処理水問題は安倍首相の「貯蓄過剰」だった



福島第一原発の処理水問題が、今月中にようやく海洋放出で決着する見通しになった。これは科学的には自明で、少なくとも4年前には答が出ていた。「あとは首相の決断だけだ」といわれながら、結局、安倍首相は決断できなかった。それはなぜだろうか。

政治家の人気を政治的資本(political capital)と呼ぶことがある。安倍首相は第1次内閣では「戦後レジームからの脱却」などの理念を打ち出したが、政治的反発を呼んで1年足らずで退陣に追い込まれた。その反省から第2次内閣では「デフレ脱却」で政治的資本を蓄積し、安保法制や憲法改正などの不人気な政策に投資するつもりだったのだろう。

ところが安保法制で2015年の国会が大混乱になり、このあおりで憲法改正も公明党が反対して行き詰まった。この状況を打開するために、経済政策は慢性的な景気刺激になった。消費税の増税は2度も延期し、日銀の量的緩和は果てしなく続き、不人気な原子力政策にはまったく手をつけなかった。その結果、政治的資本は蓄積されたが、結局それを使わないまま退陣してしまった。

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社会はなぜ左と右にわかれるのか

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
学術会議をめぐる論争を見ていると「またか」という既視感を覚える。
  1. 政府が学術会議の名簿のうち6人を任命しなかったのは違法か?
  2. 学術会議の会員になれないことは学問の自由の侵害か?
  3. 学術会議は科学に多大な貢献をしているか?
以上はいずれも正しいか否かで答えられる事実問題だが、その答はきれいに二分される。たとえば木村草太氏と百田尚樹氏がこの3問にどう答えるかは、目をつむってもわかる(彼らはその予想どおり答えた)。

こういう傾向はアメリカでも同じで、最初から党派的に意見を決めて答える人が多い。これを「アメリカが分断されている」などというが、そういう傾向は今に始まったものではなく、アメリカだけの問題でもない。上のように日本でも(対立軸がちょっと違うが)みられる。

それはヒュームが指摘したように、理性は感情の奴隷だからである。人は感情にもとづいて行動し、それを理性で正当化するのだ。このような感情と理性の関係を、本書は象とそれに乗る人にたとえる。

脳の情報処理の90%以上は進化の初期に発達した象の部分で行なわれており、反応も速い。乗る人の部分は処理が遅くコストがかかり、教育しないと発達しない。政治的な議論が、政策の中身ではなく「右か左か」というイデオロギー論争になるのも、人々を動かすのが象だからである。

続きは10月19日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)。

杉田官房副長官はどこで間違えたのか

学術会議の問題は、国会の最大の争点になってきた。これは森友・加計のような中身のない話ではなく、政府機関の制度設計という大きな問題だが、野党やマスコミが「学問の自由」という見当違いな争点を設定しているので話が噛み合わない。

わからないのは、なぜ官邸が欠員6人を出したのかということだ。12日の記者会見で菅首相は「99人の名簿しか見ていない」と口をすべらせたが、これだと6人の任命を拒否したのは首相の判断ではなかったことになる。その後「105人の名簿は決裁文書に添付されていた」とか「任命できない人が複数いると事前に説明を受けた 」とか話が二転三転している。

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【再掲】ミルグロム&ロバーツ『組織の経済学』

ポール・ミルグロムとロバート・ウィルソンがノーベル経済学賞を受賞したので再掲。

組織の経済学
本書を私がFacebookで紹介したら、アマゾンで「経済学」の第1位になって驚いた。原著は1993年、訳本は1997年だが、いまだにビジネススクールの世界標準で、残念ながらこれをしのぐ経営学の教科書は私の知る限り出ていない。それほどむずかしくないが分厚いので、これを日本向けにアレンジしたのが拙著である。

最近は社会学者や憲法学者がバカの代名詞になったが、経営学者は昔から(経済学者の)物笑いのタネだ。本書の著者もスタンフォード・ビジネススクールの教授だが、二人とも経済学者である。数多い経営学者の書いた教科書を押しのけて本書が20年以上もスタンダードなのは、やはり経済学に「科学」としての競争があったからだろう。続きを読む

学術会議はGHQのつくった「学問の戦後レジーム」

学術会議をめぐる議論が迷走している。菅首相が105人の推薦のうち99人の名簿しか見ていなかったことが「日本学術会議の推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する」という学術会議法に違反していると野党は騒いでいるが、彼らは内閣に上がってくる膨大な決裁文書を首相がすべて見ろとでもいうのか。

「内閣総理大臣が〜する」という実務は内閣のスタッフが行うのであり、この場合は杉田官房副長官(内閣人事局長)だろう。ただこれは首相が本件をそれほど重視していなかったことを示唆している。今のような騒ぎになることを計算していたら、落とした6人の名前ぐらい見たはずだ。

内閣法制局の1983年答弁についての矛盾した説明も、準備不足をうかがわせる。もともと内閣が諮問機関の人事をその機関に白紙委任することはありえないので、民主的統制のまったくきかない従来の運用が異常であり、今回はそれを正常化しただけだ。

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人間のモラルは遺伝か文化か

道徳の自然誌
ものを盗んではいけないとか、嘘をついてはいけないというモラルは、合理的に説明できない。ものを盗むことは合理的なので、それを抑止する心理的メカニズムが必要だ。ゲーム理論では、利己的な個人の戦略的行動の結果としてモラル(協力)を説明するが、それが成立する条件はきわめて限定的で、現実には成り立たない。

社会性昆虫の協力的行動は血縁淘汰でほぼ完璧に説明できるが、人間の複雑な道徳は説明できない。それを遺伝的な集団淘汰で説明する理論にも限界がある。狩猟採集社会では個人の流動が多く、遺伝子レベルの突然変異は定着しないからだ。

本書が提案するのは、第3の文化的淘汰ともいうべきものだ。ここでは血縁淘汰も集団淘汰も機能しているが、重要なのはDNAではなく、人間の感情である。それはゲーム理論の想定するような戦略的行動ではなく、集団間の競争で生まれた共同志向性(shared intentionality)だという。

これは哲学的な概念だが、それを生み出したのは思弁ではなく試行錯誤である。他人と同じ行動をとる人の多い集団が戦争に勝ち、負けた集団は消滅するか、勝った集団の奴隷になる。その中で共同志向性の強い集団が協力して戦争に勝ち、宗教や道徳を蓄積したのだ。

続きは10月12日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)。

学術会議は「ゆがんだ制度設計」を直さないと独立できない



学術会議が話題になっているが、「学問の自由」などと騒いでいるのは野党とマスコミだけで、当事者はみんな白けている。学術会議は特定の政治勢力に利用され、政府には相手にされなくなり、もう死に体になっているからだ。問題はなぜこんなひどいことになったのかということだ。

学術団体が内閣直属の政府機関になっているのは特異な制度設計で、先進国には類をみない。これはGHQが科学の振興とともに再軍備の監視という機能を学術会議にもたせたことが原因で、全研究者の直接投票という異例の組織形態も、民主的組織で政府を監視するためだったらしい。

それが党派的に利用されたため、民営化すべきだという議論が1950年代からたびたび出たが、学術会議が抵抗して実現しなかった。政府は2001年に諮問機関として総合科学技術会議をつくり、学術会議は予算も増やさないで放置した。それが2017年の「軍事研究の禁止決議」でまた党派的な性格を強めたため、人事に介入したのだろう。

私は研究機関に独立性が必要ないといっているのではない。逆である。2001年に省庁再編で独立行政法人ができたとき「政府から独立して助言する」という目標が掲げられ、私が所属した経済産業研究所は、本当に独立して自由に政府を批判した。このため北畑隆生官房長が、青木昌彦所長など多くの研究員(私を含む)を追い出した。

このときわかったのは、独立行政法人は実は独立していないということだった。設置法を読むと、予算も人事も本省がすべて握っており、独法に勝ち目はなかった。まして学術会議のような内閣直属機関が、そのゆがんだ制度設計を直さないで「自分たちだけ特別に人事を無条件で認めろ」といっても、法律論で一蹴されるだけだ。

続きは10月12日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)。

学術会議は共産党の活動拠点だった

学術会議の騒ぎを受けて自民党が「非政府組織化」を検討するプロジェクトチームを発足させた。読売新聞によると、河野行政改革担当相が学術会議の運営や組織の見直しに着手したという。

きのうの記事では学術会議の法的な問題点を整理したが、きょうはその政治的な問題点を考える。元会員の村上陽一郎氏が、初期の学術会議の実情をこう書いている。
日本学術会議はもともとは、戦後、総理府の管轄で発足しましたが、戦後という状況下で総理府の管轄力は弱く、七期も連続して務めたF氏を中心に、ある政党に完全に支配された状態が続きました。特に、1956年に日本学士院を分離して、文部省に鞍替えさせた後は、あたかも学者の自主団体であるかの如く、選挙運動などにおいても、完全に政党に牛耳られる事態が続きました。

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学術会議問題は「風見鶏」中曽根首相の遺産

学術会議問題は法的には自明だと思ったが、国会答弁が迷走しているので、最低限度の法的問題を整理しておこう。きょうの衆議院文教委員会で、共産党の田村智子議員の質問に対する政府の答弁は混乱していた。



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戦争は人類の宿命か

人類の起源、宗教の誕生: ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき (平凡社新書)
学術会議をめぐる騒ぎの隠れた主人公は、前会長の山極寿一氏である。彼は学術会議が2017年に軍事研究の禁止を提言したときの幹事であり、京大が2018年に軍事研究の禁止を決めたときの総長である。

こういう平和主義は彼の学問的信条でもあるらしく、本書でも(彼の専門である)ゴリラは暴力的ではないと説明している。哺乳類の死因のうち暴力は0.3%だが、霊長類では2%だという。人類も歴史を通じてみると2%程度だが、3000年前から上がって15~30%になったという。

人類と戦争の関係については長い論争があるが、最近多いのは、ピンカーのように近代以前の人類は平均15~20%が戦争で死んだという見方だ。彼は狩猟採集時代から一貫して殺人が多かったと考えており、E.O.ウィルソンも暴力の抑止が集団淘汰の最大の要因だと考えている。

これに対して山極氏のように戦争が始まったのは農耕社会になってからだと考えると、戦争は文明の生み出したものであり、それは文明で克服できるということになる。私もそうであることを祈りたいが、少なくとも現代の世界ではリアリティがない。

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