社会主義末期のNHK

菅総務相が、NHKに拉致問題について「命令放送」を行わせると発言したことが波紋を呼んでいる。メディア各社は「政府の介入を許すな」などと論じているが、どうも基本的な事実関係がよく理解されていないのではないか。

まず命令放送は、今度初めて行うものではなく、毎年4月に総務省からNHKに「国際放送実施命令」が出される。これは国際放送が政府の補助金を受ける半国営放送である以上、当たり前だ。税金だけ出して口を出さないのでは、納税者に申し訳が立たない。朝日新聞によれば、今年の命令書交付のときも、総務省から口頭で、拉致問題を重点的に扱うよう要請があったという。今度の菅氏の話も、この命令を明文化するだけの話だ。

新聞記者は、普段はNHKに政府からの介入がないと思っているのかもしれないが、少なくとも私の勤務していたころは、当時の会長室(今の総合企画室)には郵政省と直通のホットラインがあり、日常的に郵政省から放送内容について「コメント」が来ていた。「国会中継を相撲で中断するのはけしからん」という類の話まで電話してくるので、それをいかに丁重に無視するかが会長室の重要な仕事だった。こういう介入も、政府がNHK予算を承認する以上、ある意味では当然だ。企業で取締役が経営者を牽制するのと同じである。

そもそもラジオの短波放送で22カ国語の国際放送を行うことに、今どういう意味があるのだろうか。日本でさえ、短波放送の聞こえるラジオを持っている人は、ほとんどいない。まして妨害電波を流している北朝鮮で短波放送を流しても、政治的には何の意味もない。中国も含めて、海外に情報発信するならウェブでやるのが一番いいが、NHKの番組のインターネット配信はきびしく規制されている。

NHKが裁判所から受信料の督促を行うことについても批判する向きが多いが、これは今年、政府・自民党の合意で決まった受信料の税金化の方向を具体化しただけである。インターネットでメディアに無限の未来が開けている時代に背を向けて、減り続ける受信料に国家権力を使って歯止めをかけることしか経営方針がないような放送局に、今さら何をいっても無駄だ。

経営陣は知らないだろうが、NHKの現場の士気は、私の元同僚(部長クラス)によれば「入局以来最低」である。「メディアとして新しいことをやろうという空気は、海老沢さんのときより少なくなって、マルチメディア局は解体されてしまった。『構造改革事務局』でやっているのは経理のチェックだけ」というソ連末期のような状況だ。橋本会長は「つなぎのチェルネンコみたいなもんだが、ゴルバチョフさえいないところが絶望的だ」と彼は嘆いていた。

これから10年、新黄金時代の日本

ビル・エモット

PHP新書

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タイトルは物欲しげだが、日本の話は前半の100ページだけ。内容は、今年出た原著なき訳書とほぼ同じ楽観論だが、そのリアリティも薄らいだ。前著でも懸念されたように、安倍政権とともに「古い政治」が息を吹き返しているからだ。

特に本書もいうように、農業の改革は重要である。政策としては話題にもならないが、農水省の予算は3兆円で、農業以外のすべての産業を所管する経産省の予算の4倍近い。日本の農業補助金は世界最高(1世帯あたり12万円)で、財政赤字の原因になっているばかりでなく、貿易自由化を阻害して内外価格差の原因になり、労働生産性の低い兼業農家を温存して地方経済の活性化を阻害している。それなのに、安倍内閣の農水相は、なんと「利権の帝王」松岡利勝氏だ。

著者は、『国家の品格』に代表される一知半解の「グローバリズム批判」には容赦しない。藤原氏などが「日本の古い伝統」と錯覚しているものは、たかだか明治以降、多くは戦後にできた風習であり、逆にインサイダー取引や粉飾決算は「市場原理主義」が生み出した新しい現象ではなく、兜町の「伝統」である。途上国の貧困を救うには、「ほっとけない貧しさ」を嘆いてホワイトバンドを買うよりも、貿易の自由化を進めるほうが効果的だが、ホワイトバンドをつけた若者は「反グローバリズム」のデモで貿易自由化に反対している。

東アジア圏の経済統合をさまたげている「歴史認識」の問題については、著者は欧州の経験に学べと説いている。欧州にも血で血を洗った歴史があるが、それを徹底的な対話で乗り超えた。それに比べると、アジアでは日中韓のいずれも感情論に閉じこもって、事実の検証や論理的な対話の努力を怠っている。著者が編集長をつとめたEconomist誌は、保守派の世界的なオピニオン・リーダーだが、日本の右翼のように伝統や国家を情緒的に絶対化しないところは、さすがに成熟している。

Repeated Games and Reputations

George J. Mailath & Larry Samuelson

Oxford Univ Pr

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一昨日の「高利貸しが最貧国を救う」には、多くのリンクが集まって驚いた。先日の「効率の高すぎる政府」とこれが、当ブログの歴代1位と2位である。繰り返しゲームの話題の反響が大きいのは、日本のムラ社会の実感に合うからだろうか。そのせいかどうか、この分野ではKandori(1992)やOkuno-Postlewaiteなど、日本人の重要な貢献が多い。本書は、この分野の第一人者による繰り返しゲーム理論の集大成である。

しかし繰り返しゲームだけで640ページの本を読むのは、博士課程の学生以外にはきつい。不完全モニタリングや私的モニタリングなど細かい話が多く、応用例がほとんどあげられていないので、現実的なインプリケーションがよくわからない。繰り返しゲームをてっとり早くおさらいするには、Pearceの古典的なサーベイがウェブにある。長期的関係や評判が社会的にどのような役割を果たしているかを知るには、Greifの本のほうがいいだろう。

Google/YouTubeの深いポケット

WSJによれば、ニューズ・コーポレーション、NBCユニバーサル、ヴァイアコムなどが、YouTubeは違法だという結論に達し、これを買収したGoogleを相手どって損害賠償を請求する方向で検討しているという。賠償請求額は、違法なビデオクリップ1本について15万ドルだというから、7000万本以上あるクリップの0.1%(7万本)が請求の対象になるとしても、総額は100億ドルにのぼる。1万本あまりが請求対象になっただけで、YouTubeの買収額16.5億ドルが吹っ飛ぶ。(*)

こうした法的リスクは、前の記事でも紹介したように、Mark Cubanなどが繰り返し警告してきたが、問題のスケールがどの程度かよくわからなかった。また一部の権利者がYouTubeと配信契約を結ぶなど、友好的な態度も見せているので、訴訟に至ることはないだろうという楽観論もあった。しかしこれは、赤字のYouTubeでは訴えても取れる金が知れているので、Googleのような深いポケットがスポンサーになってから「太らせて食おう」という陽動作戦だったのかもしれない。

焦点は、これも前に書いたように、YouTubeがDMCAのセーフハーバーで免責されるかどうかだ。ハーバード大学のJohn Palfreyによれば、YouTubeは広告を掲載するようになったので、DMCA512条に定める「著作権侵害行為から直接に金銭的利益を得ていない」(§512(d)2)という免責条件を満たしていないと判断される可能性があるという。ただ権利者も、訴訟を起こして悪者扱いされるのはいやなので、水面下で交渉するかもしれない。

なお法的リスクについて、GoogleはYouTubeの株主にすぎないので有限責任だという説明があるが、これは誤り。GoogleはYouTubeを完全に買収したので、法的には両者は一体であり、賠償責任はGoogleがすべて負う(**)。今のところ、Googleの時価総額は1300億ドルもあるので、たとえ100億ドルの賠償を命じられたとしても破産することはないと思われるが、その企業価値は大きく損なわれるだろう。

(*)もちろん、これはあくまでも請求額である。訴訟で実際に支払った賠償額は、Napsterが6000万ドル、Groksterが5000万ドルだった。しかしYouTubeのアクセスはこれに比べると桁違いに多く、支払い能力も勘案されるので、Googleのように高い収益を上げていると不利だ。

追記:小飼弾氏の反論がTBされているが、ここで挙げられているのは日本企業のアメリカ法人の話で、本件とは関係ない。WSJの記事でも"deep-pocketed Google could be held responsible for YouTube's legal liabilities"と書いているように、Googleが賠償責任を負うことは自明だ。YouTubeのブランドは残すとしているので、法人格は別にするのかもしれないが、アメリカでは連結財務諸表しか発表しないので、両者は法的にも財務的にも一体である。ちなみにNapster事件では、RIAAは親会社Bertelsmannに賠償を請求した。YouTubeについても、Googleに対して訴訟が起こされるだろう(起こすとすれば)。

追記2:タイム=ワーナーのCEOは、Guardianとのインタビューで「著作権をめぐってYouTubeと交渉している」ことを認め、今後はGoogleが交渉相手になるとしている。ただし訴訟を起こすかどうかは明言していない。Cubanも指摘するように、まず他のマイナーなビデオサイトを訴えて、セーフハーバーが適用されないという判決を引き出してから、Googleと交渉して賠償を引き出すのかもしれない。

(**)これは間違い。原則としては、賠償責任は親会社に及ばない。ただし実際にはグレーな部分もあり、債権者は親会社と一緒に訴えるので、係争になれば、Googleが賠償責任を問われることは避けられないだろう。コメント欄参照。

追記3:Cubanの予想通り、ユニバーサルがGrouperとBolt.comを相手どって訴訟を起こした(10/18)。

高利貸しが最貧国を救う

今年のノーベル平和賞は、ムハマド・ユヌスと彼の設立したグラミン銀行に与えられることが決まった。ユヌスはアメリカで経済学の博士号を得て、故国バングラデシュの大学で教えていたが、飢饉に苦しむ農民を救済するため、1983年にグラミン銀行を設立した。その融資は、1人当たり数十ドルから百ドル程度のマイクロファイナンスと呼ばれるものだが、融資残高は57億ドルにも達している。

従来の常識では、バングラデシュのような最貧国で金融を行うことは不可能だと考えられていたが、グラミン銀行は無担保で、年利20%という高金利であるにもかかわらず、返済率は99%だ。そのしくみは、債務者に5人ぐらいのグループを組ませ、共同で返済の連帯責任を負わせるものである。グループのうち、だれかの返済が滞ると、他のメンバーが代わって返済する責任を負い、債務不履行が起こると、そのグループに所属する人は二度と融資してもらえない。しかしちゃんと返済すれば、融資額は次第に大きくなる。

農村では人々は互いをよく知っているから、返済能力のない人とはグループを組まないし、約束を破ると村八分にされる。このように村の中の長期的関係(繰り返しゲーム)によってモニタリングを行うので、マイクロファイナンスは移動性の低い農村ほどうまく機能する。グラミン銀行の債務者の94%は、家庭を捨てて逃げられない女性である。バングラデシュでも、移動性の高い都市部では、商業銀行の債務不履行率は60~70%にも達する。

こういう関係依存型の金融システムは新しいものではなく、日本でもかつて頼母子講や無尽と呼ばれる相互扶助型の金融制度があった(現在の第二地銀の前身は無尽)。欧州でも、中世には同様の連帯責任システムがあった(Greifは、これをCommunity Responsibility Systemと呼んでいる)。現在でも、途上国には同様の金融システムが広くみられるため、そういう伝統的なしくみを利用したマイクロファイナンスが普及し、CGAPという国際組織もできている。

グラミン銀行はNPOではなく、営利企業である。開発援助のような「施し」は有害だ、とユヌスは批判する(WSJ)。返さなくてもいい金だと、人々は過大に要求し、それを有効に使わないからだ。借金だと、人々はそれを返すため一生懸命に働くので、技能が身につく。日本でも、90年代のバラマキ公共事業は、建設業の行政依存を強め、地方経済の立ち直りをかえって遅らせた。ユヌスもいうように、大事なのは金を与えることではなく、人々が自立して働くのを支援することである。

追記:マイクロファイナンスをサラ金と混同する人もいるが、ここで書いたように、グラミン銀行のシステムは村落共同体を基礎にしているので、都市では機能しない。むしろ日本の問題は、伝統的な相互扶助システムが崩壊したのに、そういう感覚で安易に親戚の連帯保証人になる人が多いことだ。日本では、もう関係依存型ファイナンスが成立する条件はないので、こういう「人的担保」についてもルールを厳格化すべきである。

Telecoms Convergence

今週のEconomist誌の特集は、「テレコムの融合」である。通信業界の状況は混沌としているが、ただひとつ間違いないのは、電話サービスに依存したテレコムビジネスが遠からず終わるということだ。音声からデータ(IP)への移行によって、物理的コネクションとサービスが切り離され、通信業界のビジネスモデルは根本から変わるだろう。その影響を受けるのは、携帯電話も同じだ。今はまだコモンキャリアの収入の半分以上を音声サービスが占めており、変化は始まったばかりである。

他方、これから何が新しいサービスの主役になるかは、まだわからない。NGN、FMC、quadruple playなど、さまざまなバズワードが飛び交っているが、サービスが統合されること自体に意味はない。問題は、それによってどれぐらい料金が下がるのか、あるいは新たなサービスが実現できるのかだが、今のところそういう優位性は見えない。それよりも明白なメリットは電話がタダになることだから、無線VoIPをブロードバンドのインフラと統合できれば成功するだろう。

「通信と放送の融合」の見通しも不透明だ。VerizonやNTTが進めているFTTP(fibre to the premises)は、投資に見合う収益が出るかどうか疑わしい。世界で唯一、利益の出ているIPTVサービスは、香港のPCCWのやっているFTTN(fibre to the node)で、これは建物に入るところまでファイバーを使い、加入者線はDSLを使うものだ。またケーブルテレビと似たようなサービスをIPでやっても意味がない。消費者にとって魅力的なのは、時間に制約されずに蓄積された番組を見ることだから、そうしたオンデマンドサービスを低コストで実現できれば、IPの特長が生かせる。

融合ネットワークは、規制にも新たな問題を提起している。既存キャリアがNGNを競争相手と共有すべきかどうかについては、国ごとに対応がわかれている。アメリカはアンバンドリング政策を放棄して、ケーブルとの競争に望みを託したが、EUと日本はインフラ開放を義務づけている。固定と携帯、通信と放送を同じ業者が提供できるかどうかについても対応はさまざまだが、垣根は撤廃される方向だ。

業界ごとに縦割りになっている規制も統合し、これまで独占的な業者と当局との「暗黙の取引」で進められてきた規制は、明示的なルールにすべきだ。また国際的なルールを共通化して、国際的な相互参入をうながすことも必要だ。アメリカで論争の続いている「ネットワークの中立性」には意味がない。現在のインターネットはすでに中立ではないが、規制すべきではない。

新しい融合サービスが開花しても、狭義の通信業界の収入が増えることは期待できない。現在の電話料金は独占時代のなごりで非常に高価であり、これがデータと平準化されれば、料金は大幅に下がるだろう。これはもちろん消費者にとってはよいことだが、コモンキャリアにとっては(売り上げベースでは)事業縮小である。キャリアにとって重要なのは、ブロードバンドの新たなビジネスを展開するよりも、インフラを効率化してコストを削減することである。それによって新しいビジネスを展開するのは、サービスやコンテンツの提供者と、デバイスのメーカーだろう。

新書365冊

宮崎哲弥

朝日新書

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著者とは、10年以上前、まだ彼が博報堂に勤務していたころにつきあったことがある。彼も私も、ニフティの「現代思想フォーラム」の常連で、オフラインでも何度か会った。彼は西部邁氏に興味をもっていて、私に「紹介してくれ」といったが、私は「学問的に得るものはないので、やめたほうがいい」といって断った。その後、彼は自分で西部氏に接触し、一時は彼の編集する『発言者』の常連になったが、案の定、喧嘩別れした。

本書は、そんな著者の博識ぶりが発揮され、読書ガイドとしてはよくできている。毎月60冊もの新書をすべて読破して書評するというのは、2ヶ月に1冊の書評も持て余している私からみると驚異的だが、意外にていねいに読んでいる。特に彼の得意とする政治・思想・宗教の分野では、右翼とか左翼とかいう図式にとらわれないで、バランスのとれた評価をしている。ただし、著者が高く評価する橋爪大三郎・佐伯啓思・仲正昌樹・中島義道といった「新書文化人」は、私はまったく評価しない。

他方、彼の苦手とする経済・ビジネス・科学技術の分野は、質量ともに弱い。『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』という駄本がBestにあげられ、金子勝氏と「リフレ派」がともにリストアップされているお粗末ぶりだ。科学の分野は2冊しかなく、ITやインターネットは1冊もない。全体としては、著者よりも年上の文科系のおじさん向けのラインナップである。

先日、テレビ朝日のスタジオで会ったら、「週にテレビ・ラジオあわせてレギュラーを10本もっている」といっていた。しかし本人は「現代の辻説法」のつもりでも、テレビ局のほうは「何でもコメントする便利な評論家」として使っているのである。ワイドショーにまで顔を出していると、西部氏のように使い捨てにされて、安っぽいイメージが残るだけだ。そろそろ腰をすえて、まとまった学問的な仕事をしてはどうだろうか。

ICPFセミナー第13回「ソフトバンクモバイルの戦略」

10月からボーダフォンはソフトバンクモバイルに社名変更しましたが、それに先立ち9月1日付けで副社長技術統括兼CSO(最高戦略責任者)に松本徹三さんが迎えられました。米クアルコム社の上級副社長を務められた松本さんは、世界の携帯電話業界のリーダーのひとりとして長年活躍されています。ボーダフォンはJ-フォン時代以来、3位に甘んじてきましたが、今月下旬から「ナンバー・ポータビリティ」が始まるなか、ソフトバンク傘下でどういう戦略で巻き返すのか、その秘策を松本さんにうかがいます。

スピーカー:松本徹三(ソフトバンクモバイル副社長)
モデレーター:池田信夫(ICPF事務局長)

日時:10月26日(木)18:30~20:30
場所:「情報オアシス神田」
    東京都千代田区神田多町2-4 第2滝ビル3F(地図

入場料:2000円
    ICPF(情報通信政策フォーラム)会員は無料(会場で入会できます)

申し込みはinfo@icpf.jpまで電子メールで氏名・所属を明記して(先着順で締め切ります)

Google/YouTubeの次の課題

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GoogleのYouTube買収については、おおむね好意的な評価が多いようだ。株価も上がっている。16.5億ドルという価格も、Googleの時価総額1300億ドルからみれば大したことはないし、たとえばヤフーが1999年にBroadcast.comを57億ドルで買収したのに比べれば、まだバブルという域には達していない。

しかし懐疑的な意見も多い。Broadcast.comを売ったMark Cubanは、「Googleという深いポケットを持ったYouTubeは、損害賠償でもうけようとする弁護士たちの恰好の餌食になるだろう」と予想している。YouTubeは「DMCAのセーフハーバーで免責される」と主張しているが、セーフハーバーは、ISPの提供しているホームページにユーザーがコンテンツを載せるような場合を想定しており、投稿ビデオを配信するYouTubeに適用されるかどうかはわからない、とDeclan McCullaghは指摘している。

しかし本質的な問題は、法律論ではない。DMCAでISPが免責されたのも、すでにウェブが広がってしまい、ユーザーのコンテンツを事前にチェックする義務をすべてのISPに課したら営業が成り立たなくなる、という既成事実のためだった。だからNapsterは、P2Pが広がる前につぶされた。YouTubeが生き残る上で必要なのも"too big to fail"の力関係を作り出すことだから、Googleがバックについた意味は大きい。

さらに重要なのは、企業にとっても「YouTubeを生かしておいたほうが得だ」と思わせることだ。この買収と同時に、YouTubeはユニバーサル、CBS、ソニーと音楽ビデオの配信についてライセンス契約を結んだ。ユニバーサルは先月、YouTubeを訴える意向を示唆していたが、逆にYouTubeをプロモーションに利用するほうが有利と考えたようだ。企業にとって重要なのは、著作者の人格権ではなく利益なので、何年もかけて法律を改正するよりも、企業の利益になるしくみを作ったほうが早い。

権利処理の問題は、ある程度は技術的に解決できる。著作権のある映像についても、自動的に権利処理を行って広告収入をシェアすることは、技術的には可能だ。しかし小さなビデオクリップにいちいち権利処理コストをかけられないので、それをどこまで低コストに処理できるかが勝負だろう。GoogleとYouTubeは、そういう権利処理のプラットフォームを開発しているという。オープンで低コストの自動権利処理システムができ、Google/YouTubeが採用すれば、それが国際標準になるかもしれない。

ただし技術だけでは解決できない問題も多い。音楽では、日本でいえばJASRACのような権利者団体があり、包括契約のしくみもあるが、映像にはそういう制度がない。権利処理を自動化するには、まず権利を一本化し、強制ライセンスによって許諾権を切り離し、ライセンス料に定価を定めるなど、定型的な処理手続きをつくる必要がある。これも今までは必要に迫られていなかったので進んでいないが、Google/YouTubeが権利処理コストを下げればもうかるという先例をつくれば、まとまるかもしれない。

情報処理がウェブ上で自動化され、効率が高まる一方で、権利処理はきわめて非効率で、コンテンツ流通の最大のボトルネックになっている。この問題を解決した者が、次のマイクロソフトになるだろう。これは技術的にもビジネス的にもきわめて困難で、しかも小さな企業が採用しても意味がないという点で、Google/YouTubeにふさわしい課題だ。彼らが新しいプラットフォームをつくって成功すれば、制度は後からついてくるだろう。

スウェーデン銀行賞

今年のスウェーデン銀行賞(通称ノーベル経済学賞)は、Edmund Phelpsが受賞した。またも疑問の多い人選である。今回の授賞理由になった業績は、1970年に出た本だ。内容は、その2年前に発表されたFriedmanの「自然失業率」仮説を数学的に理論化したもの。いわゆるmicrofoundationの流行するきっかけとなり、合理的期待形成理論の先駆ともいえるが、それならLucasと一緒にでも授賞すればよかったのではないか。

ただ、このへんからマクロ経済学が大きく変わり、ケインズ理論が終わる節目になった意味は大きい。日本では90代まで、不況になると「景気対策」と称して財政出動が行われたが、そういう政策がナンセンスであることは、すでにFriedman/Phelpsが明らかにしていた。日本では、政治家や官僚が「経済学は役に立たない」とかいって勉強しないために、バラマキ公共事業に100兆円以上の国費が浪費されたのだ。

とはいえ、Phelpsから始まったNew Classical Economicsも、かなりいかがわしいものだ。この種のモデルは、マクロ理論と称しながら、実際には巨大な「代表的個人」の確率的な行動を記述しているだけである。これは各個人の行動が独立で同型的であることを仮定しており、そのモデルの「合理的」なふるまいは、実はこの同型性の仮定から導かれる。各個人が合理的であっても、効用関数や所得が異なれば、集計的な行動は不規則になりうる。数学的には、任意の集計的な超過需要関数が合理的個人から導けるのである(Sonnenschein-Mantel-Debreu)。

実際には、個人の行動は同型的でもなければ合理的でもなく、相互依存していて、バブルも恐慌も起こる。それがケインズの予測したような動きをしなくなったことは事実だとしても、NCEの予測が当たった試しもない。そもそも(行動経済学で実証されたように)ミクロで合理的でない経済が、マクロで合理的に動くはずはないのである。Phelpsの業績は、その後30年にわたってマクロ経済学者の雇用を創出した点では意義があるが、実証科学としての経済学の発展にはほとんど寄与しなかった。






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