日本の官僚はなぜまじめで清潔なのか

Political Order and Political Decay: From the Industrial Revolution to the Globalisation of Democracy
国会では野党の「合同ヒアリング」で官僚たたきが続いているが、法的根拠もないヒアリングに朝から晩までつきあう官僚は、ご苦労様というしかない。実質的な力関係では圧倒的に強い官僚が、無力な弱小野党にまじめに付き合うのは、武士の時代からの伝統かもしれない。フランシス・フクヤマはそう論じている。

本書は『政治の起源』の続編(なぜか4年たっても訳書が出ない)だが、近代国家の発展にとって政治腐敗を防ぐことが重要だったと論じている。その中で、非西洋世界のモデルとされているのが日本である。フクヤマは江戸時代の武士を「当時の世界でもっとも清潔な合理的官僚だった」とし、その原因を儒教に求めている。

しかし儒教の本場である中国では、科挙によって高度な知的エリートが生まれたが、大規模な腐敗も生まれた。官僚自身は公正な試験で選ばれたが、それに合格するには幼いころから巨額の教育投資が必要だった。そういう秀才は数万人の親族集団(宗族)の中から選ばれ、科挙に合格すると親族を宮廷に入れて養う義務を負うため、腐敗が制度化されてしまった。これを監視するのが宦官だったが、彼らも腐敗する。

これに対して日本では科挙のような能力主義はなく、武士の家は長子相続で世襲されたが、中国のような腐敗は起こらなかった。その原因は儒教でないとすると何だろうか。

続きは5月7日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

悔恨共同体としての論壇

論壇の戦後史―1945‐1970 (平凡社新書)
日本の野党は戦後70年以上たっても、大人になることができないが、その黄金時代は1950年代だった。戦後の左翼の出発点は丸山眞男の「悔恨共同体」で、その舞台になったのは岩波書店の『世界』だった。「全面講和」を特集した1951年11月号は、15万部も売れた。この時期の編集長は『君たちはどう生きるか』で今もよく知られている吉野源三郎である。

この背景には、岩波を含む知識人が軍国主義を止められなかったという悔恨があった。講談社を中心とする大衆文化に対抗して、悔恨共同体を結集する場が『世界』であり、それは論壇そのものだった。それはやがて社会主義の代弁者になり、反米運動になった。保守勢力は大人になって合同したが、左翼はバラバラの抵抗運動から脱却できなかった。

「戦後の日本」を代表する悔恨共同体の知識人が「戦前の日本」を代表する岸信介をやっつけるという勧善懲悪のドラマは、60年安保でピークに達したが、岸の退陣で運動は目標を失う。そこには自民党に代わる「もう一つの国家構想」がなかったからだ、と本書は指摘する。戦後の日本は60年安保で夢見るのをやめ、通過儀礼を終えて大人になったのだ。

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数学の不条理な有効性

神は数学者か?―ー数学の不可思議な歴史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫〈数理を愉しむ〉シリーズ)
1854年、数学者ベルンハルト・リーマンは奇妙な幾何学理論を発表した。それはユークリッド幾何学における平行線の公理が成立せず、1点を通って他の直線と交わらない平行線が1本も存在しない理論だった。これは直感に反するが、無矛盾な公理系が構築できる。こうした「非ユークリッド幾何学」は、純然たる論理の遊びと考えられていた。

その50年後、アインシュタインは彼の特殊相対性理論を一般化して重力を「時空のゆがみ」と考えたが、それを数学的に定式化できなかった。彼が友人の数学者に相談したところ、友人がそれはリーマン幾何学で記述できるのではないかと提案した。アインシュタインはリーマン幾何学を知らなかったが、そのアイディアをリーマン空間で記述した一般相対性理論を1915年に発表した。これは1919年の皆既日食のとき、太陽の近傍で光が重力で曲がる現象によって正確に確認された。

数学が自然を正確に記述する先験的な理由はないが、このように数学者が純粋な論理体系として構築した数学理論が、あとから物理現象で実証されることは珍しくない。このような数学の不条理な有効性は多くの科学者や哲学者を当惑させてきたが、古典物理学をまねた新古典派経済学はその例外である。それは数学的には美しいが、実証データにあわないのだ。

続きは4月30日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

弱小野党の強い「ジャンケン国家」

国会はセクハラ問題で1週間以上空転し、そのまま連休に突入する。野党にとっては2週間以上の「大型連休」だが、国会内の会議室では連日、野党6党の「合同ヒアリング」が開かれている。これは法的根拠がないが、憲法で国会は「国権の最高機関」と位置づけられているので、弱小野党でも役所を呼びつける力をもつ。

国会の質問でも前日まで引っ張り、役所は徹夜で国会待機する。情報量は官僚機構のほうが圧倒的に多いが、彼らは立法府に「お仕えする」立場を装わないといけない。このように政治家が官僚より強く、官僚はマスコミに強く、マスコミは政治家に強いジャンケン国家は、江戸時代から続く構造である。
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主権者たる国民が意思決定を行うという憲法の原則はフィクションで、実際には行政実務のほとんどは官僚機構が行う。それを国会が立法でチェックするというのもフィクションで、法案の8割以上は内閣提出法案だ。それをチェックするのは実質的にはマスコミだが、彼らは役所から情報をもらわないと仕事にならない。ジャンケンでひとり勝ちはできないのだ。

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リベラルが大政翼賛会を生んだ

緒方竹虎とCIA アメリカ公文書が語る保守政治家の実像 (平凡社新書)
戦前の日本を「ファシズム」と呼ぶのはおかしい、と問題提起したのは伊藤隆氏だが、これは「リベラル」の役割を考える上でも重要だ。1930年代に日本が独裁者もいないのに「ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入」したのはなぜか、というのは丸山眞男以来ずっと日本の知識人を悩ませてきた問題である。それはヒトラーのような独裁者に指導されたのではなく、近衛文麿や朝日新聞のようなリベラルに指導されたのだ。

丸山はファシズムを「反革命の最も先鋭な最も戦闘的な形態」と規定したが、それは日本には当てはまらない。近衛首相は国民の圧倒的多数に支持されたので、大政翼賛会は反革命ではなく「挙国一致」の革命だった。朝日の主筆だった緒方竹虎は、内閣情報局参与として大政翼賛会の事務局となり、戦時中には情報局総裁として検閲を統括した。

戦後、緒方は公職追放されたが、復帰後は自由党の政治家として保守合同を指導した。吉田茂の次の首相候補と目され、CIAは彼に「ポカポン」というコードネームをつけて利用した。しかし最近公開されたファイルでは、CIAは資金力のない緒方を重視していなかったという。

続きは4月30日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

テレビ朝日は第三者委員会で録音を検証せよ

きのうテレビ朝日の角南社長の記者会見が行われたが、話が混乱している。産経によると、経緯は次の通り。
今月4日、NHKが夜7時のニュースで森友問題での財務省の口裏合わせについて独自のニュースを報じ、女性社員はデスクからの指示もあり、その裏付け取材をすることになった。そのときに福田次官から電話があったため、裏付け取材をしようと考え、夜9時ごろから夜10時前まで約1年ぶりに夜の食事を伴う一対一の取材に臨んだ。

ところが、このときもセクハラ発言が多数あったため、社員は自らの身を守るため途中から録音した。後日、この社員はセクハラの事実をテレビ朝日で報じるべきではないかと上司に相談した。上司にはセクハラの事実を隠蔽しようという考えはなく、幾つかの理由で報道は難しいと判断した。この社員はセクハラ被害を黙認される恐れがあるとして週刊新潮に連絡し、取材を受けた。

続きはアゴラで。

「昭和デモクラシー」の暴走

国会の劣化は止まらない。この1年、森友・加計から始まったスキャンダルは、ついにセクハラ騒動で1週間も国会が止まるようになった。これは昭和初期の帝国議会を思い起こさせる。大正デモクラシーという言葉はあるが、「昭和デモクラシー」とはいわないのは奇妙だ。普通選挙で「民主政治」が始まったのは昭和3年である。

それまでの有権者は地租を納める地主だったが、普通選挙で一般の男子に選挙権が拡大し、有権者は8倍以上に増えた。この時期を「政党政治からファシズムへ」の転換というのは正しくない。ヒトラーがナチス以外の政党を解散させたドイツとは違い、日本では1940年に大政翼賛会ができるまで政党は存在し、満州事変にも日中戦争にも圧倒的多数で賛成したのだ。

第1次大戦で専制国家が民主国家に敗れたのを見て、政府は総力戦体制としてのデモクラシーをつくろうとしたが、大衆(大部分は農民)は政策なんかわからないのでスキャンダルだけに関心をもち、帝国議会は金とセックスの話題に明け暮れた。今と同じである。昭和の暴走は、デモクラシーを抑圧する「反革命」ではなく、普通選挙のデモクラシーから生まれたのだ。

続きは4月30日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

「夜回り」を全面禁止せよ

今回のセクハラ事件で、テレ朝の情報漏洩を擁護するジャーナリストが少なくない。共同通信は、「彼女は反省する必要などあるのか」と開き直る。この録音データは「取材活動で得た情報」ではないから、週刊誌に売り込んでもいいという。

思い上がりもはなはだしい。この田村文という記者は、自分が夜中にアポなしで要人の家に入れてもらえるのは、なぜだと思っているのか。「共同通信」という肩書きがなければ、彼らはただの不審者として110番されて終わりだ。政治家や官僚が彼らを家に入れるのは、「夜回り」という習慣があるからだ。

続きはアゴラで。

放送改革の本当のアジェンダ

キャプチャ

きのうはニコ生で90分も話したが、6月に出る規制改革推進会議の答申は、今のところよくも悪くも常識的だ。放送は通信の一種なのだから、通信と放送の規制を一本化するのは当たり前で、放送免許なんか廃止してもかまわない。本質的なのは、無線局免許の割り当てだ。それをオークションで割り当てるかどうかも大した話ではなく、非効率な用途区分が最大の問題だ。

逆にいうと、日本の通信=放送には大きなチャンスがある。特にUHF帯に200MHzもあいている電波を区画整理して5Gに使えば、今よりはるかに効率的な「デジタル放送」ができる。それを民放連が「既得権の侵害」と取り違えて、放送法第4条などトンチンカンな話で騒いでいることが混乱の原因だ。今からでもアジェンダに加えるべきなのは、次のような問題だ。

 ・集中排除原則の撤廃(キー局による地方局買収)
 ・著作権法の改正(IP放送の自由化)
 ・NHKの有料放送化

続きは4月23日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

セクハラで空転する国会はデモクラシー末期


(写真はNHKより)

国会は今週ずっと、財務次官のセクハラ問題で審議が止まっている。野党6党は国会内で集会を開き、女性議員はセクハラ運動のプラカードを掲げ、喪服をつけて麻生総務相の辞任を求めた。これを見て私は、もう日本のデモクラシーは終わったと思った。

続きはアゴラで。






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