世代間格差は存在しないのか?

安倍改造内閣の最大のテーマは「全世代型社会保障」だという。社会保障の負担増は政治的には不人気なので、安倍政権は消費税の増税を先送りして社会保障の赤字を国債で埋め、それを日銀が消化して負担を先送りしてきたが、それも限界が来たということだろう。

続きはアゴラで。

江戸時代の平和を維持した「無駄の制度化」

教科書には書かれていない江戸時代
ヨーロッパで戦争の続いた近世に、250年も平和を維持した江戸時代は驚異的である。結果的には経済の停滞をまねいたという批判もあるが、それは権力と富の集中を防いだ制度による意図された停滞だった。全国260の藩は同格で、徳川家は他の大名家を直接支配できなかったので、徳川家を超える強大な権力を生まないように各藩の力を弱めることが平和を維持する上で重要だった。

そのために徳川家は多くの巧妙な制度をつくったが、中でも重要なのが参勤交代である。これは武家諸法度で正式に決められ、各藩は石高に応じて行列を組んだ。たとえば加賀百万石の前田家は、多いときで4000人ぐらいの家臣を江戸に連れてきた。この費用は藩の財政の3%程度だったが、江戸屋敷で家臣が暮らす費用が30%にのぼり、各藩の財政を圧迫した。

しかし武士は長い平和の中ですることがなかったので、参勤交代のような無駄の制度化で雇用が維持できた。膨大な数の武士が通る街道筋には多くの宿場町ができ、町人の雇用も創出された。参勤交代の財源は年貢で調達されたので、百姓から宿場町の町人に所得再分配が行われたわけだ。これは長期停滞の中で、国が社会保障で老人に所得を再分配する今の日本に似ている。

続きは10月15日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

若者は老人より豊かになる

世代間格差が生涯所得で1億円あるというと「若者は老人より貧しくなる」と思い込む人が多いが、これは錯覚である。この数字は財政学の世代会計で社会保障などによる個人の国に対する超過負担を計算したもので、個人が絶対的に貧しくなることを意味するわけではない。個人の豊かさを何で示すかはむずかしいが、簡単な指標として家計金融資産を考えよう。

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家計金融資産の残高(日銀調べ)

日銀の資金循環統計によると、2018年4~6月期の家計金融資産は1848兆円。2008年以降は438兆円増えて、史上最高になった。負債を引いた純資産ベースでみても1530兆円。資産が増えた大きな原因は株価の上昇なので、今後もこのペースが続くかどうかはわからないが、金融資産を相続する子が親より豊かになることは確実だ。

これに対して一般政府債務は1296兆円、純債務ベースでは794兆円だから、家計純資産から一般政府純債務を引くと736兆円。ストックでみると、国の借金を引いても将来世代は現在世代より豊かになるのだ。フローでみると、将来世代の超過負担が増えて可処分所得は下がるが、これも高齢者の受ける給付と相殺すると、国民全体としては豊かになる。問題はその富の分配に大きなゆがみが生じることだ。

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世界の環境は改善されている

IPCC(気候変動に関する政府間パネル)は、2030年までに世界の平均気温が産業革命前より1.5℃(現在より0.5℃)上昇すると予測する特別報告書を発表した。こういうデータを見て「世界の環境は悪化する一方だ」という悲観的な話があるが、これは誤りである。世界の環境は大幅に改善されているのだ。

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【再掲】ローマーの内生的成長理論

ポール・ローマーが、スウェーデン国立銀行賞を共同受賞した。彼の「内生的成長理論」はソロー以来の成長理論のイノベーションで、1990年代には一世を風靡した。今は使われないが、歴史的には妥当な授賞だろう。成長の要因を「知識の外部性」に求める発想は重要で、「生産性」の意味を考える上で政策的な含意も大きい。続きを読む

進化は偶然だけで説明できるのか

盲目の時計職人
進化のメカニズムは自然淘汰と突然変異しかないが、人間のように複雑な生物がそういう偶然だけで説明できるのか、というのは昔から疑問とされてきた。18世紀の神学者ペイリーは「時計が時計職人なしで偶然にできることはありえない」とし、それが自然の設計者たる神の存在証明だと考えた。

これは表現を変えると「猿がランダムにタイプライターをたたいて、シェイクスピアの作品ができるのか」という問題だが、ドーキンスは「できる」という。彼があげる例は『ハムレット』の

 METHINKS IT IS LIKE A WEASEL

という28字の文だが、アルファベットと空白の27字をランダムにタイプしてこの目的の文が偶然できるには、2728=1040回の試行錯誤が必要だ。これは1秒に1回タイプしても、宇宙の寿命より長い時間がかかるので、猿にはシェイクスピアの作品は書けない。これに対して、たとえば任意に選んだ続きを読む

教育勅語は国民を戦争に動員できたのか

柴山昌彦文科相が就任会見で、教育勅語を「現代風にアレンジした形で道徳に使うことができる」と述べたことが問題になっている。彼は日本人の精神が荒廃した原因は個人主義的な日本国憲法と教育基本法にあるので、教育勅語のような「無私の心」が必要だという。これは伝統的な自民党の考え方だが、彼の世代にしてはかなり古めかしい。

野党は「教育勅語は国民を戦争に動員した危険思想だ」と騒いでいるが、これは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という部分のことだろう。これは「戦争になったら天皇のために戦え」という意味だが、兵士が君主国家で主権者たる君主のために戦うのは当然だ。それは民主国家で主権者たる国民のために戦うのと同じである。

むしろ疑問なのは、こんな難解なわずか315字の文句で、国民を戦争に動員できたのかということだ。教育勅語は明治憲法と一対で1890年に発布されたが、明治憲法を起草した指導者も、憲法だけでは国民を統合できないことを心配した。実際には、明治国家は天皇の国ではなかったからだ。その実態は長州閥の支配であり、天皇は彼らの私物化した国家を飾る「みこし」にすぎなかったので、それを美化する道徳が必要だった。

続きは10月8日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

社会生物学から進化心理学へ

ヒトの心はどう進化したのか: 狩猟採集生活が生んだもの (ちくま新書)
今週から始まるアゴラ読書塾「進化論的に考える」(まだ受け付け中)は、理系のテーマのようにみえるが、中身は文系である。社会科学を自然科学と統合しようという試みは昔からあり、それに成功した(ように見えた)唯一の例外がニュートン力学をまねた新古典派経済学だが、そういう「数理**学」の試みは他の分野では成功しなかった。

それに対して生物学による「科学の新しい統合」を提唱したのが、1975年のE.O.ウィルソンの大著『社会生物学』だった。これは大論争を巻き起こしたが、最近の『人類はどこから来て、どこへ行くのか』に至るまで、彼の主張は変わらない。それは初期に誤解されたような生物学的決定論ではなく、動物の集団行動は遺伝的に制約されているという当たり前の話だ。

人類の場合は、600万年の歴史の大部分が狩猟採集社会だったので、今では無意味な集団行動が発達している。たとえば宗教には現実的な利益はないが、どこの社会でも普遍的にみられる。これは何かを信じて集団を守る感情の強い個体が、狩猟採集社会の集団淘汰で生き残ったためと思われる。このように人間の行動を進化で説明するのが進化心理学で、さまざまな分野に影響を与えているが、社会科学を統合できるだろうか。

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国債が相続されたら世代間格差はなくなる?

ダイヤモンド・オンラインで、塚崎公義氏が「相続を考えると世代間格差は存在しない」と論じている。日本の政府債務は1100兆円だが、家計金融資産は1800兆円ある。日本国民を一つの家族と考えると、親が子供から1100兆円借金しているが、その遺産(国債を含む)1800兆円は子供が相続するので、純資産でみると子供は700兆円豊かになる。

これは会計的には正しい。債権と債務はつねに等しいので、相続税がゼロで国債がすべて次世代に無償で相続されるとすると、将来世代の負担は発生しない。逆に相続税が100%で、遺産がすべて国に没収されても負担は発生しない。日本国民を一つの家族と考え、「借金も税金も資金移動としては同じ」と割り切れば、世代間格差は問題にならないのだ。

もちろん日本国民は一つの家族ではないので、借金と税金は同じではない。現在世代は一般会計予算100兆円に対して税金を60兆円しか払っていないので、残り40兆円の課税は将来世代に延期され、国債を相続した人と納税者の格差が拡大する。このように国民の資産を政府が再分配することによる不公平と非効率が、国債の負担なのだ。

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役に立たない文系の教育は必要か

文系と理系はなぜ分かれたのか (星海社新書)
私が「文系の大学教育は役に立たない」というと、「学問の価値は役に立つかどうかで決まるものではない」という反発がある。彼らも文系の学問が職業に役立たないことは認めるが、そういう教養も社会人には必要だという。その通りである。

近代ヨーロッパ以外の文化圏では、学問は人口の1%以下のエリートのための教養であり、そのほとんどは古典を解釈する文献学だった。今でも同世代の5%ぐらいには、そういう教養が必要だろう。問題は進学率が50%を超えた大学で、そんな高度な教養をすべての学生に教え込む必要があるのかということだ。

12世紀ごろ始まった初期の大学では、公職につくエリートは神学・法学などの教養を学んだが、大部分の学生は農業、商業などの「下等な技術」を学んだ。こうした初期の大学は17世紀までに衰退し、学問の中心は大学の外の「アカデミー」に移った。そこでは技術的な知識が体系化されて、実証的な役に立つ学問としての科学が生まれ、資本主義の発展とともに飛躍的に発達した。

このようなアカデミーの科学を大学教育に取り入れたのが、19世紀にドイツで復活した近代の大学である。その中心は「実験」で理論を実証する「研究室」であり、教育は学生と対話する「演習」だった。これもエリート教育で、日本が明治時代に輸入したのは、この時期のドイツの大学だった。「科学」という訳語は専門分化した学問という意味で、伝統的な儒学とはまったく異なる知識だった。

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