日本の知識人を育てた「会読」

江戸の読書会 (平凡社選書)
大学で教師も学生もうんざりするのは、大教室でやる「講義」だ。教師は義務としていやいや教えているし、学生は単位をとるためにいやいや出席している。こんな中身のない大学教育を丸ごと「無償化」するなんて、悪い冗談だろう。

このように非生産的なのは、日本の大学が教育の場ではなく、立身出世の手段だからである。これは日本だけではなく、中国では儒学は科挙で立身出世する手段だったので、学校はすべて科挙の予備校だった。解釈は宋代の朱子学で固定され、あとはひたすら四書五経とその既存の解釈を丸暗記する能力が求められたので、儒学は「御用学問」になって硬直化し、学問としては衰退した。

ところが日本の武士は科挙を輸入しなかったので、儒学は立身出世とは無関係の「遊び」になった。おかげで儒学は自由な発展を遂げ、最後は水戸学になって徳川幕府を倒す尊王攘夷思想を生んだ。その母体となった松下村塾などの私塾の教育は一方的な講義ではなく、テキストを各人が読んで順番に説明する「会読」という読書会だった。

続きは9月4日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

日本は「核武装のオプション」を維持できるのか

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日本は核武装の技術的オプションをもっており、核兵器は合憲だというのが政府見解だが、JBpressでも書いたように、日本が今後も核武装のオプションを維持できるかどうかは疑問だ。これは原子力産業の「密教」で、関係者にも理解されていないので書いておこう。

続きはアゴラで。

日米安保は「日本を守る条約」ではない

朝日新聞やガラパゴス憲法学者をバカにするのはもう飽きたが、「国際政治学者」にも「イスラム法学者」にも常識が欠落しているので、わかりきったことだが補足しておく。日米安保条約が存続する限り、アメリカが日本の核武装を認めることはありえない。日米同盟の目的は、旧敵国たる日本の軍事的自立を阻止することだったからだ。

日米安保は「日本を守る条約」ではなく、来たるべき第3次大戦で日本を前進基地として犠牲にして「自由主義陣営」を守る条約だった。これは1950年代には、「全面講和」派も「片面講和」派も認識していたことだ。丸山眞男はこう書いている。
仮に自由主義と共産主義とが原理的に全く反撥すると仮定しても、そのことから、その一を奉ずる国家ないし国家群と他を奉ずる国家ないし国家群とが、必ず対立し反撥するという結果は出て来ない。[…]逆に相似たイデオロギーを持った国家が干戈を交えた例は、史上殆ど枚挙に暇がない。(「三たび平和について」)
そして彼はクインシー・ライトの「民主政治の国々が専制政治の国々より戦争に介入する度合がヨリ少なかったという証拠は殆ど出て来ない」という言葉を引用して、暗にアメリカがまた日本を攻撃する可能性はゼロではないと示唆している。安保条約はアメリカの攻撃に対して日本を武装解除したが、アメリカは日本を防衛する義務を負わなかった。

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日本は核武装できるのか



北朝鮮が、今度は日本の上空を通過するミサイルを発射した。これと前後して掲載された三浦瑠麗氏のコラムが話題を呼んでいる。特に問題なのは、日本が「核攻撃能力」をもつことを推奨した部分だ。
強硬な動きと穏健な動きの両方が必要だ。強硬面では、北朝鮮周辺でアメリカが持つ軍事力の増強が必要だろう。北朝鮮の核施設やミサイル基地を狙った攻撃能力や、情報機関の格上げ、さらに日本と韓国が独自の核抑止力を持つことすら必要になるかもしれない。[…]

核攻撃能力は、日本と韓国が独自に抑止力を持つために必要だろう。さらに重要なことに、それによってアメリカから有意義な行動を引き出せる可能性もある。

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EVは「第二のPC革命」になるか



最近にわかにEV(電気自動車)が話題になってきた。EVの所有コストはまだガソリンの2倍以上だが、きょう山本隆三さんの話を聞いていて、状況が1980年代のPC革命と似ていることに気づいた。

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教育サービスから「兵営」へ

江戸の教育力 (ちくま新書)
大学無償化が再分配政策としてナンセンスであることは明らかだが、公的教育投資としても効果がない。大学は個人の「格付け機関」であり、教育サービスとしては無意味だからだ。江戸時代の寺子屋はそうではなかった。それは公的補助をまったく受けない民間の教育サービスであり、そのために最適化されていた。

寺子屋の数は数万で、どんな小さな農村にも複数あったという。江戸時代から私的な教育投資が盛んだったのは、家庭では複雑な漢字の読み書きを教えられなかったからだ。教育サービスに学校という入れ物は必要ないので、初期には文字通り寺を借りて僧侶が教え、全員一律に「授業」するのではなく、師匠が寺子(生徒)ひとりひとりのペースに合わせて字を教えた。

それが明治初期の「学制令」で変わり、ヨーロッパをまねた公立学校ができた。その目的は教育サービスではなく軍事教練だったので、フーコーの指摘したように、すべての子供を同じ兵営に集めて訓練したのだ。学校は子供にとっては苦痛だが、それに耐えて試験でいい点をとる優等生がエリートになった。

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枝野幸男氏の取り違えている「日本流保守」

民進党の代表選挙は、争点がよくわからないので盛り上がらない。特に憲法改正については、いずれ国会で党としての見解を出さなければならないのだから、態度を明確に打ち出したほうがいいと思うが、かねてから「第9条2項を見直すべき」と主張していた前原誠司氏はその主張を封印してしまった。

他方、枝野幸男氏は「私は保守だ」と言い始めた。産経新聞の報道によると彼は、トークイベントでこう言ったそうだ。
保守とリベラルって対立概念じゃないですから。リベラルという言葉は多義的だから。新自由主義的な色合いの強い古典的なリベラルから、多様性を認めて社会保障に力を注ぐソーシャルリベラリズムまで、リベラルだっていろいろあるし。

保守といったって、何を保守するんだ、と。僕は「和を以て貴しとなす」からの日本を保守するんだったら分かるけど、安倍晋三首相は明治維新以降の欧米化された日本を保守しようとしてるから、保守する対象が違う。

続きはアゴラで。

フリードマンは永遠に新しい

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)
けさの記事を書くために『資本主義と自由』を久しぶりに読み直したら、フリードマンは大学については、教育バウチャーではなく「教育投資ファンド」を提案していた。これは共同出資で学生に投資するファンドをつくり、学生は「出世払い」で返済するものだが、共同出資が無理なら連邦政府がやればよいと書いている。

本書は1960年代には、学界では批判と冷笑で迎えられた。そのころは政府が雇用と物価をコントロールできるというケインズ経済学が全盛だったからだ。しかし70年代にスタグフレーションが止められなくなると、経済学への不信が強まった。そういうとき出てきたフリードマンの論文「金融政策の役割」は、ケインズ以来の革命だった。それは長期的には政府は経済をコントロールできないと宣告したからだ。

これは大論争を呼んだが、80年代にはフリードマンが勝利した。本書で彼の提案した変動相場制も実現したが、教育バウチャーも、負の所得税も、公的年金の廃止も、職業免許の廃止も、いまだにほとんど実現していない。「景気対策」や「リフレ」で政府が経済をコントロールできると信じる人が後を絶たないからだ。不幸なことに、フリードマンは永遠に新しい。

続きは8月28日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。

塾や専門学校にも使える「出世払いの奨学金」を



「大学無償化」が与野党で盛り上がってきたが、見ていて奇異に感じるのは教育バウチャーという言葉が出てこないことだ。例外は橋下徹氏ぐらいで、彼は5年前に大阪市で塾のバウチャーを導入したが、これは「無償化」とは似て非なるものだ。

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サンクコストから所有権が生まれた

所有権が法的に確立したのは近代ヨーロッパだが、既得権を守るしくみは昔からあった。それを身体の自由と結びつけて「自己労働の所有」として正当化したのはジョン・ロックだが、彼の論理は破綻している。特に、明らかに労働の成果ではない土地の所有権をどう正当化するのかが不明だ。

それがサンクコストから生まれた、というのがボウルズなどの説である。これは進化ゲーム理論の応用で、次のようなおなじみの「チキンゲーム」を考える。相手がタカだったら自分はハトになり、相手がハトだったらタカになる複数均衡が存在し、ある土地で複数の個体群が争うとき、タカになったほうが支配し、ハトはそれに従うので、土地の支配権をめぐって戦いが起こる(ペイオフは対称)。

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このとき自分が最初にいたらタカになり、あとから行ったらハトになる戦略(所有権)を加えると、図のようにこれが進化的に安定する。今まで巣をつくったり子供を育てたりしたサンクコストを守ることが(個体群としては)合理的なのだ。こういう例は動物でもたくさん見つかっており、サンクコストを守る人間の心理(賦存効果)の一部は、遺伝的なものとも考えられる。

続きは8月28日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ。






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