ケインズの亡霊

小泉政権が、今日で満5年になる。その「光と影」について各紙が書いているが、最大の功績は「不況のときは財政出動」という「常識」をくつがえし、緊縮財政のもとで景気回復をなしとげたことだという。しかし、これは霞ヶ関や自民党の常識だったかもしれないが、経済学ではとっくの昔に常識ではなくなっている。

欧米でも、戦後しばらくは「ケインズ政策」が常識だったが、1960年代後半から始まったスタグフレーション(不況とインフレの共存)がケインズ理論では説明できなかった。それを見事に説明したのが、ミルトン・フリードマンの「自然失業率」(のちにNAIRU)仮説だった。これは簡単にいうと「財政支出を増やしても、人々の期待がそれを織り込むと効果はなくなる」というもので、合理的期待学派によって数学的に定式化された。さらに「財政支出を国債でファイナンスしても、人々はそれが増税で償還されることを予想するので、財政政策は無効だ」という中立命題によって財政政策の役割は理論的に否定され、1990年ごろまでに先進国では財政政策はとられなくなった。

ところが日本では逆に、80年代までは、不況のときは増税し、好況のときは減税する「逆ケインズ政策」がとられていた。これは大蔵省の財政均衡主義によるものだが、景気循環を増幅することになる。その最大の失敗が、バブルの発生である。1985年以降の「円高不況」に対して、緊縮財政を続けて金融政策だけで「内需拡大」しようとしたため、異常な金余りが発生したのである。これによって大蔵省の権威は失墜し、90年代になって「遅れてきたケインズ政策」がとられるようになり、100兆円以上の財政出動が行われたが、効果はほとんどなかった。

実証的には、合理的期待も中立命題も「ハードコア」のモデルは支持されていない。欧米で財政政策がとられなくなったのは、その政治的弊害や無駄な公的投資が大きいためだ。しかし、マクロ経済を動かす期待の役割を重視した点で、これらの「新しい古典派」は正しい。日本の景気回復の最大の原因も、期待の変化である。財政支出がジャブジャブだと、企業はそれを織り込んで不良債権処理などを先送りするが、財政を引き締めると、企業は政府を当てにしないで「自己責任」でリストラを行い、資本や労働が非効率な部門から効率的な部門に移転されるので、自律的な景気回復が起こるのである。

この意味で、小泉政権の緊縮財政によって景気が回復したのは不思議な現象ではなく、むしろ(新しい)マクロ経済学の教科書どおりの現象である。ところが日本では、いまだに不況になると「よい公共事業」が必要だという経済学者や自称エコノミストが徘徊している。日本経済を健全化するには、経済学界もリストラし、こういう「ケインズの亡霊」には成仏してもらわなければならない。

小沢ブーム

千葉7区の補選で民主党が勝って、にわかに「小沢一郎ブーム」が再来したようだ。しかし、これまでの彼の軌跡をみると、新党を結成した当初は期待されながら分裂し、彼に近い人ほど彼のもとを去ってゆくということを繰り返してきた。私の友人に小沢氏の元秘書がいたが、彼も、小沢氏が大事なことをまわりに相談しないで、ひとりで「奇策」によって解決しようとすることが不信感を生んできたといっていた。

細川内閣が崩壊したあと、小沢氏は渡辺美智雄を首相に擁立しようとしたが、羽田氏はその話を聞かされておらず、小沢氏に連絡がとれないので、自宅までやってきた。私の友人は留守番をしていたが、羽田氏は「小沢はいるんだろ?帰ってくるまで待たしてもらう」と座り込んだ。ところがそこへ、渡辺氏から電話がかかってきた。羽田氏が出て「あなたがこっち(新生党)に来るという話は聞いていない」と答えたところ、渡辺氏は驚き、これをきっかけに彼が自民党を(派閥をひきいて)出るという話は、立ち消えになってしまった。

また羽田内閣が総辞職したあと海部氏を擁立するときも、まわりに協力を求めなかったため、社会党が「村山首班」支持にまわり、非自民連立政権は9ヶ月で終わってしまった。伊藤惇夫氏によると、村山内閣というのは、かなり前から自社両党が「国対ルート」で画策していたという。小沢氏の裏工作は、その裏をかかれたのである。同じような失敗は、その後の新進党や自由党でも繰り返され、「自自連立」で結果的に「自公連立」のきっかけをつくり、与党の絶対多数を固定化してしまった。

それから、あまり知られていないことだが、彼の霞ヶ関に対する力もなくなった。かつては大蔵省の斉藤次郎事務次官と小沢氏だけで「国民福祉税」を決めるぐらい力があり、そのころ小沢氏についた官僚は、斉藤氏だけでなく各省庁にたくさんいた。ところが小沢氏が野党に転落すると、こういう「小沢派」官僚は、斉藤氏のように各省で徹底的にいじめられ、組織(天下り先を含む)から追放された。このため、今度民主党が政権をとったとしても、官僚はついてこないだろう。

私の友人は、こういう彼の性格を「田中角栄に甘やかされて育った『政界おぼっちゃま』だ」といっていた。田中は、たとえば地元の陳情を電話で受けるとき、小沢氏をそばに呼んで、「一郎、陳情処理はこういうふうにするもんだ」と教えたという。47歳で幹事長になり、49歳で総裁に推されて断ったという輝かしい経歴が、「その気になれば首相になれた」というおごりを生んだ(最近もインタビューでそういう発言をしている)。しかし、その「小沢神話」の貯金も、野党になってからの失敗で使い果たした。いま彼にもっとも重要なのは、自分の政治力を過信しないことだろう。

グーグルの価値

まず訂正。先日のこのブログの記事には間違いがあり、米国の広告費(検索広告を除く)のGDP比は、3%ではなく1%強でした。この数字をもとに記事を書いた磯崎さんには、ご迷惑をかけました。

広告産業は成熟産業だが、ネット広告は成長産業である。しかしグーグルのCEO、Eric Schmidtの「ネット広告はまだ広告全体の3%しかない」という話はおかしい。前にリンクを張ったTNS-MIの統計でも、ネット広告(83億ドル)の広告全体に占める比率は5.8%だが、これは検索広告を除いた数字なので、これにグーグルの61億ドルを足しただけでも、10%を超えている。

問題は、この先ネット広告がどれぐらい増える余地があるかということだ。ここで重要なのは、広告が卸売りのビジネスだという点である。企業の予算のなかで広告費の比率はほぼ一定であり、宣伝担当者も各メディアにバランスをとって出稿するから、おのずとメディア別のシェアはどこの国でも同じぐらいになる。今はネット広告のほうが効率がいいので成長率も高いが、経済学でよくやるように、成長とともに各メディアの広告の限界効率が均等化すると想定すると、新聞・雑誌・テレビ・ネットに各20~25%というのが妥当なところではないか。

しかもスポンサーは、ネット広告のなかでも各社にバランスをとって出稿するから、ネット広告の全部をグーグルが取るということはありえない。かなり大胆にネット広告費の半分をグーグルが取ると仮定しても、広告業界全体の12.5%、180億ドルである。これは現在の61億ドルの3倍だが、このへんが上限だろう。要するに、今までの倍々ゲームがあと2年以上続くことは考えられないのである。

ただグーグルは「装置産業」なので、今の調子で売り上げが伸びても、コストはそれほど増えないから、利益率は高いと予想される。今の24%という高い利益率が変わらないとすると、売り上げが180億ドルに達した場合の純利益は43億ドル。これは現在のトヨタの利益の1/3、ホンダと同じぐらいだ。これぐらい行くことは十分考えられる。それにしても、グーグルの時価総額がホンダとニッサンの合計より大きいというのは理解できない。

追記:この記事にはたくさんTBがついている。その多くは「グーグルは広告産業以上のものになる」という意見だが、今のところグーグルの収入の99%は広告であり、それ以上の収入源は見つかっていない。しかも検索エンジンはOSのようにユーザーを囲い込むことができないので、たとえばマイクロソフトがIEに検索機能を内蔵したら、ネットスケープのような運命をたどる可能性もある。

岩波新書

新書の元祖でありながら、昨今の新書ブームに乗り遅れていた岩波新書がリニューアルした。しかし、そのラインナップをみればわかるように、発想は古色蒼然。昔ながらの教養主義とマルクス主義と東大法学部である。中途半端に変更した表紙のデザインに、それがよく現れている。

中でもひどいのは、トップバッター(No.1001)の柄谷行人『世界共和国へ』だ。全世界の歴史を新書版200ページで語る荒っぽさもさることながら、枠組がいまだにマルクスだ。最後は予想どおりネグリ=ハートが出てきて、カントの『永遠平和のために』で終わる。え?と思うと、あとがきで「これはいま書いている『トランスクリティーク』の続編のダイジェスト版なので、くわしいことはそれを読んでくれ」。

読者をバカにするのにも、ほどがある。そもそも、今どき柄谷行人なんてありがたがっているのは、岩波の編集者ぐらいのものだ。『国家の品格』が、通俗的ナショナリズムをそれなりに新しい装いで世の中にアピールしているのに、左翼は中身も装いも十年一日だ。新書の元祖が新書ブームの中で消えて行くのも、時代の流れだろう。

IPv6

総務省の委託でインテックネットコアなどが調べたIPv6の普及度調査の結果が、ウェブサイトに出ている。それによれば、のように、v6のトラフィックは2002年の2.5%をピークとして減少し、今年は0.1%にも満たない。

RFC2460(v6の基本仕様)が出てから8年たってもこういう状況では、もう「次世代のアドレス体系」ではありえない。WIDEでも最近は「v4をv6に置き換える」という表現をやめて「v6を普及させる」としているようだ。v6はローカル・アドレスと割り切れば、それなりの用途はある。v4サイトから見えないぶん、安全だというメリットもある。

Windows Vistaには、出荷時からv6のアドレスがつく予定だが、これは混乱のもとになる。NTTやIIJなどの一部のv6専用サービス(閉じたネットワーク)で、すでにv6のアドレスをもっているユーザーは、1つのホストに2つのグローバル・アドレスをもつことになるからだ。ローカルのサーバにアクセスしたらVistaのアドレスで同定されてはじかれる、といったトラブルが起こるおそれが強い。これはマイクロソフトがVistaの仕様で複数のv6アドレスの優先順位を決めるなどの対応をするしかないが、マイクロソフトはその気はないという。

こういう混乱が起こるのは、しょせんローカル・アドレスでしかないv6をWIDEが「次世代」のアドレスとして宣伝したり、それを真に受けた政府が「国策」としてv6を推進したりした結果だ。v4のアドレスが「涸渇」することはありえない、という事実は、山田肇氏と私が4年前の論文で指摘したことだ。この論文は1年で3万回もダウンロードされ、IETFのシンポジウムでもテーマになったが、事実関係は村井純氏も認めた。

ところが霞ヶ関では、まだこの程度の基本的な認識もない。あるとき某省の審議官にv6についてのレクチャーを求められ、「v6はv4と完全互換ではない。v4のサイトからv6のアドレスは見えない」と説明したら、審議官が「それは本当か」と驚いていた。こんな初歩的なことも知らないでv6に100億円以上の補助金をつける無謀さには、こっちが驚いた。v6をめぐる混乱は、要素技術に政府が介入するとろくなことにならないという好例である。

民主化するイノベーション

今週のEconomist誌の特集は、New Mediaである。タイトルはちょっとダサいが、『ウェブ進化論』『グーグル』とは違って、メディアで起こっている変化について多くの1次情報に取材して書かれた、バランスのとれたサーヴェイである。

この特集は、いま起こっている変化を「イノベーションの民主化」ととらえる。かつてグーテンベルクによる活版印刷の普及が知識を教会の独占から解放したように、インターネットが通信制御を電話会社から解放したことによって、blog、Wikipedia、SNS、podcastなど多くの「参加型メディア」が登場し、既存メディアを脅かしている。その革命的な変化は、かつてのドットコム・ブームのときは幻想にすぎなかったが、今度は現実である。

しかし、こうした新しいメディアが社会をどう変えるかは明らかではない。活版印刷は個人を自立させたが、プロテスタントを生み出し、宗教戦争を引き起こした。いまメディアの世界でも、宗教戦争が起こりつつある。アンシャン・レジームの側では、革命を拒否するのか、それともそれを取り込もうとするのか、いろいろな試行錯誤が繰り返されている。LAタイムズやNYタイムズは、紙面をWikiのように読者に編集させようとしたが、多数の「荒らし」によってサイトを閉鎖した。

他方、革命派でも戦略はわかれる。ウェブ上の情報を徹底的に蓄積して選択はユーザーにゆだねるグーグルと、タイム=ワーナーからCEOをまねいて「メディア企業」になることをめざすヤフーの違いは、フランス革命のジャコバン派とジロンド派に似ている。革命は近代市民社会を生み出したという評価もあるが、エドマンド・バークのように混乱と流血をもたらしただけだという評価もある。すべての市民が「参加」する民主主義などというものは、幻想だからである。

おそらく、今後インターネットが成熟する過程で既存メディアとの「融合」が進み、「憲法」のようなルールができてゆくのだろう。しかし、それはかつての近代化の過程で行われた「建国」よりもはるかにむずかしい。新しい憲法は、グローバルでなければ効力をもたないからである。しかし、いま起こっている変化がグーテンベルク以来のスケールだということは、ほぼ明らかになったといえよう。

参考までに、エリック・フォン・ヒッペル『民主化するイノベーションの時代』(ファーストプレス)も同様の現象を分析している。

公共放送NHKに何を望むか

「デジタル時代のNHK懇談会」の中間報告が発表された。しかしその内容は、総務省の通信・放送懇談会とは比較にならない無内容なものだ。報告書は、「NHKの受信料は、個々の番組やサービスの単なる『対価』ではない」というが、何なのかといえば「NHKに質が高く楽しく、災害時などでも信頼できる放送」を望むのだという。これは「放送サービス」そのものではないか。こんな意味不明な話で、視聴者が納得すると思っているのだろうか。

受信料が放送サービスの対価ではないとすれば、それは「税金」である。その性格を曖昧にしているから、3割(約1350万世帯)もの不払いに対処できないのだ。現実には、この数字も粉飾されている疑いが強い。分母は4600万世帯ということになっているが、事業所の受信料は自己申告(病院などは何百台あっても数十台分)だし、「支払い免除」家庭は生活保護の10倍もある。電話と同じ6000万台を分母にすると、不払い率は45%ということになる。こうなると、国民年金よりひどい。もう制度そのものが破綻しているのである。

それなのに、制度設計にはいっさい手をふれないで「公共性を自覚せよ」とか「視聴者第一主義」とかいう精神論で、この危機が乗り越えられると思っているのだろうか。「組織統治」をいうなら、今どきこのように執行部の言い分を丸のみする社外取締役はいない。もっとも小林陽太郎氏のように、たくさんの会社の取締役を兼務して「お飾り」として便利に使われている人物は別だが。

受信料制度の改革については、「NHKの一部チャンネルへのCMやスクランブル化の導入は、民放事業を経営的に圧迫し、視聴者間に所得による情報格差を引き起こす」という。なぜスクランブル化が「情報格差」を引き起こすのだろうか。受信料制度なら、「情報弱者」はカネを払わなくても見ていいのだろうか。これは不払いの公認である。逆に、情報弱者も受信料を払っているのだとすれば、それが視聴料(有料放送)になっても払うだろう。こんな非論理的な言い訳を繰り返す経営陣と、それをそのまま引き写す懇談会が「ガバナンス」とは笑止千万である。

追記:産経新聞によると、この懇談会は、カラ出張事件について「NHKで働くすべての人たちへ~私たちの憤りを伝えておきたい~」という付属文書をeメールで全職員に送ったという。その内容は、語気ばかり荒い精神論だ。その文書の表現をもじっていえば、こんな内容空疎な説教で乗り切れるほど、NHKの危機は浅くない。個人の不正事件と経営問題をごちゃごちゃにして論じるのはやめるべきだ。

追記2:この中間報告では、アーカイブのネット配信を拡大すべきだとしている。現在は、総務省の「ガイドライン」で過去1週間以内の番組とか事業規模10億円以内とか規制されているのを緩和してほしいという意味だ。身を切る改革はすべて拒否しておいて、「肥大化」だけは許してくれ、という虫のいい要求は、総務省でも物笑いの種になっている。

Institutions and the Path to the Modern Economy

Avner Greif, Institutions and the Path to the Modern Economy : Lessons from Medieval Trade は、中世の経済史をゲーム理論で分析した先駆的な業績である。この組み合わせだけみると、好事家的なトンデモ本みたいだが、著者はスタンフォード大学の教授である。経済史学会賞を受賞したばかりでなく、世界計量経済学会で経済史の専門家が招待講演を初めて行うという快挙もなしとげた。

基本的な考え方は単純で、要するに無限繰り返しゲームの「フォーク定理」を中世の地中海で活躍したマグレブ商人の共同体に適用し、1次史料で実証したものだ。彼らはユダヤ人で、その「身内」の長期的関係を維持して情報を濃密に共有し、借金を返さないような裏切り者は共同体から「村八分」にする強力なメカニズムによって取引の安全性を確保した。

しかしこの共同体は、近世になって商圏が拡大すると、司法的に取引の安全を担保するイタリア商人に敗れる。それは、身内とよそ者をきびしく区別するマグレブ商人の共同体がオープンな取引を阻害し、新しい相手との取引を困難にするためだった。この話は、「グローバリズム」を否定して身内の共同体ばかり大事にしていると、結局は経済そのものが没落するという点で、現代の日本への教訓ともなるかもしれない。

線路敷設権

通信・放送懇談会の議論も、ようやく収斂しはじめたようだ。松原座長は、きのうの記者会見でNTTの今後のあり方について、
  1. 現状のまま、持ち株会社の傘下に事業会社を置く形
  2. NTTの中でも特に独占性の強いアクセス部門を、英BTのように機能分離する形
  3. 公開ヒアリングなどでソフトバンクが主張した、NTTのアクセス部門を組織分離する形
  4. NTTの持ち株会社を廃止し,NTTの事業部門ごとに完全に資本分離する形
の4パターンを示した。このうち、1と4はダミーだから除外するとして、問題は2の「機能分離」か3の「資本分離」のどちらかだろう。これは世界的にも議論のあるところだが、通信業界では3の前例はない(*)。鉄道や電力では、完全分離したケースもあるが、あまり評価は高くない。3年前のニューヨーク大停電も、アンバンドルされた送電線を保守するインセンティヴがないため劣化したことが原因とされる。

会見の口ぶりからすると、2が松原氏の意見に近いと思われる。これは、2年前の池田=山田論文とほとんど同じだが、アクセス系をすべて(銅線も光ファイバーも)水平分離する点が違う。ここはむずかしいところで、ダークファイバーを「土管会社」に切り離すことには、NTTがかねてから強く反対している。「FTTHは、まだ300万世帯にやっと届くところで、これからいくらでも競争の余地はある。今の段階で、どこがドミナントかという議論には意味がない」という反論にも一理ある。

とはいえ、線路敷設権のボトルネック性は残る。電柱はNTTが所有していることが多く、そのほかの接続設備もNTTだけを収容するようにできているものが多い。この管理をすべて土管会社(LoopCo)に移し、NTTにも他の業者にも同じ条件で接続するように規制すれば、ファイバー自体を分離しなくても、かなり問題は改善されるのではないか。

(*)アンバンドル規制の経済学的分析については、私のディスカッション・ペーパー参照)。

Seinfeld

"Seinfeld"というテレビ番組をご存じだろうか。日本では、数年前までWOWOWで「となりのサインフェルド」という邦題で放送していたが、今は全国放送はしていない。それでも、地方局では放送しているようだ。

この番組、実は米国NBCでは1998年に放送が終了しているのだが、こうして今でも世界中で再放送が行われ、その1本(30分)あたりの放送権料は最高120万ドルにのぼる(これは放送権料の世界記録)。作・主演のJerry Seinfeldが、この番組を終了したいと言い出したとき、Jack Welch(NBCの親会社GEのCEO)みずから説得に乗り出し、1本あたり500万ドル(これも世界記録)のギャラを提示して続行を求めたが、Jerryは「ぼくは燃え尽きたよ」とこれを拒んだ。終了が決まったとき、NYタイムズは1面で報じた。

内容は、ニューヨークのアパートを舞台にして4人の登場人物がしゃべる単純な家庭喜劇(sit-com)だが、そのセリフが実によくできている。かなりきわどい差別ネタやセックスネタもあるが、いやらしくなく、何度見てもあきない(ただ、ギャグがあまりにもアメリカ的で、日本ではそれほど受けなかったようだ)。TV Guide誌は、"Seinfeld"を「歴史上のテレビ番組のベスト1」に選んだ。

この番組に1本500万ドルものギャラが出せるのは、このように世界中に売って何度も見られるからだ。米国では、こうした「シンディケーション」の市場が発達しており、数百のエージェントがハリウッドや放送局を仲介して、いろいろな番組のパッケージを売買している。CNNは全世界で15億世帯、「ディスカバリー・チャンネル」は4億5000万世帯が見ている。

NHKの民営化を議論すると、すぐ「民放みたいになるのは困る」という反対論が出るが、それは日本のだめな民放を見ているからだ。本当にすぐれた作品は、グローバルに売れば十分ペイするのである。現状では、NHKの番組でさえ、先進国に売れるのは皆無に等しい。途上国に、開発援助の一環としてテープ代にもならないような値段で売っているだけだ。幸か不幸か、日本には世界第2位の大きな国内市場があるため、ローカルで満足してしまい、グローバルに通用する作品が生まれないのである。

しかし、黒沢・溝口・小津の作品を見ればわかるように、日本人の映像的な感覚は世界でも最高水準である。最近やっとアニメ・ゲームなど一部の市場でその価値が認められはじめたが、NHKを民営化してインターネットなど多メディアで国際展開し、放送業界に競争を導入すれば、「コンテンツ産業」が――米国でそうであるように――自動車産業を超える基幹産業に育つことも不可能ではない。

追記:この問題は、『週刊エコノミスト』にくわしく書いた。






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