ICPFセミナー「政府の知的財産戦略」

先ごろ政府は「知的財産推進計画2007」を発表した。この計画の中でかなりのページが割かれている、著作権の扱いについて、知的財産戦略推進事務局の大塚さんに解説していただく。

デジタルコンテンツの流通促進、IPマルチキャスト放送へのコンテンツ流通の促進、違法複製されたコンテンツの個人による複製問題、ネット検索サービスに係る課題などについて、政府がどのような方針で臨もうとしているか、最新の情報をうかがう。

スピーカー:大塚祐也(内閣官房 知的財産戦略推進事務局 参事官補佐)
モデレーター:山田肇(ICPF事務局長、東洋大学教授)

日時:6月26日(火) 18:30~20:30
場所:東洋大学・白山校舎・5号館 5202教室
    東京都文京区白山5-28-20
    キャンパスマップ

入場料:2000円
    ICPF会員は無料(会場で入会できます)
申し込みはinfo@icpf.jpまで電子メールで氏名・所属を明記して(先着順40名で締め切ります)

ウェブは資本主義を超える

当ブログの記事をもとにした本が来週出る(アマゾンでは予約可能)。まえがき目次はウェブで読める。

「池田信夫ブログ集成」という副題がついているが、内容の1/3ぐらいは雑誌原稿や論文で、ブログの記事もあちこちに散らばった話をまとめ、大幅に書き換えたので、当ブログの読者が読んでも損はしないだろう。世の中にウェブの入門書は多いが、本書は「中級テキスト」をねらったので、「インターネットとは何か」を知りたい人には向いていないが、『ウェブ進化論』の次に読む本としてはいいと思う。

自分の本を自分で書評するわけにはいかないが、あえて一言いえば、よくこんな小むずかしいブログが毎日2万~3万アクセスも読まれるものだな、とあらためて不思議に思う。たぶん、これはブログがまだ発展途上のメディアだからで、紙媒体でいえば、昔、紙が不足していたころ『世界』などの総合雑誌が売れたのに似ているのではないか。ブログがもっとメジャーになり、ビジネスとして使われるようになれば、こんなまじめなブログの相対的な位置は下がるだろう。

著作権とか産業構造などの重いテーマをカジュアルに論じて、短絡的に結論を出しているように見える面もあるかもしれない。それぞれのテーマについて深く知りたい人は、私の学術論文を読んでもらうしかないが、本書が過去の論文と違うのは、狭い意味での経済学の枠組で必ずしも考えていないことだ。モジュール化とかオープンソースなどの新しい現象を分析するには、従来の物理学的モデルでは限界がある。経済学界でも、こういう限界は意識されはじめており、行動経済学や実験経済学などの新しい手法が試みられているが、それが新しいパラダイムを生み出すかどうかはわからない。

私がいつもブログの読者として思い浮かべているのは、霞ヶ関で夜遅くまでくだらないペーパーワークをこなしながら、日本はこれでいいのだろうかと疑問をもち、改革の方向をさぐっている若い官僚だ。そういう人に少しでも私のメッセージが届けばうれしい。

無料で読める本

Long Tail blogによれば、Chris Andersonの次の本"Free"は、文字どおり無料(広告つき)で、ウェブで全文が公開されるようだ。もちろん普通の紙バージョン(有料・広告なし)も出版される。"The Long Tail"も、無料で公開されている。このほかにも、私の知っている限りでは次のような本がPDFで全文を読める:日本では、こういうことはむずかしい。版元がOKしてくれないからだ。これ以外にも、無料で読める(読むに値する)本があったら、コメントしてください。

封建的特権としての著作権

5/31の記事について、問題を理解しないでごちゃごちゃコメントしてくる人がいるので、著作権について「法と経済学」の立場からあらためて整理しておこう。

第一に、著作権によって社会全体の利益が増加するという根拠はない。著作権の本質は、複製を禁止して独占を作り出すことなので、ほんらい経済的には好ましくない。それが許されるのは、独占によって情報生産のインセンティブを作り出す社会的利益が独占の弊害(消費者の損害と再利用の阻害)を上回る場合に限られるが、そういう結論は、理論的にも実証的にも証明されていない。知的財産権(独占権)の経済効果は負であるという研究もある。

またオープンソースをみれば明らかなように、複製を禁止することはインセンティブを高める必要条件ではない。特許の認められなかった初期の金融工学において爆発的なイノベーションが生まれたことは、よく知られた反例である。最近では、金融技術に「ビジネス方法特許」が適用されるようになったため、法務費用が激増してイノベーションが減退している、というのが実証研究の示すところだ。

第二に、著作権は近代的な財産権ではなく、もとは封建的特権(privilege)の一種だった。Wikipediaにも書かれているように、コピーライトは18世紀初頭に、ギルドが版木(copy)を独占することを王が許可する特権としてできたものだ。近代社会でギルドが廃止されたとき、コピーライトも廃止すべきだったが、これを特許権と一緒に「財産権」になぞらえて延命させたのだ(それが財産権ではないことは前述の通り)。

近代社会に封建的特権が残ることは少なくない。その一例は、レント(地代)である。レントは不労所得だから、財産権を「労働の対価」とする近代社会の原則の例外であり、労働のインセンティブを低下させる。したがってレントが地主に帰属することは(効率の点でも公正の点でも)望ましくないが、地主の既得権はきわめて強いため、現代に残っているのである。

同じことは、著作権にもいえる。著作権を死後50年から70年に延長することで著作者のインセンティブが増加する効果は期待できないが、子孫や仲介業者のレントが延長される効果は明らかだ。これ以上、著作権を強化することは、JASRACやテレビ局のような不在地主の特権を拡大し、情報生産を阻害するだけである。

この特権は国際的なギルドで守られているので、改革することはきわめて困難だが、長期的に考えれば、300年前につくられた特権がそう長く続くとは思えない。磯田道史『武士の家計簿』は、江戸時代末期の武士の封建的特権が形骸化していたことを実証している。武士は自分の「領地」を見たこともなく、その家禄はほとんど貨幣で支払われていた。物々交換を支配する武士の特権が貨幣によって「中抜き」されていたため、明治維新によって封建的特権が廃止されても、あまり抵抗がなかったのだ。

同様に、デジタル技術によって複製コストがゼロに等しくなった時代には、複製を禁止することによって情報を独占する仲介業者は中抜きされ、著作権は形骸化するだろう。最終的には「不在地主」は消滅し、知的財産権(という名の特権)は廃止されて、「小作人」として搾取されてきた本源的な情報生産者=情報消費者に富が配分されるシステムが実現すると考えられる。

そういう変化が、どのような過程をたどって実現するかはわからない。いろいろな制度設計が提案されているが、おそらく私が死ぬまでに実現することはないだろう。しかし、もしかするとこの記事を読んでいる学生諸君が死ぬまでには、改革が実現するかもしれない。グーグルのエリック・シュミットもいうように「避けられないものは避けられないのです。一時的に歩みを遅くすることはできるかもしれないが、そうすれば結局、最期を早めることになります」(『ウィキノミクス』)。

北朝鮮「偉大な愛」の幻

訳本で上下巻1200ページ以上の大冊だが、おもしろく読める。ただし、驚くほど新しいことは書いてない。アメリカ人には珍しいかもしれないが、日本ではいろいろなメディアで報じられている話が多い。その情報源も脱北者の証言などが多く、新発見の資料は少ない。

特に疑問が残るのは、なぜ金日成が30歳そこそこで「パルチザンの英雄」として国家元首になれたのか、という謎だ。長幼の序にうるさい儒教国で、20代の若者が抗日戦を指揮するとは考えにくい。実際にゲリラを率いた伝説の英雄「金日成」は別の人物で、彼の死後、ソ連に逃亡していた金成柱(本名)が金日成を詐称し、スターリンの支援を受けて党を乗っ取ったという有力な説がある。これについて著者は、彼が改名したことは認めながらも、くわしい検証をしないで、パルチザンの指導者だったことは事実だとしている。

朝鮮戦争についても、ソ連が国連の安保理で拒否権を行使しなかったのはなぜか、といった基本的な問題に言及もしていない。巻末の注でも、出所には金日成の回顧録などの二次資料が多く、著者は歴史の検証にはあまり興味がないようにみえる。それに対して、彼が見た平壌の庶民生活の描写や、貧困や飢餓などのディテールは、非常にくわしい(というか繰り返しが多い)。

類書に比べて、金親子にかなり好意的なのが本書の特徴といえよう。金日成については一定の評価をしているし、金正日はよくいわれるような狂人ではなく、自国の現状について一定の客観的な認識はもっているとする。しかし、それを改革する動きはなく、市場経済の導入もきわめて限定的だ。6ヶ国協議のような交渉で北朝鮮が核兵器の開発をやめるかどうかについては、著者は悲観的である。

便座についてのゲーム理論的分析

Boing Boingに、珍しく経済学の論文が紹介されている:
トイレで行為(オペレーション#1、#2と呼ぶ)のあと、便座を下ろすかどうかは、どこの家庭でも深刻な問題である。そのままにしておく戦略(J)と下ろす戦略(M)による非協力ゲームを考えると、双方ともJをとる状態(J,J)かMをとる状態(M,M)がナッシュ均衡となる。このうち(J,J)のほうが効率的だが、確率的なゆらぎのもとでは、(M,M)が安定(trembling-hand perfect)となる。妻が「あなた、また便座を上げたままにして!」と叫ぶからだ。
コメント:ここでは夫が便座を上げてオペレーション#1を行なうと仮定されているが、最新のmicroeconometricsによる実証研究では、若い男性の60%は便座を下げたままオペレーション#1を行なうという結果が出ている。この場合には、JとMに有意な差はなくなり、そもそも便座というものが必要かどうかの制度設計が問題となろう。

新聞の時代錯誤

著者は、日経新聞の乱脈経営について内部告発し、懲戒解雇処分を受けたが裁判で闘い、最終的には和解して復職した。しかし本書の主要なテーマは日経ではなく、「特殊指定」騒ぎなどにみられる新聞社の独善的な体質だ。これは当ブログでも指摘したことだが、現役の新聞記者が公然と批判したのは初めてだろう。同様の(OBによる)内部告発としては、『新聞社―破綻したビジネスモデル』(新潮新書)があるが、こっちは現在の宅配制度が行き詰まっているとしながら「再販制度は必要だ」としているのにあきれた。

現在の新聞社の体制は、戦時中にできた「メディアの1940年体制」による言論統制システムを継承している。さらに戦後の占領体制のもとでできた「日刊新聞特例法」による株式の譲渡制限や、その後に行なわれた独禁法の適用除外(再販)や特殊指定によって、新聞を市場メカニズムから除外するシステムができてしまった。著者は、それぞれの制度の起源をさぐり、それが「言論の多様性を守る」とかいう新聞協会の建て前とは無関係だったことを明らかにする。

何より問題なのは、著者もいうように、業界の方針に反する意見を封殺し、「両論併記」さえ許さない異常な言論統制だ。しかも新聞だけでなく、再販を批判した鶴田俊正氏や三輪芳朗氏の本は版元に出版を拒否された(その唯一の例外が本書の版元、東洋経済新報社)。この点でも、日本の新聞は戦時中の検閲体制を残しているのだ。

しかし状況は変わった。新聞や出版で言論を弾圧しても、ウェブ上の言論は量的にはそれをはるかに上回る。グーグルで「特殊指定」を検索すれば、出てくるサイトの圧倒的多数は新聞協会を批判するものだ。そしてインターネットは、遅かれ早かれ新聞を呑み込むだろう。本書は、そのへんのビジネス的な分析が弱い。

追記:コメントで教えてもらったが、日経新聞は本書の広告掲載を拒否したようだ。まぁ日経はジャーナリズムじゃなくて「情報サービス会社」だそうだから、中立・公正なんて知ったことじゃないのだろう。

資本開国論

著者は、いい意味でも悪い意味でも教科書的な経済学者である。1980年代後半に「現在の地価はバブルだ」と断定した経済学者は、彼だけだった。バブルが崩壊した後も、私の担当した番組で政府の景気対策について「財政政策は景気に中立だ」と発言して、キャスターが絶句したことがあった(これはマンデル=フレミング・モデルの話)。

本書も、かたくななまでに(ミクロ経済学の)教科書的だ。たとえば90年代のデフレについては、輸入物価の下落や技術革新による「よいデフレ」だとする。マクロ的要因を無視し、金融緩和は有害無益だという著者の立場は「構造改革原理主義」とも呼ばれる。小泉政権の経済政策についての評価も、世間の「市場原理主義」という批判とは逆に、異常な金融緩和で古い企業を延命したとする。

したがって著者の日本経済についての処方箋も、ミクロの構造改革だけを徹底するものだ。その主眼は、タイトルにもあるように資本自由化によって対内直接投資を増やし、企業買収によって日本企業の資本効率を高めることにある。また製造業を捨て、アイルランドのようにサービス業に重点を移すべきだという。賃金が低下しているのは「要素価格均等化」のためで、格差を是正するには国際競争力を高めるしかない。

本書は、日本経済の問題を教科書的にすっきり理解するにはいいが、意外性はなく、具体性に乏しい。日本企業が改革によって「コモディティ化」する製造業を脱却し、中国やインドにはできない付加価値の高いサービス業に移行すべきだというのはその通りだが、それは具体的にどういうビジネスなのだろうか。サービス業で1億人が食っていけるのだろうか。金融でもITでも、日本からグローバル企業が生まれる様子はないのだが・・・

著作権がイノベーションを阻害する

きのうの話はかなり込み入っているので、少し問題を整理して補足しておく。今回の判決は、日本の判例の流れの中では、それほど異例ではない。しかし問題は、法律を普通に(判例に沿って)解釈すると、こういう常識はずれの結論が出るということだ。こういうときは法律論ではなく、政策目標に立ち返って考える必要がある。

著作権を与える理由は、松本零士氏や三田誠広氏が錯覚しているように、芸術家に特権を与えるためではない。工芸品や宝石などにも「名匠」とよばれる人がいるが、彼らの芸術的価値は著作権で守られない。その価値は、作品を売ることで回収できるからだ。著作物についてだけ、買った後も複製を禁止する排他的ライセンス権を与えるのは、買い手が情報を自由に複製すると、競争的な価格が複製の限界費用(≒0)に均等化し、著作者が情報生産に投資するインセンティブがなくなるからだ。

他方、対価を払って買った商品(私有財産)を複製しようが改造しようが自由だというのが近代社会の原則である。買った後も複製を禁止する著作権は、この意味で財産権ではなく、財産権の侵害なのである。だからインセンティブの増加から消費者の損害を差し引いた社会全体のネットの便益が正か負かが問題だ。

たとえばMYUTAのサービスを禁止したら、「着うた」などの音楽配信でもうけているJASRACは料金収入を守れるだろう。しかし消費者は、家庭で買った曲を携帯で聞くためにもう一度料金を支払わなければならないので、二重に課金されることになる。問題はそれが本源的な著作者(音楽家)のインセンティブを高めるかどうかだが、これは実証的にはよくわからない。P2Pの場合でさえ、コピーによる宣伝効果のほうが大きいという調査結果もある。

ところが、さらに重要な第三の効果がある。この判決によって、インターネット上で情報を共有するサービスは、ほとんどの類型が違法となる。普通のサーバ業者が今のところ安全なのは、JASRACに目をつけられていないからにすぎない。もし「ユーザーが音楽ファイルを複製している」とJASRACに訴えられたら、ISPはプロバイダ責任制限法で免責されるが、それ以外のホスティング業者は賠償責任を負うおそれが強い。最悪の場合には、業務の差し止めや刑事罰も覚悟しなければならない。

今後、ベンチャー企業が同様のビジネスに投資をつのる際も、「JASRACに訴えられたら勝てるのか」という質問に答えられなければ、資金を調達できないだろう。日本にGoogleもYouTubeも出てこない最大の原因の一つが、こうした世界一厳重な著作権のリスクにある。Web2.0サービスのほとんどは情報共有を前提にしているので、今回のようにインターネット経由の情報共有を全般的に違法とする判決の萎縮効果は大きい。

つまり今回のような差し止め処分は、権利者のインセンティブを高める効果は疑わしい一方で、消費者のこうむる損害は明白であり、イノベーションを萎縮させる効果は大きいので、ネットの経済効果は負だと考えられる。JASRACの数百億円の利益を守るために、日本経済がこうむっている機会損失はきわめて大きい。Googleの時価総額だけでも17兆円、日本の音楽業界の売り上げの32倍である。

私は以前から書いているように、こういう問題をなくすには、情報の複製を「原則違法・例外合法」とする現行の規定を逆にして、原則として自由に流通させ、著作者の請求に応じて料金を支払い、そのルールに違反した場合に賠償責任を負う賠償責任ルールに変更すべきだと考えている。つまり著作者の許諾権を廃止して、報酬請求権のみとするのだ。

知的財産戦略本部もこうした問題意識はもっており、経済財政諮問会議にも同様の提案がようやく出てきた。先日も紹介した意見書は、「世界最先端のデジタル・コンテンツ流通促進法制(全ての権利者からの事前の許諾に代替しうる、より簡便な手続き等)を2年以内に整備すべきである」と提案している。特に、この提案者として日本経団連の御手洗会長が入っている意味は大きい。財界本流の力でJASRACのような弱小業界の抵抗勢力を蹴散らし、この提案をぜひ実現してほしいものだ。

サーバは複製の「主体」か

イメージシティ事件判決が、裁判所のサイトに出ている。私は法律の専門家ではないので、この判決が法解釈として正しいのかどうかはよくわからないが、常識的な立場から考えてみよう。主要な論点は2つ:
  1. 複製の主体はだれか:判決では「原告[イメージシティ]が設計管理するシステムの上で、かつ、原告がユーザに要求する認証手続きを経た上でされる」ので、複製の主体は原告であり、著作権法で許される「私的複製」には当たらないとしている。
  2. ファイル送信が公衆からの求めに応じて行なう自動公衆送信か:判決では「原告がインターネットで会員登録をするユーザを予め選別したり、選択したりすることはない」ので、ユーザは「不特定の者」だという。
この判決には、ブログ界では「ネット上にデータを保存するサービスはすべて著作権侵害で違法です」といった批判が強いが、実は1のような判断は今度が初めてではない。一昨年の録画ネット事件でも、録画の主体はハードディスクを保管している業者だという判決が出ている。録画ネットと今回のMYUTAは、自分で録画(録音)したファイルを自分で見る(聞く)という点でほとんど同じだ。「カラオケ法理」以来の判例からみると、今回の判決は当然ともいえる。

2も日本語の解釈として奇妙だが、これは複製・送信の主体を原告としたことの論理的な帰結だ。送信の主体がサーバなのだから、彼(彼女?)にとってはユーザーは不特定多数である。

この訴訟の裁判長は、高部眞規子判事である。ジャストシステムのアイコンを違法とした判決など、知的財産権についてエキセントリックな判決を出すことで知られるが、彼女が珍しく著作権を制限的に解釈した判決がまねきTV事件だ。この場合には、複製する機材をユーザーが所有しているから、複製の主体はユーザーだとされた。つまり彼女にとっては、主体か否かの基準は所有権の有無によるらしいのだ。

こういう解釈は、複製行為が個人の家庭で完結するような場合には意味があるが、インターネットで多くの情報が共有される時代には、ほとんどの情報処理の主体が機械だという奇妙な結論になる。ここまでおかしな判例が定着してしまうと、ストレージサービスはおろか、ホスティングサービスもすべて違法になるおそれがある。著作権法で曖昧になっている「主体」の解釈について、法改正か政令で明文化したほうがいいのではないか。






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