悲しい嘘

「嘘つき」というのは、社会人としては失格だが、嘘をつくことが許されている職業がある。それは小説家だ。その嘘が許されるのは、事実よりも効果的に人の心を動かすからだ。しかし自分の利益のために他人をだますのは、小説家を自称していても単なる嘘つきである。

日本文芸家協会などのつくる「著作権問題を考える創作者団体協議会」は22日、著作権の保護期間を著作者の死後50年から70年間に延長するよう求める要望書を文化庁に出した。その理由を議長の三田誠広氏はこう語る:
70年が国際的なレベルであり、日本だけ50年なのは、創作者の権利のはく奪だ。延長により作家の創作意欲が高まる。生前作品が売れなくても没後に評価され配偶者や子どもに財産権を残すことが励みになる
三田氏は、本当に自分の死後の保護期間が20年延長されることが「励みになる」のか。彼は1948年生まれだから、日本人男性の平均寿命まで生きるとして、死ぬのは2026年。その50年後は2076年である。彼の風俗小説がその時点で出版されている可能性は低いが、かりに出版されているとして、その著作権が2096年まで延長されても、彼の曾孫(存在するとして)の小遣いが増えるぐらいだろう。それによって三田氏は、本当に「創作意欲が高まる」のだろうか。

この種の主張は、レッシグの闘った「ミッキーマウス訴訟」で、ArrowからFriedmanに至る17人の経済学者の意見書によって完全に論破されたものだ。保護期間を20年延長することによる著作権料の現在価値の増加は1.5%にすぎない。死後の保護期間を延長することで利益を得るのは著作者ではなく、出版社だけだ。著作者は、業者の独占維持の口実に利用されているのである。自分がだまされていることにも気づかず、読者をだまそうとするような嘘つきが、業界団体の代表をつとめる日本の小説業界の精神的な貧しさは悲しい。

迷走するソニー

先週、SCEの久多良木社長は、PS3を発売前に2割値下げすると発表した。これは、もちろん消費者にとってはよいニュースだが、ソニーの株主である私にとっては、また一つ不吉なニュースを聞かされた感じだ。最大の戦略商品の価格決定というのは、こんないい加減なものだったのか。これで初年度1000億円の予定だったPS3の赤字幅がさらにふくらむというが、この「博打」に失敗したら、ソニーの屋台骨が大きく傾くのではないか。株価は5000円を大きく割り込み、年初来安値に近づいている。

そうでなくとも、このところソニーをめぐるニュースは、ろくなものがない。リチウムイオン電池のリコールは600万個を超え、コンポーネント部門の年間の営業利益300億円を吹っ飛ばすと予想されている。PS3も、青色レーザーの不良で、欧州の出荷を来年に延ばすことが決まったばかりだ。このときの「ソニーのものづくりの力が落ちているのではないかと問われれば、今日の時点ではその通りというしかない」という久多良木氏の発言は、NYタイムズの1面を飾った。

関係者の話を聞くと、出井氏が社長になってからの経営戦略の迷走が、士気の低下をまねいているようだ。出井氏は「デジタル・ドリーム・キッズ」なるキャッチフレーズを掲げたが、社内の本流はアナログで、彼は社内で浮いていた。出井氏はネットバブルに乗り、情報家電でマイクロソフトと提携すると発表して世界を驚かせたが、社内の反対でこの提携はつぶれてしまった。特にバブル崩壊後は、すっかり社内の信用を失った。

ここで駄目になってしまえば、出直しのチャンスもあったのだが、そこにPS2という「救世主」が出現したため、連結ではなんとか利益が計上でき、抜本的なリストラのチャンスを逃がした。おかげで、ソニーグループの連結子会社は942社。非効率な多角化の代名詞とされる日立グループと並んで日本最多だ。

iPodやiTunesのような事業は、本来ソニーが先に始めてもおかしくなかった。ところがソニーは「ネットワーク・ウォークマン」でも当初、音楽部門の既得権を守るために、MP3をサポートしなかったばかりか、「価格決定権」に固執して、いまだにiTunesに音楽を配信していない。かつて「シナジー」を求めて買収した映画・音楽部門が、かえって足枷になっているのだ。

かつてPS2の発表のとき、久多良木氏は「インターネットには興味がない。オマケで勝負する気はない」と公言した。その思い切りのよさが、PS2の成功の原因だったが、PS3は汎用半導体「セル」を頭脳とし、ブルーレイ・ディスク(BD)などのオマケが満載されている。しかも開発に5000億円を投じたセルには、いまだにPS3以外の用途が見えないし、BDはコストと納期の足を引っ張っている。

要するにソニーも、過去の遺産に呪縛される「イノベーションのジレンマ」に陥っているのである。PS2の成功体験に全面的に依存したPS3は、クリステンセンのいう持続的技術(sustaining technology)の典型だ。久多良木氏は「ゲーム機ではなくスーパーコンピュータだ」というが、家庭でスーパーコンピュータを何に使うのか。

今のソニーで、久多良木氏に反対できる経営者はいないという。たしかに彼は天才かもしれないが、ゲームの専門家にすぎない。かつて久多良木氏がPSで成功したのは、出井氏も含めてほとんどの経営陣が反対する中で、大賀会長(当時)がOKを出し、SCEで好きなようにやらせたからだが、今のソニーにはそういうリスクをとって新しい市場を立ち上げる「暴れ者」がいない。

これから通信と放送の融合が進む中で、コアになるのは家庭の端末だから、ソニーがiPodを超える大ヒットを放てる可能性は十分ある。出井氏のネットバブル路線が失敗したからといって、インターネットを軽視するのは大きな間違いだ。いま必要なのは、水ぶくれした組織を思い切って整理し、インターネットを踏まえた新しい戦略を立案することだが、それができるのは、久多良木氏の世代ではないだろう。

「みんなの意見」は正しいか

平野啓一郎氏のブログの記事が、話題になっている。事の発端は、Wikipediaの彼についての項目に「盗作疑惑」が掲載されたという話だ。その部分はすでに削除されたが、きょう現在ではまだグーグルのキャッシュに残っている(*)
1998年に新潮社から刊行された平野のデビュー作『日蝕』が、1993年に同じ新潮社から刊行された佐藤亜紀の『鏡の影』と「内容が似ている」ことが問題となった。平野が『日蝕』で芥川賞を受賞すると、新潮社側は佐藤亜紀が執筆していたウィーン会議を題材にした作品の雑誌掲載を拒否し、同社から刊行されていた『鏡の影』、さらには佐藤の小説『戦争の法』を絶版とした。[以下略]
この根拠として、佐藤氏のウェブサイトにリンクが張られているが、平野氏も指摘するように、その記事には肝心の盗作(佐藤氏の表現では「ぱくり」)の事実が何も具体的に示されておらず、Wikipediaのような公的な媒体で紹介する質のものとは思われない。

実は、私にも似たような経験がある。3年前に、「はてなキーワード」の私についての項目に、事実無根の中傷が掲載されたので、はてなに抗議したところ、近藤淳也社長から謝罪のメールが来た。私は、中傷の責任を追及するため、「犯人」を明らかにせよと申し入れたが、近藤氏はそれを拒否した。結局「キーワード」の項目だけは残し、内容は全面的に削除された。

このときの近藤氏の対応は誠意あるものだったが、中傷の責任は結局、誰も負わないままだ。さらに問題なのは、平野氏もいうように、こういう「消費者生成メディア」で名誉を傷つけられないためには、つねにそれをウォッチしなければならず、参加を強制されることだ。こういうメディアに疎い人の名誉が傷つけられても放置されるし、死者の名誉は誰も守らない。

同様の問題は、本家のWikipediaでも起こっている。有名なのは、去年のJohn Seigenthalerをめぐる問題だ。これは、彼についての項目で「ケネディ暗殺に関与した」という虚偽の経歴が記されたもので、その経緯もWikipediaの項目としてまとめられている。この問題は大きな論議をよび、これを機にWikipediaは新しいガイドラインや監視システムをつくった。

ところが、日本では「2ちゃんねる」でもっとひどい名誉毀損が大量に行われているのに、主宰者は損害賠償も支払わず、逃亡している。被害者もあきらめたのか、破産申し立てをしていないし、メディアはおもしろがっている。日経新聞に至っては、そういう人物を「デジタルコア」なる会議のメンバーにして市民権を与えている。このように言論についての規律が不在の状態で、ビジネスとしてのWeb2.0だけがもてはやされても、またバブルに終わるだろう。

こうした問題について、スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』がよく引用されるが、これは「集団の知恵」で成功した例を列挙しているにすぎない。現実には、WikipediaやLinuxの成功の陰には、何百という失敗したオープンソース・プロジェクトがある。集団的選択理論が教えるように、ほとんどの民主的な意思決定は間違っているのである(**)。むしろ重要なのは、こうした間違いを事後的に修正するフィードバック装置だ。

しかし日本では、ブログの「炎上」にもみられるように、ウェブ上の議論には他人を説得するという目的がなく、匿名で悪口をいうことでストレスを解消する傾向が強い。こういう言論は、いくら大量に生成されても、情報の質を高める役には立たない。事実、日本のWikipediaには、単純な事実誤認が本家よりもはるかに多く、確認には使えない。いま必要なのは、みんなの意見は必ずしも正しくないという懐疑主義にもとづいて、事実をチェックするしくみを整備することだろう。

(*)コメントで、Wikipediaのサイトに「保存版」が残っていることを指摘された。gooにも残っている。

(**)オープンソースと集団的選択の部分に引っかかった人が多いようだが、書き方がミスリーディングだった。これは似たような話を並べただけで、両者は別の話である。オープンソース・プロジェクトの大部分は、できたものがユーザーの支持を得られないから失敗するので、民主的意思決定の間違いとは関係ない。

民主的な意思決定が「間違っている」というのも、いろいろな意味があるが、ここで想定しているのは、Gibbard-Satterthwaite定理のように、投票によって各人の選好を整合的に集計できないという問題である。さらに代議制民主主義には、投票の個人的便益(1票の差で選挙結果が変わる確率)がゼロに等しいという致命的な欠陥があるので、政治が特定の利益団体に支配されることは必然的な結果である。

もう一つは、コンドルセ定理のように集団によって「真理」に到達できるかという問題だが、これも一般的な条件では成り立たない。「みんなの意見」が正しいのは、各人の意見が(一定の確率以上で)正しく、それが整合的に集計可能な場合に限られるが、そういう理想的な状況は現実には存在しないのである。ウェブでみんなの意見が正しいようにみえる原因は、こういう論理整合性ではなく、間違いがあったら多くの人が参加して事後的に訂正できる柔軟性だろう。

ロングテール

26a6ef62.jpgクリス・アンダーソン

早川書房

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先日、紹介した本の訳本が間もなく出る(アマゾンでは予約受付中)。内容の紹介はそこで書いたが、学問的には疑問も多い。最大の問題は(一般書だからしょうがないが)、原データがなくてアバウトなグラフしか描いてないので、どこまで厳密にベキ分布に従っているのかよくわからないこと、もう一つは、なぜベキ分布になるのかについて、ほとんど説明がないことだ。

後者については、スケールフリー・ネットワークなどで「複雑性」の概念を使った説明が行われているが、実はこれはもっと簡単に導ける。たとえばランダムにキーボードをたたいて、その単語長をとればよいのである。アルファベット26字とスペースの合計27字をランダムに打つとすると、アルファベットがn字続く(スペースがn+1字目に初めて出現する)確率は、(26/27)n×1/27(*)という指数分布になる。一般に指数分布は、ベキ分布に変換できる(cf. Li)。つまりベキ分布は「複雑性の法則」ではなく、単なる「変換の法則」なのである。

(*)コメントで指摘を受けて修正した。

追記:変数の「変換」というのはちょっとわかりにくいが、この場合は単語長を頻度のランクに変換すること(Mitzenmacher: pp.238-9)。

ウィンドウズがデバイスドライバになるとき

Gmailやグーグル・カレンダーを使っていると、「ウィンドウズはデバグの不十分なデバイスドライバ(a poorly debugged set of device drivers)になるだろう」という有名な言葉を思い出す。これはネットスケープのMarc Andreessenが言ったとされ、ビル・ゲイツがこれを聞いて激怒したという話もあるが、その出所はわからない。おそらく、よくできた民間伝承なのだろう。

たしかに、この言葉はIT産業における競争の本質をうまく言い当てている。ウィンドウズに対する脅威はOSではなく、別の階層から来るだろう。それはおそらくブラウザで、それさえ動けばOSは何でもよいし、なくてもかまわない。事実、ネットスケープはコードをJavaで書き直してOSに依存しないブラウザを開発しようとしたが、失敗に終わった。

今、グーグルが実現しつつあるのは、このOSのデバイスドライバ化だ。ウェブに加えて、メール、カレンダー、スプレッドシート、文書作成(Writely)が使えれば、ウィンドウズ上のアプリケーションはほとんど必要なくなるかもしれない。このシステムがすぐれているのは、そのAPIを使って第三者が多くのアプリケーションを「マッシュアップ」し、日々進化することだ。そのスピードは、ウィンドウズ上のアプリケーションをはるかに上回るし、すべて無料だ。

ネットスケープが失敗したのは、第一にマイクロソフトがIEによってネットスケープをつぶしたからだ。しかし、より本質的な原因は、ネットスケープがIEの追撃を振り切る囲い込みの手段をもっていなかったことだ。初期には、クライアントは無料にしてサーバでもうけるというモデルだったが、これはうまく行かなかった。後年にはNetcenterを「ポータル」にしてもうけることを試みたが、これは遅すぎた。

他方、グーグルが成功したのは、これも第一にマイクロソフトがつぶさなかったからだ。これは、ある意味では最初の成功の副産物である。IEによってウィンドウズを守ることに成功したマイクロソフトは、司法省との訴訟でブラウザをOSの一部と主張した結果、MSNなどのサービスと統合する戦略をとれなかった。訴訟後は保守的・官僚的になり、主な仕事はセキュリティのパッチをつくることになってしまった。そしてグーグルは、メールやカレンダーなどの個人情報によって着実に囲い込みを始めている。

ビル・ゲイツの後継者となるRay Ozzieは"Internet Service Disruption"という内部文書で、マイクロソフトの失敗の原因を分析している。彼が、その第一の原因にあげているのが、広告による経済モデルの軽視だ。パッケージを売るという伝統的なソフトウェア流通チャネルにこだわった結果、マイクロソフトはインターネットによる効率的な流通システムの開発に後れをとってしまったのである。

しかしマイクロソフトは、パッケージ流通モデルを捨てることはできないだろう。失うものが大きすぎるからだ。Ozzieがタイトルで暗示しているように、かつてIBMが大型機のビジネスを守ろうとしてPC革命に敗れたのと同様の「イノベーションのジレンマ」に、マイクロソフトも直面しているのである。

グーグルがウィンドウズに代わる独占的なプラットフォームになるかどうかは、まだわからないが、確実なのは、ようやくマイクロソフトの時代が終わろうとしているということだ。ウィンドウズは(少なくともデスクトップでは)独占であり続けるだろうが、それは電力を東電が独占しているのと大して変わらない意味しかなくなるだろう。これは成功した企業としては自然なライフサイクルである。むしろMS-DOSから20年以上にわたってトップランナーだったのは、交代の激しいこの業界では、異例に長い「青春時代」だった。

The King is dead. Long live the King!

グーグル・アマゾン化する社会

森健『グーグル・アマゾン化する社会』(光文社新書)には、次のような記述がある:
ウェブブラウザというソフトが生まれたのが、1994年。NCSAの研究員だったマーク・アンドリーセンによって開発されたそのソフトは、モザイクと名付けられ、まもなくネットスケープ・ナビゲータと改名された。(p.52)
ブラウザが生まれたのは、1994年ではない。最初のブラウザは、1990年にTim Berners-Leeの開発したWorldWideWeb(のちにNexus)であり、NCSA Mosaicが公開されたのは1993年である。アンドリーセンは研究員ではなく、学生アルバイトだったし、モザイクとネットスケープはまったく別のソフトウェアである。

これ以外にも、ライブドアの堀江貴文代表や、シカゴ大のローレンス・レッシグが登場したり、ベル研がルーセントから独立したりする珍無類の本だ。内容は、ほぼすべてウェブなどの2次情報の切り貼りで、最後は靖国問題やら同時多発テロがどうとかいう床屋政談で終わる。Web2.0でプロとアマとの差が縮まっているというのは、本当らしい――プロのレベルがアマの域に近づいている点では。

Googleカレンダー

Googleカレンダーが日本語版になった。もともと英語のカレンダーに日本語で記入していたが、今日からカレンダーも日本語になった。勝手に野球の予定が入っていたりするYahoo!カレンダーに比べて、デザインも洗練されている。ただし、祝日などは日本に対応していない(*)

最近は、メールもGmailで見ることが多くなった。ながくgooメールを使っていたが、スパムに対応できない。Gmailのフィルタリング機能は、POPFile並みに強力なので、そのうちPOPメールもやめて、こっちに一本化するかもしれない。

もともと検索もニュースもグーグルだから、これでスケジュール管理もグーグルになると、私の生活はほとんど「グーグル漬け」だ。Windowsがアプリケーションでユーザーを囲い込んだように、こっちは個人情報で囲い込むので、他に変更するのは容易ではない。こうなると、検索はもうone of themにすぎない。今ごろから、検索エンジンだけ日の丸でつくっても、完成したころにはグーグルは別の会社になっているのではないか。

(*)これは間違い。コメント参照。

Google.orgは社会貢献のイノベーションになるか

グーグルは、貧困・感染症・環境などの社会問題の解決を支援する組織、Google.orgを立ち上げた。これはNPOではなく、社会に貢献する企業に投資するベンチャー・キャピタルのような形で支援を行う営利企業で、個人資産ではなくグーグルの株式の1%(時価評価で12億ドル以上)を資本としてつくられる子会社である。

営利企業で行うのは、NPOでは行える事業の範囲が税法によって制限されているからだという。企業であれば、税金さえ払えば何をやってもよい。支援の第1弾として、燃費のきわめてよいハイブリッド車の開発に投資することが決まった。このように社会的な外部性を内部化しにくいプロジェクトを育て、かつ市場原理も生かすという点で、これは政府の補助金よりも効率的な政策手法のイノベーションになりうる。

しかしコーポレート・ガバナンスの観点から考えると、このやり方には問題がある。創業者たちは「Google.orgの目的は利益を上げることではない」と公言しているが、利益の上がらない子会社をつくるのは、株主にとっては、キャッシュフローを浪費するモラル・ハザードである。

ただグーグルは、IPOの際にも、経営者だけに1株10票の議決権を割り当て、「株主の利益は最優先の目的ではない」と公言してきた。株主利益を超えた社会的リターンを目的とする企業理念からすれば、首尾一貫してはいる。その理念に共感して優秀な技術者が集まり、結果としてそれが株主の利益につながっていれば、経営者が株主を無視して行動しても、放置しておいてよい。

問題は今後、グーグルの指数関数的な成長が止まり、経営者と株主の利益が一致しなくなったときだ。こういうときは、株主に権限を移し、リストラを行うのが普通だが、そういうとき最初に削減されるのは、利益に貢献しないことが明らかなGoogle.orgだろう。そういう不安定な基盤で、長期的な社会貢献ができるだろうか。

こう考えると、少なくとも連結子会社で社会貢献を行うことは望ましくない。営利企業でやるという実験はおもしろいが、それは創業者の(あり余る)個人資産でやるべきではないか。

映像ダウンロード

アマゾンのUnboxに続いて、アップルがiTunes Storeで映像のダウンロード配信を開始し、NBCもNBBC(National Broadband Company)という名称でGoogle Videoと同様のシンディケーション・サービスを開始すると発表した。どれも日本からは使えないが、ワシントン・ポストによると、まだ実用の域には達していないようだ。

アマゾンのラインナップは1000本ぐらいあるが、値段はDVDとほとんど同じで、画質はDVDより少し落ちる。ダウンロードするには、専用のソフトウェアが必要で、DVDにコピーすることはできない。またファイルサイズが大きいため、45分の番組をダウンロードするのにDSLでも2時間近くかかる。

アップルでダウンロードできるのは、ディズニーを中心に70本だけで、値段は同じぐらい。音楽と同じiTunesでダウンロードできるが、やはりDVDにはコピーできない(もちろんiPodにはできる)。ファイルサイズはアマゾンの半分ぐらいだが、それでもダウンロードに30分以上かかる。こういう問題は、アクセス系だけ太くなってもだめで、やはりP2Pのような合理的なアーキテクチャが必要だろう。

この分野には何年も前から同様のサービスがいくつもあり、どれも成功していないが、アマゾンやアップルのようなメジャー・プレイヤーが出てきたことは重要だ。彼らが日本でも同様のサービスを始めることは確実だから、日本のテレビ局がいつまでもインターネットを拒否していると、音楽配信のようにアップルのひとり勝ちになるかもしれない。

同じようなことは、娯楽産業の歴史では何度も起こっている。テレビが登場したころ、日本の映画会社は「五社協定」でテレビをボイコットした結果、最大の市場を失って衰退した。他方ハリウッドも、最初はテレビを拒否したが、60年代からディズニーがテレビ番組で大成功し、これを見て他社もテレビを新しい販路として利用し始めた。特に1970年にFCCが「フィンシン・ルール」でテレビ局に外部調達を義務づけたことで、番組のシンディケーションが大きな市場になったのである。

娯楽産業のカルテル体質は、どこの国でも同じだが、アメリカでは抜け駆けしたほうが得だとわかるとカルテルが崩れ、むしろ新しいメディアに先を争って進出するようになる。これに対して、日本は横並び体質が強く、ボロボロになって古いプレイヤーが退場しないと体質が変わらない。このままでは、せっかくブロードバンドのインフラは世界に先駆けて整ったのに、それを使ったサービスではアメリカに先を越されそうだ。

論文捏造

村松秀

中公新書ラクレ

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NHKの「BSドキュメンタリー」を新書にしたもの。NHKの番組は、多大な経費と時間をかけてつくっているという神話があるようだが、実際には一番コストのかかっている「NHKスペシャル」でも、予算は(人件費込みで)3000万円ぐらい、制作期間も3ヶ月ぐらいだ。だから、1本の番組を無理に書籍化すると、たいてい中身の薄いものになってしまう。本書も、番組としてはよくできていたのかもしれない(いくつか賞をとっている)が、本としては取材の苦労話が多く、やや冗漫だ。

とはいえ、事件のスケールは大きい。テーマは、ベル研究所で起きた物理学の論文の捏造事件で、犯人のヘンドリック・シェーンが書いた論文は、超伝導を実現する温度の世界記録を更新するものなど、5年間に63本。掲載誌のほとんどは"Science"や"Nature"を初めとする一流誌で、彼は31歳でマックスプランク固体物理学研究所の共同所長に内定し、ノーベル賞受賞が確実視されていたという。ところが、そのデータは実験をせずにコンピュータで生成したもので、実験設備もサンプルも犯人以外は(20人もの論文の共同著者も)見たことさえないという、物理学界のお粗末な実態が明らかになる。

著者を中心とする取材チームは、関係者に1年がかりで取材し、責任を追及する。しかし犯人は真相を語らないまま逃亡してしまい、最大の責任者(共同執筆者)である彼の元上司は「おかしいとは思わなかった」と主張し、学会誌の編集者は「データの捏造まで疑うことは不可能だ」と開き直る。多くのピア・レビューが行われたにもかかわらず、同じグラフを複数の実験データで使いまわし、ノイズまでそっくり同じという単純な手口が見抜けなかったのは、ベル研の権威をだれもが信じていたためらしい。

要するに、学界では「捏造なんてやったら、キャリアは一生台なしになる」という長期的関係による規律が働いていると信じられていたのだ。しかし韓国のES細胞事件をはじめ、日本でも旧石器時代の遺跡捏造事件や、理研、大阪大、東大などで論文データの捏造事件が続発している。これは科学者の世界でも、長期的関係による暗黙のガバナンスがきかなくなってきたことを意味するのかもしれない。






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