The Trouble With Physics

Lee Smolin

Houghton Mifflin

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私は物理学はよく知らないので、本書のひも理論(string theory)に対する批判が正しいのかどうかは判断できない。しかし専門家の書評をざっと見た限り、本書の内容が学問的にナンセンスということはないようだ。

1980年代に登場したひも理論は、最初は白眼視されていたが、そのうち理論物理学の主流になり、今ではひも理論の専門家でなければ一流大学で理論物理のポストは得られないという状態になっている。しかし提唱されてから20年以上たっても、ひも理論を検証する実験データはない。他方、理論は複雑怪奇になるばかりで、最近のバージョンでは、なんと10500種類もの異なるひも理論がありうるという。このアポリアに対する理論家の答は、人間原理である。無数の可能な宇宙の中から、人間の生存に適した宇宙だけが選ばれたのだ。なぜなら、そうでなければ人間に観測されえないからだ――という同語反復の論理(もちろん反証不可能)が、素粒子物理学の最先端の学会でまじめに論じられているというのは驚いた。

本書は、物理学に関心のない人にも「科学社会学」の事例研究としておもしろく読める。著者は、若いころファイヤアーベントに師事したことがあり、彼の「共約不可能性理論」が本書のベースになっている。今でも少なからぬ科学者が信じているポパーの「反証可能性理論」によれば、科学かどうかは理論が実験や観測データで反証できるかどうかで決まることになっているが、ひも理論の現状はこういうナイーブな科学論への反証だ。ひも理論は検証も反証もできないが、科学者はこの理論を放棄しない。それは美しく、数学的に難解で、これを駆使することが能力のシグナルになるからだ。ファイヤアーベントが指摘したように、科学もイデオロギーの一種であり、それを動かすのは政治なのである。

しかし物理学に要求される厳密性の水準は高い。実験で証明できない理論は、いくら美しくてもアリストテレスのように「あるべき宇宙」を主観的にのべているだけだ、という著者の基準でいえば、経済学の理論はすべて失格である。たとえば合理的期待モデルでは、すべての経済主体が集計的な需要関数を正確に予測すると仮定するが、これは容易に反証できる(というより絶対にありえない)。しかし、いまだに合理的期待は教科書に載っている。それが経済学者の考える「あるべき世界」像に一致するからだ。経済学は、いまだに天動説の段階を出ていないのである。

追記:訳本が出たようだ。

NGNはインターネットではない

NGNのトライアルが、華々しく始まった。これまで、その「キラー・アプリケーション」が何なのか、はっきりしなかったが、どうやらアクトビラらしい。家電メーカーがテレビ局主導の「サーバー型放送」に見切りをつけ、IPベースのサービスに重心を移したのは結構なことだ。しかし問題は、これがインターネットではないということである。

インターネットの必要条件は、TCP/IPを採用するだけではなく、それが全世界のホストとオープンに相互接続(internetworking)可能だということだ。私はアクトビラのようなビジネスを山ほど見てきたが、こういう「インターネットもどき」のwalled gardenが成功したことは一度もない。家電メーカーが「検閲」し、YouTubeも2ちゃんねるも見られない人畜無害のサービスが、ただでさえむずかしいSTBベースのビジネスで勝ち残ることは不可能である。

さらに大きな問題は、NGNもインターネットではないことだ。NGNの基本的な考え方は、SIPでセッションを張って通信品質を保証するものである。SIPは、もとはVoIPのためのプロトコルで、いわばインターネットの中に仮想的な電話網をつくるものだ。インターネットの基本思想であるE2Eでは、すべてのホストは同格で特権的なサーバは存在しないが、SIPは呼制御をSIPサーバで行うため、ここにトラブルが起こると、先日の「ひかり電話」の事故のようにネットワーク全体がダウンする。このアーキテクチャを継承するNGNは、自律分散型のインターネットではないのである。

もともとNGNは、携帯電話の3GPPで策定されたIMSが発展してできたものだ。これは没落する固定電話網を(電波で独占を守れる)携帯電話網に統合してコモンキャリアの収益を守ろうという発想で、ユーザーにどういうメリットがあるのかはっきりしない。FMCとかquadruple playというのも、携帯と固定で同じ電話番号が使えるという程度では意味がない。

ユーザーにとって意味があるのは電話代がタダになることであり、それはすでにスカイプで実現している。その構造はSIPとは違い、端末ですべての情報を処理するP2P=E2Eである。スカイプの通信品質が今のところ十分ではないことは確かだが、帯域が広がれば品質の問題も解決できるし、ほとんどのユーザーは現在のベスト・エフォートのインターネットで満足している。品質保証型サービスを企業向けに提供するのはいいとしても、ネットワーク全体を取り替える意味があるのだろうか。

映像伝送も、NGNを使えばHDTVが伝送できるというが、そんなことはインターネットでもできる。映像伝送のボトルネックはパイプではなく、サーバである。Winnyのようにキャッシュ伝送で負荷を分散しないと、設備投資の負担で映像伝送サービスは行き詰まるおそれが強い。ところが日本の警察はP2Pを非合法化してしまい、NGNもすべての負荷をキャリアに集中するシステムだ。

いま世界でNGNの導入がもっとも進んでいるのは、BTである。その「21世紀ネットワーク」計画では、「2008年9月までにコストを年間10億ポンド節約する」という具体的な目標を掲げている。ここではNGNとは交換機をルータに置き換えることでコストを節約するプロジェクトであり、物理的なインフラは主としてDSLを想定している。このコスト節約が料金の低下に結びつくなら、ユーザーにとってのメリットも明確だ。

ところがNTTの中期経営戦略では、「3000万世帯に光ファイバーを提供する」という目標が掲げられ、料金については何も書いてない。むしろISDNのような「高品質・高料金」をめざしているように見える。すべてのインフラを光に取り替えれば保守コストが減るというが、銅線が残る限りコストは増えてしまう。あとの3000万世帯はどうするのだろうか。光のいらないユーザーの設備も、無理やり取り替えるのだろうか。疑問はつきない。ICPFでは、NGNについて議論を行う予定(調整中)である。

クリエイターに必要なのは著作権の強化ではない

先日の「著作権は財産権ではない」という記事には、意外に多くのアクセスがあったが、わかりにくいという批判もあったので、もう少しわかりやすい例で補足しておこう。

私は、かつてテレビ局で番組を発注・契約する立場にいたこともあるし、フリーで番組制作を請け負ったこともある。その経験からいうと、日本のコンテンツ産業の最大の問題は、著作物の利益が法的に保障されないことではなく、それが仲介業者に搾取され、クリエイターに還元されないことである。クリエイターの大部分は、フリーターとして低賃金・長時間労働で酷使されている。著作権の強化は、彼らにとっては意味がない。もともと権利は企業側に取られるしくみになっているからだ。

極端なのが映画である。かつては映画の興行収入は映画館がまず50%取り、残りの半分を配給会社が取り、あとの25%を制作会社が取るという配分が不文律になっていた。テレビの場合にはもう少しばらつきがあるが、この映画館が民放、配給会社が広告代理店と考えればよい。出版では、この比率はもっとひどく、印税は一律に10%だ。つまり日本では、仲介業者が売り上げの75%から90%を取るのである。

このように流通マージンが大きいのは日本の流通機構に広くみられる特徴で、その代わりマーケティングや在庫などのリスクは仲介業者が負うことが多い。他方クリエイターは、前払いで制作費をもらう一方、その売れ行きには責任を持たない。これはファイナンス理論でいうと、「売れた場合の利益は得るが、売れなかった場合の損失は負担しない」というオプションを仲介業者がクリエイターに売っている(制作費から差し引く)ことになる。仲介業者がリスクとリターンをすべてプールする下請け型の構造である。

こういう構造が成立しているのは、映画館やテレビの電波などの流通チャネルがボトルネックになっていたからである。映画館のようにシネコンなどでチャネルが多様化すると、収益の配分が変わり、新しいクリエイターが参入するようになる。プラットフォームの側からみても、仲介業者が売り上げの75%以上も取る配分は異常であり、新しいチャネルを提供して鞘取りする余地は大きい。インターネットは、そういう新しいプラットフォームの可能性をひらいている。

この場合、新しいプラットフォームは透明なE2E型になってリスクをプールせず、クリエイターがリスクもリターンも取ることになろう。Google/YouTubeのようなプラットフォームでビデオが流通するようになれば、日本のコンテンツ産業の構造も変わり、クリエイターに利益が還元されるようになる可能性がある。これに対して著作権の保護を口実にしてIP放送を妨害し、P2Pを犯罪に仕立てようとする仲介業者は、クリエイターの利益を守ると称して、仲介のボトルネック独占を守っているのである。コンテンツ産業を活性化するために必要なのは、著作権(という名の既得権)をこれ以上強化することではなく、競争政策を厳格に運用してこうした古い仲介業者を解体することだろう。

2010年NTT解体―知られざる通信戦争の真実

日経コミュニケーション

日経BP社

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本書はいわゆる業界もので、通信業界に関心のない人には何の意味もないが、業界関係者にとっては今年の動きを要領よくまとめてあって便利だ。特に重点を置いて描かれているのが、総務省の通信・放送懇談会がなぜ失敗したかという話である。特に新しい情報はないが、あらためてあきれるのは、竹中平蔵氏も松原聡氏も通信産業を理解しないでこの懇談会をやっていたということだ。

本書によれば、彼らのねらいは最初から「NTTの資本分離」だったという。松原氏も、そういう意味のことをインタビューでのべている。こういう「NTT解体論」が、日本の通信業界を混乱させている元凶である。インターネット時代に、市内電話の会社と長距離電話の会社を分離してどうするのか。こういうナンセンスな議論がいつまでも蒸し返されるおかげで、NTTは経営形態論議そのものを封殺しようとし、改革が進まないのだ。

もう一つのテーマは、NGNである。インターネットがもたらした本質的な変化は、コモンキャリアが通信を管理する20世紀型の通信アーキテクチャを否定したことだ。通信をコントロールするのはユーザーであり、ネットワークはdumb pipeになるというのがE2Eの基本思想である。今後のインターネットはP2Pのような超分散型になり、有線・無線にかかわらず物理的なインフラに依存しない仮想的なネットワークになろう。ところがNGNは、キャリアがすべてを統合しようという思想であり、特にNTTの場合には光化と一体になって進められている。それがユーザーにとってどんな魅力あるサービスを実現するのか、そして通信料金がどうなるのかもよくわからない。

これには、NTTの社内でも対応がわかれているようだ。特に「グローバルIPカンパニー」であるNTTコムがインフラを持たない上位レイヤーだけの会社になり、NGNから外されたことに不満をもっているという。他方、東西会社も「増収につながるのかどうかはっきりしない」と設備投資に消極的で、ドコモは「FMCなんて携帯の収入で固定の赤字を補填することになるだけ」と非協力的だ。今後のネットワークは、NGNが想定しているように垂直統合されるのではなく、NTT各社の実態が示すように水平分離され、有線と無線の「プラットフォーム競争」が進むのではないか。

本間会長退陣論に反対する

政府税調の本間正明会長の「官舎入居問題」で、退陣論が強まっている。これには「愛人問題」もからめられ、ワイドショーでは連日、批判が強まっているが、本間氏は公務員であり、官舎に入居していたことは違法行為ではない。このようなプライベートな問題で、政府税調というきわめて重要な機関の長を代えるべきではない。そんな前例をつくると、今後ますます週刊誌のスキャンダル報道が増幅され、本筋と関係のない問題で政策が左右されることになろう。

週刊誌がこの手のスキャンダルを報じることは珍しくないが、自民党内で辞任論が強まっているのは、本間氏に対する反感が強いからだろう(週刊誌にリークした情報源も、その筋である可能性がある)。本間氏は、小泉政権で官邸主導の政策決定のブレーンをつとめ、竹中平蔵氏の財政政策は実質的には(恩師である)本間氏によるものだった。かつては実質的な力のなかった政府税調の権限が大きくなったことについても、党内の不満は強い。

そして小泉政権の終わりとともに、政府税調の力が弱まり、党税調主導に戻りつつあるといわれる。ここで党の圧力で会長が更迭されると、昔のように政府税調が形骸化してしまうおそれが強い。もともと非公式の機関にすぎない党税調が実質的な政策決定を行うのは異常であり、税制が利益誘導の道具に使われる原因となってきた。今回の退陣論も、こうした「昔の自民党」に戻そうとする力が働いているものと思われる。

私は、かつて本間氏と仕事で何回もつきあったことがあるが、彼は財政については原理主義者で、現在の税制を抜本的に是正すべきだという信念の持ち主である。ここで彼がやめると、もっと自民党のいうことをよく聞く人が会長になるだろう。それによってまたバラマキ税制が始まったら、国民のこうむる損失は何兆円にものぼる。7万円の官舎の家賃とは比較にならないのである。安倍首相は本間氏を徹底的にバックアップし、党内の圧力には屈しないという指導力を見せるべきだ。

著作権は財産権ではない

私は法律の専門家ではないが、著作権の延長問題やWinnyに関する議論をみていると、賛否いずれの立場にしても、著作権に関する基本的な知識(素人でも持っておくべき知識)が共有されていないように見受けられる。そこで「法と経済学」の立場から、実定法にはこだわらず著作権の基本的な考え方について簡単にメモしておく。

まず確認しておかなければならないのは、著作権法は憲法に定める表現の自由を制限する法律だということである。これはもともと著作権法が検閲のために設けられた法律であることに起因するが、複製を禁止することは出版の自由(freedom of the press)の侵害であり、自然権としては認められないという見解もある。著作権の根拠として創作のインセンティヴという自然権として自明ではない理由があげられるが、これを認めるとしても保護の範囲は最小限にとどめるべきである(森村進『財産権の理論』弘文堂)。

第2に、著作権は財産権ではないということである。「知的財産権」という言葉がよく使われるが、これは特許権など雑多な権利の総称であり、著作権が憲法第29条に定める不可侵の財産権として守られるわけではない。著作権は、譲渡とともに消尽する財産権とは違い、譲渡された人の行為も契約なしで拘束する無制限の複製禁止権である(私のDP参照)。さらに権利を譲渡された人も複製禁止権をもつので、権利者が際限なく増え、一つの対象を多くの所有者がコントロールする「アンチコモンズの悲劇」が生じる。

表現にとって第一義的ではない複製という行為に着目したのは、かつては本を印刷・複製するにはコストがかかり、それを禁止することで著作物の利用をコントロールできたからだが、だれでも容易にデジタル情報を複製できる現在では、これは国民全員の行動を監視しなければ執行不可能であり、制度として効率が悪い。それよりも複製は自由にし、著者には報酬請求権だけを与えることが制度設計としては望ましい(田村善之『著作権法概説』有斐閣)。経済学的にいえば、コントロール権なしでキャッシュフロー権を確保する方法はいくらでもある(Shavell-Ypersele)ので、両者をアンバンドルすることが効率的である。

著作物が以前の著作を引用・編集することで成立する累積的効果も大きいので、複製を禁止するネットの社会的便益は負だという見解もある。この立場からは、狭義の財産権(著作者が情報を1回だけ譲渡する権利)のみを認め、複製禁止権は廃止すべきだということになる(Boldrin-Levine)。現在の無方式主義(権利の登録を必要としない)では、複製を広範に禁止することによる外部不経済を著作者が内部化しないので、登録制度によって著作者にもコストを負担させるべきだという意見もある。また前にも紹介したように、包括ライセンスを導入せよという意見は著作者の側から出始めている。

いずれにせよ、現在の著作権制度が抜本的な見直しを必要としているという意見は専門家に多いが、ベルヌ条約などで国際的に決められているため、「よその国も権利を強化したのだから、横並びで強化することが『文化先進国』の証しだ」といった幼稚な議論が横行しているのが現実だ。三田誠広氏や松本零士氏のいう「遺族の生活」がどうとかいう話は論外である。著作権法は著作者のインセンティヴのための法律であって、遺族の生活保障のためのものではない。そもそも彼らは、どういう資格があって著者の代表のような顔をしているのか。Time誌もいうように、文芸家協会に所属する小説家だけが特権的な著作者であるような時代はとっくに終わったのである。

追記:このほど改正された著作権法について解説するホームページが、文化庁のサイトにできた。IP放送を放送とみなす当たり前の改正に2年もかかり、しかもローカル局の電波利権を守るために「放送対象地域」に限ってIP再送信を認める及び腰の内容だ。文化庁は「ベルヌ条約を踏み出す思い切った改正だ」と自画自賛しているが、そもそも「IP放送は放送ではない」などというバカげた定義をしていたのは日本だけだ。これは文化庁が「自動公衆送信」なる概念で通信と放送を差別した結果である。

追記2:「著作権は財産権である」というTBがついているが、ここで論じているのはこういう解釈論ではなく、著作権の経済的な性格が有体物の財産権とは違うということである。Richard Stallmanも指摘するように、知的財産権という言葉は、自然権として疑わしい特権(privilege)を不可侵の財産権と混同させるために捏造された幻想である。

Person of the Year

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Time誌の今年の人は「あなた」だ。表紙には、あなたの顔が映るように印刷されている。内容はYouTubeやブロガーの話。要するに、世界を変えるのは無数のユーザーだという話である。

記事にはそれほど新しいことは書いてないが、Time誌がYouTubeをここまで肯定的に描いた影響は大きい。同誌は1982年にパーソナル・コンピュータを今年の人に選び、これがコンピュータ業界がPCに舵を切るきっかけになった。同じ年、日本は「第5世代コンピュータ」プロジェクトで人工知能を国策として推進した。そして今年はWinny判決で、YouTubeのような企業は犯罪に問うという国家意志を明確にした。かつて技術者の圧倒的多数はPCよりもAIを選んだが、それは袋小路だった。今回は、どちらの道に未来があるかは明らかだと思うのだが・・・

ネットvs.リアルの衝突―誰がウェブ2.0を制するか

84227edd.jpg佐々木俊尚

文春新書

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本書の前半は、いま話題のWinnyに関する話だ。ほとんどは知られている話だが、1次情報に取材している点で信頼性が高い。特に著者が指摘するように、2ちゃんねるで、金子氏と目される「47」氏が
個人的な意見ですけど、P2P技術が出てきたことで著作権などの
従来の概念が既に崩れはじめている時代に突入しているのだと思います。

お上の圧力で規制するというのも一つの手ですが、技術的に可能であれば
誰かがこの壁に穴あけてしまって後ろに戻れなくなるはず。
最終的には崩れるだけで、将来的には今とは別の著作権の概念が
必要になると思います。
などと述べ、著作権で情報を守るビジネスモデルを崩壊させる目的で開発したと受け取れる発言をしている点は重要である。デジタル情報が自由にコピーできる時代に、それを警察力で禁止することによって辛うじて支えられているビジネスモデルは時代錯誤ではないか。かつてWWWがアンダーグラウンドで世界中に広がり、国家がそれを規制しようとしたときにはもう後戻りできなかったように、P2Pも「壁に穴」をあければ、あっという間に普及して後戻りできなくなるだろう――そう考えた彼のねらいは、少なくとも前半は正しかった。

しかし国家権力は、全力を挙げて後戻りさせようとした。それが今回の訴訟である。金子氏が(47氏だとすれば)自説の正当性を信じるなら、「著作権法は表現の自由を侵害する憲法違反の法律だ」と主張すべきだったのではないか(そういう学説もある)。ところが公判では、被告側は「47は金子氏ではない」と否定し、Winnyの公開の目的は「技術的検証」だったと主張した。これは訴訟戦術としてはやむをえなかったのかもしれないが、被告側の主張の説得力を弱めたといわざるをえない。

本書の後半は、インターネット・ガバナンスやiPodや日の丸検索エンジンなど脈絡のない話が出てきて、内容にも新味がない。それを「ネットvsリアルの衝突」というテーマでまとめたのも無理がある。問題はネットとリアルの対立ではなく、著作権のような工業社会の遺制が情報社会に持ち込まれて混乱を引き起こしていることである。それをリアルな世界一般の問題だと思い込むから議論が空回りし、最後は「Web2.0の覇権をグーグルが握るか政府が握るか」というナンセンスな話で終わってしまう。Winnyとオープンソースの話だけで「著作権」をテーマにして、200ページぐらいの本にまとめたほうがよかったと思う。

今年の本ベスト10

「週刊ダイヤモンド」で、もう7年も書評をやっている。おまけに、来年からは「アスキー・ドットPC」でも書評をやることになってしまった。池尾和人さんには「日本一の書評の達人」とほめてもらったが、うれしいようなうれしくないような・・・

というわけで、今年もなかば義務でたくさん本を読んだが、他人にすすめられるものは本当に少ない。今年このブログで紹介したものの中からリストアップしてみた。ただし私の専門的な興味に片寄っているので、あまり一般向けではない。
  1. コルナイ・ヤーノシュ自伝
  2. The Theory of Corporate Finance
  3. Institutions and the Path to the Modern Economy
  4. セイヴィング キャピタリズム
  5. ロングテール
  6. Microeconomics
  7. 行動経済学
  8. ヒルズ黙示録
  9. Who Controls the Internet?
  10. 開発主義の暴走と保身
1は20世紀の歴史を経済学の目で語った、文句なしの名作。2は、経済学の研究者には必読の企業理論のスタンダードだ。3は、日本社会のムラ的構造を考える役にも立つ。4は「市場原理主義」を攻撃する通俗的な議論が既得権の保護にしかならないことを歴史的に実証する。6は、学生にはおすすめできない非正統的なミクロ経済学の教科書。8は、その後の村上=ライブドア事件を予告するようなルポルタージュ。10の「開発主義」という言葉にはちょっと引っかかるが、当ブログでいう「集権的国家」の破綻を金融の側面から論じたもの。

こう並べてみると、日本人の書いた本が下位に3冊あるだけということに気づく。ここにあげた本は、みんな著者の訴えたいことが伝わってくるのだが、日本の専門書(特に経済学)は最近テクニカルになるばかりで、著者のメッセージがない。時代は大きな転換期にあるのに、それを社会科学が正面から受け止めていないのだ。『国家の品格』のような幼稚な間違いだらけの本(もちろん今年のワースト1)が200万部以上も売れるのは、日本人が国家について真剣に考えてこなかったおかげだろう。

バラエティ化する新書

座談会という形式は、日本独特のものである。菊池寛が『文藝春秋』で始めたといわれ、しゃべるほうも文章を書くより楽だし、読むほうも流し読みできる。いわばテレビのバラエティショーみたいなものだ。これは従来はあくまでも雑誌の企画だったが、新書ブームになってから、座談会や対談、語り下ろしというのが増え、しかもそれがベストセラーになる。『バカの壁』も『国家の品格』も語り下ろしである。これは本が作品ではなく消耗品になってきたことを示すのだろう。

最近では、中沢新一・太田光『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)がベストセラーだが、これは今年のワースト3ぐらいに入る意味不明の本だ。今月も、手嶋龍一・佐藤優『インテリジェンス 武器なき戦争』(幻冬舎新書)、梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』(新潮新書)というのが出た。それぞれ単独の著者としては悪くないのに、おしゃべりになると緊張感がなくなり、情報量が格段に落ちる。それでも手嶋・佐藤本のほうはまだ新しい情報があるが、梅田・平野本のほうは中身の薄い「ウェブ世間話」が延々と続く。平野氏が持ち出す消化不良の「ポストモダン」的な問題提起に梅田氏の話が噛み合わず、議論がまったく深まらない。

バラエティのように楽に読める本を読者が求めるのなら、それを供給するのは営業的には当然だが、こういう安易な企画で読者をバカにしていると、そのうちしっぺ返しを食うだろう。私にも「語り下ろしで新書を書かないか」という話があったが、お断りした。著者にとっても自殺行為だと思うからだ。バラエティによって民放の視聴率は上がったが、社会からバカにされる企業になったことに出版社も学んだほうがいい。






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