大学教育は人的投資か学歴投資か

Becker-Posner Blogで、珍しく両者の意見がわかれている。

ベッカーは、大学教育の収益率は70年代の40%から現在は80%に上がったと主張する。この最大の原因は、ITの発達によって高等教育への需要が高まったからだ。高等教育はITと補完的だが、未熟練労働者はITと代替的なので、ITが増えると前者への需要は増え、後者への需要は減る。まぁこれは人的資本理論の教祖としては当然だろう。

これに対してポズナーは、シグナリング理論をとる。高等教育を受けた人の所得が高いのは相関関係であって、因果関係を必ずしも意味しない。大学が人的資本を何も高めなくても、学歴は能力のシグナルになるので、所得の高い仕事につきやすくなる。したがって大学に行くことは私的投資としては収益率が高いが、公共政策としてはこれ以上、大学進学率を高める必要はない。

私は、ポズナーの意見に近い。特に日本では、大学はシグナリング(スクリーニング)機能に特化しているので、教育内容は形骸化しており、大部分は時間の無駄だ。まして大学院教育の内容は非常に特殊であり、実社会で役立つことはほとんどない。それは「勉強が好きだ」というシグナルにはなるが、「使いにくい専門バカ」というシグナルにもなるので、便利屋を好む日本の企業には歓迎されない。

文科省の大学院拡大政策は、学生を余分に社会から隔離し、中途半端なプライドを持たせるだけだろう。それよりも大事なのは、語学や会計などの実務的なスキルを多くの人々に学ばせ、知識の裾野を広げることだ。このためには大学の設置基準を緩和して、専門学校を大学に昇格させたほうがよい。

David Halberstam

デイヴィッド・ハルバースタムが、交通事故で死去した。

ノンフィクションに古典というものがあるとすれば、本書は間違いなく、その1冊である。原著が出てから40年近くたつのに、アメリカは本書で描かれた病から脱却できないようにみえる。それはEasterlyがWolfowitzを評したのと同じ、他国に「正義」を押しつける傲慢という病である。

自由経済や民主主義が、アメリカという特殊な国家で成功したからといって、それが世界のすべての国家で成功するとは限らない。それに適した文化的土壌のない国に無理やりアメリカ的レジームを移植しようとしても無理だし、そのために土壌からすべて取り替えようとしたら、国家そのものを破壊してしまう。

ハルバースタムが指摘したように、この病にはユートピア主義エリート主義という二つの原因がある。自国の制度が普遍的ユートピアであり、それを世界に布教しなければならないというナイーブな信念と、世界最大の軍事力とエリートの頭脳があれば、ほとんど自軍の犠牲なしに「効率的に」敵を殲滅できるという過信だ。そしてベトナムで行なった戦争犯罪を謝罪もしないで、他国には70年前の「性奴隷」の謝罪を求める。アメリカこそ、世界でもっとも特殊な国である。

テレビ業界という格差社会

日経ビジネス・オンラインの後編の記事に読者からツッコミが入って、編集部が訂正した。最初のバージョンでは「(『あるある』の)番組制作費3200万円のうち、下請け、孫請けのところには860万円しか支払われていなかった」と書かれていたが、この表現はおかしい(私もウェブに出てから気づいた)。

関西テレビの調査報告書(p.109~)によれば、約3200万円の番組制作費のうち、関テレが「プロデューサー費」として55万円とり、3100万円余を下請けの日本テレワークが取り、孫請けのアジトのVTR制作費が860万円ということになっている。したがって「番組制作費3200万円のうち、孫請けのところには860万円しか支払われていなかった」と書くのが正しい。

しかし、この調査報告書の数字はおかしい。局側の取り分が、わずか55万円ということは考えにくい。『文藝春秋』4月号の記事によれば、実態は次のようだ:
花王が電通に渡した額は、推定で年間で50数億円。特番を除く1本当たり単価に直せば1億円にのぼる。そこから電通は15%を管理費としてチャージし、さらに電波料と呼ばれる各局への配布金を引く。[・・・]関西テレビに渡るのは1本当たり単価で3700万円程度。そこから日本テレワークに渡るのが単価3200万円程度。ここからスタジオゲスト出演料、美術費さらにはスタジオ収録料や最終編集費などが引かれて各回を担当する製作プロダクションに渡るのが単価860 万円程度。当初の1億円の9%弱になっているという。
制作費が、あとから出た調査報告書と符合することから、この推定は信頼できる。これによれば、1本1億円から電通の取り分を引いた8500万円のうち、4800万円が電波料として地方局に取られ、関テレ自身も500万円の電波料をとる。調査報告書では、調査対象を制作費にしぼっているため、番組経費の大部分が電波利権に食われているという病的な状況が、さすがの元鬼検事にも見抜けなかったわけだ。したがって「大半のお金は放送局が中間搾取していて、現場のクリエーターには回っていなかった」という私の主張は正しい。

以前の記事にも「この電波料って何ですか?」というコメントがついていたが、これは地方局に払う「補助金」である。地方局の経営は、ローカル広告だけでは成り立たないので、系列のキー局や関テレなどの制作側が補填するのだ。地方局は、タダでもらった電波を又貸しし、商品(番組)を供給してもらう上に金までもらえるという、世界一楽な商売である。その実態はよくわからなかったが、この文春の記事が正しいとすれば、「あるある」だけで年間20億円以上にのぼり、番組経費のほぼ半分を占める。つまり、何もしていない地方局の取り分が最大なのだ

さらに異様なのは、番組制作費のうちVTR制作費が860万円しかなく、残りの2300万円が「スタジオ経費」に消えていることだ。テレワークのマージンを引くとしても、この大部分は出演料だと思われるが、局アナを除けば5人程度の出演者のギャラとしては、いかにも大きい。最高と推定される堺正章の出演料は、おそらく500万円以上だろう。若いタレントでも、100万円ぐらいが相場である。

このように情報よりもタレントを重視するのは、局側としては当然だ。視聴率を決めるのは情報量ではなく、顔なじみのタレントが出ているかどうかで、「数字の取れる」タレントは10人程度に限られているからだ。これは経済学でよく知られている「一人勝ち」現象の一種である。人気タレントは、メディアに露出することによってさらに人気が出るという「ネットワーク外部性」があるので、一部のタレントに需要が集中して出演料が跳ね上がる。

結果として、タレントが30分ぐらいしゃべっただけで500万円以上もらう一方、地を這うような取材をした孫請けプロダクションのディレクターの年収は300万円そこそこという、究極の「格差社会」がテレビ業界なのである。そして彼は、問題が起きると全責任を負わされて、業界から追放される・・・

誰のためのデジタル放送か?

日経ビジネス・オンラインのインタビュー記事。
コピーワンスの技術仕様を詰めたのは電波産業会(ARIB)という社団法人ですよ。名目上は民間企業が集まって自主的に検討したという形になっている。だから、アカウンタビリティー(説明責任)が求められない。パブリックコメントも必要ない。でも、ARIBの幹部は総務省のOBですよ。実質的に総務省、つまり国がやらせているのに、プライベートな仕組みを通すことで“抜け道”になっている。

安倍首相が「植草被告」になるとき

ニューズウィークのインタビューに答えて、安倍首相は慰安婦問題についての「責任」を認めた:
We feel responsible for having forced these women to go through that hardship and pain as comfort women under the circumstances at the time.
河野談話よりはっきり「われわれが慰安婦を強制した責任」を認めている。これで日本政府は「有罪」を自白したことになる。外務省の事なかれ主義に、とうとう安倍氏も屈したわけだ。「とりあえず頭を下げておけば何とかなる」という日本的感覚が国際政治の場で通じないことは、河野談話で思い知らされたはずなのに、こういう重大発言を週刊誌相手にさせる外務省(あるいは世耕補佐官?)の感覚も信じられない。

今後、米下院で日本非難決議(121決議案)が可決され、首相の公式謝罪や強制連行を否定する言論の弾圧を求められても、拒否できないだろう。元慰安婦が日本政府に国家賠償を求める訴訟は、これで勢いづくだろう。国連は公訴時効も罪刑法定主義も無視して「レイプ・センター」をつくった戦犯を逮捕せよと求めるマクドゥーガル報告書を採択しており、これにもとづく制裁要求が出てくることも考えられる。北朝鮮が日本に慰安婦への個人補償を求めてきたら、6ヶ国協議はめちゃくちゃだ。そして朝日新聞は「拉致と慰安婦は同じだ」と主張して、北朝鮮を応援しているのである。

ナチス・ドイツの同盟国に強制労働させられた人々が関連企業に損害賠償を請求できるというヘイデン法は、国外で起きた事件でも過去に遡及して訴えることができるとしている。これにもとづいて起こされた17件、総額1兆ドルの訴訟は、ブッシュ政権によって連邦最高裁で棄却されたが、政権が民主党に変わったら、また訴訟が出てくることは十分考えられる。そしてこのヘイデン法の共同提案者が、問題の121決議案を出したマイケル・ホンダ議員なのである。

これは痴漢の疑いで逮捕された容疑者が、「正直に認めないと家に帰れないぞ」と脅されて「自白」したようなものだ。いったん罪を認めたら、終わりである。植草一秀被告のように、後になっていくら「やってない」と主張して、大がかりな弁護団を組んでも無駄だ。世界史にも「日本軍が20万人の女性に性奴隷を強要した」という、とんでもない「史実」が残ることになるだろう。

追記:国内各紙の報道では「彼女たちが慰安婦として存在しなければならなかった状況に、我々は責任がある」という表現になっており、「強制」という言葉は入っていない。こっちが外務省の用意した回答(首相の言葉)だとすれば、"forced these women ..."という部分はニューズウィークの訳しすぎかもしれない。

追記2:鈴木官房副長官の記録したインタビュー全文によれば、問題の部分の首相の答に「強制」という言葉はない(コメント欄参照)。

Susan Athey

J.B.クラーク・メダルの受賞者が、Susan Atheyに決まった。女性としては、初の受賞者だ。

彼女は1995年に24歳でスタンフォードの博士号をとったとき、全米20以上の大学が彼女を奪い合ってNYTの記事になった。結局、MITの助教授になったが、2001年にスタンフォードが奪還し、33歳で教授にした。去年からハーバードの教授。MilgromとRobertsの弟子で、monotone comparative staticsの開発や企業理論の精密化に貢献した。

「女性初のノーベル経済学賞」の呼び声も高いが、今までの論文を読んだ限りでは、むずかしいと思う。既存の理論の数学的拡張や応用の細かい話が多く、論文としてはおもしろくない。師匠と一緒に書いているはずの単調比較静学の教科書も、5年以上前からドラフトのままだ。彼女自身もmicroeconometricsに転進をはかっているようだ。

人類史のなかの定住革命

人類史上最大の革命は、産業革命でも情報革命でもなく、1万年前に遊動生活から定住生活に移った「定住革命」だった。普通これは農耕による食糧生産にともなうものと考えられ、「新石器革命」などとよばれているが、著者はこの通説を批判し、漁業や食糧の貯蔵が定住生活のきっかけだったと論じる。つまり農耕は定住の原因ではなく、結果なのである。

1万年ぐらいの間では遺伝的な変化はほとんどないので、われわれの本能は遊動時代のノマド的な生活に適応していると考えられる。しかし1万年間の定住生活によって、農業・漁業に適応した文化が形成された。この遊動的本能と定住的文化の葛藤が、人間社会の根底にある。

その一つが、公平の感情である。行動経済学でよく知られるように、たとえば1万円を2分割する提案をし、相手がその提案を拒否したら両方とも0円になる最後通牒ゲームでは、「合理的」な提案は相手に1円を与える(自分が9999円とる)ことだが、実験ではそういう行動は(相手の気持ちがわからない)自閉症の患者と経済学部の学生にしか見られない。そんな提案をしたら、相手が「むかついて」拒否するに決まっているからだ。

この提案を拒否するのは(新古典派の意味では)合理的ではない。たとえ1円でも、もらうほうが得だからである。しかし、すべての相手がそういう提案を拒否し、それを予期する多くの提案者は5000円対5000円を提案する。こういう「非合理的」な行動の原因は、公平性についての感情が共有されているためと考えられる。昨今の「格差社会」への反発も、そういう感情に根ざすものだろう。

公平を好む感情は、かつて数十人のグループで狩猟生活を送っていたころの環境に適応したものだろう、と著者は推定する。獲物をだれが得るかは不確実で、そのとき獲物をとった者がそれを独占したら、餓死者が出るかもしれない。飢えに迫られた者は、獲物をとった者を襲うかもしれない。こうした紛争が頻発したら、グループそのものが崩壊し、全員が死亡するだろう。それを避けるために、公平な分配を求める感情が遺伝的に進化したと考えられる。

人類が狩猟の武器を持ったときから、それをグループ内のほかの個体に向けて紛争が起こるリスクが発生した。その攻撃性を抑制するために利他的な感情が進化し、エゴイストはきらわれ、他人に思いやりのある人が好まれるようになったのだ。これは前にも紹介した群淘汰の一種である。

こうした人類学的なスケールで見ると、利己的な行動を「合理的行動」と称して肯定し、独占欲に「財産権」という名前をつけて中核に置く資本主義の基礎は、意外に脆いかもしれない。ハイエクもシュンペーターも、資本主義が崩壊するとすれば、その原因はこうした倫理的な弱さだと考えていた。情報を共有するインターネットの原則が資本主義にまさるのは、感情的に自然だという点だろう。

デジタル家電の足を引っ張るデジタル放送

デジタル放送のコピーワンスをめぐる議論が迷走している。情報通信審議会の検討委員会では、コピーワンスの条件を緩和する話し合いが行なわれたが、「回数限定で1世代のみコピー可」とすることは合意したものの、そのコピー回数について意見がまとまらなかったという。

昨年のDVDレコーダーの国内出荷台数は、前年比18%減となった。世帯普及率はまだ40%台なので、これは市場が飽和したためとは考えられない。その最大の理由は、関係者が一致して指摘するように、コピーワンスのおかげで操作が複雑になり、普通の視聴者には扱えない機器という印象が広がったためだ。たとえば、あずまきよひこ.comで紹介されているように、番組をPCで見るためには、DVD再生ソフトやDVDドライブなどをすべて買い換えなければならない。

しかし、もう一つの関係者が気づいていない問題がある。それはVTRでも不自由しないということだ。わが家のテレビは1999年、VTRは1998年に買ったもので、映像はかなりひどいが、買い換える気はない。テレビは見えればいいので、画質なんか気にしてないからだ。そもそも「ひどい」と感じるのは、私が昔テレビ局のスタジオ・モニターを見ていたからで、普通の視聴者はひどいとも感じていないだろう。

20年ほど前、NHKのハイビジョン・プロジェクトで視聴者のブラインド・テストをやったとき、われわれが衝撃を受けたのは、ほとんどの視聴者が画質を見分けられないということだった。ハイビジョンの番組と、普通の番組を単に横長にしたものを30インチ以下のモニターで見せると、90%以上の人が区別できない。いろいろな条件を変えて「どっちの映像がきれいか」と質問すると、もっともはっきり差が出るのは、色温度とコントラストで、解像度は最下位だった。

アンケート調査で、視聴者がもっとも望んだのは「見たい番組をいつでも見られるようにしてほしい」ということで、「たくさんのチャンネルを見られるようにしてほしい」という答も多かった。「いい画質で見たい」という答は最下位だった。だから今までと同じ番組の解像度を単に上げるだけの地上デジタル放送には、もともと需要がないのだ。

アナログ放送なら自由にできるコピーが、デジタル放送ではできないのでは、デジタル化のメリットはないどころかマイナスだ。しかもコピーワンスが緩和されると、今の機器では対応できないので、テレビやDVDレコーダーを買うのは規格が変わるまで待ったほうがいい。情通審の話し合いが長期化すればするほど、買い控えは広がるだろう。供給側の論理で消費者をバカにした規格を決めると、結局は地デジそのものが行き詰まってしまうということにテレビ局が気づくのは、いつだろうか。

銃規制は犯罪を減らすか

バージニア工科大学の殺人事件は、銃規制についての論争を再燃させそうだ。しかしFTも報じるように、アメリカでは逆に先月、銃規制の強化を違法とする判決が連邦高裁で出るなど、規制が強化される見通しはない。これはよくいわれるようにNRAのロビー活動や憲法修正第2条の存在もさることながら、世論調査も必ずしも銃規制に好意的ではないのだ。

その理由は、合理的に理解できる。アメリカのようにすでに銃が社会に広く行き渡ってしまった社会では、自分だけが銃を持たないと危険だからである。これはゲーム理論でおなじみの囚人のジレンマで、全員が銃を持たないという最適解がナッシュ均衡ではないとき、自分だけが持たない最悪の状態よりは全員が持つ次善の状態(ナッシュ均衡)を選ぶことは理解できる。

実証的な研究でも、銃規制の効果は自明ではない。有名な研究としては、Lottの"More Guns, Less Crime"という大論争になった本がある。これは銃規制の緩和によって殺人事件が減ったとする実証研究で、当然のことながらNRAはこの研究を大歓迎したが、これを反証する論文もたくさん出た。しかし、そのまとめをみても、銃規制の効果はあまり明快ではない。

ゲーム理論が正しいとすれば、民主党が提案しているようなゆるやかな銃規制は、かえって犯罪を増やすおそれが強いし、世論の支持も得られないだろう。やるなら憲法を改正して軍・警察以外の銃所持を全面的に禁止し、一挙に徹底的な「銃狩り」をやって、国民全員を強制的に最適解に閉じ込めるしかない。これはアメリカにとって「テロとの闘い」よりもはるかに重要だが困難な闘いだろう。

負の所得税

最低賃金法の改正案が、国会で審議されている。労働組合などからは「これではワーキングプア対策にならない」「最賃を一律時給1000円に引き上げろ」などの要求が強い。しかし当ブログでこれまでにも説明したように、最賃規制は労働需要の不足をまねき、失業を増やすおそれが強い。

今回の改正のポイントは、生活保護との「整合性」だが、具体的な金額は規定されておらず、実効性は疑わしい。根本的な問題は、生活保護が働かないで貧しい人を対象にしており、働いても貧しい人を救済する制度がないことだ。働くより生活保護を受けたほうが高い所得を得られ、少しでも働くと生活保護の支給が打ち切られることが、労働のインセンティブをそいでいる。

この問題の解決策も、フリードマンが45年前に提案している。負の所得税である。これは課税最低所得以下の人に最低所得との差額の一定率を政府が支払うものだ。たとえば最低所得を300万円とし、あるフリーターの所得が180万円だとすると、その差額の(たとえば)50%の60万円を政府が支給する。これなら最賃を規制しなくても最低保障ができるし、働けば必ず所得が増えるのでインセンティブもそこなわない。アメリカでは、これに似た勤労所得税額控除(EITC)が1975年から実施されている。

フリードマンの提案したのは、こうした生活保護を補完する制度ではなく、現在の所得税システムとともに生活保護や公的年金も廃止し、課税最低所得の上にも下にも(正または負の一定率の)フラット・タックスを課すことによって、福祉を税に一元化するものだった。これによって税制は劇的に簡素化され、厚生労働省を廃止すれば、きわめて効率的な福祉システムが可能になる。

しかし、まさにその効率性が原因で、負の所得税はどこの国でも実施されていない。大量の官僚が職を失うからである。現在の非効率な「福祉国家」では、移転支出のかなりの部分が官僚の賃金に食われている。それを一掃して負の所得税に一本化すれば、現在の生活保護よりはるかに高い最低所得保障が可能になろう。フリードマンは、やはりまだ新しい。






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