武士道

去年は「ラスト・サムライ」のヒットで新渡戸稲造の『武士道』が売れるなど、ちょっとした武士道ブームだった。しかし新渡戸の説く武士道は、本来の武士とは無縁の、明治国家を基盤とする近代思想である、と菅野覚明『武士道の逆襲』(講談社現代新書)は批判する。

たしかに武士は、各藩に雇われた「私兵」であって、国家に徴用される近代の兵士とは違う。本来の武士道は、むしろ自立した個人としての「名」を重んじる思想だった。『軍人勅諭』が、その忠義の対象を「主君」から国家にすりかえることによって、武士道は軍国主義のイデオロギーになったのである。

近代国家が中世の都市国家にまさったのは、私的な傭兵ではなく徴兵制による常備軍を持ったためだが、この転換はきわめてむずかしい。それに失敗したイタリアは近代化に立ち遅れ、急速な軍備増強をはかったドイツは2度の大戦で連敗した。プロイセンの「国のかたち」をまねた日本は、このドイツの失敗のあとを追ってしまったわけだ。

近代国家の本質は、暴力装置を国家に集中するとともに私的な暴力を禁止する、軍事共同体である。最近の米国の突出した軍事的冒険主義は、それをあらためて認識させてくれる意味では教訓的だ。

Re: ソフトウェア特許

ソフトウェア特許については、ストールマンの古典的な論文を初めとして、山のような議論があるが、今の流れとしては、極端な「プロパテント」からの揺り戻しが起きているのではないか。論議を呼んだソフトウェア特許についてのEU指令も、見直せという議論が出ている。

とはいっても、法律を改正するのは大変なので、あとは司法の良識によって「コモンロー」で解決するしかないだろう。特許の範囲を限りなく狭く解釈し、特許無効の判決をどんどん出せばいいのだ。「知財高裁」も、専門家が冷静に知財の価値を判断する場になるなら、悪くないかもしれない。

その際の基準は、特許を無効にすることによる社会的な費用と便益のどちらが大きいかということだ。今回のヘルプ機能などは、松下はもうワープロを作っていないのだから、明らかに一太郎の製造禁止による被害のほうが大きい。こういうrent-seekingは排除すべきだ。

ソフトウェア特許

一太郎をめぐる驚くべき判決は、いろいろな反響を呼んでいる。私の印象では、これまで「ソフトウェア特許」について比較的せまく解釈してきた日本の裁判所が、「知財強化」の国策に沿って米国のように広く解釈する前兆のような気がする。

問題の特許は単なる「思いつき」であり、ほんらい特許の対象になるかどうかも疑わしいし、ジャストシステムも主張するように、こんなに広く解釈すると、Windowsのヘルプ機能ぜんぶが特許に抵触するおそれがある。

特許制度は、学問的には存在意義が疑わしいという意見が強い*。国家が介在するとしても、優秀な発明に賞金を与えて公開することでよかったはずだ。とりわけソフトウェア特許は、著作権と二重保護になっておかしい。今となっては、廃止するわけには行かないだろうから、なるべく限定的に運用してほしいものだ。

* e.g. Shavell, Foundations of Economic Analysis of Law, Harvard U.P.

大江健三郎

大江健三郎氏の「古希」インタビューが朝日新聞に出ている。それによると、彼は最近になって初めて「書くことがなくなってから本当の作家になる」と気づいたそうだ。それでは、今まで書いていた「憲法第9条」や「核戦争の恐怖」などをテーマにした駄作群はどうなるのだろうか。

とはいいながら、加藤周一氏などと一緒に「9条の会」を発足させたというから、結局なにも「成熟」していないわけだ。

地上波テレビのIP配信

長野県の栄村では、地上波テレビをADSLで配信する実験が行われているが、実用化には移れない。キー局が番組のIP配信を認めていないからだ。

しかし今後、地上デジタル放送を全国に普及させるには、ブロードバンドの利用が不可欠になるだろう。こういう「インターネット恐怖症」がテレビ局自身の首を絞めていることに、いつになれば気づくのだろうか。

NHKの再生

昨夜の「NHKの再生をめざして」という番組によれば、NHKの最大の課題は「視聴者の声を聞く」ことらしい。「ふれあいミーティング」などを増やして対話することが永井副会長の役割だという。

NHKも、問題の所在を誤解しているのではないか。こういうふうに自分たちのやっていることは正しく、必要なのは理解してもらうことだという「天動説」的な発想では、改革はできない。いま問われているのは、見ても見なくても取られる受信料という奇妙な制度なのだ。それに気づかないかぎり、NHKの再生はありえない。

政治との距離

朝日新聞は、問題はNHKの「政治との距離」だというが、ちょっと誤解があるのではないか。

まず、これまでに判明した事実関係から判断すると、自民党がNHKを「呼びつけた」のではなく、NHKが「ご説明」に行ったというのが正しいようだ。当初の朝日の記事のように「自民党がNHKを脅して番組をつぶそうとした」というストーリーではなく、NHKが「右翼などがうるさいので手直しした」ということを(予算の説明かたがた)自民党に報告に行ったという感じだろう。

とすると、問題は「距離」だけではなく「方向」の違いだ。少なくとも当初、朝日の想定したような「自民党→圧力→改変」という因果関係ではなく、「自主規制→改変→ご説明」ということではないか。そう理解すれば、中川氏には放送後に会ったという話も辻褄があう。たしかに安倍氏と会ったあと再編集が行われているが、それを安部氏が指示したわけではない。

これが「当然だ」という関根氏の話も、予算説明についてであればその通りだ。どこの省庁でも、この時期は有力な政治家にご説明に回る。NHKも一特殊法人として、当然のことをしたまでだろう。だから根本的な問題は、NHKが他の特殊法人と同じようにご説明に回らなければならないという経営形態なのだ。朝日が政治との距離を問題にするなら、受信料制度や民営化の是非も論じてはどうか。

NHK人事

会長に橋本専務理事(技師長)、副会長に永井多恵子氏(元アナウンサー)という「サプライズ」人事だ。このどちらにも、実質的な経営能力があるとは思えない。決めたのは海老沢氏だろうから、「院政」を敷こうということなのだろう。

しかし、そううまく行くだろうか。今回の一連の騒動をコントロールできなかったのは、海老沢氏を頂点とする「政治部独裁体制」の崩壊の始まりではないか。永田町とうまくやっていれば大丈夫という時代は終わったのだ。もともとバラバラの職種を束ねてきた独裁体制が崩壊すると、旧ソ連のように一気に「市場経済」に移行する可能性もある。

今回の辞任劇の最大の原因は、受信料の支払い拒否が激増しているという予想外の現象だ。去年の11月に11万件だったのが、3ヶ月で50万件に達するというのは尋常ではない。これは、ある意味では受信料制度が機能したということなのかもしれない。受信料は、NHKに対する「信任投票」でもあるからだ。

追記:海老沢氏は、さっそく「顧問」に内定したようだ。これでは改革は不可能だ。経営委員会も一新して、出直したほうがいいのではないか。

ポストコロニアリズム

誤解のないように断っておくが、私は今回のNHK問題の原因となった「女性国際戦犯法廷」を擁護する気はまったくない。というよりも、これは滅びゆく左翼イデオロギーを「ポストコロニアリズム」と衣替えして延命するイベントにすぎないと思っている。

本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書)は、その見本だ。内容のほとんどが他人の本の引き写しで、最後に「日本にとってのポスコロ」として、問題の「戦犯法廷」が登場する。女性で韓国人で人身売買となれば、法廷に参加した日本人はみんな「加害者」として懺悔しなければならないわけだ。

こういうレトリックの元祖は、マルクスとフロイトである。表面的な物語の「深層」にイデオロギーやリビドーなどの「本質」を発見する。ポスコロやカルスタは、そのパロディみたいなものだ。この種の「脱構築」のトリックは、「お前は潜在意識では差別している」といわれると、「していない」と反論しにくいところにある。「あなたはセックスに執着している」という精神分析と同じで、それ自体が物語にすぎないのである。

Re: Contract Theory

Bolton-Dewatripontをざっと読んだ。教科書としては現状でベストだと思うが、私のもっとも関心のあった「完備契約と不完備契約を統一的に説明する」という部分は、Maskin-Tiroleの批判とHart-Mooreの反論を紹介するだけに終わっている。

これは、ある意味ではやむをえないことで、現在の経済学のなかで両者を統一することは不可能といわざるをえない。というのは、争点は「契約後に再交渉しないことにコミットできるかどうか」ひらたくいえば「約束を最後まで守れるかどうか」ということにつきるからだ。契約が終わったあとでPareto-improvingな再交渉が可能な状況というのはよくあることで、普通は再交渉が起こる。

これを最初からrenegotiation-proofな契約を設計しようなどと考えると、恐ろしく複雑な話になり、本書でも結論は出ていない。日本の会社がやっているのは逆に、再交渉することを前提に最初はアバウトに決めて、「細かいことは終わってから詰める」というやり方だ。石油や板ガラスなどでは、取引が終わってから価格交渉をやったりする。

だから最後は、契約理論でブラックボックスになっている契約のenforcementのメカニズムが鍵になる。これを裁判所と考えるのは単純すぎ、現実には暗黙の社会的規範や「お互いに無茶はいわない」という長期的関係が担保だったりする。こういう制度の問題を考えないと、契約だけでcompleteな世界はできないので、むしろ経済学の「下部構造」として法(成文法とはかぎらない)の層があるのだ。







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