毎月勤労統計の「抽出率逆数」の謎

厚生労働省の毎月勤労統計調査の不正事件で、政府は予算案を修正する異例の閣議決定を行った。厚労省の発表によると、従業員500人以上の企業について2004年以降、他の府県では全数調査を求める一方、東京都だけはその1/3の企業の名簿で抽出調査をしていた。

これ自体は大した問題ではない。抽出率の逆数3をかけて集計すれば、精度は落ちるが、サンプルに偏りがなければ平均賃金は大きく変わらない。ところが厚労省は東京都の抽出調査を全数調査と偽り、他の県の全数調査の数字と単純に合計したため、賃金の高い東京の比重が下がり、全国の平均賃金が過少に集計された。

続きはアゴラで。

リフレ派の自殺

おとといの記事でMMTを評価したら、「池田信夫が正しいことをいってる!」とリフレ派が喜んでいるようだが、MMTはネトウヨの素朴ケインズ主義に近い。リフレ派の「日銀がインフレ目標2%と量的緩和でインフレを起こせる」という主張は、その日銀によって完璧に反証された。

そこでリフレ派は最近は「金融政策で失業率が決まる」といい出した。金融政策でインフレが起こって失業率が下がるはずだったが、インフレが起こらないのに失業率が下がったので、苦しまぎれに「目標はインフレじゃなくて失業率だ」と話をすりかえたわけだ。最近は「金融政策で自殺率が決まる」と言い出した。

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この図を見るとおもしろいのは、自殺率が下がり始めたのが2008年、つまり日銀の白川総裁が就任した年だということだ。失業率が下がり始めたのも民主党政権の時代で、2013年以降の安倍政権でもペースは変わらない。「アベノミクスは2014年の消費増税で挫折した」というのがリフレ派の言い訳だが、その時期にも失業率は単調に下がっている。

日本で失業率と自殺率の相関が高いことはよく知られているので、もし金融政策で失業率が決まるとすると、ここから論理的に導かれる結論は、失業率を下げたのは白川総裁の金融政策であるということになる。こういう論理を自殺論法(self-defeating logic)という。

続きは1月28日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

政府債務は「輪転機ぐるぐる」で解決できるか

6年前、安倍首相が「輪転機をぐるぐる回して日本銀行に無制限にお札を刷ってもらう」と宣言したとき、多くの経済学者は嘲笑した。そんなことをしたらハイパーインフレになって財政が破綻する、というのが経済学の常識だからである。しかし最近は状況が変わってきた、とEconomistは指摘している。

日銀は「輪転機ぐるぐる」で資産を激増させたが、インフレは起こらず、長期金利はゼロに近づいている。もしこの状況が永遠に続くとすれば、増税は必要ない。政府支出を増やして中央銀行が国債を買えば、子会社が親会社の社債を買うようなもので、統合政府のバランスシートで考えると問題ない――そう主張するのがMMT(Modern Monetary Theory)である。

これは日本でいうと財政バラマキを求めるネトウヨに近いが、アメリカではバーニー・サンダースなどの民主党左派に支持されている。「政府がすべての人の最低所得を保障し、財源が足りなければ紙幣を印刷すればいい」というわけだ。そんなことをしたらハイパーインフレになるという批判に対して、彼らは「インフレ目標に近づいたら印刷をやめて増税すればいい」という。

MMTはバカバカしいようにみえるが、本質的にはFTPLと同じトートロジーだから、論理的には間違っていない。金利が上がると危険だが、むしろゼロ金利でも貯蓄過剰になっている日本では、民間の代わりに政府が投資するという発想は、まったくナンセンスともいえない。問題は、この財政インフレを政府がコントロールできるのかということだ。

続きは1月21日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

イデオロギーからアイデンティティへ

Identity: The Demand for Dignity and the Politics of Resentment (English Edition)
2010年代の政治の特徴はidentityが前面に出てきたことだが、これは日本人にはわかりにくい。そもそも日本語には、これに対応する言葉さえない。1万年以上前から、地理的にも文化的にも自然なアイデンティティをもつ日本人は「私たちは何者か」と問う必要もないからだ。

しかし世界では、冷戦期に人々を隔てていたイデオロギーの壁が1990年代に崩壊し、企業や移民がグローバルに移動する中で、「私たちは何者か」という問いが政治の最大のテーマになっている。トランプ大統領の国境の壁から、EU離脱するイギリス国民、さらに韓国の「徴用工」問題に至るまで、ポピュリズムの共通点は外部に敵をつくるアイデンティティ政治である。

本書は1989年に「冷戦とともに歴史は終わった」と宣告したフクヤマが、トランプ大統領の登場に衝撃を受けて「歴史の終わった後の歴史」を書いたものだ。イデオロギーが終わっても国家の対立は終わらないが、その対立軸はナショナリズムではない。グローバル化の中で国民国家のアイデンティティも自明ではなくなったので、いま対立軸になるのは民族意識(peoplehood)の物語だという。

続きは1月21日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

百田尚樹氏の「負のナショナリズム」は韓国と似ている

私の『日本国紀』の書評に、著者がお怒りのようだ。誤解のないように付け加えるが、私は百田氏が右派だから批判しているわけではない。「日本は戦後ずっとアメリカに支配されている」というルサンチマンは、孫崎享氏のような左派とも共通の対米従属史観である。それがまるでナンセンスというわけでもない。

占領期にアメリカの都合のいいように歴史が書き換えられ、日本政府がGHQに逆らえなかったことは事実だが、それは占領統治なのだから当たり前だ。問題は日本が独立したあとも70年近く、GHQの洗脳が続いてきたという陰謀史観である。憲法が改正できないのも日本人が誇りをもてないのも、GHQの刷り込んだ「自虐史観」のせいだというわけだ。

これは韓国の建国神話と似ている。1910年に日本が韓国を侵略して以来「日帝36年」の植民地支配に対する抗日戦争が続き、1945年にそれに勝利して独立した、というのが韓国の国定教科書に書かれている物語だ。彼らは今も、韓国の経済発展が立ち後れたのは日帝支配のせいだと考えている。そこでは日帝という共通の敵が設定され、その被害者として国民のアイデンティティが定義されている。

このような負のナショナリズムは、普遍的な物語である。ヒトラーがユダヤ人という敵を設定し、トランプ大統領がヒスパニックという敵を設定するように、「私たちは何者か」という問いに「私たちの外部」を設定してお手軽な答を出すのがポピュリズムである。こういう陰謀論は複雑な現実を単純化し、政治的には強烈な求心力をもつ。人々の心の中には、つねに外部を作り出してアイデンティティを保つ感情がそなわっているからだ。

続きは1月21日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

『日本国紀』の示した「日本人の物語」の不在

日本国紀本書が出て2ヶ月になるが、60万部を超えるベストセラーになり、いまだにアゴラでも賛否両論を呼んでいる。私は内容には興味がなかったが、帯の「私たちは何者なのか」という文句に引かれて読んでみた。個人や国家のアイデンティティの核にあるのは、自分が何者かという物語である。韓国はいまだに「日帝36年」の物語を国定教科書で教えているが、日本人はどんな物語をもっているか興味があったからだ。

多くの人が指摘するように、本書は歴史書としてはかなりお粗末である。事実誤認が多く、他人の本の孫引きが目立つ。これは著者がアマチュアなのだから、ある程度はしょうがない。それより彼は作家としてはプロなのだから、歴史小説としておもしろいかどうかが問題だ。司馬遼太郎の小説が事実に反していると批判する人はいないだろう。

続きはアゴラで。

日本と韓国は「物語」を共有できない



このところ「徴用工」問題でまた韓国との対立が起こっているが、彼らを論理で説得することは困難だ。論理が通じるのは、その前提を共有している相手に限られる。「1+1=3」だと思っている人を数学で説得することはできない。文在寅大統領は「韓国の最高裁判決が日韓請求権協定に優先する」と考えているようなので、日本がその逆を主張しても話は噛み合わない。

国内法と国際法のどっちが優先するかについて普遍的ルールはない。国内法を根拠にして国際法を否定すると、条約や協定が無効になって混乱するが、韓国のように条約を無視すればいい。国際法には法の支配はなく、法を強制する機関もないので、その有効性を保証しているのは当事国の合意だけなのだ。

したがって「日帝36年」の独立戦争に勝利して建国したという歴史(history)=物語(story)を憲法に掲げている韓国政府と、日韓併合を国際法上の合法的な条約だと考えている日本が合意することは不可能に近い。日韓併合条約には両国の政府が調印したが、それは「対等な条約ではなかった」という韓国の主張が100%間違いというわけでもない。

続きは1月14日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

オリンピックの開催地決定はオークションで

フランスの司法当局が、IOC(国際オリンピック委員会)の委員を280万シンガポールドル(約2億2000万円)で買収した疑いで、JOC(日本オリンピック委員会)の竹田恒和会長の予審手続きを開始した。竹田会長も事情聴取を受けた事実は認め、JOCも「コンサルタント」に金を払ったことは認めているので、大筋の事実関係はフランス当局の指摘する通りだろう。

続きはアゴラで。

人間はなぜ「ミニマックス原理」で行動するのか

リスク(期待値)の定義は「被害(ハザード)×確率」だが、この考え方は直感になじまないので、小泉元首相にもわからない。普通の人々は確率なんか考えないからだ。彼が「プリントアウトしていつも手帳にはさんで持ち歩いている」という大飯原発3・4号機の再稼働を差し止めた福井地裁の判決は印象的である。
被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。
ここではリスクと便益を比較する計算そのものを拒否し、確率も考えないで最大の被害を最小化することだけが問題になっている。これは経済学でいうとミニマックス原理で、不合理な行動ではない。命の危険が迫ったとき恐怖を感じないで確率を計算するような人は、進化の過程で攻撃されたり捕食されたりして淘汰されただろう。

だから人々の心の中には、この判決のような「命は金より大事だ」というレトリックに共鳴する感情があると思われる。個人にとって死は最大の問題なのでこれは当然だが、大きな社会では困ったことになる。交通事故や老人医療を考えればわかるように、命と金のトレードオフは日常的に発生しているので、そこにミニマックス原理を適用すると、命を救うために無限の金を注ぎ込めという話になる。

続きは1月14日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。

リフレ派と財政タカ派の敗北

アゴラを創立した2009年1月には、まだ「リフレ論争」があった。経済学界では2000年代前半に論争があり、理論的には効果がないことがわかっていたが、やってみる価値はあった。日銀も福井総裁の時代に世界初の「量的緩和」を始めたが、だめだった。しかし「リーマンショック」で論争が再燃し、政治家がまた騒ぎ始めた。

民主党政権は日銀を敵視し、副総裁や審議委員の人事に拒否権を発動した。安倍政権も日銀総裁や審議委員にリフレ派を起用したが、やはりだめだった。最近は彼らもリフレとはいわなくなり、財政拡大派のネトウヨと合流したようだが、いまだに政治家には人気がある。その原因は考えてみる価値がある。

いつの時代にも拡張的な財政・金融政策は人気があるが、長期的にはインフレが起こって誰もが損する、というのがフリードマンの自然失業率の理論だった。これで「ケインジアン対マネタリスト」の論争には決着がついたが、21世紀にはこういう古典的な理論で説明できない状況が起こっている。

景気刺激を続けても、よくも悪くもインフレにならない。金利が上がって財政が破綻するという状況も起こらない。この意味でリフレ派だけでなく、財政タカ派も敗北したのだ。効果はないかもしれないがコストもないなら、インフレが起こるまで実験してみればいい(起こったら止めればいい)という安倍政権の発想は成り立つが、問題はなぜこうなったかわからないことだ。

続きは1月14日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで。






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