の値動きはランダムではないので、短期的には株価を予想することは不可能ではなく、罫線分析も一定の意味をもつ。なぜなら、それは人々の「心理」の動きを示しており、短期的な株価を決めるのは企業業績ではなく、投資家の心理だからである。

著者は「行動ファイナンス」の専門家であり、デイトレーダーとして実際の取引も行っている。本書には、その体験にもとづいた具体例がいろいろあっておもしろい。たとえば、バリュークリックジャパン(後のライブドア・マーケティング)の株式が100分割されたとき、その高値のピークで買うべきか、といった例をもとに、常識の裏をかく投資テクニックが紹介される。

重要なポイントは、常識とは逆に、短期の「鞘取り」に徹し、もうかっても損しても、その日のうちに手仕舞うことだ。こういう投資行動は、実はデイトレーダーだけではなく、外為市場でもみられる。彼らの扱う金額はデイトレの数万倍だが、どんなに大きな損が出ても、その日のうちにポジションを閉じるのが鉄則である。従来は取引手数料が高かったため、個人投資家にはこういう取引ができなかったが、ネット証券で手数料が非常に安くなったため、プロと同じリスクヘッジが可能になったのである。

行動ファイナンスは、従来の「合理主義的」な投資理論よりも実証的な説明力が高く、実際の取引にも使われるようになっている。こうした行動経済学は、アドホックな「心理主義」という批判を浴びることもあるが、集計的なレベルでは値動きがベキ分布に従うといった規則性もみられるので、ここから新しい経済理論が出てくる可能性もある。






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