アルファブロガーという和製英語

私も最近は「アルファブロガー」と呼ばれるようだが、これって英語で見たことがないので、Wikipediaで調べてみると、案の定出ていない。日本語版にはあるが、それによると、2004年のNewsWeekの記事が出典らしい。この記事をよく読むと、
By dint of reputation, novelty and charm, certain "alpha bloggers" have built large and influential audiences. [...] The alphas, or "A-listers," as they call themselves...
と書いてあって、むしろブロガーは自分では"A-list"と呼んでいるようだ。この記事のalphaというのは、英語で「主要な」とか「最初の」という意味の形容詞だろう。それがFPNの「アルファブロガーを探せ」という企画で流行語になったらしい。

グーグルで検索してみると、"alpha blogger"は6万件(ほとんど日本語サイト)しか出てこないが、"A-list blogger"は14万件出てくる。それよりもblogebrityという造語のほうが多く、62万件あるが、いずれにしてもbloggerが1億6000万件も出てくる中では、定着した英語とはいえない。ところが「アルファブロガー」で検索すると、85万件以上も出てくる。要するに、これは和製英語なのである。

別に当サイトは「アルファブログ」(という言葉はなぜかないようだが)になりたいとも思っていないが、毎日2万PVを超えるようになると、日本のブログ界の特徴がわかっておもしろい。先日の「生産性」論争でもうんざりしたのは、経済学の専門用語を理解していない人が多いのはしかたないとしても、「理屈は正しいが言い方が悪い」とか、逆に「山形氏の表現は悪いが彼の気持ちは・・・」といった反応が多いことだ。これも英語には翻訳できない表現である。藤原正彦氏の推奨する「論理より情緒」というやつだ。

もう一つの特徴は、2ちゃんねるの悪影響で、匿名による悪口(批判ともいえない感情的なもの)が多いことだ。スラッシュドットでいう「匿名の卑怯者」(Anonymous Coward)が圧倒的多数なのである。このように「ロングテール」の部分の質が悪いため、実名で書かれている一部のブログが「アルファ」になっているだけだから、あなたがアルファブロガーになろうと思ったら簡単だ。中身なんかどうでもいい。今どきの話題に乗って、ハウツー的な知恵をリストアップし、キャッチーな見出しをつければいい。これは吉田望さんもいうように、広告代理店からみればありふれたテクニックである。

日本のIT産業をだめにした「パラダイス鎖国」現象がブログでも進行しているのは、困ったものだ。ICPFでは来月、シンポジウムで「日本のブログはこれでいいのか」という討論会を行う予定である(詳細はまもなく発表する)。

よみがえるゴア

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アル・ゴアの映画『不都合な真実』が、ドキュメンタリー部門でアカデミー賞を受賞した。彼は、今年のノーベル平和賞の有力候補と目されている。Economist誌は、いま彼が出馬すれば、民主党の候補になれると予想している。タイムマシンで過去に戻れるとすれば、アメリカ国民は2000年を選ぶだろう。その後の調査によれば、あのときフロリダ州のパームビーチ郡の無効票が計算しなおされていれば、ゴアが選挙に勝っていた。

彼が大統領になっていれば、アフガニスタンに対する戦争は行ったが、イラク戦争は行わなかっただろう(彼は開戦に反対した)。京都議定書は批准され、発効しただろう。マイクロソフトは司法省との訴訟に敗れて分割され、地域電話会社も再分割されただろう。ゴアの「大きな政府」路線を批判したブッシュが、戦争と金持ち減税によって史上最悪の財政赤字を作り出してしまったのは皮肉である。

NBCの「サタデーナイト・ライブ」は昨年、アル・ゴアの大統領演説を放送した。「京都議定書が批准され、地球温暖化は止まったが、氷河が増えて困っている。」「最高裁判事に指名したマイケル・ムーア氏の議会承認は困難だった。」「野球はステロイド問題で混乱しているが、コミッショナーのジョージ・W・ブッシュ氏は、電話を盗聴してステロイド使用者を見つけ出すといっている。」選挙演説も、これぐらいウィットがあればよかったのにね。

バブルとその崩壊は止められたか

5b4b1f5a.jpg「バブルへGO!!」という映画が上映されている。私は見てないし見る気もないが、あの時代のいくつかの岐路にタイムマシンで戻ったらどうなるだろうか、というテーマはおもしろいので、冗談半分に考えてみた:
  1. 1985年:プラザ合意のときの円高誘導そのものはやむをえなかったが、それによる「円高不況」に対して金融緩和だけで対処したため、空前の金余り(バブル)が出現した。このとき財政出動しなかったのは、大蔵省が財政再建に固執したためだった。その上、貿易不均衡を是正するため「内需拡大」を求めるアメリカの圧力もあった。
  2. 1990年:バブルが崩壊したきっかけは、1989年5月から始まった日銀の公定歩合引き上げと、90年3月に始まった大蔵省の不動産融資の総量規制だった。なかでも総量規制のおかげで、その抜け穴になっていた住専に過剰融資が流れ込んだ。映画では、広末涼子がこの総量規制をやめさせるため、過去に時間旅行するという設定になっている。
  3. 1993年:最大の岐路は、不良債権処理だった。この問題を決定的に深刻化させた原因は、前述のとおり大蔵省の寺村銀行局長が日住金の破綻処理を止めて農水省と密約を結んだことだ。
  4. 1997年:90年代後半には経済が立ち直りかけていたが、それをぶち壊したのがこの年11月の拓銀と山一証券の破綻をきっかけとする信用不安だった。最大の失敗は、この直前の三洋証券の破綻のとき、インターバンク市場で債務不履行が起こったことだった。
  5. 2003年:最後の岐路は、りそなの実質国有化だった。これは国家ぐるみの粉飾決算といっても過言ではないが、結果的に不良債権処理は幕引きされ、日経平均株価は4月に7607円の最安値をつけた後、回復し始めた。他方で金融庁は、「竹中プラン」で他の銀行にも不良債権処理を促進する圧力をかけたため、処理が急速に進んだ。
タイムマシンで1980年代に戻ったとしても、1の時点でバブル発生を経済政策によって防ぐことはむずかしかったと思う。適切な政策をとっていれば、景気循環はもっとゆるやかになっていただろうが、おそらくバブル自体を防ぐことはできなかっただろう。当時、その後の事態を予想した人は一人もいなかった。バブルという言葉さえ、1991年まで使われていなかったのである。

では、2の時点でその崩壊を防ぐことはできただろうか。それも無理だろう。バブル崩壊は、本来の生産性以上に積み上がった投機の「水準訂正」であり、政策で止めることはできない。映画のテーマになっている総量規制も、残念ながら決定的なターニングポイントとはいえない。実際には、公定歩合は1991年7月には引き下げに転じたし、総量規制も91年末に終わったが、その後もバブル崩壊は続いた。

しかし3は、明白な大蔵省の失敗であり、政策によって防げたはずだ。住専の処理を誤ったため、これに公的資金を投入したことが世論の反発を呼び、そのために銀行への公的資本注入が遅れ、奉加帳方式によって官民あげての大規模な粉飾決算が行なわれた。これが不良債権の規模を10倍近くにふくらませ、日本経済をめちゃめちゃにしたのである。

4の信用不安は、三洋証券の破綻のとき、日銀が融資するなどして、インターバンク市場で銀行の債権を保全していれば、防げた可能性が高いが、大勢に影響はなかっただろう。5のりそな救済は、前にも書いたように功罪なかばするというのが公平な評価か。

だから映画としてはつまらないが、決定的なターニングポイントは総量規制ではなく、1992年に寺村信行氏が銀行局長になったことだと思う。このとき、エースの小川是氏(のちの事務次官)が損失補填問題を処理するため証券局長に回り、銀行局に一度も勤務したことのない寺村氏が銀行局長になった。当時は、主計局長になりそこねた同期のNo.2が銀行局長になるという悪習が残っていたのだ。

そのころ業界関係者は「証券スキャンダルはもう終わったのだから、今度は不良債権だ。これは小川さんぐらいのワルでないと乗り切れない。寺村さんは極端にrisk averseという評判だ」と危ぶんでいた。当時の銀行局の部下も「局長が寺村さんになってから、会議が2倍になって決まることが半分に減った」とこぼしていた。もし広末涼子が1992年に戻れるなら、寺村銀行局長と小川証券局長の人事を逆に発令すべきだと思う。

ハイエクのジレンマ

Marginal Revolutionで、ハイエクをめぐる議論が盛り上がっている。この記事(のリンク先のエッセイ)もおもしろいが、コメントの水準も高い。これを読むと、アメリカのブログがアカデミックな議論の場になっていることがわかる。

ここでTyler Cowenが提起している「ハイエクには意味があるか?」という問題は、自由主義の将来を考える上で重要である。ハイエクは、社会主義を否定して市場の自生的秩序を賞賛したが、彼の主張には致命的な矛盾が含まれている。社会主義も、それ自体が政治的な進化の結果、成立したという意味では自生的な秩序だからである。

資本主義も、ハイエクの想定するような自生的な進化の結果うまれたものではない(そうであれば地球上のすべての文明圏が資本主義になっていただろう)。資本主義は、財産権や絶対主義などの西欧に固有の法・政治的な制度によって生み出された特殊な経済システムであり、それが人類を幸福にしたのかどうかは、まだわからない。

ハイエクは、一般には「保守的」な経済学者と呼ばれるが、彼はそのレッテルを拒否している(『自由の条件』後記)。彼は既成事実をすべて認めるという意味での保守主義にくみするものではなく、自由を侵害する国家の介入には対決すべきだと考えているからだ。しかし、これは彼がエドマンド・バークを援用して説く「伝統のなかには歴史的に蓄積された人々の知恵が織り込まれているので、それを科学や理性の名によって『改革』することは誤りだ」という主張とは矛盾する。

このようにすべての改革を否定するのがバーク以来の保守主義の本流であり、日本でもフジサンケイグループなどでおなじみだ。ハイエクも『自由の条件』のころまでは、社会主義を否定するために改革すべてを否定する傾向が強かったが、晩年の彼は福祉国家への批判を強め、それを「改革」する必要を説くようになる。それがサッチャー=レーガン改革を生み出したわけだが、保守主義的改革というのは形容矛盾である。

この意味で小泉政権の手法は、小谷清氏も指摘するように、保守主義というよりは設計主義といったほうがよいが、これはまさに初期のハイエクが批判した設計主義の欠陥を露呈する。たとえば郵政民営化が経済政策として意味があるかどうかについて、多くの経済学者は否定的だ。竹中総務相が行なった通信・放送改革は、まったくナンセンスなものだった。理想的な「ビジョン」を描いて改革しようとする発想には、すべてハイエクの批判する「ユートピア的社会工学」に陥る危険がある。

理論的に整理すると、これは非凸の最適化問題で、複数均衡のもとでの均衡選択をどう考えるかという問題である。バーク的な保守主義によれば、現状は過去の進化の結果なので、伝統を守るべきだということになる。これはこれで合理的な考え方で、現状はひとつの局所解だから、その近傍では何をするかというのは、どうでもいい。マクロ経済学者は、こういう問題ばかり議論しているが、日銀が金利を上げようが上げまいが、いずれ局所的な均衡に収束する。

しかし問題は、現状が全体最適になっているかどうかだ。こういう問題を解くときは、保守主義の漸進的改良(解析的な最適化)は役に立たない。局所解がサブオプティマルであっても、そこに収束してしまうからだ。しかし特定の目標を全体最適とみなして改革を行なうことも、リスクをともなう。経済のように複雑なシステムで全体最適が明確に定義されるはずもないし、そういう解が存在するかどうかも疑わしいからだ。

この二律背反をハイエク自身の発想によって解決するには、こうした均衡選択の問題そのものを試行錯誤によって解く「メタ進化論的」なアルゴリズムを考えるしかないだろう。その一つの候補は、遺伝的アルゴリズムのような突然変異を利用したメカニズムだ(ゲーム理論で有名なのはKandori-Mailath-Rob)。労働・資本資本市場の改革で参入・退出を容易にし、局所解を脱却する創造的破壊によって全体最適解をさがすのである。

だからCowenの問いに対する私の答はYesである。ハイエクの進化論的な経済思想は、現代においても意味がある。情報社会を考える上でも、新古典派経済学は何の役にも立たないが、ハイエクは知的財産権についても示唆を与えてくれる。

日本のソフトウェアはなぜだめなのか

最近、ブログのイジメ屋といわれている池田ですが、また小姑モードで・・・

小飼弾さん経由で、渡辺千賀さんのブログの記事を読んだ。「日本の自動車産業が世界に冠たるものになったのは、日本政府が自動車産業を守らなかったから」というのも疑問があるが、「日本のソフトウエアは自動車同様、ほとんど保護を受けなかった産業の一つだが、そのグローバル競争力は地を這っている」というのは明白な間違いである。

日本のソフトウェア産業は、初期から政府の手厚い保護と指導のもとに置かれてきた。1960年代には、通産省はIBMの参入を遅らせ、その国産メーカーへのライセンス供与の交渉を政府が行なった。70年代には、通産省はIPA(情報処理振興協会)を設立し、電機メーカーを糾合してIBM互換(大型)機をつくらせ、「国産ソフトウェア」を開発する官民プロジェクトに多額の補助金を投入し、すべて失敗した。その代表が、シグマ計画TRONである。

しかし小飼さんもいうように、ゲームソフトでは日本は圧倒的な成功を収めたので、「日本のソフトウェアがだめなのは英語が苦手だから」という渡辺さんの説明には説得力がない。プログラミング言語に国籍はないので、むしろ日本語の壁を超える足がかりになったはずだ。

私は、1980年代にゲームソフトの番組をつくったことがある。「スーパーマリオ」の宮本茂さんと「ゼビウス」の遠藤雅伸さんが登場し、「ポートピア殺人事件」の堀井雄二さん(のちの「ドラゴンクエスト」の作者)のインタビューを没にした、いま思えば贅沢な番組だった。

彼らの印象は、日本社会の本流からはずれた人たちだということだった。有名大学出身の人はまずいないし、大学を中退した人や電機メーカーをやめた人など、どこか傷ついた人が多かった。遠藤さんは自分で「落ちこぼれ」だといっていたし、堀井さんは「ボクは大きくなったら何になるんでしょうね・・・」とつぶやいていた。彼らの話はとりとめなくて編集がむずかしかったが、三度の飯よりゲームが好きだということだけは強烈に感じられた。

いま思えば、それがゲーム産業の成功の秘訣だったのだ。当時、通産省は「メインフレームの次は人工知能だ」とか「日本発の国際標準をつくる」とかいうビジョンを語っていたが、官僚の理路整然とした話には、ゲームおたくたちの「熱さ」がなかった。子供向けの産業は、役所や大手メーカーの視野に入っていなかったので、彼らの知らないうちにゲーム産業は力をつけ、気づいたときにはファミコンは1機種の「コンピュータ」として世界最大のベストセラーになっていた。対米進出するときも、アメリカのゲーム産業は「アタリ・ショック」で壊滅したのでだめだ、と業界関係者はみんな反対したが、任天堂は自分のリスクで進出した。

任天堂が成功したあとでさえ、ソニーの経営陣は久多良木健氏の提案したプレイステーションを「おもちゃはソニーの社風にあわない」として棄却した。それが復活したのは、大賀社長(当時)が「やらせてみればいいじゃないか」といったからだった。大手コンピュータ・メーカーは、ゲームを無視した(*)

要するにソフトウェアも、役所が保護した分野は失敗し、役所も大手メーカーも無視した分野が成功したのである。任天堂やソニーのゲーム部門は、80年代以降にできたので重厚長大産業のようなピラミッド型組織ではなく、小さな若いソフトハウスの連携によって多様なゲームソフトが開発された。エニックスは、サラリーマンではなく「作家」を育てるシステムをつくって、「ドラゴンクエスト」で大成功を収めた。

だから問題は英語教育ではなく、日本人のもっている創造性を下請け・孫請け型の「ITゼネコン構造」に埋没させないで、自由に発揮させることだ。それにはベンチャーキャピタルのような資金調達システムも必要だが、いちばん大事なのは技術者のモチベーションを引き出し、彼らのアイディアをビジネス化して、多様な実験を可能にすることだ。そのためには、役所やITゼネコンが退場することが必要条件である。

(*)正確にいうと、MSXやPC Engineや3DOなど、電機メーカーがゲームに進出しようとしたケースはあるが、すべて失敗した。

環境省にとって不都合な真実

環境保護は、現代の宗教である。科学的に証明されていない教義を多くの人々が信じ、それを道徳的なこととして他人に押しつける。特にたちが悪いのは、これが「国定宗教」とされ、政府が経済活動を統制する根拠に使われることだ。それを布教するのは、政府に保護されているマスメディアである。彼らは科学的根拠のないリスクを針小棒大に騒ぎ、それが嘘であると判明しても訂正しない。そのために膨大な税金が浪費され、多くの人が必要のないコストを負担する結果になる。

武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』は、こうした「環境教」の倒錯した教義の具体例をあげ、その誤りを科学的に明らかにしている。たとえば
  • ペットボトルのリサイクルは、資源の浪費である。リサイクルするには、そのペットボトルの量の3.5倍の石油を必要とするので、リサイクルすると石油の消費量は増える。事実、1993年から10年間で、リサイクルが増えたため、資源の消費量とゴミの量は7倍になった。
  • ダイオキシンは猛毒とされているが、その毒性はラットやマウスの実験によるものであり、人間に対する毒性はきわめて弱い(中西準子氏によればタバコの1/3000)。ゴミ焼却炉からは大量のダイオキシンが出たが、焼却炉で中毒症状が起きた事例は一つもない。全国で1兆円以上の税金を投じて行なわれた焼却炉の改造は浪費である。
  • 「環境ホルモン」と称するものは、まったく人体に害はない。
  • 地球温暖化で北極と南極の氷が溶け、海面が上昇するというのは誤りである。北極の氷は海面に浮いているので、溶けても海面は上昇しない。南極は-50℃で「過冷却」になっているので、気温が上昇すると水蒸気が凍結し、氷が増えて海面は低下する。海面が上昇するのは、陸地よりも海水の膨張率のほうが高いためであり、その影響は限定的だ。
  • DDTが禁止された結果、アフリカでは蚊が繁殖し、その媒介するマラリアによって年間200万人が死亡している。
ただし、最後の章には疑問がある。本当の環境問題は「石油の枯渇」だというが、その根拠はなんと1972年のメドウズの「成長の限界」論だ。これは現在では、環境保護派にさえ否定されている(Lomborg)。また環境教よりたちの悪い「食糧安全保障論」が出てくるのも悪い冗談だ。せっかく「ニセ科学」を撃退した著者が、結論で「水からの伝言」を唱えるようなものである。

追記:IPCC第4次報告書の全文は5月に発表される予定で、そのドラフトがいま研究者に閲読されているが、その概要がChristopher Monckton卿によって明らかにされた。それによれば、
  • 今世紀中の気温上昇のbest estimateは、第3次報告書の3.5度から3度に下がった。
  • 第3次報告書で人為原因説の有力な根拠とされた「ホッケースティック現象」のグラフが削除された。
  • 海面上昇は、19~43cmに下方修正された。
全体として、第3次報告書の予測よりも下方修正されている。そもそも要約版が公表されてから本文が閲読されるという順序が、科学的手続きに反するものだ。この報告書は、科学的データではなく政治文書である。

政治資金報告書に会計監査を

小沢一郎氏が事務所費を公開して、自民党の政治家も公開しろと呼びかけているが、こんな部分的な問題ばかりいじってもしょうがない。最大の問題は、参議院議員の藤末健三氏が指摘するように、政治資金報告書に会計監査が必要ないことだ。監査さえ義務づければ、今回のような不透明な会計処理はできなくなる。

日本版SOX法などで、民間の会計ルールはきびしくなるばかりなのに、なぜ一国を動かす政治家が監査を免除されているのか。藤末氏の所属する民主党は、政治資金を政争の具に使うよりも、会計監査を義務づける政治資金規正法の改正を提案すべきではないか。

経済学は役に立つか

「生産性」論争は、思わぬ波紋を呼んでいるようだ。私はもう続ける気がないのに、あちこちで話題になって、「揚げ足取りだ」「学問の名によるイジメだ」「経済学ってそんな大したものなのか」といった話が盛り上がっている。

最後の質問からお答えすると、経済学って大したもんじゃない。昔から「憂鬱な科学」としてバカにされているように、それは自然科学のまねをしようとしてできない中途半端な学問である。では、まったく役に立たないかというと、ないよりはましだろう。変ないい方だが、経済学が役に立つのは、それが日常的な実感に合わないからなのだ

たとえば、サラ金に苦しんでいる人を救うには、直感的には上限金利を規制すればいいようにみえる。しかし経済学によれば、金利は資金需要と供給で決まるので、そういう規制をすると貸金業者の経営が悪化するだけでなく、借りたくても借りられない人が出てくる。現実に、オリコの経営危機が表面化し、融資を受けられない人への「公的融資」が議論されはじめた。政策決定に際して経済学の知識が共有されていれば、規制を強化する前からそういうコストを含めた意思決定ができたはずだ。だから公平にみて、学部レベルの経済学はかなり役に立つ。特に、政策の論理的帰結を考えないで「1段階論理」でバラマキを行う政治家のみなさんには、ぜひ学んでほしいものだ。

しかし大学院以上の経済学となると、急に役に立たなくなる。複雑な現象を厳密に議論しようとすると、ますます非現実的な仮定を加えなければならないからだ。たとえば大学院のマクロ経済学の教科書の最初には、永遠に生きて未来をすべて予測する超合理的な「代表的個人」が、経済全体をコントロールして成長率を最大化するという理論(Ramsey-Cass-Koopmans model)が出てくる。ほとんどSFの世界だが、大学院生になると、だれも驚かない。そういうやり方でしか、彼らの職業が成り立たないことを知っているからだ。

こういう古典力学的アプローチが根本的に間違っているという批判は古くからあり、シュンペーターもハイエクも、進化をモデルにして経済学をつくろうとした。彼らの本は、経済について新古典派よりもはるかに本質的な洞察を与えてくれるが、主流にはならなかった。主流になったのは、サミュエルソン以降の数学的理論だ。それはなぜかというと、公理系→定理→証明という手続きによって、自然科学に似た体系がつくれるからだ。経済学の論文の体裁は数学とほとんど同じで、定理を証明するという形式で書かれている。

トマス・クーンは、学問的なパラダイムが「通常科学」になる条件として、パズルの生産力をあげている。大きな科学者集団を維持するには、新しい問題が次々に作り出され、それを理論的に解明して実証的に確かめる手続きが明確で、多くの研究者が生活するための仕事がつねに生み出される必要がある。自然科学の学会はそのための組織で、経済学はそれをまねている。つまり経済学の形式的な学問体系は、彼らの生活手段なのである。

だから、パラダイムが危機に陥るのは、それが「反証」されたときではない。たとえばエーテル説は、1887年のマイケルソン=モーリーの実験で完全に反証されたが、ニュートン力学を捨てる物理学者はいなかった。彼らがそれを疑うようになったのは、それに代わる相対性理論が1905年に登場して以降である。新古典派経済学も、ほぼ全面的に反証されているが、それが生き残っているのは、それよりよい生活手段(理論体系)がないからだ。

しかし、このように厳密な体系が役に立つこともある。それは、その体系の中では命題の真偽が明確にわかるということだ。通常科学の中では、「正しいかどうかは解釈によって違う」といった曖昧さはない。真か偽か、1か0かである。もちろん適用する理論にも限界はあるが、それもどういう条件で適用できるかは明確だ。それが学問的な枠組みを参照するときの唯一の長所である。

だから最初に戻ると、私のやり方がイジメだという批判は当たっているが、揚げ足取りだというのは違う。世間の通念にさからって経済学(らしきもの)を説教するときは、その学問体系の中の厳密な言葉を使うべきであって、「賃金」が都合によって個人の賃金だったり平均賃金だったりするのでは話にならないし、「定理」としてデカ文字で掲げた命題と矛盾することを本文でのべるのは論外だ。そういう厳密さを捨てるなら、経済学の名によって語るべきではない。経済学の取り柄って、それしかないのだから。

追記:先日は、コメント欄で「チョムスキーなんて役に立たない」と書いたら、計算機科学の人から猛反発を受けた。言語学は、非自然科学の中では経済学と並んで形式的な体系の整っている学問だが、その実態が「疑似科学」である点も同じだ。しかし経済学者は「役に立たない」といわれても怒らない。いつもいわれているからだ。言語学者が批判を拒否するとしたら困ったものだが、これは言語学の外野にいる計算機科学の人の特殊事情かもしれない。言語学の人は「チョムスキーの理論は失敗に終わった」と認めた。

山形浩生氏へ

さすがに、今日の記事には驚いたね。君は自分で答えるのを放棄して、3人の有名な経済学者にガーナからEメールを出していたわけだ。いつも横文字を縦文字にして、その権威で商売している君の考えそうなことだ。しかし気の毒なことに、君の主張はだれにも支持されていない。まず君が赤いデカ文字で強調した部分を再掲してみよう。
賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。
この前半は経済学的にナンセンスな表現だが、君自身が言い直したところによれば、労働者の「個々の生産性」だ(私のいう限界生産性)。ここで君は明確に、賃金は個々の労働者の生産性で決まるんじゃないと言い切っている。これは非常に強い命題で、常識では考えられない。だから私も他の人々も、いろんな解釈を試みたわけだ。この命題をAとしよう。

ところが君は、きょうの記事では「ぼくは最初から、同じ経済の中での賃金差はそれぞれの労働の需給で決まるし、その労働の中ではその個々の生産性で(ある程度)決まるという話をしている」という。この命題をBとしよう。君の話を整理すると、こういうことになる:

A. 個々の賃金水準は個々の生産性で決まるんじゃない
B. 個々の賃金水準は個々の生産性で(ある程度)決まる

ここで最初に「個々の」と補ったのは、「それは全体の賃金水準のことだ」などという逃げを許さないためだ(後述)。そう解釈しないと、デカ文字の命題は「全体の賃金水準は個々の生産性で決まるんじゃない・・・」という無意味な文になる(*)

さて、いうまでもなくAはBの否定だ。同じ人物が、ある命題とそれを否定した命題を同時に主張するとき、それを読む人はどう解釈すればいいのだろうか。普通の解釈はひとつだ。彼は頭がおかしいのだ。Bを主張している人が、それとは正反対のAをデカ文字で強調して何度も繰り返すということが、常識で考えられるだろうか。

だいたい、最初の記事のどこに「個々の生産性で(ある程度)決まる」と書いてあるのかね。君は、いろんな例をあげて「技能や熟練水準と生産性とは、実はあんまり関係ない」とか「すべては需給なんだよ」と強調している。需給の結果決まる賃金は個々の労働者の(限界)生産性を反映しているという標準的な経済理論も無視して、賃金を決めるのは平均生産性なんだということをしつこく強調している。2回目の記事のタイトルでも「それでも賃金水準は平均的な生産性で決まるんだよ」と繰り返している。

そこで君のご自慢のEメールだが、質問はこうなっている:
全体的な賃金水準がその経済の平均的な生産性で決まるんだという発想――これはあなたのような自他共に認める立派な経済学者にとって、まるっきりばかげたものでしょうか?
当たり前じゃないか。これは、経済学者に聞けば100人中100人が正しいというだろう(私も正しいといった)。これとAを比べればわかるように、君は最初に個々の賃金水準についていったことを全体の話にすりかえ、自明の命題の正否を質問して、それが「完全に正しい」とお墨付きをもらって喜んでいるわけだ。だから、せっかくの権威ある回答だけど、何の意味もないんだよ。質問が嘘なんだから。

こうなったらはっきりいうが、こういう嘘は君のいつもの癖だ。君を知っている人は、驚かないだろう。小谷真理氏を中傷して訴えられたときも、レッシグの本のあとがきで嘘をついて私に謝罪したときもそうだった。あの質問状から5年たって、また同じような嘘に遭遇するとは思わなかったよ。悪いけど、これは経済学以前の、君の人格の問題だ。もうこれ以上、君と議論するのは無意味だからやめておく。嘘つきと議論するのは、時間の無駄だ。

(*)こう書いてもわからない人がいるようだから、コメントで補足説明しておいた。この問題は、論理的思考力の試金石だ。

追記:松尾匡氏からコメントがついているが、ここで彼が説明しているのは、平均所得が平均生産性で決まるという自明の事実である。ここでは労働者は同質で完全に移動すると仮定しているので、国内では賃金が均等化し、二国間でのサービス業の賃金格差は製造業と同一になる。このモデルでは、国内のプログラマとウェイトレスの賃金格差は説明できない。詳細はコメント欄参照。

はてなとdigg

先週の議論は、ブログ界ではちょっとしたイベントになったようだが、内容的にはおよそ論争とはいえない一方的なものだった。それは、もとになった記事がお粗末だったということもあるが、中立的な論争の場がないことも一因ではないか。山形氏のブログにはコメント欄がないため、当ブログのコメント欄が議論の場になり、1日100近いコメントが来て迷惑した。

アメリカでは、こういう場合にdiggで議論されるが、日本ではそういうメディアは、スラッシュドットと「はてなブックマーク」ぐらいだ(他にもあるがマイナーで使えない)。スラッシュドットは取り上げる話題が限られているので、diggに匹敵するのは、はてなだが、これはコメント欄が100字以内と小さく、議論もできるようになっていない。ついているコメントも、ひとりごとみたいなものばかりだ。

私の記憶では、はてなのブックマーク・サービスが始まったのはdiggより早かったと思うが、今ではブックマークの数で1桁以上の差がついている。これはもちろん英語と日本語の差ということもあるが、日本語のブログが世界の3割以上を占めているという数字から考えると、もう少しあってもいいだろう。アクセスを増やす方法としても、はてなのコメント欄をもっと広げ、何度もコメントできるようにして、議論の場にしてはどうだろうか。






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