市場原理主義

このごろ、ほとんど毎日のように「市場原理主義」という言葉を目にする。しかも、それが肯定的な意味で使われることはまずない。たとえば今月の『文芸春秋』でも、例の藤原正彦氏が、ライブドア事件の元凶は小泉構造改革であり、日本社会に格差が広がっている原因も、市場原理主義だという。それに対する彼の処方箋は、「武士道」に回帰し「日本型資本主義」を広めることだ。

所得格差は、日本でも多くの経済学者が論じてきたテーマであり、そのほぼ一致した結論は「見かけ上の所得格差は拡大しているが、その主な原因は高齢化だ」ということである。高齢者はもともと所得格差が大きいから、人口の高齢化にともなって所得格差が開くのは当然であって、これは市場原理とも規制改革とも関係ない。

若者にフリーターのような非正規労働者が増えていることは事実だが、その原因は企業が退職者の不補充(新卒の採用抑制)によって雇用調整をしているためである。つまり中高年労働者の既得権を守る「日本型資本主義」が雇用調整を遅らせ、若年労働者の失業率を高めているのである。

市場原理主義が猛威をふるっているはずの日本で、「まちづくり三法」の見直しで郊外への大型店の出店が事実上禁止され、高速道路整備計画では今後9300km以上の「全線建設」が決まった。市場原理をきらい、「弱者保護」を理由にして既得権を守るのは、自民党の古いレトリックだが、藤原氏のような無知な「有識者」がそれを(結果的には)応援しているのである。

産業政策の亡霊

経産省が民間企業を集めて「国産Google」を開発するための研究会をつくったそうだ。こういう「日の丸プロジェクト」は1980年代以降、ひとつも成功したことがなく、もう産業政策はやめようというのが最近までの経産省の立場だった。ところが、そういう「小さな政府」路線でやっていると、予算が削られるばかりだということがわかって、最近また「大きなお世話」路線が復活しているらしい。

こういう「産業政策の亡霊」が一定期間ごとに霞ヶ関を徘徊するのは、過去の失敗を失敗として総括していないからだ。以前、いわゆる「大プロ」(大型工業技術開発制度)の成果についての事後評価を調べたところ、ほとんど記録さえ残っていないことに驚いた。予算を獲得するまでの企画段階では詳細な調査・研究が行われるのだが、その結果(ほとんど失敗)については何も総括が行われていないのである。

こうして過去の失敗は、その責任も問われないまま忘れ去られ、20年もたつと同じような日の丸プロジェクトが登場する。このように歴史に学ぶことのできない「ご都合主義的健忘症」は、霞ヶ関だけの病気ではない。かつての戦争をいまだに総括できないような国民には、この程度の官僚しか持てないのだろう。

ムハンマドの漫画

デンマークの新聞がムハンマドの漫画を載せた事件は、シリアのデンマーク大使館が放火される騒ぎに発展した。欧州では、漫画を転載した他の国の新聞もイスラム教徒の攻撃にあっている。これを報じる日本の新聞は、さすがに漫画そのものは転載していないが、ウェブにはたくさん流通している。解説つきでわかりやすいのは、Wikipediaのものだ。それを見ればわかるが、こんな騒ぎになるほどおもしろい漫画ではない。

Japan after livedoor

今週のEconomist誌で、ライブドア事件を論評している。論旨は、このブログの先週の記事とほとんど同じで、ライブドアのやったことは欧米なら明らかに犯罪だが、日本の規制には抜け穴が多すぎるので、検察のリークする情報は信用できない、というものだ。そして結論は、「市場原理主義」を批判するよりも規制を強化し、証券監視委の権限を強化してスタッフも増やすべきだ、ということである。

日ごろ「小さな政府」を一貫して主張しているEconomistが、「日本では、行政改革の問題は公務員の数を減らすことではない」と論じている。日本の公務員は、人口比でみると、OECD諸国の中でもっとも少ない(*)。それは、ある意味で日本の政府が「効率的」だったことを示している。金融業界のように新規参入を禁止しておけば、政府は業界団体を通じて「卸し売り」で企業を監視できるからである。これに対して、オープンな市場では、新規参入してくる企業を行政が「小売り」で監視しなければならないので、効率は悪くなる。

これは銀行と企業の関係にもいえる。邦銀の資産あたりの社員数は、外銀に比べてはるかに少ない。かつては、企業との長期的関係によってメインバンクは企業の「本当の数字」を知っていたので、他の銀行はメインバンクのモニタリングに「ただ乗り」できたからだ。しかし、金融自由化以後は資金調達が多様化したため、銀行のモニタリング機能も低下した。欧米では1980年代に問題になった、情報の非対称性による「エイジェンシー問題」が、日本では20年おくれで顕在化してきたのである。

こうしたモラル・ハザードを防ぐ手段として80年代に流行したのが企業買収である。とくにLBOは、買収対象の企業を「借金漬け」にすることによって、細かいモニタリングをしなくても一定の収益を上げることを経営者に強制できる。だから今回の事件を機に企業買収を制限しようというのは、逆である。企業買収が真の企業価値にもとづいて行われるように企業会計を監視するサービスは、一種の公共財なので、政府が供給したほうがよい。

(*)追記:総務省によれば、日本の公的部門職員数(独立行政法人を含む)は1000人あたり35人と、OECD諸国で最低である。ただし、ここには特殊法人や公益法人は含まれていない。

東横イン

東横インの「違法改造」事件は各地で次々と明らかになっているが、これは人命のかかっている姉歯事件に比べると、罪は軽い。社長も「制限時速60キロの道を67、8キロで走っても、まあいいか」などと発言してバッシングにあっているが、現実にはすべてのホテルに車椅子用の駐車場と客室を義務づけるほど障害者が宿泊するとは考えられない。障害者には他のホテルを選ぶ自由もあるのだから、実害はほとんどないのではないか・・・などと書くと、私もバッシングされそうだが、こういう問題には合理的な解決法がある。

東横イン(のような障害者対策をしないホテル)は、「罰金」を政府に支払う代わりに対策の義務を免除してもらい、政府はその罰金をプールしてバリアフリーのホテルに補助金として支給すればいいのだ。これは地球温暖化対策として提案されている「排出権取引」と同じメカニズムで、いわば「バリアフリー拒否権取引」である。

この拒否権の単価は、市場で決めればよい。政府が障害者用設備の地域あたりの総枠を決め、その基準以上の設備を作ったホテルは東横インに拒否権を売るのである。これによって拒否権の価格は設備の限界費用と均等化するので、バリアフリー化しやすい(敷地の広い)ホテルが多くの設備をつくるようになり、効率的にバリアフリー化するインセンティヴも生まれる。

障害者対策にコストがかかる、などというのは公然と口にしにくいpolitically incorrectな話題だが、彼らを「弱者」として特別扱いするのではなく、普通の人と同じようにビジネスライクに考えてはどうだろうか。

公共放送とは何か

通信・放送懇談会の最大の焦点はNHKだが、第2回の会合までに「公共放送は必要だ」という結論が出てしまったようだ。しかし、これまでの議論の経緯を聞いても、「公共性とは何か」という本質的な議論がされたようには思えない。そこを飛ばして、「NHKを何チャンネル減らすか」みたいな議論に入ると、「文字放送はやめるから受信料制度は残してください」といった業界と役所の取引になってしまう。

しかし、郵政民営化のときも問題になったように「公共的な仕事は官でなければできない」というのは官の思い上がりである。通信にしても電力にしても、公益事業的なサービスを民間企業が提供している分野はいくらでもある。「電力は公共のインフラだから特殊法人にして一律の電気料金にすべきだ」といった議論は聞いたことがない。これまでNHKが公共性の具体的な内容として主張してきたのは、

 ・災害報道
 ・ユニバーサル・サービス
 ・視聴率に左右されない高品質の番組

といったところだが、このいずれも受信料制度でなければできないことではない。災害報道は民放でも見られるし、大地震などになれば、民放でも定時番組の枠をはずして放送している。100%のユニバーサル・サービスが必要なら、衛星放送を使えばよい。高品質の番組は、有料放送でもできる。欧米のCS放送はみんな有料放送だが、NHKよりはるかに質の高い番組でも採算に乗っている。

最近では橋本会長は、有料放送化によって「視聴者を限ることは、情報弱者を作ることにつながる」といっているが、これは論理的に矛盾している。この「情報弱者」が有料放送の料金を払うことのできない人だとすれば、今も受信料は払っていないだろうから、これは違法行為を弁護していることになる。逆に、その人が今、受信料を払っているとすれば、有料放送になっても同じ料金なら払えるはずだ。

不払いについては、橋本氏は「官の力での取り立てはなじまない」からBBCのように罰則を設けず、民事訴訟でやるのだという。彼は、民事訴訟は官ではないと思っているのだろうか。裁判の結果を執行して取り立てる(あるいは差し押さえる)のは官の力である。

受信料制度を弁護するのに、こういう無内容な建て前論を持ち出すから話がややこしくなるのだ。NTTも東電も従量料金で公共的なサービスをしているのに、NHKだけが一律の受信料になっているのは、テレビの電波を電話や電力のように止めることができなかった50年前の技術的制約によってできた制度にすぎない。デジタル化によって従量制課金ができるようになった現在でもNHKが有料放送化を拒否するのは、契約者が激減することを恐れているためだ。

しかし、それは杞憂である。NHKでも、私が勤務していたころからいろいろなシミュレーションをしていたが、少なくとも報道に限れば、CNNのような有料の24時間ニュースとして十分採算に乗るという結果が出ている。娯楽やスポーツなどは、チャンネルごとに分割して民間に売却すればよい。問題は教育番組だが、これは100%パッケージの番組なので、リアルタイムで放送する必要はない。NHKがサーバー型放送で考えているように、オンデマンドでインターネット配信すればよいのである。NHKも、サーバー型では有料で学校向けに流すらしい。教育番組には「公共性」がないのだろうか。

ライブドアの功績

今週の週刊東洋経済で、ライブドア事件を特集している。それによれば、ライブドアの「錬金術」は、今回の逮捕容疑だけではなく、MSCBなどの金融技術から、株価操縦やインサイダー取引に近いものまで、実に多様な手口でやっていることがわかる。しかし、それが違法かといえば、ほとんど前例がないので、よくわからない。

このように「法の抜け穴をつく」というのは、必ずしも悪いことではない。デリヴァティヴなどの金融商品でもっとも利益が上がるのは、規制が多く整合性のない市場である。たとえば債券の利子には課税されるがゼロクーポン債には課税されないという税制の穴があるとすると、ゼロクーポン債などを組み合わせて利付債と同じポートフォリオを複製して税金を逃れる、というように「制度的レント」の鞘取りをするのが投資銀行の大きなビジネスだ。

もちろん行政のほうは、そういう穴をふさごうとするから、やがて利鞘は縮小し、投資銀行は「焼畑農業」のように次の未発達な市場をねらう・・・といういたちごっこによって制度のひずみが是正され、市場が成熟してゆくのである。この意味で「行政の対応が後追いだ」というのは、どこの国でも制度を変更した直後には起こることであり、日本の当局だけがバカなわけではない。

「規制改革がライブドア事件を生んだ」というに至っては論外である。こういう事件を絶無にしようと思えば、昔の護送船団行政のように銀行・証券への参入を禁止し、役所の許可した金融商品しか扱えないという時代に戻すしかないが、それは不可能である。日本はもう金融自由化のルビコン川を渡ったのだから、「原則自由」にして、問題が起きたら迅速に法律やその運用を手直しする、という事後チェックで対応するしかない。

ただ、時には当局の追いつくスピードをはるかに超えて巨額の利益を上げるグレーな業者が出てくる。その意味で今回の事件は、1980年代の米国に似ている。当時、投資銀行ドレクセル・バーナム・ランベールのトレーダー、マイケル・ミルケンが開発した「ジャンク債」によって、ドレクセルはピーク時で年間40億ドル以上の利益を上げ、ミルケンの年収は5億ドルを超えた。これを司法当局がインサイダー取引として摘発し、ミルケンは逮捕され、ドレクセルは倒産した。

しかしドレクセルの事件とライブドア事件を比べてみると、金額のスケールが2桁ぐらい違うばかりでなく、ライブドアのやり方がいかにもせこいのが情けない。彼らはジャンク債のような重要な金融技術を生み出したわけでもなければ、それを使ったLBOのような新しい企業買収の手法を開発したわけでもない。ダミー会社で株を転がして帳簿をごまかす程度の手法しかないようでは、どのみち挫折するのは時間の問題だっただろう。ライブドアの功績は、むしろ日本の資本市場がいかに未熟で、東証のシステムがいかにお粗末かという実態を明らかにしたことだ。

IP放送は放送だ

けさの朝日新聞によると、知的財産戦略本部がIPマルチキャストを「有線放送」と位置づけるように著作権法の抜本改正を提言するそうだ。この提言が実現すれば、「IP放送は放送ではない」という奇妙な状況が解消されそうだ。これはICPFでも提言し、拙著でも書いたことだが、気になるのは免許だ。まさかIP放送にも有線放送の免許を取れというのでは...

以前、知財本部のヒアリングを受けたときも、IP放送の差別扱いをなくすよう主張したら、意外に現場のスタッフ(文科省や総務省などからの出向)は賛成してくれた。彼らは特許については「プロ・パテント」だが、著作権についてはオープンだった。

ただ、IP配信に同意するかどうかは、最終的には権利者の判断である。テレビ局は、地上デジタルの行き詰まりを打開するために再配信を認めるだろうが、権利者の団体は反発しているようだ。所属タレントのメディア露出をコントロールしたい芸能事務所も、大きな「抵抗勢力」である。

しかし包括契約でも著作権料は入るのだから、彼らにとってもプラスになるはずだ。今のように著作権を個別に処理するコストが禁止的に高く、結果的に利用されないのは、消費者にとっても権利者にとっても不幸なことである。

監査法人の責任

ライブドア事件の捜査体制が容疑に比べて大げさすぎるという意見は、専門家のブログにも少なくない。証取法158条違反は、懲役5年以下、罰金500万円以下で、過去の判例でもほとんど執行猶予がついているという。エンロンやワールドコムのように経営が破綻したわけでもなく、「偽計」の規模もはるかに小さい。

「風説の流布」というのは、嘘の記者発表で株価を吊り上げたような場合に適用されるもので、今回のように投資事業組合を支配しているという事実を開示しなかったという「不作為」を風説とするのは過去に例がない。同じ証取法でも、159条には「相場操縦」という具体的な規定があるのに、今回それを使わなかったのは、取引の手続きを違法とするのがむずかしいと検察が判断したためだろう。いわば158条は令状をとるための名目で、「ガサ入れさえやれば証拠は出てくる」と踏んで見込み捜査をやった可能性もある。

新聞にはしきりに「本体でも粉飾か」といった観測記事が出るが、これは検察のねらいを夜回りで教えてもらっただけのことで、証拠があがっているかどうかはわからない。少なくとも監査法人は財務諸表に適正意見を出したのだから、彼らが見落としたか、経営陣にだまされたか、それともグルだったのか、のどれかを立証しなければならない。

したがって、エンロン事件でアーサー・アンダーセンが消滅したように、監査法人の責任も追及されるだろう。ライブドアの監査を行っていた港陽監査法人も、家宅捜索を受けたもようだ。これは会計士12人という中小の監査法人で、その代表社員はライブドアの宮内元CFOと共同で「ゼネラル・コンサルティング・ファーム」(通称ゼネコン)という会社を設立した(この会社も家宅捜索を受けたようだ)。

ライブドア・グループの財務は、すべてゼネコンで会計処理され、それを港陽がチェックしていたというから、一連の会計操作を港陽が見落としたということは考えにくく、黙認していた可能性が強い。これはエンロンのときも問題になったように、コンサルティングと監査を同一人物がやるという「利益相反」の疑いがある。

こういう「なれあい」は日本の会社の監査のほとんどに見られることで、この意味ではライブドアもきわめて日本的な会社だったわけだ。今回の事件を「市場原理主義」の結果だとか論評する向きも多いが、粉飾決算は日本企業のお家芸だ。今回はそれが公になっただけ一歩前進である。

自由のコスト

世間的には、もう「有罪」の判決が出たようなホリエモンだが、本人はいまだに全面否認で、検察は「100人体制」だという。弁護士や会計士にも「今まで出た話だけで公判を維持するのはかなり大変だ」という意見がある。今回の逮捕容疑である証券取引法第158条とは

何人も、有価証券の募集、売出し若しくは売買その他の取引若しくは有価証券指数等先物取引等、有価証券オプション取引等、外国市場証券先物取引等若しくは有価証券店頭デリバティブ取引等のため、又は有価証券等の相場の変動を図る目的をもつて、風説を流布し、偽計を用い、又は暴行若しくは脅迫をしてはならない。

という総論的な規定で、何とでも解釈できる。「風説の流布」は、これまでにも株価操縦にからんで立件された例が多いが、「偽計」のほうはあまり聞いたことがない。検察としては、本来は家宅捜索で証拠を固めて粉飾決算(商法違反)のようなはっきりした容疑で逮捕したかったが、株式市場が動揺したので、早く事態を収拾するためにとりあえず「別件逮捕」したのかもしれない。

問題になっている投資事業組合についても、情報開示義務はないので、その実態を隠していたことは違法ではない。したがって、ニッポン放送株のときの時間外取引と同じように「グレーだが違法ではないと考えた」という主張は、論理的には成り立つ。

こういうホワイトカラーの犯罪でむずかしいのは、「意図」の立証である。単なる過失ではなく「偽計」だとするためには、「相場の変動を図る目的をもつて」行ったという故意の立証が不可欠だからだ。エンロン事件の主犯Skillingなどは、証拠固めに4年以上かかり、初公判はこれから始まるほどだ。こういうとき、英米法では司法取引で内部の協力者を使うが、日本ではそれはできない。

そもそも証取法違反ぐらいの事件に検察が出てくるのがおかしい。証券取引等監視委員会は何のためにあるのか。「日本の経済犯罪についての捜査の武器は、ダンビラ(刑事訴追)しかないので、執行するほうも慎重になるし、一罰百戒しかできないので、結果的に残りの九九は見逃されてしまう」と捜査関係者は嘆いていた。

本来は、米国のSECのように日常的に取引を監視し、徹底的な情報開示を求めるしくみが必要だ。SECのスタッフは証券監視委の10倍以上いるが、この分野だけは「小さな政府」の例外である。本質的な行政改革とは、人減らしではないのだ。Rajan-Zingalesも指摘するように、資本市場の健全性を守る仕事には膨大なコストがかかるが、それは必要な「自由のコスト」である。






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